キラ・ヤマトになってしまった…   作:星乃 望夢

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PHASE-53 虎と少年

 

 バナディーヤの街頭で、キラとカガリの二人はジープから降りた。

 

「では、4時間後にな」

 

「ああ。そちらも気をつけてな」

 

 待ち合わせを告げるキサカとカガリの声が、乾いた風にかき消される。

 

「ヤマトさん……あ、いや、き、気をつけてな」

 

 『ヤマト三尉』。そう階級で呼びかけるのが軍人としての習性だったが、ここがアークエンジェルの艦内ではないことに思い至り、ナタルは中途半端に言葉を飲み込んだ。少し気恥ずかしげなその表情に、キラは柔らかく微笑む。

 

「はい。バジルールさんもお気をつけて」

 

 互いに短い言葉を交わすと、ジープは砂埃を上げて去っていった。街の喧騒の中、取り残された二人はしばらく沈黙を共有した。

 

「どうしたんだ。ボサッとして」

 

「……いや。平和な街だなって思ってさ」

 

 キラの呟きに、カガリは何かを言いかけて、やめた。

 

「……来いよ。こっちだ」

 

 彼女に手を引かれ、表通りから一本外れた路地へ入る。そこには、砲弾で無残に抉られた建物や、行き場を失った人々がうずくまる、戦争の傷跡が剥き出しになっていた。

 

 カガリは建物の合間を指さした。その先には、ザフトの陸上戦艦『レセップス』が、まるで街を監視するかのように聳え立っている。

 

「あれが、この街の支配者さ。逆らう者は殺され、力で支配される。ここは砂漠の虎の物なんだ」

 

「でも……逆らわなければ、生きてはいける」

 

「お前……ッ!」

 

 カガリが眉間に皺を寄せ、激昂の兆しを見せた。だが、怒鳴り散らそうとした彼女は、不意に口を噤んだ。

 

 先日、自分を二度も殴りつけ、誰よりも厳しい現実を突きつけた少年の顔が脳裏を過る。彼がただの浅慮でそんなことを言うはずがない、とカガリの本能が告げていた。

 

「カガリはこの戦争、どう思う?」

 

 キラの問いかけは、静かだった。

 

「どうって……地球軍とプラントの戦争だろ?」

 

「うん。けれど、それだけじゃない」

 

 キラは路地に座り込む人々の姿を見つめ、遠い目をした。

 

「前に宇宙で、地球軍の人から言われたんだ。『コーディネイターがナチュラルと同じ人間だなんてふざけるな』って。『コーディネイターはすべて敵だ』と。血のバレンタイン、ユニウスセブンへの核攻撃。プラントによるニュートロンジャマーの散布、エイプリルフールクライシス。……あの大惨事で、地球に住む人々の多くが大切な人を亡くした。でもそれは、プラントに住む人達だって同じだ。コロニーを破壊されて、家族を殺された。僕の……親友のお母さんも、その犠牲者の一人だ」

 

「キラ……」

 

「この戦争は、地球対プラントっていう図式じゃ片付けられない。コーディネイターとナチュラルっていう、種族間戦争に変わってしまったんだ。見下し、妬み、憎み合い、殺し合う。……互いに最後の1人になるまで殺し合う世界になろうとしている。でもね、僕はコーディネイターもナチュラルも関係なく、互いに笑い合って生きている世界を知っているんだ」

 

 キラの語る言葉の重さに、カガリは息を呑んだ。

 

 彼女にとっての戦争は、目の前の敵と味方という枠組みの中にあった。だが、キラはもっと高い場所から、この血塗られた世界全体を俯瞰していた。

 

「……この街に住む多くのナチュラルを手に掛けず、それでも必要なら武力を行使して治安を守る。知ってる? 何もかも姫のようにあやすか、一人残らず殺すか。極論だけど、占領地を支配するってそういうことなんだ。この街に表向き平和な景色が広がっているのは、砂漠の虎が……彼なりに、やり方を選んでいるからなんだよ」

 

 その言葉に、カガリは絶句した。

 

 敵である砂漠の虎を、これほどまでに冷静に分析していたなんて。自分には、そんな視点は欠片もなかった。

 

「人々に寄り添えるのは立派なことだよ。でも、寄り添いすぎて思慮を狭くしたらダメだ。特に君はね。君がやるべきことは、ここで銃を取ることじゃない」

 

 キラは一歩、カガリに詰め寄った。

 

「君がこの戦いに介入するのは、国の理念を裏切ることだとわかっていたはずだよね? 君に許されていた選択肢は、銃を取ることじゃない。彼らの明日を支えるための支援か、虎と話して土地を返してもらうっていう、政治的な戦いだ」

 

「そ、それは……! だがそれでは、今苦しんでいる人々を救えないだろ!」

 

「そうだよ。でも、君には今の戦況を覆す力はない。短絡的な武力行使は、ただ事態を悪化させるだけだ」

 

 カガリは言葉に詰まった。言い返したいのに、キラの言葉には一貫した「責任」と「論理」があり、自分の甘さを正確に突き刺してくる。

 

「……うっ、ぅぅ。だ、だから、な。名は出さずにだな……」

 

「アレで名前を出してないつもりなら、もう一発殴るよ、本当に」

 

 キラの呆れを含んだ、しかし真剣な一言に、カガリはうぐっと唸り声を上げるしかなかった。

 

 何を言っても、その先には逃げられない正論が待っている。

 

 ただ否定されるだけなら反発もできる。だが、キラが突きつけてくるそれは、彼女を「姫君」から「指導者」へと変えるための過酷な教育だった。

 

 カガリは言葉を失い、ただ唇を噛み締めて蹲るしかなかった。キラが突きつけるのは「何がどうしてダメなのか」という、紛れもない現実だ。

 

 路地の隅で、カガリは拳を握りしめる。少年の瞳に映る、自分の未熟さと、あまりに巨大な現実を前にして。

 

 

◇◇◇

 

 

 午前中の手軽な買い出しをあらかた終え、バナディーヤの喧騒の中を歩く二人の手には、それなりの量の荷物が提げられていた。

 

 とはいえ、残りの大掛かりな物資は、後でキサカたち大人と合流してから手分けして買い揃えればいい。そう判断したカガリは、キラを引っ張って、露店が並ぶ通りに面したオープンカフェの椅子に陣取った。

 

「ケバブ、だっけ?」

 

