ゴッ
築三十年余、軽量鉄骨構造のアパートの室内に鈍い音が響く。まるで人間が硬いもので殴られたような、すわ事件か?あるいは家庭内暴力か!?と思ってしまうような、重い音。
その音の発生源たる推定被害者である私は意識を朦朧とさせながら机に突っ伏していた。
頭が、いたい。
ジンジン、ひりひりする。
「眠い…………」
なんのことはない、勉強中にあまりに眠すぎてしおどしのように落ちた頭がデスクの天板と熱烈なランデブーを果たしただけのこと。そのまま参考書を枕にしたがる体に鞭を打ち、ひっぺがすように頭を起こすとジンジンとする額をさすりながらシャーペンを握り直す。デジタル時計が示す時刻は午前〇時二十四分。
どうにかこうにか解きかけだった過去問の解答を記入し、今度こそ力尽きてデスクに沈む。本来の予習範囲を終え、欲張って次の段階へと手を伸ばしたのがいけなかったみたい。
いかに現役バリバリな十七歳女子高生といえど体力には限界があるわけで、アルバイト・夏期講習後・アルバイトと最低な五七五で一日中ぶん回したツケが最後にやってきた。
「──でねー。うん? 最近作ったやつ? 最近でウケが良かったのはガパオライスかな。いやさいろPガパオライス食べたことなかったみたいでさ、めちゃ焦っててめちゃウケた。そうウケたってのはかぐや的な意味で。うはは」
聞こえてきた明るい声にぶ厚い過去問集を枕にしながら視線を右側に向ければ、視界にかすかに入り込むのはゆらゆらと揺れるきんいろの一房。そのきんいろ宇宙人も朝から配信ネタ集めに始まりゲームに歌の練習、ツクヨミでゲリラライブなど一日中動き回っていたというのに、まだまだ体力が尽きる様子はない。そして今やってるのはツクヨミライバーとしての配信活動、そのいわゆる雑談枠というやつ。
あの細い身体のどこにそんなエナジーがあるのだろうか。血じゃなくてエナドリが流れてたりして。
不活性化してしまった頭のまましょうもないことを考えながらぼんやりと眺めてみる。
「いろPけちんぼだからさぁ、ちょっと知らないやつ出すとこれいくらするの?ってまず疑ってくんだよね。んな高いわけないじゃんね。まあそれでも最初は警戒しててさぁ、でも食べてくうちにだんだん緩んでくのが飼いたての小動物みたいで超かわいいんだよね〜〜。羨ましかろ? んはは、バレた? うんわざと。これ内緒な。まあほら人生には刺激が必要って言うじゃん? だからこれは必要経費! やりすぎると怒られるけど。北京ダックはやりすぎたな〜〜おっと話がずれた。ガパオなガパオ。元はタイ料理のパッガパオガイていうんだよね〜。で、まんなかから取ってガパオ。んひ、ウソ。ほんとは使ってるホーリーバジルの名前がタイ語でガパオで、ガパオをガイとパットする感じでパッガパオガイ。いやいやこれはほんとだって〜! エスニックな香りがパキーンて脳にくる感じがいいよね! まあホーリーバジル売ってなかったからスイートバジルなんだけどさ。つまりガパオは使ってないわけで。哲学的ガパオライス。まあほらよくあるじゃんそーゆーの!」
すごい、話題が二転三転している上に明らかに日本語じゃない。こういうトーク力がないとライバーにはなれないとしたら私には到底無理だ。途中なにやら聞き捨てならないことも言っていた気がするけど、すでに超無理限界ギリな脳はその情報を拾い上げることなく不燃ゴミに出してしまった。
「歯磨きして寝よ……」
あの調子ならまだまだ配信を続けるだろう。一応かぐやいろPチャンネルと銘打っている以上協力者として気にならないといえばウソになるが、さすがに睡眠欲が勝る。明日も明日で予定がぎっちりなので徹夜なんか無理。
ふらふらとキッチンまで辿り着くと最後の力を振り絞って歯磨き。あ、口内炎治ってる。最近できる頻度が減ったのは同居人による強制的な栄養バランスの改善によるものなのかも。まあその分色々とダメージを受けているのでプラマイゼロだけど。大量のモノで狭くなった部屋とか、個人情報とか。あれ、ダメージのが多くない? まあもうどうでもいいや……ふとん……ふとんが私を呼んでいる。
「いーろーはっ」
ふとんがしゃべった。いや違う。ふとんの上でスタンバってるかぐやだ。待って、あんたはお呼びでないから。その明らかになんか企んでる顔をやめろ。こちとらもう判断力も抵抗力も残ってないのよ。眠いのよ。
「…………配信は?」
