タワマン引っ越し後、コラボライブ前。
かすかに開いた窓からやわらかな風が流れ込み、カーテンがふわりふわりとオーロラのように揺れる。そのたびに日差しが差し込み、まぶたを刺激し覚醒を促す。
さらさら、さらさらと寄せては引く波のよう。
砂浜に潜るヤドカリのように布団をかぶったままスマホを手繰り寄せ、リマインダを開く。
デフォルト設定のままのシンプルなデジタル時計が示す時刻はAM 6:17。今日の予定は……9時から夏期講習。アルバイトは休み。
ならもう少し、のんびりしててもいいかな、と先月までの自分なら考えられないほど自堕落な、よく言えば余裕のある考えができていることに驚く。
それを作り出した原因に目を見やると、きんいろの塊がもぞもぞとうごめいた。
額に薄くかかった髪に陽の光が透き通り、やわらかな風を受けて稲穂のように揺れる。
その下の瞼は二枚貝のように閉じられたまま。
どうやらまだ起きる気配はないらしい。
高層タワーマンションの新居は以前のアパートとは違いキジバトの鳴き声やバイクのエンジン音も聞こえてくることはない。すぅすぅという規則正しく静かな寝息の音だけが部屋に広がる。
「ぅ……いろぴーはぁ……ぇ、ぉ……」
夢の中でも配信しているらしい。げにすさまじきライバー根性。というか、宇宙人でも夢を見るんだ。
「さいきんぬぇ……、ふとっててぇ……」
おいこら。
夢の国の住民に適当なことを広めるんじゃない。
これでも体調管理には人一倍気を配ってるんだから。体育10なめんな。
いや、まぁ、あんたの料理のおかげで多少増えはしたけど。断じて太ってはいない。
「まったく……」
完全に不意をつかれた発言で目が覚めてしまった。二度寝をするほどの時間はないので上半身を起こし座り直す。
風説の流布をしでかした下手人の額に手を伸ばす。デコピンでもしてやろうかと指を構え、流石に大人気ないかとため息をひとつ吐くと、はらはらと揺れる髪に触れる。
一体どんなトリートメントをしているのか、はたまた宇宙びと体質なのか、ブラシを通す必要がないくらいにサラサラな髪は一切指の抵抗を受けることなくするりと抜ける。
感触が気持ち良くて、2回、3回と繰り返してしまう。そのたびに彼女のお気に入りのシャンプーの香りがふわりと舞う。
「んぅ……ぃへへ」
むず痒いのか、もぞりと寝返りをうつきんいろ。一体何が楽しいのやら、まなじりも口角もだらしなく緩みきっている。
まったく、お気楽なことで。
掛け布団としての役割を免職されてしまったタオルケット。不貞腐れたようにひとかたまりに丸められていたそれを再雇用して掛け直し、音を立てないように立ち上がるとカーテンを締め直す。
さすがにあそこまで幸せそうに寝ているのを起こすのも忍びない。居候の邪魔をしないように気を配る家主って普通逆じゃない?と思いながらも物音を立てないように、ゆっくりと螺旋階段を降りる。
昨日遅くまで配信していたから、もうしばらくは寝たままだろうけどどうせそのうち起きるし、起きたら起きたで騒がしくなる。なら静かなうちにやることやってしまおう。
「ま、たまにはね。甲斐性見せておかないとね」
そう自分に言い聞かせながらキッチンに立ち、昨晩洗った食器、その乾ききっていない箇所を布巾で拭きあげながら片付けていく。オーバルプレート、コーヒーカップ、小皿にクリーマー。白で統一されたそれらは洋食と相性がよく、いわゆる映えるというやつである。どこで磨いたのか、無闇にセンスのいい食器群はもちろん和食や中華にもそれぞれあつらえており、二人暮らしとは思えないほど大量の調度品が眠っている。
圧倒的な容積を誇るはずの壁面収納が、もうすでに余裕がほとんどない。この間なんか天然檜で作られた寿司下駄まで見つけてしまった。いつ使うのよそれ。てか買えるものなんだ……。
いや、それよりも。
「調味料、どこにあるかわからん……」
まずい。自分の家なのに、家主なのに。普段から準備や後片付けは手伝ってるから食器やらはわかるけど、こと料理において無闇にこだわりを出す同居人がしまった場所がわからない。たまにしか使わない、聞いたこともないやつならともかく、砂糖や小麦粉の置き場すら分からないなんて。
これ、キッチンを完全に制圧されてしまっている……。
今まで自覚してなかったけど、もしかしてだいぶまずい状況なのでは?
