ゴールデンウィークも終わり、5月半ばのホームルーム終わりに茶柱先生が告げた言葉は重苦しく教室内に響き渡った。
「明日から新たな特別試験が始まる事になった。今回の報酬およびペナルティは、1位が50クラスポイント獲得、2位は25ポイント獲得、3位は変動なし、そして4位はマイナス25ポイントだ……なお、試験の具体的な詳細については1週間後に発表する」
教室の中にざわめきが広がった。だが、その空気はどこか冷ややかで、以前のような熱量や焦燥感すら感じられなかった。
「試験の詳細発表までの期間、お前たちは『学生らしい行動』を心がけるように。なお質問は一切受け付けない」
先生は最後にそう念を押し教卓の書類を整えて素早く教室を去っていった。池が不満の声をあげるが茶柱先生は気にしてすら無い。教卓を離れる先生の背中を見送りながら、俺は胸の奥に薄暗い違和感を覚えていた。
茶柱先生のあの冷淡な態度……あれは1年生の最初の頃、俺たちをゴミを見るような目で見つめていたあの頃の空気に先祖返りしているかのようだった。前回の特別試験での大敗、そして何より綾小路のCクラス移籍。心の支柱であり絶対的な「勝利の切り札」だった男を失ったこのクラスの結束は、すでに完全に破綻していた。
「……高円寺くん。待ってくれる?」
教室を去ろうとする高円寺の前に堀北が立ちはだかった。クラスをまとめ直そうと必死な堀北だったが、高円寺は不敵な笑みを浮かべ、優雅に髪をかき上げるだけだった。
「ふむ? どのような用件かね、堀北ガール」
「明日からの試験について、少しでもクラス方針を話しておきたいのよ。あなたも無関係ではいられないはずよ」
「ナンセンスだね」
高円寺は吐き捨てるように鼻で笑った。
「このクラスが運良くこれまでAクラスの座に留まっていられたのは、君たち下々が団結したからかね?…違うだろう。すべては綾小路ボーイのおかげだ。彼という圧倒的な個が存在したからに過ぎない」
堀北の表情がぴくりと強張る。高円寺の言葉は今の堀北にとって最も触れられたくない痛恨の事実を鋭く突いていた。
「君がどれほどリーダーの真似事をしようと自由だがね、私をそのおままごとに巻き込まないでくれたまえ」
高円寺は堀北の存在など最初から歯牙にもかけていないといった様子で、彼女の脇を悠々とすり抜け、そのまま教室を後にした。残された堀北は、握りしめた拳を震わせながらただその背中を見送るしかなかった。
俺は自席でカバンから教科書を取り出す。今のクラスは堀北の焦りと空回りそして周りの無力感が重なり合って、まさに崩壊寸前の状態だ。だが――それ以上に俺の脳裏から離れないのは茶柱先生が去り際に残した言葉だった。
『試験の詳細発表までの期間、お前たちは学生らしい行動を心がけるように』
増減するクラスポイントは1位から4位まで設定されている。にもかかわらず、肝心の試験内容は「1週間後」まで明かされない。普通に考えれば、ただの準備期間……わざわざ「学生らしい行動」と釘を刺したこと。そして試験自体は「明日から」スタートしていると明言されたこと。
この1週間の何かが、すでに採点対象に入ってるんじゃないのか……?
例えば......生活態度。遅刻、欠席、授業態度、廊下の歩き方、あるいは他クラスとのトラブル。そういった「学生としての素行」が裏でカウントされていて、1週間後に集計結果として発表されるのではないか。
いや、考えすぎかもしれない。そもそも確証は何もない。単にフロムゲーのやり過ぎで俺の深読み癖が出ているだけかもしれないし、もしこれを堀北に伝えたところで「根拠もないのにクラスを惑わさないで」と一蹴されるか、パニックを助長するだけだろう。
「はぁ……」
胃のあたりにズキリとした軽い痛みが走り、俺はそっとポケットの中の胃薬を指先で確かめた。もし俺の直感が当たっているとしたら....高円寺は最大の壁になる。あいつに「クラスのために真面目にしろ」と説得したところで、爽やかにスルーされるのが目に見えている。言えば聞くような奴なら、そもそも誰も苦労しない。
「今は何もしない方が賢明かもな」
俺は小さく息を吐き出し、ブレザーのポケットから胃薬の包みをひとつ、誰にも気づかれないよう手のひらに滑り込ませた。これから始まる一週間、一体どれだけの胃薬が露と消えることになるのか。波乱の予感しかしない特別試験の開幕に俺は心の中でそっと合掌するのだった。
突然だが、みんなは代理或いは代行という言葉から何を想像するだろうか?
