人類最後の地、巨大地下都市アークを支える三大企業の一つ──
ミシリス・インダストリー本社。
その頂上、彼女たちの眼前にある自動ドアが開く。
「失礼します」
部屋の中央で、黒髪ショートヘアの小柄な少女が、その身に合わないほど大きなデスクの上に足を置いて組んでいる。
シュエン。
テクノロジー分野においては右に出る者がない、天才CEO。
彼女を前にして、ピンク色のツーサイドアップのニケは、黒い鞭を無言で手に持ってぼうっと床を見ていた。
先に声を上げた隣の背の高いニケは、清楚な黒髪ロングにベルト状の拘束具を身に着けた『いつも』のボンテージファッションで微笑をたたえている。
ニケたちがデスクの前に進むと、シュエンはふん、と鼻を鳴らした。
「やっと来たわね、ワードレス。もう名前を呼ぶのも嫌だけど」
「どうされたのでしょう。いつもの護衛任務なら、わざわざ秘密回線で呼び出さずとも──」
シュエンはドリンクの容器を、机に叩きつけるように置いた。
「おい。
そう、軽蔑の眼差しで唾を飛ばす。
「お前らはただ黙って私の指示を聞いてりゃいいの。特にあんたは、ただでさえヘマやったせいで
シュエンは、相方のニケへ向けて頭の横でくるくるぱー、と手で軽く描いてみせる。
少女は鞭を握りしめ、自分たちをそう詰った社長の瞳を無表情のまま覗きかけた。
「ユニ」
そう、相方のニケが彼女を静かに咎める。
「大丈夫、ミハラ」
ユニはそう小声で無気力に言ったきり、ただ、何もしない。続きの言葉を待つだけ。
そもそも、今の彼女の脳内には他のニケと同じく『
この目の前にいる
「ではいったい、どのような」
「『新世界』へのサンプル回収任務」
シュエンが端末をタップすると、彼女たちの持つそれに通知が来た。
画面を見ると、地上の座標が示されている。随分とアークからは離れているようだ。
「あんたたちには、今からこの地点に向かってもらう」
シュエンは不遜な笑みを浮かべた。
「独自に掴んだ情報によれば、この付近から大きな地磁気の乱れが観測されてる。しかもそこは扉のようになっていて、向こうにはラプチャーのいない肥沃な大地が広がってる。噂じゃない、よその鉄くずの部隊もそう証言してるわ」
「……有り体に言えば、異世界……ということでしょうか?」
ミハラが目を丸くする。
「ま、普通なら笑い話だけど、証拠がある以上そういうことになるわね。もう、先遣隊は派遣してある」
「……メティス」
ユニがその名を呟くと、シュエンは鼻を鳴らす。
「当たり前よ。メティス部隊、特にラプラスはうちの最高傑作のニケ。こういう未知の調査にこそ、惜しみなく使ってあげないとね?」
ニケなら誰かれ構わず『鉄くず』と呼ぶシュエンだが、メティスだけは別だった。
彼女の言う通り、ラプラスをリーダーとするメティスはミシリスを代表するニケ部隊であり、彼女自身が作り上げた、アークで最強のヒーローだからだ。
「では、私たちはどうすればよろしいのでしょう」
「第二部隊よ。メティスが任務を終え次第、残った原住民を研究対象として即刻捕獲なさい。どうも、見るなり抵抗してくる連中がいるようでね。ま、粗方はメティスが片付けるでしょうから安心なさい」
「……その原住民たちって、私たちの能力は通用──」
言いかけたユニの顔に、オレンジ色の液体が飛び散った。
シュエンがぶちまけたドリンクの中身が、無言のユニの頬、胸、腹、脚を伝ってぽたぽたと落ちていく。
ミハラは目を見開いて息を吞むも、その場から動くことはできなかった。