 運ばれてきた湯気を立てる肉料理を見て、キラが目を丸くする。

 

「お、知ってるのか? イケるんだぞコイツは。このチリソースをたっぷり掛けるのがオススメだ!」

 

 カガリが自信満々にチリソースのボトルを手に取り、キラの皿へ手を伸ばした、その時だった。

 

「あいや待った! ちょーっと待った!」

 

 突如、真横から派手な配色のシャツを着た男が割って入ってきた。サングラスをかけ、麦わら帽子を被ったその男は、大仰な身振りでカガリを制止する。

 

「ケバブにチリソースなんて邪道だよ。このヨーグルトソースを掛けるのが、砂漠の常識ってもんだ」

 

 男は我が物顔でテーブルの上のヨーグルトソースを手に取り、得意げに指を振った。

 

「な、なんなんだお前はっ! 他人に私の好みをとやかく言われる筋合いはない! ホラ、お前もチリソースの方が美味いから掛けろって!」

 

「待て待て待て! 何も知らない彼まで、そんな邪道に落とすつもりか!」

 

 身を乗り出してチリソースをキラの皿へぶち撒けようとするカガリと、それを阻止してヨーグルトソースを差し向ける男。二人の意地を張った押し合いの末、当然の結果として、キラのケバブの上には赤と白、二つのソースがマーブル状に入り乱れて降り注いだ。

 

「あーあ……」

 

「いやぁ、悪かったねぇ。食に関する事となると、つい熱くなってしまってね」

 

「いえ。ミックスも、なかなか美味しいですよ」

 

 詫びる男に対し、キラはケバブを頬張った。見た目はアレな事になったが、それが逆にジャンクな味として普通に美味しく食べられるものだった。

 

「しかし、凄い買い物の量だねぇ。どこかでパーティでもやるのかい?」

 

「煩いなぁ、余計なお世話だ! だいたいなんなんだお前はさっきから。勝手に相席してきて、あーだこーだと……!」

 

 男に食って掛かるカガリ。キラはそんな二人を微笑ましく見守りながらも、周囲への警戒は決して怠っていなかった。

 

 その時である。

 

「────────!!」

 

 キラの脳髄を、氷の刃で撫でられたような鋭い『殺気』が突き抜けた。

 

「伏せて!!」

 

 常人の反射神経を遥かに凌駕する速度で、キラはテーブルを蹴り上げた。宙に舞ったテーブルが盾となるのと同時に、キラはカガリの身体を乱暴に押し倒し、地面へと覆い被さる。

 

 直後、平和な街中では絶対に鳴るはずのない、重火器の発射音が轟いた。

 

 凄まじい爆発音と共に、頭上を通り過ぎた対装甲用のロケット弾がカフェの奥に直撃する。粉塵と爆風が吹き荒れ、ガラスが砕け散り、人々の悲鳴がバナディーヤの街を引き裂いた。

 

「無事か、君たち!」

 

「ええ! こちらは!」

 

 ひっくり返ったテーブルの陰にカガリを押し込んだキラの横で、先程の陽気な男が、一切の無駄がない動作で懐から拳銃を引き抜きながら声を掛けた。その眼光は、ソースで言い争っていた男のものとは別人のように鋭い。

 

「な、なんだ!? 何が起きた!」

 

 カガリが砂埃の中で咳き込みながら叫ぶ。

 

 爆煙の向こう側から、アサルトライフルを構えた武装集団が、無差別に引き金を引きながらカフェへと突入してくるのが見えた。

 

「死ね、コーディネイター! 宇宙の化け物め!」

 

「青き清浄なる世界の為に!!」

 

 その狂信的な叫び声を聞き、カガリは襲撃者たちの正体を瞬時に悟った。

 

「ブルーコスモス……!?」

 

「構わん! 奴らテロリストだ、すべて排除しろ!」

 

 銃を撃ち返し、物陰から応戦するサングラスの男は、圧倒的な喧騒の中でも周囲へ的確に響き渡る声で『部下』へと号令を放った。それはまさしく、戦場を支配する指揮官の姿そのものだった。

 

 キラはカガリを自身の体で庇いながら、戦況を冷静に見渡す。

 

 正面での撃ち合いに気を取られている裏手。路地の死角から、ひっそりとこちらへ銃口を向けようとしているブルーコスモスのテロリストの姿を、キラの視線が捉えた。

 

 咄嗟に武器になるものを探し、足元に転がっていたケバブの皿を掴み上げるや否や、フリスビーを投げる要領でテロリストへ向けて投擲した。

 

「ぐあっ!?」

 

 凄まじい速度で飛来した皿は、テロリストの構えたアサルトライフルに直撃した。

 

 予期せぬ衝撃に驚いた男の指が反射的に引き金を引くが、銃口は大きく逸れ、ただの暴発に終わる。

 

 皿を投げた瞬間に、キラの身体は既に動いていた。

 

 弾かれたように距離を詰め、テロリストの懐へと瞬時に潜り込む。そして、バネのように沈み込んだ下半身から腰の捻りを連動させ、渾身のアッパーカットを男の下顎へと完璧に撃ち抜いた。

 

「ガッ……!」

 

 脳震盪を起こし、白目を剥いて崩れ落ちるテロリスト。一切の無駄を省いた、完璧な非致死性の制圧劇だった。

 

 一息吐こうとしたキラの耳に、無情な銃爪の音が響いた。

 

「っ、止め──」

 

 キラが声を上げるよりも早く。

 

 駆けつけてきた男の部下が、ノックアウトされて地面に転がっているテロリストの頭を、一切の躊躇なく撃ち抜いたのだ。

 

 ビクン、と痙攣し、動かなくなるテロリストの死体。

 

 キラは伸ばしかけた手を止め、苦虫を噛み潰したように、酷く遣る瀬ない表情で顔を顰めた。

 

 自分が命を奪わずに制圧したところで、これが戦争の、そしてこの街の支配者たちの『現実』なのだと突きつけられたからだ。

 

「大丈夫か、お前」

 

 土埃を払って立ち上がったカガリが、青ざめた顔のキラに声を掛けた。

 

「うん。……僕はね」

 

 キラは足元の死体から目を逸らし、静かに答えた。

 

「隊長! お怪我は!」

 

 武装した男たちが、続々とサングラスの男の元へと集結してくる。その中心で、男は硝煙の匂いを手で払いながら、被っていた麦わら帽子とサングラスをゆっくりと外した。

 