漫画やアニメ、ゲームの世界なら、決闘代理人だったり、死神代行だったり、東城会二代目会長代行だったりと、どこか凄みのあるカッコいいキャラクターや重要なポジションを思い浮かべる人が多いかもしれない。
ちなみにこの二つの違いを気になって調べたことがあるのだが、どうやら大きな違いは『意思決定をする権限があるかどうか』らしい。代理には自分の判断で物事を決定する権限があるが、代行はあくまで本来の権限者の指示や決定に基づいて実務を代わって行う存在……ということになるらしい。
……まあ、そんな豆知識はどうでもいいんだ。現実における代理や代行なんてものは言葉の響きほどスタイリッシュなものじゃない。実際のところは、どっちに転んでもただただ面倒な役割でしかないのだ。
なぜって?
俺が現在進行形でその『代行』という名の底無し沼に足を取られ不条理な雑用に追われているからだ。
「……」
俺は生徒会室の隅で積み上げられた資料の山と格闘しながら、本日何度目になるか分からない溜め息をついた、特別試験に向けたクラス内の対策を講じたい堀北だったが彼女は今、生徒会長としての膨大な激務にも追われていた。クラスのリーダーとしての苦悩と学校全体の生徒を束ねる生徒会長としての責任。その二足の草鞋を履いて必死に踏ん張っている彼女の苦労は理解できる。理解はできるのだが――
「……なんで俺がここにいて、こんな作業をしてるんだろうな、マジで」
ポツリと漏れ出た独り言は、むなしく生徒会室の静寂に消えていく。今回の案件は新1年生の草薙湊と牧悠真で起きたという暴力事件の審議。つい先ほど2人の主張を3人で聞いてみたが終始男共の醜い言い争いで面倒だった。生徒会室の奥では堀北と書記を務める2年生の七瀬翼が険しい表情で書類に向き合っている。
……で、だ。
問題は、なぜ生徒会役員でも何でもない、ただの一般生徒である俺が、ここで『生徒会庶務代行』などという都合のいい肩書(というか実質的な雑用係)を着せられて作業させられているのか。
理由はいたってシンプルで生徒会が直面している「絶望的な人手不足」のせいだ。新学期早々のゴタゴタや季節の変わり目もあり体調不良者が多く出てしまい、ただでさえ通常業務に支障が出てるのに、そこへタイミング悪く1年生の暴力事件が発生し、膨大な報告書や過去の裁定データ、関係生徒の生活指導記録の整理といった雑務が一気に溢れかえってしまったのだ。
生徒会の仕事量が完全にキャパシティを超え、猫の手も喉から手が出るほど欲しい状態だった堀北の高性能レーダーに、たまたま放課後ヒマそうに(そして俺の胃痛の悩みの種どもの視線から逃れるように)ブラブラしていた俺が引っかかってしまったというわけだ。
一応、パソコンの基本操作ができること特定の派閥に肩入れせず口が堅そうな「無害な人物」であること――そして何より、断り切れなさそうな顔をしていた俺の空気感を堀北が見逃さなかったのが決め手だろう。因みに、生徒会役員でも何でも無い俺が生徒会の内部業務に触れるのはコンプラ的に問題なのでは?と一瞬頭をよぎったのだが、