正確には許されなかった。
「はっ。どうも遂に耳までぶっ壊れたようね」
シュエンはソファから立ち上がるとユニの髪の片方をひっ掴み、彼女の耳を無理やり口元へ引き寄せた。
「っ……!」
「もう一度、ちゃんと言ってあげる。原住民は!! 全部!! 捕まえて!!」
乱暴に突き放されて倒れたユニに、ミハラが駆け寄ってハンカチを取り出そうとする。
「大丈夫。本当に大丈夫だから、ミハラ」
ミハラは目を伏せ、静かに手を下げる。
シュエンが中央政府に無断で命令した、あるラプチャー捕獲の失敗が、すべての分岐点だった。
その罰としての記憶消去により『本当の』ミハラは死んだのだ。
「喜びなさい。お前たちにも1回だけチャンスをやる。直接呼び出したのは、そのことを伝えるためでもあるの」
ミハラの顔が、弾かれるように持ち上がる。
そこへ、シュエンが端末で報告書らしきページを突きつける。
「現地で『カービィ』とか言われてる特殊な個体。凶暴だけど中身は未知の塊らしいわ。もしそれを捕まえたら、特殊ラプチャーの捕獲任務に戻してやってもいい。場合によっては新しいボディも与えてやるわ」
「そこまで、していただけるのですか?」
「ええ。お前たちも、元はと言えば私が手塩にかけた作品だもの。今度こそ期待に応えてただの鉄くずではないと証明してみせれば、そのくらいのことはしてあげる」
ミハラは少し視線を下げつつも、
「……了解しました。じゃあユニ、さっそく向かいましょう」
「……うん」
立ち上がって退出し、自動ドアが閉まるのを見届ける。
ミハラは一通りユニの身体をハンカチで拭いてあげた。
その間、虚空を見つめるユニの表情は人形のように変わらなかった。
そうして少し廊下を進んだところで、
「ミハラ」
「なぁに? ユニ」
「どうせ上手くいきっこないよ。私たち、碌にメンテナンスもされてないんだし。だから……」
「ねぇ、ユニ」
ミハラは端末を取り出してユニに見せた。シュエンより送付された『特殊個体』の情報だ。
「一度だけでも頑張ってみましょう。カービィはかなり小さいという情報もあるわ。もし私たちの能力さえ通じれば、勝機はあるかもしれない。だから……」
「ねぇ、ミハラ。私たちはカウンターズと一緒に捕まえようとしたラプチャーに、その能力を逆に利用されて負けたんだよ。ねぇ、覚えてるよね?」
ミハラの持っていた端末が落ちた。
ユニは光のない瞳を見開いて、彼女が差し出した腕を掴んでいた。
縋るように。もはや届かないものを掴もうとするように。
「とっても痛かったもんね、あの時……痛いのが大好きなミハラさえ耐え切れなかったくらい。私があげる痛みとは、比較にならないくらい」
ユニが教えてあげた『過去』を手繰り寄せるように、ミハラの視線が彷徨う。
やがて彼女は何度も頷き、掴まれているその手をユニの頬へそっと寄せた。
どうしようもなく拙く不器用な、それでも柔らかい手つきだった。
「うん……ええ、そうだったわね。でも、シュエンの命令は絶対よ。破ったら、もっと酷い目に遭わされるわ」
「……えへへ。そうだよね。分かった。早く行こうよ、ミハラ」
ユニは笑っていない目で笑うと、ミハラの腕を掴んだまま、ゆっくりと歩き始めた。
輸送機の格納庫へ向かう間、ユニの視線は前から動かなかった。
いまのユニにとって、この任務の成否はもはや問題ではなかった。
どちらにしろ、ミハラの
──待ってるよ、指揮官。今度こそ、ユニを助けてくれるよね?
