入学式。
それは新しい出会いの始まりであり、新しい日常の幕開けだった。皇桜女学院の校門には、春の花が飾られていた。淡い色のリボン。磨かれた校舎。整えられた植え込み。すれ違う上級生たちは、どこか柔らかな笑みを浮かべている。新入生たちは和気藹々としながら、新しい友人を作っていた。
「ねえ、どこの中学だったの?」
「制服かわいいよね、ここの」
「連絡先交換しよ?」
そんな声が、あちらこちらから聞こえてくる。上芝盛香は、その中心から少し外れたところで、気怠げに椅子へ座っていた。背筋は伸びている。姿勢は良い。大和撫子を体現するような整った顔立ちに、黒髪。黙っていれば、まさに皇桜女学院に相応しい令嬢に見える。
黙っていれば、だ。内心では完全に液状化していた。
退屈。
あまりにも退屈。中学の頃のように馬鹿騒ぎする空気でもない。廊下を走る者もいなければ、肩をぶつけて絡んでくるような相手もいない。格闘技や武道をやっていそうな生徒も見当たらない。周囲の会話は、流行の店、髪型、SNS、推し、制服の着こなし。盛香には、どれも遠い世界の話に聞こえた。
「……平和ですね」
机に突っ伏しながら、小さく呟く。隣の席の女子が、おずおずと声をかけてきた。
「あの……上芝さん、だよね?」
「はい」
「もしかして、体調悪い?」
「いいえ。少し溶けているだけです」
「溶けてる?」
「退屈で」
女子は困ったように笑った。
「えっと……入学式の日って、そんなものじゃない?」
「そういうものなのですね」
「う、うん。たぶん」
盛香は机から顔を上げた。
このまま教室に居続けるのも何か違う。体は鈍り、心は沈み、せっかくの入学初日が何も起きずに終わってしまう。それは、あまりに味気ない。退屈凌ぎに、まさかの出会いでも探しに行こう。
「少し歩いてきます」
「え? 先生来るかもよ?」
「すぐ戻ります」
盛香は立ち上がった。
教室から出て、廊下を歩く。廊下には、流行の話題で盛り上がる女子たちや、スマホを片手に連絡先を交換する女子たちが溢れていた。新しい生活への期待。少しの不安。浮ついた空気。興味がない。いや、正確には嫌いではない。ただ、自分がそこに混ざる姿が想像できなかった。
盛香は無関心に廊下を歩く。
少し肌寒い。
春になったばかりだからだろうか。カーディガンも着ているのに、肌の表面がわずかに震えた。
近づく。
何故だろう。
一歩進むごとに、寒気が増している。
近づく。
どこかの教室が、悪ふざけで冷房でも強くしているのだろうか。
近づく。
違う。
これは温度ではない。皮膚ではなく、脳が冷えている。
近づく。
警鐘が鳴っていた。
今すぐ止まれ。
今すぐ構えろ。
今すぐ、逃げろ。
あと少し。
恐ろしい何かがいる。危険が、近づいている。
もう目の前。
盛香は視線を、教室の窓から進行方向へ戻した。
そして。
目が合った。
呼吸が止まる。日常生活に紛れた非日常。あまりにも大きく、あまりにも強い気配。
そこにいたのは、ひとりの女子高生だった。
柔らかそうな髪。愛嬌のある表情。少し気の抜けたような立ち姿。制服をきちんと着こなしているのに、どこか浮世離れしている。
そして、その瞳。星の形をした瞳が、盛香を見ていた。
「……」
少女は何も言わなかった。盛香も何も言えなかった。
ただ一瞬、廊下のざわめきが遠くなる。
人間も元は獣だ。
太古から、生物には生き残るための本能的な能力が備わっている。
危機察知能力。
背後の刺激。空気の振動。視線。匂い。音。そういった微小な情報を無意識に拾い上げ、危険を危険として認識する力。現代において、人間の危機察知能力は野生動物と比べて衰えている。
だが上芝盛香は違った。
武に生き、武で育ち、試合を望み、戦いを望んでいる。普通の女子高生とは違い、危険に対する感覚だけは異常なほど研ぎ澄まされていた。だからこそ気づいた。
目の前の少女から流れる、濃密な『死』の気配に。
それは殺気とは少し違う。
