やめてよね、僕が准将みたいに出来るわけないじゃないか 作:星乃 望夢
俺にとって、ラクス・クラインという婚約者は、常にどこか少し遠い場所に立っていると感じる少女だった。
それは決して、彼女がプラントにおいて平和を愛する『歌姫』として、その美しく可憐な顔をテレビのモニターや街頭のポスターで見ない日はないほどの大衆のアイドル的な存在だからとか、見た目の通りの虫も殺せないような深窓の令嬢を体現したような、ひたすらに穏やかで浮世離れした少女だから、という意味で言っているわけじゃない。
この、ナチュラルとコーディネイターという二つの人種が、日に日に互いを恐れ、敵視し、憎悪の炎を煽り立てていく歪んだ世界にあって。コーディネイターばかりで構成されたプラントという社会全体が、大西洋連邦をはじめとする地球連合の理事国に対する独立と反抗の風潮に染まりゆく中で、彼女だけは決してその苛烈な空気に流されることがなかった。
ニュースの画面から流れてくる、地球とプラントの対立、ナチュラルとコーディネイターの間に引かれた溝をさらに深く、決定的にするような陰惨な報道を目にするたび、彼女はいつも眉をひそめ、本気で心を痛めている様子を見せていたのだ。
その、自らの足元ではなく、もっと遠く、もっと根本的な世界の「平和」という概念を悲しげに見つめるような彼女の横顔は、皮肉なことに俺にある人物を強烈に思い出させた。
年が明けてからというもの、軍事的な通信規制のせいで全く連絡の取れなくなってしまった、遠いヘリオポリスに住む俺の唯一の親友を。
あの怠け者で、甘ったれで、俺がいないと何一つ自分から動こうとしない、世話の焼けるキラ・ヤマトのことを。
朝はちゃんと自分で起きられているだろうか。また偏食をして栄養ゼリーばかり啜っていないだろうか、ちゃんと固形物の食事を摂れているだろうか。俺が夜に「寝ろ」と言わないのをいいことに、また夜更かしをしてベッドで丸まっていないだろうか、と。
そんな、まるで過保護な親のようなヤキモキする想いを抱えながら、俺は早くこの戦争へと向かおうとしている世界が落ち着きを取り戻し、再び元の他愛のない平和な日常に戻らないかと、柄にもなく祈るような日々を過ごしていた。
だが、そんな俺のささやかな祈りは、あまりにも残酷で、圧倒的な暴力によって粉々に打ち砕かれた。
街頭の巨大なモニターに、農業用プラントであるユニウスセブンの中央プラットホームが閃光に包まれ、大爆発を起こして真っ二つに崩壊していく映像が繰り返し流された時。俺は、その現実離れした光景が何を意味しているのかを認識するのに、ひどく長い時間、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
ユニウスセブンには、母さんが仕事に向かっている。
「やっぱり今年のバレンタインには帰れそうにないわ。ごめんなさいね、アスラン」
通信越しに、少し困ったように、けれど優しく謝る母さんの顔。
「キラ君からのせっかくのプレゼントも、お預けになってしまうわね」と、あの親友からの不器用で必死な誘いを断るのを少し寂し気にしていた母さんが、あの崩れゆく巨大な砂時計のどこにいたのか。それがどういう結果をもたらしたのかなんて、俺の優れた頭脳は考えるまでもなく瞬時に最悪の答えを導き出していた。
直後、一時帰宅してきた父──国防委員長であるパトリック・ザラに、すがるような思いで安否を尋ねてみても、返ってきたのは血走った目と、ひどく重い声での「……まだ、分からん」という一言だけだった。
そして数日後、ユニウスセブンの二十四万余りの犠牲者の名簿に、母さん──レノア・ザラの名前が正式に刻まれたと知らされた時。
父さんの顔からは穏やかさが完全に消え失せ、眉間の深い皺と、冷酷なまでの険が急激に増していった。言葉の端々に滲むナチュラルへの憎悪、声音の強さ。それはもう、俺の知っている優しい父親のものではなかった。だが、無理もない。俺にとっては最愛の母親であり、父さんにとっては、何よりも愛していた生涯の伴侶を理不尽な暴力で唐突に亡くしたのだから。
母の死をきっかけに、俺はザフトの士官学校へ入り、軍へ進むことをはっきりと決意した。
誤解してほしくないのは、それがナチュラル全体への盲目的な復讐心や、地球軍への底なしの怒りに駆られた結果というわけではないということだ。