この見えない鎖から解放される時、彼女の心が満たされる時を、ユニは待ちわび続ける。
*
アークのごみ溜め『アウターリム』。
昼と夜の区別もつかない、街とすら呼べないガラクタの寄せ集め、そんな薄暗い一角で。
「ふぅーん。やっぱりあなたも、そう言うんだ♡」
この風景ではあまりに浮いている、白のチューブトップにメタリックスカート、ピンクのジャケットを着た華やかなニケ。
彼女は汚い身なりをした男に顔を寄せ、耳のすぐ横に手を突いていた。
ロリポップが蠱惑的な笑みを浮かべる唇の中で転がされ、赤い瞳が男の眼を捉え続ける。
白肌の美女に迫られるその男は壁を背に、蛇に睨まれた蛙のように青ざめつつ、喉から声を絞り出す。
「は、はい。イカれた話だとは思うんですが……随分、噂になってます。既にどこかのニケの部隊が、まとまって地上に上がったらしいとも……」
「ありがと。じゃ、もういいよ♡」
解放されたその男は慌てて頭を下げると、逃げるように暗闇の中へ走り去った。
「バイパー、もういいだろう。同じような話を数十回は聞いた」
「意外と気短なんだね、クロウ。こういうのは、地道にでも情報を積み上げることが必要なんだよ♡」
スクラップの上に胡座をかいてその様を見下ろし、漆黒に赤の裏地のジャケットを羽織る影。
闇に沈んだ色の髪の下、冷徹な翡翠色の瞳で男の背を追うそのニケは、シガーを乱暴に道端へ吐き捨てた。
ミシリス管轄、アウターリム諜報監視部隊『エキゾチック』。
そのリーダーたるクロウはブローカーたちの話を総合し、珍妙な姿となった地上の図を脳裏に描く。
一頭身の、子どもが描いたような連中が歩き回っている。
虹色の巨鳥が、飛ぶだけでラプチャーの群れを一掃する。
仮面のついた戦艦が、空を飛んで見えない何かと戦っている。
空間に開く穴のような場所の近くで、ラプチャーがラプチャーを殲滅する。
「何度聞いてもバカバカしい。中央政府でも、もうちょっとマシな嘘をつくもんだ」
「でも、ここまで情報の数が揃ってくると……流石に無視はできないよ」
バイパーは物思わしげだ。それはバカバカしいと一蹴したクロウも同じ。
地上で、確実に何か大きなことが起こっている。
少なくとも、人類とラプチャーを取り巻く環境そのものに影響を与える、何かが。
「ねぇ、クロウ。あの指揮官はこの状況で、本当にアンチェインドを持って帰ってこれるのかなぁ?」
「来るさ、きっと。アイツは正真正銘のヒーロー様だからな。そうだな、もし持って帰ってこなければ……」
次のシガーを取り出そうとしたクロウの瞳が、薄暗い空をぼうっと見上げた。
「それこそ、あの指揮官もアークのゴミクズどもと同類というだけだ。せいぜい、口先だけの無能と化した、悔悟に歪んだ顔を拝んでやるくらいかな」
「ふぅん、厳しいね。じゃ、ユニのことはどうでもいいの?」
クロウは、虚空を見据え続けた。
「もしユニが、アンチェインドを指揮官が持って帰れなかったと知ったら、確実にあの人を、私たちを恨むだろうね。『嘘つきだ』『シュエンを殺せないじゃない』って」
「……ユニが
バイパーは妖しい笑みを浮かべると、クロウの隣に寄って端末を見せた。
「ちょうど私もそう思って調べてたら……こーんなのが出てきたの」
「ふぅん。マテリアルD?」
地上で新たに発見された、箱型の未知の物質。
その効果は一時的だが、幻聴に加えて感情の増幅、そして身体能力向上。
何より特徴的なのは──
ニケが曝露すると、人間の道具として彼女らを統制する脳内ナノマシン『NIMPH』を無効化すること。
「早い話が、一時的なアンチェインドか。ブラックネットには出回ってないのか?」
「まーったく。この物質、数日前からアウターリムの量産型ニケの間でひっそり取引されてるらしいよ♡ 行く先々で暴力沙汰が出てるって」