「私は大丈夫だ。……彼のお陰でね」

 

 現れた素顔には、歴戦の猛者特有の凄みと、知性が同居していた。男はキラとカガリを見据え、ふっと口角を上げる。

 

「アンドリュー・バルトフェルド……。砂漠の、虎」

 

 その顔を見た瞬間、カガリの息が止まった。

 

 つい数分前まで、同じテーブルを囲み、ソースの掛け方でくだらない言い争いをしていた男。それが、自分たちが打倒しようとしている敵の総大将であるという現実を──彼女の思考は、すぐには受け入れることができなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 先ほどの襲撃の際、キラが咄嗟に蹴り上げたテーブルから見事に放り出されたケバブは、放物線を描いてよりにもよってカガリの頭へ直撃していた。

 

 その結果、カガリの自慢の金髪は、先程まで二人が意地を張って掛け合った赤いチリソースと白いヨーグルトソースにべっとりと塗れ、ひどくスパイシーで酸味のある匂いを漂わせる大惨事となっていたのである。

 

 ブルーコスモスのテロリストによる襲撃を制圧した後、バルトフェルドは「命の恩人を放ってはおけない」と半ば強引に二人を自身のジープへと乗せ、バナディーヤの一等地に建つ、ザフトが接収した豪奢な屋敷へと連れ込んだ。

 

 ジープが広大な敷地へと乗り入れると、そこには軍事基地かと思うほどの物々しい警護が敷かれていた。

 

 屋敷の周囲を固めているのは、砂漠での運用に合わせてマイナーチェンジが施された局地戦用モビルスーツ『ジンオーカー』と、重砲身を備えた砲戦型モビルスーツ『ザウート』の群れだ。

 

 鈍く光る装甲と、いつでも火を噴けるよう油断なく周囲を睨むモノアイの光。

 

 圧倒的な軍事力を前にして、キラは小さく息を吐き、半ば諦め顔で場の流れに身を任せることにした。

 

 ここで下手に抵抗したり逃げ出そうとしたりすれば、それこそ正体を怪しまれ、あの重火器の的になるだけだ。

 

「さっ、降りた降りた。助けてもらった礼だ。私の自慢のコーヒーの一杯でも奢らせてもらうよ」

 

 屋敷のエントランス前にジープを停めると、バルトフェルドは気さくな態度で二人を促した。

 

「ええ。ありがとうございます」

 

 キラは一切の警戒心を感じさせない、ごく自然な作り笑いを浮かべて頷いた。

 

「おい、お前! そんな呑気なこと言ってる場合か!?」

 

 カガリが声を潜めながら、キラの背中を鋭く小突いた。

 

 彼女の心境からすれば、冗談ではない。キサカたちとの合流が控えているのだ。それに何より、ここは敵の総大将──『砂漠の虎』のテリトリーのど真ん中である。

 

 そんな相手から呑気にコーヒーを奢られるなど、カガリの真っ直ぐすぎるプライドが許せるはずもなかった。

 

 だが、キラはカガリの抗議を綺麗に受け流し、彼女の頭を指差した。

 

「でも、頭からソースでグチャグチャでしょ?」

 

「うっ……! そ、それはお前が急にテーブルなんか蹴り飛ばすから……!」

 

 事実、チリソースとヨーグルトソースが混ざり合った髪はベタベタで、顔の横を垂れる滴がどうしようもなく不快だった。

 

 キラは反論しようとするカガリをよそに、前を歩く虎の背中へ声を掛けた。

 

「すみません、バルトフェルドさん。彼女にシャワーを貸して貰えませんか?」

 

 その図太いまでの要求に、バルトフェルドは一瞬目を丸くしたが、すぐに愉快そうに喉を鳴らして笑った。

 

「ははっ、君は話が早くて助かるねぇ。構わんよ。うちの風呂は無駄に広くてね、お湯もたっぷり出る」

 

「ありがとうございます」

 

 敵将に風呂まで借りようとするキラのあまりの適応力の高さに、カガリは開いた口が塞がらなかった。

 

「お前なぁっ!!」

 

 敵の情けなど受けたくない。今すぐここから逃げ出すべきだ。

 

 そう食って掛かろうとしたカガリだったが、キラは有無を言わさず彼女の右手首をガシッと掴んだ。

 

「ほら、行くよ。このままだと服までシミになるから」

 

「わっ、こ、こら! 引っ張るな!」

 

 こっちの意見などまるっきり聞く様子のないキラに強引に手を引かれ、ズルズルと引きずられるようにして、カガリはなし崩し的に『砂漠の虎』の屋敷の敷居を跨ぐこととなってしまった。

 

 煌びやかなシャンデリアと、大理石の床。

 

 足を踏み入れた敵の本陣で、カガリは己のソースまみれの頭を恨めしく思いながらも、何一つ動じることなく敵将の背中についていくキラのその不可解なまでの肝の据わり方に、ただただ毒気を抜かれるしかなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 部屋を満たしているのは、先程までの硝煙と血の匂いではなく、焙煎豆が放つ深く芳醇な香りだった。

 

「それにしても災難だったね、お互いに。ブルーコスモスのテロに巻き込まれるとは。僕と居たから、君たちまで巻き込んでしまって済まなかったよ」

 

 壁際のキャビネットで、サイフォン式のコーヒーメーカーから立ち上る湯気を見つめながら、バルトフェルドは背越しに声をかけた。その口調は、知人の家に招かれた客をもてなすような、とても穏やかなものだ。

 

「いえ。……まぁ、仕方がありませんよ。こういう世の中ですから」

 

 ソファに深く腰を下ろしたキラは静かにそう返した。

 

「へぇ。その歳で大した肝の据わり方だ。もっとこう、普通なら怯えて当然だよ」

 

「怯えてますよ、充分。……目の前で人が撃たれて、死んだんですから」

 

 キラの瞳が僅かに伏せられ、その声に微かな陰りが落ちた。

 

 テロリストの凶行に対する恐怖ではない。無力化され地に這いつくばった人間の頭を、一切の躊躇いもなく撃ち抜いたザフト兵の『無情な暴力』に対する、拭いきれない忌避感と哀しみ。

 

 それを敏感に嗅ぎ取ったバルトフェルドは、サイフォンの火を止め、視線だけで目の前の少年の様子を深く観察した。

 