今、自分が足をつけて住んでいるこのプラントという人工の大地。
あの巨大で強固に見える砂時計型のスペースコロニーであっても、核ミサイルという禁忌の兵器がたった一発直撃しただけで、見るも無残に、あっけなく崩壊してしまうという圧倒的な脆さを、否応なしに見せつけられたからだ。
もし次に核が撃たれれば、今度はこの街が、父さんが、俺の知る全てが灰になる。だからこそ、俺自身の手でこのプラントを守るために、何かしなければならないという強烈な焦燥感と義務感に駆られたからだった。
母の葬儀や、軍への入隊手続き、父上の変化。そんな喪に服す暇さえ与えられないほどドタバタとした日々の中で、俺の頭の中からは、婚約者であるラクス・クラインの存在などすっかり抜け落ちてしまっていた。
そんな時だった。ラクスが、何の予告もなく俺の家を訪ねて来たのは。
もし彼女が、ただ母さんの死を残念がり、紋切り型の同情の言葉を並べて悼むためだけに来たのなら、「今は色々と忙しいから」と適当な理由をつけて帰ってもらっていたかもしれない。今の俺には、誰かの同情を素直に受け入れるだけの心の余裕など一切なかったからだ。
けれども、彼女は違った。
母さんの死を真っ直ぐな瞳で心から深く悼み、俺の悲しみに寄り添うような言葉をかけてくれた後。彼女は突然、俺が以前、少しでも彼女との心の距離を縮めようと不器用なりに考え、彼女の両手でちょうど包み込めるくらいの大きさに設計して作ったマスコットロボット──あのピンク色の『ハロ』を、両手で大事そうに抱えて俺の目の前に突き出してきたのだ。
そして、信じられないことを口にした。
「アスラン。このピンク色のハロ──わたくしの『ピンクちゃん』に、高度な学習型のコンピューターを組み込んで、より会話が出来るように改良してはいただけませんでしょうか?」
言ってしまうと、最愛の母親を失った直後の、心がズタズタになっているはずの婚約者に向かって、こんな個人的で無邪気な改造の依頼を頼むような無神経で空気が読めない少女ではないはずなのだ、ラクス・クラインという人は。
戸惑い、苛立ちすら覚えかけた俺に対して。
彼女は、どこか見透かしたような、それでいてひどく優しく包み込むような眼差しを向け、トドメとばかりにこう言ったのだ。
「……アスランなら、お出来になられるでしょ?」と。
その言葉の響き。その、相手への絶対的な信頼を盾にして、無理難題をさも当然のように押し付けてくる間の抜けたイントネーション。
それは、遠く離れたヘリオポリスにいる、あのどうしようもない怠け者で面倒くさがり屋な親友が、いつも俺に課題や面倒事を押し付ける時に決まって口にする、あの忌々しくも懐かしい口癖と、あまりにも完全に重なっていた。
「……っ」
俺は息を呑み、気がつけば、断る言葉を見失っていた。
あいつの影を、この目の前にいる気高い少女の内に見てしまったから。そして、そんな言葉をかけられた途端、張り詰めていた俺の心の一部が、不覚にもホッと安堵してしまったからだ。
「……ああ。分かった。僕に任せてくれ」
結果として、俺は母を失った深い悲しみの底で、婚約者から持ち込まれたピンク色の球体ロボットの改造依頼を、まるで何かにすがるように引き受けてしまっていたのだった。
◇◇◇
あの不可思議で、痛切で、魂の底から融け合うようなクロッシングを果たした日から。
ラクス・クラインという一人の少女は、ただ温室で花を愛で、平和を願い歌う事しか出来ない無力な『お姫様』であることを、完全に辞めた。
自分自身が一体何者であり、何を為すべきなのか。
キラとの精神の繋がり(リンク)を通じて、彼の脳内に渦巻いていた未来の記憶を共有したことで、その道筋は残酷なほど明確に示されていた。
『──私たちは、間に合わなかったのかもしれません』
キラの記憶の中にいた未来の自分は、燃え盛る世界を前にして悲痛な顔でそう呟いていた。
何をどうすればこの憎しみの連鎖を終わらせられるのか、その答えを知ってはいた。しかしそれは、言い換えれば「目の前で起こり続ける悲劇に、後手後手で対処していっただけの結果」でしかなかったのだ。
すでに、決定的な火蓋は切られてしまった。
ユニウスセブンへの核攻撃という、決して越えてはならない一線を越えたことで、世界は本格的な絶滅戦争への坂を転げ落ち始めている。