クロウはもう一度シガーを咥え、視線を素早く巡らせた。
「なるほど。ゴミ溜めに売り飛ばされ内戦の肉壁にされる彼女らにとって、まさに救いの手というわけか」
「組織としてまだ形を成してないけど、それを求めるニケ同士のネットワークは既に出来上がってるみたいだね」
同時に、クロウの中である記憶が重なった。
「タイミングとしてはちょうど、ミシリス製の資源輸送機が3日連続で往来した時期と重なるな」
「新世界由来の物質が地上の部隊から流出したってとこかな。使い捨てが多いからね、
「中央政府にも黙って、新世界への秘密裏の略奪か。如何にもシュエンのやりそうなことだ」
──さて。どうしたものか。新世界由来の物質となると、どうにも扱いづらそうだが。
そこへ狙い澄ましたかのように、クロウの端末へ通知が来た。
無言で画面を見やる。
アカウント名は──
#000000。
「……シックスオー」
アークの裏社会を支配する暗躍者。
容姿不明。性別不明。経歴不明。
彼女たちとも決して浅からぬ仲である。
『こんにちは』
『何の用だ』
『あなたたちに耳寄りな情報を届けにきました』
『そもそもお前がシックスオーであるかどうかが私には疑問なんだが、随分と大胆に出たな』
『この後、私の足跡を探れば分かることでしょう。エキゾチックはアーク随一の諜報部隊なのですから』
『余程の自信があると見えるが、妙だな。どうにもタイミングが良すぎる。大抵そういう目新しい情報は、他人を動かすために使うものだ』
クロウの瞳が、どこまでも見透かすように画面の上を動く。
『なぁ、シックスオー。もしくは他の誰かさん。私たちを使って、何か企んでいないか?』
『心外ですね。私は、あなた方がアークの空に打ち上げる『花火』を差し上げました。第三者に邪魔されるなどもってのほか。ですから、忠告するのです』
『なるほど、分かった。もし会えたら
『カウンターズの指揮官が、新世界でアンチェインド以上のモノを手に入れました』
ずっと眠たげだったクロウの目が見開かれた。
端末を持つ手にも、シガーを咥える口にも力が入る。
──シックスオー。自分たちの計画でさえ筒抜けというわけか。
『そこまでご大層なモノとは何だ? この世から不幸を消し去る爆弾か? ニケを全員人間にする魔法の薬か?』
『生物です。ピンクの球状。貪食、忠実、単純、そして……未知数の戦闘力』
『ほう。つまり、指揮官の新しいペット、といったところか』
『はい』
そこへちょうど、駆け寄ってくるニケがいた。
クロウやバイパーと比較すると小柄な体格。派手なスポブラとホットパンツを着込み、口からは鋭い八重歯を見せて満面の笑みを送ってきている。
彼女はスクラップの山を動物のように駆け上がって、思いっきりクロウの胸元に飛び込んだ。
「たいちょーたいちょー! 今日も頑張ってきたよー! 褒めて褒めてー!」
「おぉ、よしよし、ジャッカル。準備は上手くいっているようだな」
犬のように顎裏を掻かれ、彼女は気持ちよさそうに喉を鳴らす。
しかしクロウの目線はジャッカルには決して向かず、画面にのみ向けられていた。
『信じるか信じないかはご自由に。私はあなた方に情報を与えた。そこから先は、あなた方ご自身が決めることです』
『それでは』
会話の終わりを予期したバイパーが、気だるげな目つきとは裏腹の手捌きで端末を操作する。
通信履歴を遡り、アーク中に仕掛けたバックドアから数分前のやり取りの断片を辿る。
数分後、はぁー、と息を吐き出してからバイパーは虚しげに端末を振ってみせた。
「本物だったっぽいね。なーんの痕跡も残してないよ」
真実が確定した瞬間──
クロウは天を仰いで顔を手で覆い、ニヤリと吊り上がった口端から声を漏らした。