「仕方ない、パンケーキでいいか……」
複雑なものは作れない。さすがに場所を聞くためだけに起こすのは気が引ける。
ホットケーキミックスと蜂蜜はカウンターに常駐しているから一目瞭然。他に使う材料は全部冷蔵庫。よし。
ボウルに牛乳と卵を割り入れ、泡立て器で手早く混ぜる。このくらいならハンドミキサーを使うまでもない。ゲームのコンボを繋げていく感覚でリズミカルにスナップを効かせて攪拌する。カカカカカッと、気分は太鼓の音ゲー。最後にカンッと水切りしてキメる。よく調理器具を構えて謎のポーズを決めていた気持ちがちょっと分かった。余裕ができると、些細なことでも楽しく感じられる。
フライパンを温め、キッチンに卵と小麦粉の香ばしい香りが漂ってきたところで2階からバタバタと物音がし始めた。音だけで何してるか分かる、生活音の擬人化みたいなやつ。あ、いまスリッパ履こうとして躓いたな。けんけんみたいな足音が響いたかと思うと、そのまま転がり落ちるような勢いで階段を下ってくる生活音さま。
「あー! いろはがごはん作ってる!? あのいろはが!? 大丈夫!?」
「いや、そこまでかい」
さすがにそれは言い過ぎではなかろうか。あんたが来るまで一人暮らししてたんだから出来ないわけがないでしょうに。お弁当だって自分で用意してたんだから。まあ、最近はそれらが過去形になってしまったことは否めないけど。
「もうすぐ出来るから、ちょっと待ってて」
「よしゃ、なら飲み物用意する!」
「ん、お願い」
「いろははコーヒー? カフェオレしちゃう〜?」
「同じでいいいわよ」
「んじゃカフェオレ! 牛乳多め甘めでございま〜〜す」
静かだった同居人が起きたと思ったらコメディドラマのように途端に騒がしくなる我が家。まあこのくらいはとっくに慣れたもの。
熱したフライパンを一度冷ましながら、テキパキと準備していくきんいろを横目で眺める。動きは騒がしいのに手先は繊細。パントマイムみたいな動きに笑ってしまう。動画のネタになるかな。
「あのね、それよりも」
「んぇ、なんかあった?」
しかし肝心なことを忘れているのはいただけない。ここはしっかり釘を刺しておかないと。
「おはよう、かぐや」
「へっ……? あ、あーっ! おはよう! いろは!!」
声がでかいっての、寝ぼすけめ。そう笑いながら焼き上がったパンケーキをお皿に乗せてテーブルへ。ふわふわ二枚重ねのパンケーキ。
「はい、出来上がり。バターと蜂蜜はお好みで」
で、バターも蜂蜜も見たことも聞いたことないブランドだけど、これ高いやつじゃないでしょうね?
「いただきます」
「いただきま〜〜すっ!」
テーブルの前に横並びに座り、二人一緒に手を合わせる。挨拶は大事だからね。
「ぅわはー、いろはの手料理〜! かぐやちゃん幸せ〜〜」
いくらなんでも幸せの単価が安すぎるでしょ。これ一袋で500円とかそんなものよ。
「大袈裟な……ふつーのパンケーキでしょ」
「そゆのが一番いいんじゃん!」
「普通のエンドはイヤだ〜って言ってたくせに」
「それはそれ、これはこれ! うはー、美味し〜〜っ!」
調子のいいやつ。二枚重ねのパンケーキ、その一枚があっという間に消えた。
「でもそんなに美味しい? 個人的にはかぐやのがよっぽど上手だけど」
レシピ通りに作ったレシピ通りの味。料理は科学。科学とは再現性。科学的に証明された確かな再現性の元に作り出されたパンケーキは味はそれ以上でも以下でもなく。要は普通の味。
ならかぐやの作ったパンケーキの味が違うのは、なんなんだろう。
「うはー、いろは、舌が肥えてきたね? 大丈夫? かぐや抜きで生活できそう?」
「うっ、ちょっと自信なくなってきた」
仮に明日から素パスタ生活に戻れるかと想像して、げんなりしてきた。流石にもう少し準備期間が欲しい。
そして再び独立するにはまず占領されたキッチンの自治権を取り戻さなくては。補給の根っこを抑えられては反撃も何もない。
「かぐやちゃんは生活必需品ですからね〜〜今なら控除取れるよ?」
「なんの税なのよ」
「えー、かぐや税?」