『本来なら外部の生徒に頼むべきではないのは分かっているわ。けど……今はいつも以上に役員の手が足りていないの。それに、生徒会長である私が責任を持ってあなたを指名・管理する形を取るし、先生にも了承は取ってあるわ。何か問題があれば全て私の責任だから、安心して作業に専念して欲しいの』
……という、ありがたいが、ちっともありがたくもない生徒会長様からのお墨付きを貰ってしまったからだ。責任を取ると言われても、トラブルに巻き込まれて胃痛を起こすのは他ならぬ俺自身なのだから何の慰めにもならない。
「和泉君。本当に申し訳ないわ.....本来ならあなたに頼むような仕事ではないのだけれど……」
書類から目を離した堀北が、本当に珍しくどこか申し訳なさそうな罪悪感を滲ませた表情でこちらを見てきた。あの堀北がこんな顔をするくらいには生徒会も窮地に陥っているらしい。
しかし、女子に頼りにされるのは男としては、まぁ....良いものだ。
「別に減るもんじゃないし……ただ、これ終わったらメシ奢ってくれ」
「ええ、それくらいでいいなら喜んで払うわ」
俺が半目で答えると堀北は少しだけ安堵したように息を吐き、再び1年生の暴力事件の審議資料へと視線を戻した。
「和泉先輩、お茶をどうぞ。お手伝いいただき、ありがとうございます」
トレイに乗せた温かいお茶を運んできてくれたのは書記の七瀬だった。
「助かる七瀬」
「いえ、感謝しなければいけないのはこちらの方です。和泉先輩が庶務を引き受けてくださるおかげで、私と堀北先輩は審議に集中できていますから」
七瀬はまっすぐで澄んだ瞳で俺を見つめ、丁寧におじぎをした。一応、俺と七瀬は一年前のパートナー試験の出来事を通して顔見知り……ちょっとした知り合いの関係だ。彼女の真面目で礼儀正しい性格は知っているし、綾小路の周りにいる人間にしては毒気がなく関わりやすい部類に入る。ただし宝泉テメーはダメだ。
「にしても、アイツらどっちもどっちだったな」
俺がお茶を一口すすりながら呟くと、七瀬は少し表情を曇らせた。
「はい……当事者同士の主張が食い違っておりますし、大変です」
「新学期早々、荒れてんな……」
俺たちが一年生の時も須藤が龍園クラスの連中と問題を起こしてたよな.....喉元まで出かかった昔話を呑み込む。堀北の表情をみるとおんなじ事を思っていたらしい。
1年だの2年だの、この学校はどこに行ってもトラブルと怪物だらけだな。生徒会長として毅然と振る舞う堀北、それを懸命にサポートする七瀬、そしてなぜかその横でデータ入力と書類のホチキス留めと整理に勤しむ俺。
一通り出来るといってもブラインドタッチなんて出来る訳がない。キーボードを目で追いながら、ミスしない様になるべく早く終わらせようと画面に向き合う。あまりにも不条理で妙な組み合わせだが、怪しい腹の探り合いがない分、まだマシなのかもしれない。俺は胃の中の温かいお茶の感覚を噛み締めながら、目の前の資料の山へと再び手を伸ばした。
これで入力データは終わり...!
