生徒会室での怒涛の事務作業を終え、堀北から勝ち取ったマウンテンデューを胃袋に流し込んでから数時間が経った。
夜の静けさが深まる自室で俺は机に向かい、いつものように授業の復習と予習に取り組んでいた。スタンドライトの橙色の光が、ノートの上に綺麗に並んだ文字を照らし出している。
中学の頃なら学校の宿題こそ最低限こなしていたものの、自分から進んで机に向かい予習や復習なんて真面目にした記憶なんてさっぱりない。よく親や教師から「毎日家で2〜3時間かは勉強しなさい」とか「日々の積み重ねが将来を決める」なんて口酸っぱく言われていたが、あれを真に受けて律儀に守っていた奴がクラスに何人いたんだろうか?
少なくとも俺の周りには一人もいなかったし、俺自身、定期テストの数日前に一夜漬けをするタイプの典型的な不真面目生徒だった。ぶっちゃけ高育の受験の時も学校とか塾とかでは一応真面目に勉強したつもりだが、家では自室のベッドに寝転がってスマホばっかいじってた記憶しかない。
ゲームの攻略サイトを眺めたり、動画をダラダラ見たりして過ごすのが日常茶飯事だった。よく受かったな俺、と今でも自分の運の良さに呆れることがある。
しかし――この高度育成高等学校において、その甘えは明確な死を意味する。
なにしろ、定期テストでたった一つでも赤点を取れば、その瞬間に即退学という容赦のない無慈悲な仕様だ。救済措置などという生ぬるい言葉は存在せず、容赦なく学校の敷地外へと放り出される。中学時代と同じノリで「まあテスト前日にちょっと詰め込めばいいか」なんて高を括っていたら、速攻でゲームオーバーの画面を拝むハメになる。
一応、救済措置として2000万プライベートポイントと300クラスポイントを支払えば退学を取り消せるという規約は存在する。だが、個人で2000万なんて天文学的な数値を貯め込むのは現実的に不可能だし、クラスポイントを300も吐き出してまで一般生徒の一人を救ってくれるお人好しなクラスなんてどこにも存在しない。実質的に、救済なんてものは絵に描いた餅であり、赤点=一発アウトのデスゲームなのだ。
この学校のテストは素の地頭だけでなく「日常的な対策」を怠った人間から順に脱落していくように出来ている。ましてや、今の俺たちは最高学年である三年生だ。ここまで二年間、数々の過酷な特別試験や泥沼のクラス間抗争を胃をキリキリ痛めて生き残っておきながら、定期テストで赤点を取ってあっけなく退学……なんてことになったら、目も当てられないし笑い話にもなりやしない。
クラスの連中からも、他クラスの怪物どもからも「何しに来たんだあいつは」「最後にあっさり自爆した間抜け」と永遠にネタにされるだろう。そんな格好悪すぎる最後だけは死んでも御免だ。
「ふぅ……」
シャーペンを一度置き、凝り固まった首を左右に回すと、ゴキリと嫌な音が部屋に響いた。特別試験の重圧、高円寺というクラスの不確定要素、そして堀北から持ち込まれる面倒な雑用や他クラスからの探り――胃を痛めつける種なら、この学校のあちこちに嫌というほど転がっている。だが、少なくとも「自分の勉強不足」という完全な自己責任のミスで退学になることだけは、絶対に避けなければならない。
自分の不注意で平穏な生活をフイにするなんて、俺のポリシーが絶対に許さないのだ。
「無傷で卒業する」という最終目標を胸に刻み直し、俺は再びシャーペンを握り直し、静寂の中へと意識を没入させていこうとしたその時だった。
ピロン、とスマホが短い通知音を奏でた。嫌な予感しかしない手つきで画面を覗き込むと、差出人は案の定「堀北鈴音」だった。
『今すぐ須藤くんの部屋に来てちょうだい。特別試験のルールに関する重要な話があるわ』
「……へ?」
俺は思わず天井に向かって声を漏らした。さっき生徒会室でマウンテンデューを奢ってもらって「本日の労働は終了」となったはずだろ。なんで須藤の部屋へ連行されなきゃならんのだ。胸の奥から急速に込み上げてくる酸っぱい感覚を覚えサイドテーブルの上に置いてある胃薬のパッケージを恨めしそうに睨みつけた。
俺は重い腰を上げ制服を着な直し、念のために胃薬の包みを二つポケットに突っ込んでから部屋を出た。
◇