ついさっきまで雑談してたじゃない。と思いパソコンの配信画面を見ると、この配信は終了しましたの味気ない告知文。コメント欄はかぐやちゃんおやすみの嵐。なんという手際の良さ。いつのまに……。
「ねーぇーいろはー。寝る前にいっこお願いがあるんだけどさぁ」
……こいつ、さては私が体力限界ギリになるまで待っていたのか。ていうか上目遣いやめて。今ただでさえ弱ってるんだから。
それは、ちょっと、ずるいから。
「あんた、今から寝るってときにそれは反則でしょ……」
「だってぇ、こないだなんか目も合わせてくんなかったじゃん」
「あのね、私は勉強で忙しいの。邪魔しないって約束したでしょ」
「だからこーやって勉強してない時に言ってるんじゃん!」
「ぐ……」
まずい、勝てない。ただでさえ睡眠を欲する頭がストライキを起こしているというのに、さらに正論で殴られたらもうただのレームダックだ。もうなんでもいいからさっさと寝たい。
「そんでお願いきいてくれる?」
「……まぁ、聞くだけなら」
「っしゃ!」
写真に収めたいほどの美しいガッツポーズをキメる宇宙人。ガッツポーズて宇宙共通言語なんだ、なんてどうでもいいことが頭をよぎる。
「聞くだけだから、叶えるとは言ってないから」
「え〜かぐや日本語わからな〜い」
「あんた今何語でしゃべってんのよ」
「……かぐや語?」
なんで本人が疑問形なのよ。わたし、いつの間にバイリンガルになってたの。履歴書に書いていいやつ?
「いいから寝かせて……」
「あーんお願い言わせてよ〜」
「なら早く。私だってもう限界なんだから」
「かぐやね、キーボードおしえてほしいなって」
「……弾きたいの?」
「んー、ちょっと違うんだけど、まあそう!」
かぐや語、難解すぎる。やはりバイリンガルは無理か。
「どっちなのよ……まあ、少しだけなら、いいけど」
「やた、いろはだーいすき!」
「はいはい、おやすみ」
「反応がいけずすぎる……!」
問答をどこまで続けたのか記憶に残っていない。どこまでが夢で、どこからが現実だったのか。なんだか安請け合いしてしまった気もするし、かぐやが嬉しそうに笑っていた気もする。
──かすかに響く扇風機のモーターと風の音。それによりさらさらと靡くカーテン。隙間から差し込む、まだ薄明るい乳白色の光。そして、キーボードから聞こえてくる電子音のメロディ。リズムは覚束なくとも、どことなく聞き覚えのあるそれを耳にしながら枕元のスマホをたぐり寄せる。時刻は、朝の六時四十七分。なんだかんだ六時間は寝れたらしい。のそりと上半身を起こすと、まだぼんやりした頭のまま音の発生源を見やる。
そこには昨夜の私みたいに上半身をゆらゆらさせながらキーボードの鍵盤を叩くかぐやの後ろ姿。違うのは、その揺れている理由が眠たいからではなく、楽しいからであろうということ。……人が楽しそうにピアノを弾く姿、久しぶりに見たな。
「……このメロディ」
ようやく覚醒してきた意識が大脳皮質に起床ラッパを鳴り響かせる。慌てて走り出した脳細胞が私に報告書を提出する。
どうりで聞き覚えがあるわけだ。私が作った、配信用のジングル。それを見様見真似で弾いてみたのだろうか、リズムも強弱もまるでなってないし、そもそも音階からして違うけど。
それもそう。楽譜にも起こしていない曲を素人が耳コピで演奏できるわけがない。それであっさりやられたらこちらの立つ瀬がない。むしろ最初の不協和音に比べたらいびつながら形になっているだけでも驚くべき上達ぶりである。
「ふふ、へたくそ」
まあ素直に伝えたらまた調子に乗るから、あえて悪態を吐いたりするけど。
「お? おはよ彩葉! てかいきなりひどくない!?」
おや、聞かれたか。小さな声で呟いたつもりなのに、かぐやイヤーはばっちり捉えていたらしい。相変わらずの地獄耳。
「おはようかぐや」
「二度目ましておはよう〜!」
演奏を中断して、キーボードを抱えたままバタバタと駆け寄ってくるかぐや。こっちはまだエンジンすらかかっていないというのに、すっかり温まっているらしい。まって、暑いから、抱きついてこないで。パジャマが汗吸っていま気持ち悪いから。こら。
「朝から元気ねあんた。いつからやってたの?」
「うーん二時間くらい? いやぁ待ちきれなくてさぁ」
マジか、二時間て。つまり四時間しか寝てないじゃない。そんなに楽しみにするほどか。
「で、教えてほしいんだ?」
「そうそう〜〜! よかった、彩葉ちゃんと覚えてた?」
「失礼な。約束は守るよ私は」
「どうかな〜? 昨日の彩葉すっごいぽやぽやしてたからね! ちょーかわいかった」