エンターキーを強めに叩き、カチカチとマウスを動かしてファイルを保存する。キーボードを目で追いながら打っていたせいで、両手の指先が妙に疲れている。
普段のゲームのコントローラーさばきならどれだけ複雑なコンボでも一瞬で入力できるというのに、お堅い事務作業の前には俺は無力だった。画面から目を離してガチガチになった肩を回すと、いつの間にか生徒会室の窓の外はすっかり暗くなり、ケヤキモールの街灯が夜の闇に浮かび上がっていた。
「……和泉君。進捗はどうかしら?」
部屋の奥から、資料の束を抱えた堀北が歩み寄ってきた。いつになく疲弊した表情を隠しきれていないが、その目にはどこか安堵の色が浮かんでいる。
「言われた分のデータ入力と、過去の類似事例の裁定ファイルの紐付けは全部終わったぞ」
「……お疲れ様、和泉くん。本当に助かったわ。あなたがいてくれなかったら、今夜の作業は間違いなく日付を跨いでいたでしょうね」
資料の束からようやく顔を上げた堀北が、疲労の色を隠せないながらも、まっすぐに俺を見据えて労いの言葉をかけてきた。その表情にはいつものトゲが無く純粋な感謝の色が滲んでいる。
「いや、マジで疲れた……肩も腰もバキバキだぞ」
「ええ、あしたご飯を奢るわ。好きなのを頼んで構わないから」
珍しく太っ腹な発言をする生徒会長様に、俺は思わず苦笑を漏らす。
「和泉先輩、本当にお疲れ様でした。先輩が手伝ってくださったお陰で、1年生の暴力事件に関する資料の一次整理もここまで進めることができました」
空になったお茶のトレイをまとめながら、七瀬が柔らかく微笑みかけてきた。その清楚で真摯な態度に、ささくれ立っていた胃の腑が少しだけ癒やされる気がする。
「七瀬も大変だな……まあ、新学期早々いろんなところでボロが出てて香ばしい学年だな」
「そうですね……でも、先輩方のようにしっかりとした人がいれば、きっと乗り越えられるはずです」
一通り片付けを終え、俺たちは生徒会室を後にした。 重い扉が閉まり、静まり返った廊下に一歩出ると夜のひんやりとした空気が火照った肌に心地よく染み入る。
帰り道、立ち寄った自販機の前で堀北は『マウンテンデュー』のボタンを押し、ガトンと落ちてきた缶を俺に手渡してくれた。
「とりあえず、今日のお礼よ。ご飯の件は明日辺りでいいかしら?」
「おぉ....助かる」
缶を貰った俺はプルタブをプシュッと威勢よく開けた。勢いよく弾ける炭酸の音とともに、緑色の缶から独特の甘い香りが漂う。そのまま口をつけて一気に流し込むと、人工的な甘さと強めの炭酸が、疲労した喉と体に染み渡っていく。
パソコン作業で死にかけてた脳みそが生き返る……炭酸の刺激を噛み締めながら息を吐き出す俺を堀北はどこか呆れたような、珍しいものを見るような目で見つめていた。
「本当にそれが好きなのね」
「少なくともブラックコーヒーなんかよりは好みの味だ。疲れた身体にはこの炭酸が一番効くんだよ」
「あなたが満足しているならそれでいいけれど……身体には気をつけなさい。そんな炭酸ばかり飲んでいると胃だけじゃなくて全身の健康を害するわよ」
「余計なお世話だ。俺の胃袋はすでに胃薬とマウンテンデューで奇跡的なバランスを保ってんだからな」
缶を片手にマジトーンで言うと、堀北は「……まったく」と小さく呆れ溜め息をついた。だが、その表情はいつものトゲトゲしさが薄れ、心なしか柔らかい。
「和泉くん、今日は本当にありがとう。また明日学校で」
「あぁ……また明日」
夜の冷えた空気を突いてひらひらと手を振り、俺は堀北と別れた。
炭酸の刺激で目を覚まさせながら、俺はふと明日からの日々を思い返す。 「学生らしい行動を心がけるように」という茶柱先生の不吉な忠告。そして、この1週間の素行がそのまま特別試験の採点対象になっているかもしれないという無視できない予感。今のクラスの連中がこの1週間、大人しく真面目に過ごせるビジョンがまだ浮かび上がるが、最大の地雷は高円寺がいつも通りに生活した場合だ。
まず間違いなく詰む。本当にどうしたもんか...
「……考えても胃が痛くなるだけか」
手の中にある緑色の缶を握り直し俺は最後に残ったマウンテンデューを一気に喉へと流し込んだ。強烈な甘みと炭酸が、さっきまでの鬱屈とした思考を強引に洗い流していく。
どうせ明日になれば、また想定外のトラブルと胃痛がセットで襲ってくるのだ。なら、今はこの束の間の静けさに浸り嵐の前の平穏を噛み締めておくのが一番の賢いの生き方だろう。俺は空になった缶をゴミ箱へ放り投げると、夜風に背中を押されるようにして、静まり返った寮への道を歩き出した。