須藤の部屋の前に着き、観念してインターフォンを押す。ガチャリと音を立てて扉が開くと、そこには堀北と、なぜかメガネをかけた制服姿の須藤、そして運動神経抜群の女子・小野寺の三人が揃っていた。意外にも須藤のメガネは似合ってる。
「……遅かったわね、和泉くん」
「呼び出されてからまだ5分も経ってねぇよ。というか……この妙な組み合わせは?」
俺が不審なものを見る目を向けると、須藤が少し気まずそうに頭を掻きながら横に退いた。
「おう、和泉。夜遅くにすまねぇな……まあ、中入れよ」
「あぁ、お邪魔します……」
部屋に足を踏み入れ静かにドアを閉める。 部屋の中中央にはローテーブルが置かれ、ノートやシャープペンが広げられていた。どうやら須藤と小野寺は二人で勉強会をしていたらしい。
「で?こんな夜中に呼び出した理由はなんだ? 俺の胃の耐久値を削る以外の目的があるんだろ?」
俺が半目で堀北を牽制すると、堀北はいつになく真剣で、どこか冴えた瞳を俺に向けてきた。
「冗談を言っている余裕はないわ和泉くん……明日から始まる特別試験について、その『ルール』の正体に辿り着いたかもしれないの」
「ルール……?」
堀北の言葉に、俺はポケットの中の胃薬を無意識に指先で弄んだ。
「ええ。あなたにはその可能性を検証し、戦略を確定させるための参謀として立ち会ってもらいたいの」
参謀って……須藤と小野寺の視線が一斉に俺へと注がれる。 またしても面倒な政治と戦略の渦中に引きずり込まれたことを確信する。
堀北が説明するには、今回の特別試験は俺が朝から予感していた通り、『普段の生活態度や学生としての素行』が評価される可能性が極めて高いということだった。
「確かに……『学生らしい生活』というお題なら、それは辻褄が合うな」
一通りの議論を経て話はまとまったが、俺達はある「最後にして最大のウィークポイント」が存在することに思い至る。高円寺だ。アイツにも「学生らしい生活」をしてもらわなければ、この試験でクラスが壊滅的な打撃を受けるのは確実だ。そういうわけで堀北はすぐさま高円寺の部屋へと向かうことを決めた、須藤を供に連れて。
「じゃ、俺は小野寺と留守番してるから任せた」
即座に離脱を図り、安全圏へ逃げ込もうとした俺だったが、その断りに待ったをかけたのは意外にも須藤だった。
「和泉、お前も来いよ」
「……なんでだ?」
「お前も運動はかなり出来る方だろ? 高円寺のヤツ、万が一暴れ出したり話を聞かなかったりした時、俺一人よりお前がいた方が力押しでも牽制になるしな」
身体能力の項目で最高評価のA+を叩き出している男に「お前も運動が出来るから」と言われましてもねぇ……とはいえ、ここで下手に「いや俺は運動なんて全然」と不自然に拒否すれば、かえって須藤たちの疑念を深めることになりかねない。何より余計な押し問答で時間を食う方が面倒だ。
「……分かった」
こうして俺たち3人は小野寺に部屋の留守番を頼み、クラス最大の特級呪物――高円寺の部屋へと向かったのだった。
そして目的の部屋――高円寺六助の部屋の前へと辿り着いた。
「嫌な予感しかしないな」
俺の小声での呟きに隣の須藤も「同感だぜ」とでも言いたげな苦笑いを浮かべた。覚悟を決めた堀北が、凛とした手つきでインターホンを押す。
ピンポーン。
電子音が静かな廊下に響き渡る。だが、室内からは何の応答も戻ってこない。居留守か、あるいは俺たちの存在すら眼中にないのか。
「……次は和泉くんがやってみて」
「分かった....」
堀北にバトンを渡され、俺は半目でインターホンのボタンを押し込んだ。
ピンポーン。
「高円寺―開けろー。頼むから出てきてくれー」
俺の脱力した呼びかけも分厚いドアの向こうには虚しく届かないようだ。
「チッ、埒が明かねぇな。おい高円寺! いんだろ!」
痺れを切らした須藤が、拳でドアを「トントン、トン!」と勢いよく3回叩く。
すると――ガチャリ、と重厚な鍵の開く音が響いた。
「フッ……やあ堀北ガール、それにボーイ達。こんな夜更けに僕の美貌を拝みに来たのかい?」
現れたのは、優雅にバスローブを羽織り、濡れた髪を軽く撫で上げている高円寺六助だった。相変わらず浮世離れした存在感とナルシシズムだ。見ているだけで胃のあたりがズキリと痛む。堀北は高円寺の態度に眉をひそめることもなく、まっすぐにその瞳を見据えた。