「かわいいて……眠たいだけだっての」
そんな妙な言動はしてなかったはず。……はず。もしかして記憶にないだけでなんかやらかしたのか? いやでもかぐやの言うことを真に受けるのもな。てかぽやぽやしてたのあんたもでしょ。
「ところでかぐや、楽譜読めたっけ?」
我ながら若干無理がある話の切り替えだけど、まあ本命の話題ではあるし、問題ない。押し通る。
「楽譜ぅ〜?」
うーん、この反応はダメそう。
「こういうやつ……見覚えは?」
検索して出てきた適当な楽譜をタブレットに表示させる。楽曲名はきらきら星。ピアノ初心者には定番も定番のザ・入門書。
「何語なのこれ」
「ピアノ語」
「いやなんぼかぐやでも騙されないよピアノはしゃべらないよ」
「でも鳴くよ」
「彩葉だいじょぶ? すごいぽやぽやしてるよ?」
「おきてまぁす」
「ダメそう」
失礼な。
「でもさぁ、彩葉楽譜とか使ってなくなかった?」
「そりゃ即興だから楽譜もなにも……あ、もしかしてジングル弾きたかった?」
「せいか〜い! んふ、今日の彩葉はちょっとにぶちんだね。まだねぼすけさん?」
「やかましい。いいからキーボード貸して?」
だれがにぶちんだ。
にしても今日のきらきら星はいつにもまして随分とご機嫌だ。瞳も髪もきらきらと輝いて、本当にお星さまみたい。いや、お月さまかな?
そんな益体のないことを考えながらかぐやが抱えていたキーボードを受け取り床に置く。まだ起き抜けで、洗顔も着替えもしてないけれど、まあ眠気覚ましにはちょうどいい。
そっと鍵盤に指を添える。本当に二時間やっていたのだろう。ほのかに白鍵に宿る熱は、機械の発熱とはまた別の、演奏していた人の残した温かみ。ずいぶんと長い間忘れていた熱。その熱を受け取るように鍵を押し込む。
「じゃ、ゆっくり弾いてみるから」
奏でられる旋律。かぐやいろPチャンネルの開幕を告げるジングル。それをツーテンポほど遅らせて、指の動きを見せるように。メトロノームはないから肌感だけど、一分にも満たないジングルならこれで十分。
少し前まで押入れで埃を被っていたのがウソのように、かぐやが配信を始めてからは毎日を馬車馬のように働かされているキーボード。
……思えば、最初はこの鍵盤に触れるのも抵抗感があった。今ではすっかりそんなものは無くなったけど、このキーボードには楽しかった大切な思い出と、それに蓋をするように辛い思い出がのしかかっていたから。だから、押入れから出したくなかったのかもしれない。大切だから、手元に置いておきたくて。でも辛いから、触りたくなくて。
そんな蓋を取り去る機会をくれたのは、目の前に座る金髪のお月さま、かぐや。初めて演奏したあの日から、ことあるごとにリクエストされ、作曲や伴奏をこなしていく内に辛い思い出はきれいさっぱり洗い流されていた。
そんな彼女がじっと演奏している私の手元を見ていたかと思うと、ふと目が合う。普段からタレ目なまなじりがさらに下がり、溶けそうな、やわらかそうな、優しさに満ちた目。
そんな目で見つめられるとなんだか急に気恥ずかしくなり、以前かぐやからリクエストされたようにメロディをリピートする。
照れ隠しにテンポアップ。スローからミドルへ。ミドルからアップへ。駆け足になった指が踊るように鍵盤の上を滑る。左右の指がダンスショーのように目まぐるしく動きリズムを刻む。呼応するように気持ちも上がり、心臓とビートが共鳴していく。眠気覚ましなんてもんじゃない。もはや観客を考慮していない、勝手気ままな演奏。自由で、気楽な旋律。
その間、かぐやは驚くほど静かだった。クラシックコンサートの観客みたいに、物音ひとつ立てずに、聴き入っていて。
普段の彼女なら勝手に歌い出したり、あるいは指が早すぎてわけわかんない、とか文句の一つでも飛んできそうなもの。というか、実際されたこともある。しかし今回に限っては最後までクレームが出ることもなく弾き終わり、鍵盤から指を離す。
ふぅ、と一息吐くと、寝苦しさとは違う心地よい熱が身体を巡る。
「ね、彩葉はさ。音楽たのしい?」
そんな様子を見計らってか、クレームの代わりに投げかけられたのは意外な質問。指をどうやって動かすの、とか。左右バラバラなのはどうなってんの? とか、そんな技術的なことではなく。
心構えをしていなかった問いに一瞬言葉が詰まる。
「……どうして?」
「彩葉ね、キーボードやってる時すんごい楽しそーな顔してる」
「えっ、そんなに?」