 あのソースまみれになって喚いていた跳ねっ返りのお姫様は、屋敷の奥で恋人のアイシャに任せてある。今、この部屋にいるのは自分とこの少年の二人きりだ。

 

 世間話のように会話を振り、あえて『戦場の死』という生々しい話題を突きつけてみても、少年の呼吸は乱れず、瞳の奥の光も揺るがない。

 

 強がっているわけではない。彼は本当に、この異常な空間にあって『己の軸』を完全に保っているのだ。

 

「不思議だな、君は」

 

「え……?」

 

「一応、この土地の住人にとって、私は恐怖の象徴として恐れられている自覚はあるんだがね。君からは、そんな気を一切感じない。まるで誰が敵で、誰が味方なのかをわかっているかの様にね」

 

 『砂漠の虎』と呼ばれる己が目の前に居るというのに、少年は物怖じする様な素振りを全く見せない。

 

 あのテロの現場で、暗殺者の放った凶弾を誰よりもいち早く察知し、そして咄嗟の機転で反撃に転じた異常なまでの反射神経。先程の「シャワーを貸して欲しい」と申し出た図太さ。

 

 ただ胆力の据わった少年かとも思いきや、こうして一対一で相対し、その瞳の奥を覗き込むことで見えてくるものがある。

 

 この少年の眼差しは、無知ゆえの蛮勇ではなく、数々の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ『達観』のそれに近かった。

 

「……そうでしょうか? あの場で身を挺して助けて頂いて、こうしてシャワーまで貸して貰えた貴方に、敵対心を抱く必要性を感じませんから」

 

 キラの返答は、あまりにも理路整然としていた。

 

「フッ。……そうした合理的な物差しを持つ君は、この土地の人間ではないと言っている様な物だよ」

 

 バルトフェルドは低く笑い、カップに注がれたばかりの漆黒の液体を、少年の前へと静かに差し出した。

 

 故郷を焼かれ、同胞を殺されたレジスタンスや現地の人間ならば、どれほど恩を受けようと、ザフトの軍服を見ただけで条件反射のように憎悪を剥き出しにする。

 

 恩義と敵対心を切り離して思考できる時点で、この少年が『外』の人間であることは明白だった。

 

「いただきます」

 

 キラは出されたカップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと口に運んだ。

 

 そして、小さく息をつき、ひどく穏やかな、年齢相応の柔らかい笑みを浮かべた。

 

「……美味しいですね。淹れたてだから香りが深くて、強い苦味が嫌なえぐみにならず、しっかりとした旨味として感じられます。とても絶妙なバランスです」

 

「ほう……! 中々味覚も肥えているようだね、少年。豆のブレンドと抽出温度にはこだわっているんだ。そう褒めて貰えると、淹れたこちらとしても嬉しい限りだ」

 

 バルトフェルドは目を細め、嘘偽りなく喜んだ。

 

 自分の淹れるコーヒーは、軍の部下たちには「泥水」「苦すぎる」とすこぶる評判が悪い。それを一口飲んだだけで、隠し味のように忍ばせた旨味の奥深さまで的確に評価してみせたこの少年は、彼にとってただの『面白い存在』から、明確な『客人』へと昇格した瞬間でもあった。

 

 だが、目の前でコーヒーの味に舌鼓を打つ、見掛けは十代半ばにしか見えないこの少年の持つ、あまりにも特異な『世界への視点』こそが、バルトフェルドの戦術家としての好奇心を何よりも強く刺激していた。

 

(『コーディネイターもナチュラルも関係なく、互いに笑い合って生きている世界を知っている』……か)

 

 バルトフェルドは、自身のカップに口をつけながら、街の路地裏で交わされていた二人の会話を思い返していた。

 

 盗み聞きしていた内容は、バルトフェルドにとって衝撃的なものだった。

 

『互いに最後の1人になるまで殺し合うしかなくなる。だから、誰かが横から止めねばならない』

 

 この少年は、ナチュラルとコーディネイターの種族間戦争という、この世界を覆う巨大な狂気そのものを否定し、それを『止める』と断言していた。

 

 そして、こちらの統治手法──恐怖による支配の中に隠された『流血を最小限に抑えるための極論的平和』という本質すらも、完璧に見抜いてみせたのだ。

 

 こんな少年が、ただの若者であるはずがない。

 

 だが、地球連合の狂信的な兵士でも、ましてやゲリラでもない。

 

(底が知れないな……。この柔らかい笑みの奥に、どれほどの怪物が潜んでいる?)

 

 薫り高いコーヒーの湯気の向こうで、バルトフェルドは瞳の奥の鋭い光を隠し、砂漠の虎としての本能を密かに逆立たせながら、目の前の少年の言葉の端々に隠された『真実』を探り当てようとしていた。

 

「君は、この戦争を終わらせるためには、どうするべきと考える?」

 

 それは、一介の少年に向けるような類の質問ではなかった。軍の最高司令官や国家元首が、夜も眠れずに懊悩し続ける究極の命題。それを、バルトフェルドはあえてこの少年に投げかけた。

 

「……そうですね」

 

 バルトフェルドの問いに、キラは手元のカップを手に置き、ゆっくりと瞳を閉じて数瞬の深い思考に耽った。その顔には気負いも、過大な理想を語る青臭さもない。ただ、途方もなく難解な数式と向き合うような、静かな憂いが浮かんでいた。

 

「それが分かれば、誰もこんなに苦労はないと思います」

 

 やがて開かれた瞳は、バルトフェルドの眼を真っ直ぐに射抜いていた。

 

「この戦争は、ただ『地球連合』と『プラント』という国家間の領土や資源を巡る図式ではありません。もっと根の深い……コーディネイターとナチュラルという『遺伝子の違い』から生じた、積年の嫉妬と優越感、そして拭い去れない恐怖と溝が限界を超えて爆発したものです。誰もその暴走を止められる者が居ないまま、互いの憎しみが火に油を注ぎ、世界を焼き尽くすまで燃え上がり続けるような……そんな、怨念の業火ですから」

 

 国家間の利害ではなく、種族としての生存競争と憎悪の連鎖。

 

 事の本質を的確に言語化した少年に、バルトフェルドは身を乗り出すようにして次の問いを重ねた。

 

「……ならば。その燃え盛る業火を『止められる誰か』が、圧倒的な力を持って横から現れたとしたら、どうなると思う?」

 