「もし、本当だとしたら。やはり、あの指揮官は……クク……!」
シックスオーに好き放題言われた不快感よりもずっと、ずっと大きな歓喜が彼女の頭の中を突き抜けていた。
「あっ、隊長が笑ってる! 私も笑おっと! あはははは! あはははははは!!」
まだ笑みを残したまま、クロウは立ち上がる。
一段一段、切れかけて点滅する街灯の光を背に受け、スクラップの山を下りていく。
「計画が少し変わりそうだ。ジャッカル。お前にお似合いのトモダチが出来そうだぞ」
「え、トモダチ!? 欲しい欲しい、私欲しい!」
はしゃぐジャッカルの頭を撫でながらクロウは暗闇のなかへ歩み、漆黒へ溶けて消えていった。
*
エデンの広場に据えられたホロテーブルの上で、光の粒でできた札が音もなく扇状に開いた。
ガラス天井から落ちる陽光が、その盤面を穏やかに照らしている。
向かいに座るノアが盤面を一目見て身を乗り出し、次の瞬間には両手を天へ突き上げた。
「はーい雑魚乙ー! 私の勝ちー!」
「……いつも思うけど、ホンット喜び方が一々ムカつくわね」
パピヨンは笑みの形だけ保ったまま、こめかみに血管を浮かび上がらせていた。
この目の前の
『ノアちゃん、ボクのこと忘れてないカイ?』
「……は?」
宙に浮いた画面の中で、青いローブの異星人がにこやかに手札を伏せる。
勝ち誇っていたノアの盤面が、たった一手で裏返った。
ノアは表情を一変させ、バン、と卓を叩いた。
「マホロア! あんた絶ッッッ対、今のイカサマしたでしょ!」
『証拠はあるのカイ、証拠ハ?』
ニコリとして両手を広げてみせるマホロアに、ノアが歯を軋ませる。
「……相変わらず和気藹々としてるわね、貴女たちは」
声のした方を振り向けば、ハランが腕を組んで立っていた。その隣にイサベルが並んでいる。交代の時間だ。
「暇なのは同意するけれど、監視業務の一環なのだから程々にしなさい」
「貴女たちはゲームもしないでよく飽きないわね。コイツらと日頃、何の話してんのよ?」
パピヨンが椅子の背へ体を預けたまま問うと、「そうね」と答えたのはイサベルだった。
彼女は頬に手を添え、うっとりと視線をどこか遠くへ溶かす。
「……例えば、あの方の素晴らしさについてかしら」
パピヨンの背中が椅子から浮き、思わず画面越しにマホロアを見つめる。
「えっ。ちょっと、ホントに?」
『……そうダヨ。カウンターズの指揮官が如何にニケに優しいかを、毎日タ~ップリ2時間……』
「うわぁ~。マジ想像したくないんですけど」
画面の中の異星人が猫に似た耳を垂らし、心底疲れ切った声で応じる。ノアが眉をひそめた。
「さ、用事は終わったでしょ。早く散りなさい」
ハランに手で追い払われ、パピヨンは渋々と椅子を立った。
*
通路の窓の向こうを、風が緑の面を撫でるように渡っていった。
ガラスには平原と、それに重なった自分の顔がぼんやり映っている。
パピヨンはその顔から目を外し、溜め息をひとつ落とした。
インヘルトとの関係は、少なくとも悪くはない。ノアは相変わらずムカつくが。
そして──あの散歩のことは、まだ誰にも気づかれていない。恐らくは、だが。
彼女は『隠れ家』へ足を向けた。
地下フロアと地上フロアの継ぎ目、配管の陰に生まれた死角。何日もかけて自分で見つけた、監視の目が届かない片隅だ。
端末を掲げると、銀髪の女性の顔が浮かび上がる。
顔のまわりは塗り潰したような黒で、部屋の様子は何ひとつ映っていない。
「……セシル。昨日の『散歩』のデータ、送っといたから」
『了解しました。ご協力に感謝します』
「研究は順調?」
『ええ。あの異星人たちが何を操ってエデンを改造しているのか、あと少しで輪郭を掴めそうです』
セシルは抑揚のない声で答え、打鍵音を鳴らし続ける。
『ところで、マルクは見ませんでしたか?