楽しんでいる自覚はあったけど、それほどだろうか。音楽の授業でもピアノは時折弾いているけど、旋律を褒められることはあってもそのように言われたことは一度もない。キーボードはまた別なのかな。
「んひ、彩葉ちょー夢中だったよ」
「いやそれはあんたが……まあ、うん。楽しかった、かな」
見つめられるのが恥ずかしかったから、とは流石に言えない。でも楽しかったのは本当。
「あんね、次は彩葉と一緒にやりたい!」
「……いきなり連弾は早くない?」
で、そんなかぐや姫からの難題で連弾ときた。でも、そんな気はした。何かやるなら一人より二人でを好むわがままお姫様だから。
「いやーなんとかなるっしょ! お願いしますよ先生〜」
本物のピアノ講師だったら生徒そっちのけすぎて失格だけどね。まあ、さっきまで勝手にやりすぎたお詫びとして、仕方ないか。
六十一鍵のキーボードだから二人並んでやるほどの広さもないし鍵も足りない。そもそもかぐやがまだ慣れていない。となると、メロディは私が担当して伴奏はかぐやがやるのが無難か。普段の配信と立場が逆だね。
「それじゃキーの配列変えるから、かぐやは右側ね」
電子キーボードはこういう時に便利。さすがに左手でメロディを弾くのは慣れてないから、スプリット機能で左右反転させて左を高音に、右を低音に変える。
「よっしゃ、いっちょやったりますか〜!」
謎の気合いを入れるかぐやと隣り合わせに座れば、幅が1mしかないキーボードでは自然と肩が触れ合う。普段より近い距離感に体が強張るが、キーボードに夢中なきらきらした顔を見ると緊張してるこっちがバカみたいで。肩越しに伝わる体温が、音楽を楽しんでいるんだと教えてくれる。
その熱に毒気を抜かれて、ふっと笑うとせーの、の合図で弾き始める。そうすると信じられない奇跡が起きて美しいハーモニーが流れ始める、わけもなく。
まるで歩調が合ってないぎこちない二人三脚。練習なんかしてないんだから当たり前。最初の一回目はたったワンセクションも走り切らずに転倒した。
「うはは! ま、そりゃそーだよね」
そんなことでも当人からすれば楽しいのか、意気揚々と再チャレンジの準備。どうやらまったく懲りてないらしい。
しゃーない、こうなったらとことんやりますか。
それからはセオリーもなんもかんも無視した不細工なデュエットで左右を戻したり、かぐやがメロディ担当したり。結局、最後まで二人のリズムが綺麗に揃うことはなかったけど、なのに楽しくて、気付けば二人とも笑いながら弾いていた。
隣で笑うかぐやの笑顔は、本当に音楽を楽しんでいて、かがやいていて。
ああもしかして、こんな顔を私も出来ていたなら。それはちょっと恥ずかしいけど、見惚れるのわかるかもしれない。
思い出の中のお父さんが笑顔だったのは、こういうことだったのかも。隣にいた私が笑っていたから、お父さんも笑っていたんだ。私が楽しそうにしていたから、お父さんも。
「いろはっ」
「な、に」
そんな物思いに耽っていたら急に呼びかけられて固まり、思わず返事が吃る。
「音楽、たのしいね」
まるでこちらの内心を見透かしたような一言にドキリと胸が跳ねる。でも、いまさら隠し立てするようなことじゃない。ここで誤魔化すのは、お父さんにまでウソをつくようで。それは、嫌だった。
「……そう、だね。うん、楽しいね」
「かぐやね、彩葉が楽しそうにしてたから、弾けたら同じ気持ちになれるかなって思ったんだー」
「……そういうこと?」
「あ、覚えてた? んひ、そーゆーこと!」
弾きたいけどちょっと違うの意味。弾くことを通して楽しみたかったのか。まったく、普段の我儘ぶりからすれば回りくどいことで。でも、ま、こっちも十分に楽しめたから、やっぱりプラマイゼロかな、なんて。
そこにかぐやの笑顔がのっかれば、もはや大きなプラスになってしまうわけで。なんてことを言えば、調子が有頂天になるから秘密だけど。
「ねっ、いろは! 今度さぁ、着ぐるみ脱いでやって!」
「やだ」
「え〜〜! 絶対バズるのにぃ」
「そんな理由でやるわけないでしょ」
「……違う理由ならいいんだ?」
「いや、ちが、これは言葉の綾たがら」
「わはは、かぐや日本語わからな〜い」
「しらばっくれんな〜」
ヤチヨカップ終了まであと二十日。
こんな日があと何回あるのだろう。
でも、まあ、悪くないかな。
そう思いながら、二人で笑い合った。
【おまけ情報】
かぐやは話しかけやすいように敢えて雑談枠にしてました。かわいいね。