 それは、先程カガリに向けてキラが放った『誰かが横から止めないとならない』という言葉に対する、バルトフェルドからの意趣返しであり、試金石でもあった。

 

 だが、キラの口から紡がれたのは、バルトフェルドの予想を遥かに超える、冷酷なまでの『現実』だった。

 

「その誰かの介入によって、一時的な平和は訪れるとは思います。……けれども、それでその先もずっと平和であり続けるとは、僕は思いません」

 

「ほう?」

 

「結局のところ、それは『圧倒的な武力』という蓋で、表面上の問題を力技で押さえつけただけです。根本的にコーディネイターとナチュラルの間にある深過ぎる溝を埋めたわけではありませんから。今回の戦争で溜まりに溜まった膿が吹き出た分、少しはマシな世界になるかもしれません……それでも、そう遠くない未来に、また別の形で爆発しないとも限らない」

 

 言葉は淡々としていた。

 

 しかし、その視座の高さは異常だった。

 

 目の前の戦争にどう勝つか、どう生き残るかではない。彼は、戦争が終わった『その先の絶望』すらも既に見据えている。

 

「そうならない様に、世界中の火消しをして回ったとしても、火種は確実に人間の心の中で燻り続けます。……旧世紀の世界が絶えず抱えていた人種や宗教の対立問題を見れば明らかです。コズミック・イラに暦が変わり、遺伝子を操作できるようになったからといって、たかだか70年程度では、人間の本質は何一つ変われていないという証拠です」

 

 キラはそこで言葉を区切り、窓の外──バナディーヤの熱砂の向こう側に広がる、見えない世界へと思いを馳せるように目を細めた。

 

「もし……この世界から本当に争いがなくなるのだとすれば」

 

 少年の口から発せられたのは、平和への希望などではなく、極限の虚無だった。

 

「そもそも、火種が燃え上がる余地すらない程に、互いが互いを殺し尽くし、世界そのものが『疲れ切ってしまった時』か……あるいは、闘う気力すら残らないほどに、人類がすり減ってしまった時くらいしか、無理だと思います」

 

「成る程ねぇ……」

 

 バルトフェルドは、カップを口に運ぶことすら忘れ、ただ深々と息を吐き出し、目の前の少年の顔をまじまじと見つめた。

 

 背筋を冷たいものが這い上がるような、強烈な感嘆と戦慄。

 

 彼は、少年が「対話で分かり合うべきだ」というような、美しいが中身のない理想論を口にするのではないかと僅かに予測していた。

 

 しかし、現実は違った。

 

 この少年は、自身が「横から武力で止める」という選択肢の残酷さと限界を誰よりも理解した上で、それでもなお介入しようとしているのだ。

 

 武力による調停の先にあるのは、真の平和などではなく、ただの『休戦状態』の維持に過ぎない。戦後の維持がいかに難しく、対処の先には必ず新たな火種が生まれ、さらなる対立を生む。

 

 今、この世界で戦争の狂気に熱狂している者たちも、逆に戦争の悲惨さに辟易して平和を叫んでいる者たちでさえ、そこまで先の『果てしない徒労』を見通している人間など、プラントの最高評議会にすら何人いるか怪しいものだ。

 

(……化け物だな、本当に)

 

 砂漠の虎の脳裏に、かつてないほどの警鐘が鳴り響いていた。

 

 この少年は、人類の歴史という巨大な盤面を俯瞰し、果てしない絶望を理解しながら、それでもなお泥を被る覚悟を決めている『求道者』なのだ。

 

 こんな少年が、もし明確な意志を持って戦場に舞い降りたなら、それは局地戦の勝敗どころか、世界の歴史そのものを歪める特異点になり得る。

 

 バルトフェルドは口元に微かな、しかし底知れない凄みを帯びた笑みを浮かべた。

 

「そこまで先を見通していて……なのに君は、その矛盾を抱えたまま、自らの手で世界の横っ面を力一杯殴り飛ばそうとしている。争いを無くす為に、誰よりも強大な武力を行使する。……何故、君はそこまでして戦うのかな?」

 

 探るような、それでいて刃のように鋭いバルトフェルドの問い。

 

 静寂に包まれた応接室で、キラは僅かに俯き、手元のコーヒーの黒い水面を見つめた。

 

「……それでも、守りたい世界があるからです」

 

「コーディネイターとナチュラルが、互いに笑い合って生きている世界……かね?」

 

「はい。僕は、それを知っている」

 

 キラの瞳に、迷いはなかった。

 

 ヘリオポリスでの日常。トールやサイ、ミリアリアたちと共に笑い合った日々。ジャンク屋で油に塗れ、火の粉を被りながら過ごした、コーディネイターもナチュラルも互いに肩を組んで生きている体験。それがどれほど脆く、そして尊いものであったか。

 

「確かにこの世界は、互いに憎み合い、奪い合い、殺し合う世界になろうとしている。でも、そんな間違った哀しい世界だけじゃない。コーディネイターとナチュラルなんて関係なく、明日のやりたいことを語りながら、今日の目の前を肩を組んで生きていく。……そんな世界も、確かに在るんです」

 

 キラは顔を上げ、自分を見定める虎の目を真っ直ぐに見返した。

 

「けれど、そんな世界が『戦争』という巨大な理不尽で焼かれてしまうというのなら……そうさせないために、僕は戦うと決めました。矛盾を抱えていても、すべてが手遅れになってしまう前に。例え誰からも恨みを買うとしても、やらなければならない。そうじゃないと……本当に世界が滅んでしまう所まで、今のままなら確実にこの戦争は行き着いてしまうから」

 

 それは、あまりにも悲壮な決意だった。

 

 だが、その言葉を聞いたバルトフェルドは、深く息を吐き出すと、これまでの柔和な空気を一変させ、冷徹な大人の顔で酷く残酷な真実を言い当てた。

 

「その為の貧乏くじを、わかっていて自ら引こうというのか。……君は、一見するととても優しく、自己犠牲精神に溢れているように見える。だがその本質は、酷く『傲慢』な所があるな」

 

「……え」

 

「君は、他人を信じ切れず、人という存在の可能性に期待もしていない。いや、期待することを完全に諦めてしまっているとも言える。人が自ら過ちに気づき、歩み寄ることを信じていない……だから自分が全てを背負い、『力で強制的に解決する』という路しか選べないんだ」

 

「………………」

 

