ステューデント入り?
…正直、エンラスが差し出した手を払いたかった。
だが、差し出された手とは反対の手が強く握られていることに気づくと振り払った後の自分の無残な姿が見えるようで払うことなど出来なかった。
「ふむ…迷った末に私に付く選択をしたようだな。」
「まあ悪い判断ではないだろう…なんなら……今に限れば最良の判断であろうな。」
エンラスはまたしても気味悪い、捕食者のような笑みを浮かべる。
「やはり君の思い悩む姿には良いモノがあるな…」
「…私がお願いしてばかりでは可哀想だ……」
「そうであるな…話せる範囲であれば君にアトリエのことをなんでも教えてあげよう。」
「ごく一部のドーセントしか知らないようなことも、まあ私が不愉快でなければ話してあげよう。」
………この人可哀想とかの意味分かってるの?
エンラスの眼光と不適な笑みは申し訳なさを感じている人のものには見えなかった。少なくとも、僕は20年間そんな謝り方をする人は見なかった。
「なら、全体的に案内してくれませんか?疑問ができるほどこの場所に居るわけでもないんで……」
なるべく、なるべく刺激したくないけどムカつくからこのくらいは言っても許されるよねっ…
「……………」
エンラスは驚いたように目を見開く。一瞬アトリエに流れ続けていた音楽が止まった気さえした。その開かれた目からは明確な殺意さえ感じ取れた。照明が一つ、点滅する。
……やばい…死んだかも…
「そうであった。君は来たばかりであった…」
エンラスは子供を見るような優しい笑顔に変わり、音楽もより優しくなった気さえした。照明はいつの間にか、光り輝くだけに戻っていた。
「いやあ、すまない。ならば案内するとしよう」
「薬指のアトリエを…ね。」
そう言うとエンラスは僕の腕を掴み、歩き出した。
子を連れ回す父は、こういうものなのだろうか。
彼の横顔から覗く笑みに無償の愛情が含まれているような気がして…
僕には父が居ないから分からないけど、そんな気がする。
「まずここが展示室である。
まあ…我が凡作が並んだ場所である。」
「傑作は、また別の場所にある。」
「もっと気品のある、素晴らしい場所に、だ。」
…目も当てられないほどグロッキーな物もあれば…普通に美しく、美術館にあったとしても違和感のないような絵もあった。
だが、殆どが重要な部分に空白が存在しているものであるのが気になった。
清潔に保たれた美術館は、血飛沫の存在だけが違和感を作り出していた
「まあ、凡作も作品としては一流である自信はある。
だが……」
「そこから目に映らぬ、目に映る物より大切なモノが見出せるか、と言われたら答えは否である。
故に凡作と呼んでいる。」
エンラスが自信ありげに子供へ過去自慢をする人のように語る。
僕には父が居ないから、これが良い父親像なのかは分からない。
…このまま話されても嫌だから、話を変える事にした。
「そういや、このピアノの音は何処から鳴っているんですか?」
僕は興味ありげな演技をしながら…そう言った
「ふむ、この"オルガン"の音について知りたいのか。」
エンラスは目を細め、片眼鏡を上げ直しながら改まった顔で笑う。
まるでそれが最大の秘密かのように振る舞う。
「オルガンはね…あの部屋から一人でに旋律を奏で続けているのさ。」
エンラスは、骨では無い何かが軋む音を鳴らす右手で指差した。
片眼鏡の反射で不明瞭だったけど、エンラスの翡翠色の目の裏に隠れていた何かが見えるような気がした。
僕が無言で頷くと、またしてもエンラスは僕の手を子供が離れないようにする親のように引いてゆっくりと歩き出した。
そして、禍々しい雰囲気の黒い扉の取っ手を強く握った。
「さあて、ご開帳!」
エンラスは扉を開いた。
それは、蠢く肉の塊だった。メトロノームのように拍が打たれ
指揮者に呼応するように骨と肉の旋律が彩られている。
…赤く、白く………吐き気を催すような嫌悪感の中に、朧げながら価値を見出せる美術眼が作り出されているようでより嫌悪感が増す。
「はっはっは…君はオルガンと聞いたからそこらにあるような楽器でも思い浮かべていたのかい?愉快愉快。君のその喉へとせり上がってくる何かを抑える顔も…美術として理解してしまいそうなことへの嫌悪感で流れ出す涙も……ああ愛おしい…完全に理解してしまった人間からは得られることのない、新鮮で貴重な物…良いものであるな。」
「………こほん。」
「オルガンはオルガンでも、内臓のOrganだった、ということだ。」
「我ながら良いセンスだと思うのだが、君はどう思う?」
エンラスは恍惚に浸りそうになりながらも冷静さを取り戻したのか、
僕に聞いてきた。
…悪魔?鬼?いや…そいつらも逃げ出すだろ…!こんなの…
この人は死んで冥土に行っても最悪の存在になるだろうな……
「さいっあくです…!!グロッキーな物なら先にそうだと言っておいてくださいよ…!!!!」
これは怒っても許されるんじゃないかな……!?
「ふっふ、いやぁすまないねぇ…!!君の反応が面白い故についイタズラをしたくなってしまう………」
エンラスから悪びれる様子は殆ど感じられなかった。
「まあ、次は綺麗…と言うかグロッキーなものは無いと断言しよう。」
「だから、警戒しないでくれたまえ。」
エンラスはこれまでとは違う、少し優しさを残した表情で手を差し伸べる
僕は、手を握らなかった。
「………嫌われてしまったようだ。」
「はあ、まあ仕方ない事であるな。」
エンラスは悲しそうに背を向ける。その背中は僅かに後悔が滲み出していた。
「私を信じるならば、後から入りたまえ。そこには美しい物があると約束しよう。」
その刹那、片眼鏡の裏に、慈愛と寂しさを含んだ…翡翠色ではないような…少し先ほどとは異なる視線が見えた気がした。
冷ややかで威圧的というよりは、暖かい毛布のような。
エンラスの後ろ姿は、扉の裏へと消えた。
たたガチャリ、という無機質な音を残して。