敵意ではない。
怒りでもない。
ただ、死が近くにある。この少女の周りには、いつも死が漂っている。
まるで夜空に雲がかかるように。
まるで星の光を、薄く覆い隠すように。
瞬き一つ。次の瞬間には、少女は盛香の視界から消えていた。
「――っ」
盛香は反射的に振り返る。
少女は、何事もなかったかのように盛香の横を通り過ぎ、自分の教室へ向かっていた。先ほどのような気配は、もう感じない。いや、消えたのではない。
隠したのだ。
盛香は、背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、口元がわずかに緩むのを止められなかった。
見つけた。退屈ではないものを。
「……面白い」
自分でも驚くほど小さな声が漏れた。気になって、後ろをついていく。少女は特に変わった様子もなく、廊下を歩き、教室に辿り着いた。
盛香の教室だった。少女は空いている席に座り、ぼんやりと窓の外を眺め始める。さっきまでの気配など嘘のように、ただの柔らかい女子高生にしか見えない。
声をかけようとした。
「あの――」
その瞬間、教室の扉が開いた。
「皆さん、席についてください」
担任らしき女性教師が入ってきたことで、教室内のざわめきが少し落ち着く。
盛香は声を飲み込んだ。
仕方なく自分の席へ戻る。教師は教壇に立ち、出席簿を開いた。
「それでは、これから簡単に自己紹介をしてもらいます。名前と、好きなことや得意なことを一言で構いません。これから一年間、一緒に過ごす仲間ですから、少しずつ覚えていきましょう」
教室の空気が少しそわそわする。あいうえお順で、一人ずつ自己紹介が始まった。
「は、はじめまして。犬が好きです。よろしくお願いします」
「映画鑑賞が趣味です。仲良くしてください」
「中学では吹奏楽部でした。高校でも何か部活に入りたいです」
機械的な拍手が続く。盛香は拍手をしながらも、意識の半分をあの少女へ向けていた。彼女は変わらず、ぼんやりしている。気配は穏やかだ。だが、あれを見間違いだと思うほど盛香は鈍くない。やがて、上芝盛香の順番が来た。盛香は立ち上がる。
「はじめまして。私の名前は上芝盛香です。五歳から合気道を習っています。よろしくお願いします」
無難。あまりにも無難な自己紹介だった。
担任が微笑む。
「合気道ですか。素敵ですね」
「ありがとうございます」
「護身術にもなりますものね」
その言葉に、盛香は一瞬だけ笑みを固めた。
護身術。
その言葉は間違っていない。だが、盛香の内側にあるものは、それだけではなかった。
「……はい。護身術です」
盛香は静かに席へ座る。
自己紹介は順調に続いた。
そして、彼女の番になった。少女はゆっくりと立ち上がる。教室中の視線が彼女へ集まった。
「はじめまして⭐︎」
明るい声だった。
「私は本郷姫奈で〜す。好きなものは楽しいことと、かわいいものです。よろしくお願いしま〜す♪」
にっこりと笑いながら、彼女――本郷姫奈は自己紹介をした。
軽い。
柔らかい。
愛嬌がある。
何も知らない者が見れば、ただの人懐っこい少女に見えるだろう。盛香は拍手をしながら、心の中で名前を転がした。
本郷姫奈。そんな名前なのか。
本郷姫奈は席に座る。次の生徒が立ち上がり、自己紹介を始めた。
その時だった。きっと、魔が差したのだろう。彼女に気を当てたら、どんな反応をするのだろうか。
驚くのか。
震えるのか。
それとも、気づきもしないのか。
盛香は、ほんの少しだけ呼吸を整えた。道場で祖父に叱られるような真似だと分かっている。分かっていて、それでも好奇心が勝った。
闘気を、本郷姫奈へ向けて放つ。
それは目に見えない。音もしない。
だが武を知る者ならば、皮膚の裏側を撫でられるように分かる。敵意ではなく、挑発。問いかけ。お前は何者だ、という無言の言葉。
直後。本郷姫奈の顔が、グリンとこちらを向いた。
「――」