 バルトフェルドからの冷酷なまでの指摘に、キラは息を呑み、返す言葉を完全に失った。

 

 時折、ふとした瞬間に自分自身でも無自覚な『傲慢さ』を感じてしまう事は確かにあった。それを自制し、反省を繰り返してはいたものの、さらにその先にある、自分でも気づいていなかった致命的な本質を、他者の手によって白日の下に抉り出されたのだ。

 

 反論する言葉など、思いつくはずもなかった。

 

 なぜなら、バルトフェルドの言う通り、キラは『この世界の人類』を心の底では全く信用していなかったからだ。

 

 放っておいたら、彼らは平然と核ミサイルを撃ち込み合い、『ジェネシス』のガンマ線レーザーで地球そのものを焼き尽くそうとする。

 

 それを血反吐を吐いて食い止めたとしても、数年後には『レクイエム』の光がプラントを薙ぎ払い、『デスティニープラン』という名の完全なる統制社会を強要してくる。

 

 さらには、新人類を自称する者たちが世界を支配すべく牙を剥き、再びレクイエムの業火で国々を焼き払おうとする。

 

 ──たったの5年。

 

 たった5年の間に、これほどまでの密度で、互いの種族を絶滅させるための戦略大量破壊兵器が狂ったように飛び交う、末期としか思えない世界。

 

 相手を滅ぼすためなら地球を焼き尽くすことも厭わず、コロニー群を核の炎で消し去ることにも一切の躊躇を持たない。

 

 ──『頭C.E.』。

 

 そう称されるほどの、狂気と憎悪に染まりきり、自浄作用を失った終わり果てた価値観を持つ人々。

 

 そんな彼らに対する、果てしない諦観。

 

 彼らが自ら手を取り合うことなど、待っていても絶対に訪れない。待っていたら世界が滅ぶ。

 

 だから、自分が圧倒的な力で横から殴り飛ばしてでも止める。そうしなければ、全員が死に絶える最悪の未来に直行してしまうという『絶望的な結末』を知っているからこそ無意識の底で辿り着いてしまっていた、無自覚の答え。

 

 そこには、今この時代に必死に生きている人々の「心」を見ているようで、実は全く見ていないという、『傲慢さ』が確かに存在していた。

 

「ならっ……!! なら、どうしろって言うんですか!!」

 

 不意に、静寂を切り裂くような悲痛な絶叫が応接室に響き渡った。

 

「僕は戦いたくなんてない!! 人殺しだって、真っ平御免だ!! 怖いし、痛いし、誰かを傷つけるたびに吐き気がする!! なのに……っ!!」

 

 キラの大きな瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。

 

 先程までの達観した賢者のような顔はそこにはない。ただ、巨大すぎる運命に押し潰されそうになりながら、それでも必死に立とうとしている、傷だらけの少年の顔があった。

 

「どうにかしなくちゃ、滅んでしまうこの世界を……! 狂ってしまったこの世界でも。それでも、僕には守りたい人達が居るから! どうにかしなくちゃって、必死になって……自分に出来ることを、精一杯やっているだけなのにっ!!」

 

 声はひび割れ、感情の堰が完全に決壊していた。

 

「誰かがやってくれるなら、喜んで僕はその人に全部放り投げますよ! 代わってくれるなら、今すぐ代わってほしい! けど、仕方ないでしょ……! 誰も居ないんだから! 誰も止めてくれないんだから……! だったら、それを知っている僕が、やるしかないじゃないかっ!!」

 

 血を吐くように、ブチギレた声音で涙を流しながら怒声を上げるキラ。

 

 それは、彼がこれまで誰にも見せられず、たった一人で抱え込み続けてきた、あまりにも重すぎる孤独と悲鳴そのものだった。

 

 肩で息をし、涙で顔をぐしゃぐしゃにして睨みつけてくる少年を見つめながら……。

 

 アンドリュー・バルトフェルドは、ふっと相好を崩した。

 

 その唇に浮かんだのは、嘲笑でも、哀れみでもない。

 

 目の前で泣きじゃくる少年の『本質』──どこまでも愚かで、どこまでも不器用で、そして致命的なまでに優しすぎる『根っこ』に触れたことで湧き上がった、大人としての深い慈愛の笑みだった。

 

「漸く、君という『素顔』に出会えたよ」

 

 先程までの凄まじい絶叫と慟哭が嘘のように、応接室には再び静寂が降りていた。

 

 バルトフェルドのその言葉は、どこまでも優しく、そして深い安堵に満ちていた。

 

 神でも化け物でもない、ただ世界に絶望し、それでも足掻こうと必死に涙を流す『一人の不器用な少年』がそこにいることを、彼は確かに見届けたのだ。

 

「……意地の悪い人ですね、貴方は」

 

 キラは腕で乱暴に目元を拭い、赤く腫らした目でバルトフェルドを軽く睨みつけた。その声にはまだ微かな震えと鼻声が混じっていたが、先程まで彼を覆っていた分厚い鉄の鎧のような達観は、見事に剥がれ落ちていた。

 

「大人っていうのは意地悪なのさ。特に、すべてを見通したような顔で澄ましている若者を見ると、つい可愛がりたくなってしまうものさ」

 

「それって、ただのイジメですよ」

 

「確かにな」

 

 拗ねたような少年の抗議に、砂漠の虎は愉快そうに肩を揺らして笑った。

 

「ただ、そうでもして揺さぶらなければ……君という人間の『本当の温度』を知ることは出来なかったよ。さて、コーヒーのおかわりは?」

 

 バルトフェルドが空になったカップを指差すと、キラは小さく息を吐き、ソファに深く背中を預けた。

 

「……いただきます。さっきよりも、キツめので」

 

 それは、甘えを見せた彼なりの不器用な強がりだった。

 

「了解した。とびきりキツめのをご馳走しよう」

 

 バルトフェルドはリクエストを受け、機嫌良く立ち上がると、再びキャビネットへと向かった。

 

 新しく豆を取り出し、手回しのミルで挽き始める。ガリ、ガリという豆を砕くリズミカルで心地よい音が、室内に残っていた重苦しい空気をゆっくりと中和していく。

 

「しかしね……」

 

 背中を向けたまま、ミルのハンドルを回すバルトフェルドの声が、ふっと大人の哀愁を帯びた。

 