「単刀直入に言うわ、高円寺くん。明日からの1週間、あなたには『真面目な学生』として生活してほしいの」
特別試験のルールに関する考察、そしてクラス全体の点数が奴の行動一つで左右される可能性を、堀北は簡潔に説明した。
「だからこそ、あなたにも協力を求めたい。もし1週間、授業への遅刻や欠席、問題行動を一切起こさず真面目に過ごしてくれるなら……報酬として20万プライベートポイントを支払うわ」
20万ポイント。高校生が1週間おとなしく過ごす対価としては破格すぎる提示だ。これで手を打ってくれれば……と祈る俺の横で高円寺はくすくすと不敵に笑った。
「フッ、甘いね堀北ガール。私の貴重な1週間を拘束しておいて、たったの20万ポイントかい? 提示額が美しさにまるで見合っていないね」
「……なんですって?」
「見返りとしては、そうだね……プライス50万プライベートポイント。それなら考えてあげてもいい」
「ご、50万……!?」
須藤が目を剥き出しにして声を上げた。俺も思わずポケットの中の胃薬を強く握りしめる。1週間おとなしくするだけで50万ポイント。足元を見ているなんてレベルじゃない、完全なふっかけだ。
さすがの堀北も額の多さに一瞬面を食らい言葉を詰まらせた。個人の負担にするにしたって50万はあまりにも重い。俺がハラハラしながら二人を見守っていると、堀北は深々と一つ息を吐き出し、覚悟を決めた強い眼差しで高円寺を見返した。
「……分かったわ。50万ポイント、支払うわ。私の自腹でね」
「鈴音、本気かよ!?」
須藤が驚愕の声を上げるが堀北の決意は揺るがなかった。クラスの勝利、そしてAクラス昇格という目標のためなら、己の身を削ることも辞さないという凄絶な覚悟。高円寺はそんな堀北の表情を楽しそうに眺めると満足げに口元を歪めた。
「フッ……いい度胸だ堀北ガール。契約成立としようじゃないか。私の完璧な『学生生活』を楽しみにしておくといい」
そう言い残すと高円寺はバタンと容赦なくドアを閉めた。残された廊下の静寂の中、俺は額の汗を拭い重い溜め息を吐き出し、明日から始まる地獄の1週間を思い浮かべ、俺は逃れられない胃痛の予感にそっと胸を押さえるのだった。
翌日の放課後。高円寺との破格の契約が交わされた翌日ということもあり、俺の胃袋は朝から一刻の猶予もないほどキリキリと痛み続けていた。そんな俺のコンディションなど知る由もなく、廊下の端で俺を待ち伏せていたのは須藤だった。
「和泉。ちょっといいか……?」
周りを警戒するようにコソコソと声をかけてくる須藤。その表情はいつになく真剣で、どこか焦色を帯びている。俺はポケットの胃薬を弄びながらも応じる。
「なんだよ須藤。俺はこれからマウンテンデュー買って速やかに自室へ避難する予定なんだが……」
「頼む、ちょっとだけ付き合えって! ……鈴音のことなんだよ」
「……堀北の?」
須藤は周囲に人がいないことを再確認すると、声をひそめて俺に詰め寄ってきた。昨夜、高円寺の部屋の前で繰り広げられた『50万プライベートポイント契約』の件だ。
「昨日のアレ……やっぱどう考えたっておかしいだろ! たった1週間大人しくさせるためだけに、鈴音ひとりに50万も負担させるなんてよ……!」
拳をぎゅっと握りしめる須藤。その瞳には、クラスのリーダーに対する心配以上の――ひとりの女子としての堀北を想う、一途で熱い感情が滲み出ていた。まあ……須藤が堀北に惚れてるのはクラスの間じゃオープン・シークレットみたいなものだ。
「気持ちは分からんでもないが、堀北自身が『自分の自腹で払う』って納得して決めたことだろ。俺たちが口を挟む余地は……」
「だからって、あいつにばっか重荷背負わせたくねぇんだよ!」
須藤は食ってかかるように俺の言葉を遮った。その背中を押しているのは、男としての意地と、好きな女子の負担を少しでも減らしたいという純粋な恋心だ。
「和泉、お前は頭いいだろ……なんとかあの50万ポイント、俺たちで分担して回収するなり、クラスのポイントから補填させる方法はないのか!?」
「俺にそれ聞くか……?」