「……あ、そういえば最近見てないわね。ワープで外へ散歩でも行ったのかしら」
異星人への監視がどこか緩いのには、こういう理由がある。
ヨハンは彼らに一切の外出を禁じると言ったものの、壁も扉も手錠も意味を持たない相手を幽閉する術は、事実上存在しない。
結果、「飽きさせない」ことが、エデンに残された唯一の手綱になった。
遊戯に付き合い、雑談に付き合う。目の前で機嫌よく過ごしてくれている限り、少なくとも何をしているか分かる。
もっとも、今回のように気まぐれなマルク相手には完璧な対策とも言い難いが。
何となしに答えたパピヨンに対し、セシルの視線が、僅かに脇へ流れた。
『チッ、あの道化師。何のつもりで……』
「ん……何か言った?」
『いえ。何でもありません。では、そろそろ』
声が、元の平坦さに戻る。細い指が、通信を切断しようと伸びかけた。
「ねぇ、セシル」
『……何か用でしょうか』
露骨に面倒くさがる声音だが、それでもパピヨンは、思い切って切り出す。
「そろそろ顔を出したら? 研究室を移すと言ってから何日経ったと思ってんのよ。ヨハンにすら顔を見せてないみたいじゃない」
『こちらにはこちらの事情があります。あなたが関わることではありません』
素っ気ない答えに、パピヨンは息を吐いて腕を組んだ。
「でもみんな、あなたを心配してるわよ。表立っては言わないけど」
『……とても二重スパイの言葉とは思えませんね』
その指摘に対するパピヨンの反応は、壁に背を預け直し、爪先で床を一度小突いただけだった。
「酷い言い方ねぇ。あの異星人たちの腹の底を覗きたいって点で、私とドロシーと、あなたの目的は今のところ一致してる。その上で誰かの心配をしたって、別に矛盾はしてないでしょ?」
実際、彼女はいま二本の糸を、それぞれの手で握っている。
一方はドロシー。地下の散歩で拾った『違和感』を、彼女とだけ分け合っている。
廊下の角、壁の継ぎ目、振り向いた時にだけ消える視線のようなもの。それは、地下に行くに従い増えていく。それは、ノアの言っていたことと重なった。
もう一方が、この通信だ。
エデンを実際に動かしているのが彼女である以上、隠れて歩き回るより懐へ飛び込む方が早い。ドロシーの言いつけ通りにするより安全で、しかも深いところまで手が届く。
『……言いたいことはそれだけですか?』
セシルの手が、また装置へ伸びる。
「あ、ちょっと……」
『そろそろ、通信を切らせてもらいます。研究に集中したいので』
言い終わるより早く画面が暗くなった。パピヨンは、しばらく端末の画面を困惑の顔で見つめていた。
「……こんな冷たい人にインヘルトは付いてってるのかしら」
通信アプリのアイコンをタップし、あの指揮官とのチャットルームを覗く。
自分が目を盗んで送った、ありったけの情報。それに全て既読がつき、こう返信がなされている。
『ありがとう、パピヨン。君の努力は無駄にしない。我々は無事だ』
『少し遠回りをすることになった。だが、我々は必ずエデンへ辿り着いてみせる。申し訳ないが、もう少しだけ待っていてくれ』
パピヨンは端末を握りしめながら上階を見上げ、声を落とした。
「……早く迎えに来てね、ハニー。もちろん、あのピンクだまも連れて」
【補足:ワードレスについて】
ユニとミハラは、ミシリス所属の二人組ニケ部隊。
かつてシュエンの独断でラプチャー「トーカティブ」の捕獲にカウンターズと共に挑み、敗北。責任を問われたミハラは記憶を消され、ユニとの思い出をすべて失っています。ユニはそれを「ミハラが殺された」と受け止め、NIMPHを壊せる弾「アンチェインド」でシュエンへの復讐を果たす日を待っています。
いよいよここから前半のクライマックスに向けて動き出します。
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