当てた本人である盛香が、驚いた。椅子から跳ね上がりそうになるのを、寸前で抑える。姫奈は笑っていた。
笑っている。
だがその瞳だけが、まったく笑っていなかった。
次の瞬間、殺気がぶつかった。
濃密で、人を卒倒させてしまうような気の奔流。盛香の首筋に、冷たい鎌を突きつけられたような幻覚が走る。
斬られる。
いや。刈られる。
ほんの少しでも心が逸れれば、魂ごと持っていかれる。
殺られて堪るものか。盛香の内側で、何かが燃え上がった。
恐怖ではない。
歓喜だった。
盛香は殺気に対抗するように、さらに闘気をぶつける。
片や死神。
片や鬼神。
争いを知らぬような白百合の学園。その清らかな教室の片隅で、殺気と闘気の攻防が起きていた。もちろん、周囲の生徒たちは気づいていない。
「えっと、好きな食べ物は……」
自己紹介を続ける生徒の声が震えた。本人は緊張のせいだと思っているだろう。担任は少し不思議そうに教室を見回した。
「空調、少し寒いかしら?」
誰かが小さく笑う。
だが盛香と姫奈だけは笑っていなかった。姫奈は笑顔のまま、唇だけをわずかに動かした。
声は聞こえない。けれど盛香には、なぜか分かった。
――なにしてるの?
そう言っている。盛香もまた、唇だけで返す。
――気になったので。
姫奈の目が細くなる。
星の瞳が、夜空の奥で瞬いたように見えた。
やがて自己紹介が終わり、自由行動となった。
担任が連絡事項を話し終えると、教室の緊張は一気に解けた。生徒たちは再び席を立ち、互いに声をかけ始める。
その瞬間、盛香はすぐさま席を立った。本郷姫奈へ向かう。
同時に、姫奈も席を立った。
二人は教室の中央で向かい合う。死と鬼が対峙する。
周囲の生徒たちは、その異様さに気づかない。ただ、二人の美しい少女が向かい合っているようにしか見えていない。
「初めまして、本郷さん」
盛香が言う。声は穏やかだった。だが目は、少しも穏やかではなかった。
「いきなりだけど――私と友達になってくれない?」
姫奈はぱちぱちと瞬きをした。それから、花が咲くように笑った。
「いいですよ、上芝さん♪ お友達になりましょうか」
「ありがとうございます」
「でも、さっきのは何ですか?」
「挨拶です」
「へえ。ずいぶん物騒な挨拶ですね」
「本郷さんの返事も、相当でしたよ」
「そうですか? 私、普通に振り向いただけですよ〜?」
「普通の人は、振り向くだけで首に鎌を当てません」
姫奈は楽しそうに笑った。
「面白いことを言うんですね、上芝さん」
「よく言われます」
「合気道をしているんですよね?」
「はい。五歳から」
「強いんですか?」
その問いは、あまりにも無邪気だった。
けれど盛香には分かる。これは子供の質問ではない。
獣が獣に、牙の長さを尋ねている。
盛香は少し考え、答えた。
「まだ、分かりません」
「分からない?」
「試す場所がないので」
姫奈は一瞬だけ、目を丸くした。そして、また笑う。
「へえ」
その笑みは、先ほどまでの愛嬌だけのものではなかった。楽しそうで、嬉しそうで、どこか危うい。
「じゃあ、これから分かるかもしれませんね」
「本郷さんが、教えてくれるんですか?」
「さあ? どうでしょう」
「期待しておきます」
「期待されちゃいました」
二人は微笑み合う。それは新入生同士が友情を結ぶ、ありふれた一幕のように見えた。
だがその実態は、まったく違う。
上芝盛香は、その日、高校一年の一番最初に友達を作った。
相手は、日本一危険な女子高生。「神の軍勢」と呼ばれたカルト宗教団体の教祖の元娘。
後に、私はその事実を聞くことになる。けれど、そのときの私は気にしなかった。
家柄も、過去も、危険性も。そんなものは、どうでもよかった。
それ以上に、私は闘争に溺れていたから。
夜空に雲がかかっている。
星は見えない。けれど、確かにそこにある。私はその日、雲の向こうにある星を見つけた。
そして同時に、その星が照らす死の影にも魅入られてしまった。