「適当すぎる……というかそれマッチポンプじゃん。初めからゼロにしてよ」
「えぇ〜? でも最初有料のやつをタダしてあげたほうが有り難みでるじゃん?」
「オンラインサロンみたいなこと言い出したな……」
かぐやはライバーやってるせいなのか、こういう妙な知識ばかり覚えていってる気がする。誰ですか、うちの子に変なこと教え込んだのは、などと母親気分になってしまう。
「ほれほれかぐやちゃんさま大明神を有り難み奉り給へ〜〜」
「ありがとごさいまーす」
「感謝が雑!! そんなんじゃご利益ないよ!!」
「ヤチヨの加護があるので結構でーす」
「んぬぐぐぐ、おのれヤチヨめ……」
残念。私はヤチヨ一神教なので。ヤチヨのアクスタ神棚はタワマンに引っ越した後もリビングの一等地に鎮座している。
「はい、ごちそうさまでした」
「ごちそーさまでした!」
かぐや大明神の手からパンっと勢いよく柏手が響く。いや、あんたが叩いてどうすんのよ。祀られる側でしょ。
「お粗末さまでした。さ、片付けよっか」
「かぐやがやるから任しとき! その代わりまた食べたいな〜?」
「そんなに良かった?」
「いろはの作ってくれた料理ならなんでも嬉しいよ〜〜!」
「水と粉のパンケーキでも?」
「さすがにいろは激甘かぐやちゃんでもあれは料理判定したくないかな」
急に真顔になるじゃん。
「まさかの一次選考で失格。かぐや審査員厳しくない?」
「むしろなんでいけると思ったの。かぐや審査員は公平ジャッジだよ」
さっき激甘言ってたじゃん。
「てかさぁ、あれ普段から食べてたの? 嫌がらせとかじゃなく?」
「嫌がらせとかするわけないでしょ」
失敬な。仮にも赤ん坊の頃から面倒みてる子にそんなことするわけないでしょ。あれは私なりに編み出した節約術なんだから。
「食べてたのは否定しないんだ……」
「しょうがないでしょ誰かがオムツ59枚も無駄にしたんだから」
「あーいじわる! 具体的な数字出すのヤらしー! かぐやのせいじゃないもん!」
「はいはい、っと」
ばたばたと暴れるかぐやの反撃を受け流しながらスマホのアラームが鳴っていることに気付く。余裕があると思っていたが、案外そうでもないらしい。
「ああもうこんな時間、学校行かなきゃ」
「逃げるなひきょうものー!」
「逃げてませーん義務でーす」
「ゔぇーかぐや絶対そんな義務やだ……」
「夏期講習ってやつがあるの。じゃあ行ってくるから」
「ぶ〜、いってらっしゃい!」
なんだかんだで聞き分けの良くなったかぐやは口では色々言いつつも無理に引き留めたりはしない。その成長が嬉しくもり、若干寂しくもあり……いや、寂しくはないな。うん。むしろこのくらいで丁度いい。
ま、その成長に少しくらいご褒美あげても、いいかな。
「そうだ、かぐや」
「んぇ?」
「今日はアルバイト休みだし、昼過ぎには帰ってくるから」
「おー?」
「一緒に夕飯の買い出し……いこっか」
「……いく、絶対いく! ひゃほほーい!」
買い物に行くだけのなにがそこまで嬉しいのやら、さっきまでの不満を吹き飛ばしてどこぞの民族じみた謎の踊りを披露しだすかぐや。心なしか独特な伝統楽器の音まで聞こえてくる。ま、これだけはしゃいでいれば聞こえないだろう。
「その、私も、かぐやの料理すきだから……」
そう、照れ隠しでこっそり呟いたつもりなのに。
「え!? もっかい! もいっかい言って! ね〜いろは〜!!」
宇宙イヤーは地獄耳。ばっちりお届けしてしまっていたらしい。
「だぁ! 一回だけ! もう言いません! くっつくな離れろ電車に遅れるから〜〜!!」
腰にしがみついてくるかぐやを引っぺがしながら、今度こそ正真正銘に逃げるように玄関を飛び出す。
顔が、体が、暑い。
8月だからと季節のせいにしたくとも、さっきまで働いていたクーラーが言い訳を許してくれない。
エレベーターの室内で顔を扇ぎながら、備え付けの鏡で前髪を整える。
今日という一日が始まる。
ひと時たりとも同じ表情を見せない、しかして変わらない毎日が始まる。
さらさらと、引いては寄せる波のように。
きっと、明日からも。