「君達のような若者が、そこまで気負わなければならない程に『世界は手遅れだ』と見ていると思うと……僕としては、心底哀しいと感じるよ。一人の少年をそこまで追い詰め、そうしなければならないと決意させてしまう程の、この世界の残酷さというものをね」

 

 コーヒーの香りが再び部屋に立ち込める中、キラは自身の膝の上で両手をきつく握り合わせた。

 

「……傲慢なのは、自覚しています」

 

「良いさ。君が傲慢になったのではない。我々大人が、或いは僕たちよりも以前の老人達が、君たち若者に遺してしまった『負の未来』がそうさせたんだ。君の言う通り、確かにこのままでは、互いに敵である限り戦うしかなく、どちらかが滅びるまで、この戦争を終わらせることなど不可能だろう」

 

 バルトフェルドはサイフォンに火を点け、振り返ってキラを見た。

 

 その両目の奥にあるのは、軍人としての冷酷な計算ではなく、この果てしない殺し合いに身を投じる一人の人間としての、重く苦しい本音だった。

 

「でも……」

 

 キラは、顔を上げた。

 

 彼の脳裏に浮かぶのは、自分を二度も殴らせたほど真っ直ぐで不器用なオーブの姫君の顔であり、傷つきながらも皆を守ろうと必死に指揮を執る不沈艦の女性艦長の姿であり、そして、「平和の歌」を共に歌う、あのピンクの髪の少女の姿だった。

 

「それに抗おうとしている人を……僕は知っています。このどうしようもない流れの中で、それでも正しい路を探して足掻いている人たちを」

 

 キラの言葉には、先程までの絶望を打ち破るような、確かな『希望の熱』が宿っていた。

 

 それを聞いたバルトフェルドは、抽出を終えた漆黒の液体を二つのカップに注ぎ分けながら、深く、そして嬉しそうに目を細めた。

 

「奇遇だねぇ。僕も知っているよ」

 

 先程よりもずっと香ばしく、目が覚めるような苦味を放つコーヒーがキラの前に置かれる。

 

「……いや。今はまたひとり増えた、と言うべきかな?」

 

 バルトフェルドは、キラを優しく、そして一人の対等な『戦士』として見据えていた。

 

 自分を止めるため、あるいは世界を止めるために、この砂漠に舞い降りた底知れぬ少年。

 

 敵同士でありながら、奇妙なほどに深く魂の部分で共鳴してしまった二人は、互いの前に置かれたとびきり苦いコーヒーの香りに包まれながら、静かに視線を交わし合った。

 

「お話は終わったかしら? アンディ」

 

 艶やかな声と共に部屋の様子を伺うように顔を覗かせたのは、バルトフェルドの公私にわたるパートナーであり、最愛の恋人であるアイシャだった。

 

「ああ。極めて有意義な時間だったよ。そちらも丁度良かったかな?」

 

 バルトフェルドは眼を細め、砂漠の虎としての鋭い牙を完全に隠し、愛する女へ向ける甘く穏やかな顔へと戻っていた。

 

「ちょっと長かったかも。少し待ち惚けてしまったわ」

 

「そりゃいけないなぁ。レディを待たせるのは、男としては最悪のナンセンスだ」

 

「ふふ、そうね。でも良いんじゃないかしら? まだ、可愛い男の子なんですもの」

 

 アイシャはクスリと悪戯っぽく微笑み、キラへと流し目を送る。キラは照れ隠しのように視線を彷徨わせたが、バルトフェルドは苦笑しながら肩をすくめた。

 

「いやいや、年齢はどうあれ男である事には変わりはないさ。っと、僕らがここで話し込んでもダメだな。ほら、アイシャ」

 

「ええ。さぁ、こっちへいらっしゃい」

 

 アイシャが扉の向こうに向かって優しく、しかし有無を言わせぬ力強さで手を引いた。

 

「は、離せよっ。引っ張らなくたって、自分で歩ける……!」

 

 抵抗するような抗議の声と共に部屋へ引きずり出されてきたのは、見違えるような姿に変貌を遂げたカガリ・ユラ・アスハだった。

 

 砂埃と硝煙に塗れ、挙句の果てにはチリソースとヨーグルトソースまで被った先程までの男勝りな格好は跡形もない。

 

 綺麗に洗い流された金糸の髪は上品に纏められながら前髪が上げられ、彼女の大きく意志の強い琥珀色の瞳と、形の良い額を露わにしている。

 

 その華奢な身体を包んでいるのは、アイシャが見立てたであろう、カガリによく似合うライム色のシルクドレスだった。

 

 慣れない装いに、カガリは気恥ずかしげに身を縮こまらせている。

 

「な、なんだよ……っ」

 

 自分を見つめてくるキラの視線に耐えきれず、カガリは噛み付くように声を荒げた。

 

 だが、キラの口から零れ落ちたのは、嘲笑でもお世辞でもなく、あまりにも素直すぎるただの感想だった。

 

「……いや。本当に、女の子なんだよなって、思っただけ」

 

「っ、お前なぁ!!」

 

 一切の悪気がないからこそ一番腹の立つその一言に、カガリは羞恥を怒りに変換して怒鳴り声を上げた。ドレスの裾を握り締め、今にも飛びかからんばかりに牙を剥くその姿は、着飾っていても中身は先程までの山猫のままだ。

 

「っはははははは!! 良いねぇ、若いってのは!」

 

 そのあまりにも微笑ましい、年相応の少年少女のやり取りに、バルトフェルドはたまらず腹を抱えて大爆笑した。傍らのアイシャも、口元を隠しながら上品に、しかし心底楽しそうに肩を震わせている。

 

 大人たちから向けられる生温かい視線と、自分をからかうような笑い声。居心地の悪さに耐えきれなくなったカガリは、プイッとそっぽを向き、憎まれ口を叩くように小さく呟いた。

 

「……偉そうに言って。とんだ泣き虫のクセに」

 

 その呟きは誰に届くわけでもなく、ただ己の胸の内にだけストンと落ちた。

 

 アイシャに連れられ、シャワーを浴びて着替えを終えた後、カガリは応接室に向かう廊下の途中で、分厚い扉の向こうから漏れ聞こえてきた『声』を確かに聞いていたのだ。

 

『僕は戦いたくなんてない! 人殺しだって真っ平御免だ!!』

 

『誰かがやってくれるなら喜んで僕はその人に全部放り投げますよ!』

 