それを未然に防ごうと、たった一人でネットワークの海から世界に抗ったキラの孤独な戦い。それを嘲笑うかのように作動した、この世界の裏側にある絶望的な仕組み。今のラクスがどれほど足掻こうとも、ただの言葉や歌だけで直ぐにどうにかなるような生易しい盤面ではない。
戦争を止めようと叫んでも、影で糸を引く『一族』や、死の商人たる『ロゴス』が存在する限り、争いの火種が消えることはない。
仮にその両者を打ち滅ぼしたとしても、今度は遺伝子による徹底的な管理社会──デスティニープランを掲げ、人間の自由意志を奪おうとするギルバート・デュランダルや、ラクス自身と同じ『アコード』という超越者たちが立ちはだかる。
そんな、息をつく暇もなく次々と押し寄せる絶望的な運命を知ってしまっているからこそ、キラは怯え、自らを雁字搦めにして身動きが取れなくなっていた。
逃げ出したい。アスランと一緒に、ただ平和な日常を生きたい。
なのに、自分が逃げ出せば世界が完全に滅んでしまうからと、泥濘の中で血を吐くように藻掻いて足掻いて、一人で傷ついている。
(……わたくしが、あなたをお守りします)
ラクスは自室の鏡の前で、かつてのあどけなさを消し去った、強く澄んだ眼差しで自らの顔を見つめた。
寄り添い、その震える心も身体も、全てを包み込んであげたい。この胸の奥底から湧き上がる強烈な想いは、決して「未来で結ばれる運命の二人だから」などという、あらかじめ用意された筋書きによるものではない。
本来の歴史であれば、二人が出逢うのは一年も先のことだ。
血のバレンタインから一年が経ち、追悼慰霊団の代表としてユニウスセブン跡地を訪れた際に攻撃を受け、脱出ポッドで宇宙を漂流していたところを、ストライクに乗ったキラに拾われる。そこから初めて、二人の運命の糸は交差するはずだった。
しかし今、二人は『アコードの因子』という、数年先に明かされるはずの力を介して、魂の最も深い部分で繋がってしまった。
それは運命のイタズラなどというロマンティックなものではなく、もっと生々しく、痛みを伴う強固な結びつきだった。
ラクスは今、キラ・ヤマトという『物語の無敵の主人公』に惹かれているわけではない。
絶望的な未来を知りながら、たった一人で世界を救おうと無謀なハッキングを仕掛け。親友を失う恐怖に泣き喚き。自分は臆病で怠け者なのだと自嘲しながらも、決して世界を見捨てることの出来ない──どうしようもなく孤独で、優しくて、人間臭い一人の男の子に、彼女は心底惹かれていたのだ。
『平和を謳いながら、その手に銃を取る。……それもまた、悪しき選択なのかもしれません』
記憶の中の自分が口にした、その苦渋の決断。
けれども今、その「憎しみの連鎖を断ち切る力」が無ければ、本当に彼が潰れてしまうのなら。世界が滅びの運命に呑み込まれてしまうのなら。
ラクスは決して迷わない。
彼が剣を持つのを恐れるのなら、わたくしが彼に最強の剣を与えましょう。
彼が休む場所がないのなら、わたくしが彼を守る最強の盾となりましょう。
その為の力を集め、そして鍛え上げなければならない。
プラント内部の穏健派──クライン派と呼ばれる父の支持基盤を密かに掌握し、ゆくゆくは世界を裏から支える『ターミナル』へと繋がる独自のネットワークと武力を構築する。それは、平和の歌姫という仮面の下で、自らの手を泥と血で汚す修羅の道だ。
(まずは……あなたの大切な、あの方から)
ラクスが、母を失ったばかりの婚約者であるアスラン・ザラのもとを訪れ、ピンク色のハロの改造を依頼したのには、明確な理由があった。
一つは、キラの代わりに、彼がこれ以上壊れてしまわないよう『日常の些細な頼み事』を与え、精神を繋ぎ止めるため。
そしてもう一つは、「アスランならお出来になられるでしょ?」という、キラがいつもアスランに向けていた魔法の言葉を使うことで、彼の中にキラとの繋がりを無意識に再確認させるためだった。
「わたくしは、もう泣きませんわ。キラ……」
窓の外、宇宙の闇に浮かぶ地球を見下ろしながら、ラクスは静かに、けれど鋼のような決意を込めて呟いた。
今はまだ遠く離れたヘリオポリスで震えているであろう、愛しい少年に向けて。
いつか必ず来るその日、彼が傷つき果てて投げ出された時、完璧な状態で彼を迎え入れ、共にこの狂った運命をぶん殴るための『準備』が、少女の緻密な計算と無償の愛によって、静かに、そして急速に始まろうとしていた。