 それは、決して他人に弱みを見せようとしなかった少年の、血を吐くような慟哭だった。

 

 このアフリカの砂漠で再会した時から。このキラ・ヤマトという少年は、常にすべてを俯瞰し、正しい答えを導き出し、大人のような顔をしてカガリを諭してきた。

 

 自分を力一杯二度も殴りつけ、容赦のない正論でカガリの甘さを木端微塵に打ち砕き、誰よりも冷徹に戦争の現実を語っていた。

 

 父であるウズミ・ナラ・アスハのように、決して揺るがない強さを持った人間なのだと、カガリは無意識に思い込んでいたのだ。

 

 だが、いざ蓋を開けてみればどうだ。

 

 今、目の前にいる少年は、カガリのドレス姿に間抜けな顔を晒し、その目元を微かに赤く腫らしている。

 

 世界を救う神様でも、冷酷な戦士でもない。ただの、傷だらけで不器用で、誰よりも心優しい『とんだ泣き虫』の少年に過ぎなかった。

 

 その事実を知った瞬間、カガリの胸の奥で、先日の夜に彼から殴られた時の痛みとは全く違う、ひどく甘くて切ない痛みが強烈に疼き始めた。

 

(……あんなに震えて、泣いていたのに)

 

 自分よりずっと傷ついていて、泣き叫びたいほどの恐怖と絶望を抱え込んでいるくせに、それでも彼はいざとなれば誰かを守るためにMSの操縦桿を握り、あの狂気のような戦場へと飛び出していくのだ。

 

(私が、こいつを護ってやらなければ)

 

 自分にできることは、ただ銃を撃つことではない。

 

 彼がこれ以上一人で泣かなくてもいいように、彼が背負おうとしている途方もない重圧の、ほんの少しでも肩代わりしてやらなければならない。

 

 カガリはドレスの裾を握る手にぐっと力を込めると、赤く腫れた目をした同い年の少年の顔を、もう一度しっかりと見つめ直した。

 

 砂漠の虎の本拠地という敵陣のど真ん中で、カガリ・ユラ・アスハの中に、オーブの理念でも国家の誇りでもない、一人の少年に対する絶対的な『庇護欲』と『共犯関係』の誓いが、静かに、しかし確かな熱を持って産声を上げていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 バルトフェルドはソファに深く腰掛け、穏やかな、しかし決して揺らぐことのない司令官の眼差しで二人を見据えた。

 

「さて。そっちも良い時間だろう? 陽が傾く前にこの街を出るのが賢明だ。それを飲み終わったら、ここから帰りたまえ」

 

 促された言葉に、キラは沈黙を守った。彼の中で、バルトフェルドという男への敬意と、決して相容れない敵という現実が複雑に絡み合っていた。

 

「……僕は、貴方とは戦いたくない」

 

 その言葉は、彼自身の偽らざる本心だった。だが、同時に無力な祈りに過ぎないことも知っていた。

 

「僕も個人的には、そうしてやりたいのは山々なんだけどね。あいにく、こっちも『仕事』でね。今日助けてくれた貸しも含めて、君達を無傷でこの場から返すのが、僕に出来る精一杯の返礼だ」

 

「バルトフェルドさん……」

 

「仕方がないのさ、少年。こうして僕と君は、それぞれの立場と背負うものの違いから、敵味方として戦場で出会ってしまった。それが戦争というものだよ」

 

「どうしても、ですか? 僕達が戦っても、何にもならないのに」

 

 キラの問いかけに、バルトフェルドはわずかに表情を曇らせた。彼の脳裏には、レセップスを守る大勢の部下たちの顔が浮かんでいた。

 

「個人的には、と言ったろう? 僕には多くの部下が居る。僕個人の感情で、彼らの軍での立場や命を危うくさせるわけにはいかないだろう? それよりも、僕としては君という部外者には、本来あるべき場所へとお帰り願いたいところなのだがね」

 

「……僕にも、守りたいと思う人達が居ますから」

 

 その答えを聞いたバルトフェルドは、悟ったように深く頷いた。若者が抱く、青くとも熱い正義。それが決して折れないものだと知っているからこそ、彼はあえて突き放す。

 

「そういう事だ。互いに譲れないものがあるのなら、我々は敵として撃ち合う理由となる」

 

「…………はい」

 

「今日は君と話せて嬉しかったよ。……次に戦場で会うときは、こうはいかんよ、少年」

 

「はい……」

 

 キラは手元のカップを見つめた。最後に残った、リクエストしたとびきりキツい苦味のあるコーヒー。彼はそれを、自分の心の奥底にある甘さを洗い流すように、一息で喉の奥へと流し込んだ。

 

 喉を焼くような苦味が、これから自分が引き受けなければならない現実を否応なしに突きつける。

 

「ごちそうさまでした。……行こう、カガリ」

 

「あ、ああ……」

 

 カガリは、どこか夢見心地のような、それでいて重い現実を突きつけられたような複雑な表情で、キラの差し出した手を握り返した。

 

 キラは立ち上がると、振り返ることなく、その確かな足取りで虎の館から歩み去っていった。

 

 その背中が完全に扉の向こうへと消えた後、バルトフェルドの肩に、そっと柔らかい手が添えられた。アイシャが、心配そうにその横顔を見つめている。

 

「……辛いわね、アンディ」

 

「だから、戦争という物は嫌いなのさ。僕は」

 

 バルトフェルドは、愛する恋人の手を取り、大きく息を吐き出した。

 

 遠ざかる二人の背中は、あまりにも小さく、そして頼りなかった。

 

 一人の泣き虫の少年と、その横に寄り添う少女。彼らに戦争の業という名の重すぎる十字架をまた一つ背負わせてしまうことに、砂漠の虎の胸中には、深い後悔と、それでも退くことのできない軍人としての矜持が混ざり合っていた。

 

 次に出会う時、自分達は間違いなく引き金を引く。

 

 その残酷な運命を悟りながら、バルトフェルドは二人の消えた扉の方を長く見送っていた。

 

 

 

 




今回も切りどころを見つけられず気がつけば1万8000文字という長々とした物となってしまい、長文にお付き合い頂いた皆様に感謝を。

人は自分の知る事しか知らぬ、とクルーゼの言葉が頭に反響しつつ中盤は書いていました。

これで大丈夫なのかとビクビクしつつ、長文垂れ流しで書き上げました。

ではまた次回もよろしくお願いします。
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