須藤の純情な想い自体は悪くないし、男としてカッコいいとは思う。だが、それとこれとは話が別だ。一瞬頭に「ん、銀行を襲う」なんて砂の狼が言いそうな答えが出たが無視する。高育は生徒間同士での合意に基づき、プライベートポイントを賭けるよう事は校則の盲点をつく形で事実上黙認されている。要するにギャンブルで金を稼ぐという手段も一応存在はする。
しかしそれは、あまりにも現実的ではない。俺も以前、何度か小遣い稼ぎ程度の勝負に手を出したことはあるが、どれだけ運と引き際を見極めても最大で稼げて10万いくかいかないか、が関の山。
50万なんて短期間で叩き出すのは完全に夢のまた夢だし、負けた時のリスクがあまりにもデカすぎる。それに、もし俺たちが裏で怪しい賭け事に手を染めているなんて堀北に知られたら、ポイントを回収するどころか怒髪天を突いた彼女に即座に処刑されるのが目に見えている。
「いいか須藤。落ち着いて聞け」
俺はマジトーンになり、言葉を選びながら言い聞かせた。
「まず、あの50万は『堀北が高円寺を従わせるために個人的に切ったカード』だ。もし今、下手にクラス全体からポイントを集めようと集金に動いたらどうなる? 『なんで高円寺一人のために俺たちがポイント払わなきゃいけないんだ』って、クラス内で暴動が起きるぞ。そうなったら特別試験の採点どころじゃなくなる」
「それは……くそっ、でもよ……!」
「それにだ。アイツのプライドを考えろ」
俺の言葉に、須藤の身体がピクッと跳ねた。
「鈴音の....?」
「堀北はクラスのリーダーとして、自分の覚悟を示すために自腹を切ると言ったんだ。そこへ俺たちが勝手に『可哀想だからみんなで回収してやろう』なんて手を出してみろ。堀北がそれを喜ぶと思うか?」
「っ……」
ぐうの音も出ないといった様子で、須藤が言葉を詰まらせる。堀北の生真面目で勝ち気な性格を誰よりも近くで見ている須藤だからこそ、俺の言わんとしていることが痛いほど理解できたのだろう。
「絶対怒るな.....『余計なお世話だ』って一蹴されて終わりだ……」
「だろ? 堀北の負担を減らしたいっていうお前の気持ちは立派だし、俺も男としてかっこいいとは思う。けど、今は下手に動いて波風を立てない方がいい」
俺がそういうと、須藤はガシガシと頭を掻きむしり、大きな溜め息を吐き出した。
「ハァーーッ! くそっ、分かったよ! 和泉の言う通りだ……お前の言うことは正論すぎてぐうの音も出ねぇ」
「納得してくれたなら何よりだ。俺の胃の寿命も少し延びた」
「……けどよ」
須藤は少し視線を落とした後、真剣な顔で俺を見つめ直してきた。
「50万ポイントは無理でも、鈴音がこれ以上一人で潰れそうになったら……その時はまた相談乗れよな、和泉。お前の頭脳が頼りになることは間違いねぇからよ」
「……クラスの一員としてやるべき事はやる」
「へっ、素直じゃねぇな」
どこかすっきりした顔で背中を向けて去っていく須藤。その力強い背中を見送りながら、俺は――惚れた女子のために不器用ながらも真っ直ぐ本気で動こうとするアイツの姿に本気で敬意を抱いていた。直視したら目が潰れそうになるくらい、今の須藤は男として格好いい。
誰かのために泥をかぶり、傷つくことを恐れずに前へ進む情熱。かつての暴れ馬だった面影を残しつつも、堀北のために自分を変えようと必死にあがく姿は間違いなく主人公のそれだ。一年生の時のあの荒削りで感情的だった頃と比べて、肉体的にも精神的にも見違えるほど大きく成長している。「人は変われるか?」という永遠のテーマに対して疑問を抱く奴がいたとしても、今の須藤を見せつければ「ああ、人は変われるんだな」と納得する人間の方が間違いなく増えるだろう。
ひるがえって、自分はどうだ?自分の保身ばかりを優先し、胃を痛めながら胃薬とマウンテンデューで必死に胃壁を補強し陰でコソコソとトラブルから逃げ回ることばかり考えている卑屈な俺。自分を「ただの一般生徒」だと偽り、他人の持っている熱量から一歩引いた安全圏でしか息ができない、救いようのない半端者。
「……ほんと嫌になるな」
須藤のような眩しい光を持てるわけでもなく、かといって綾小路たちのように完全に冷徹な怪物になりきれるわけでもない。そんな己の根深い卑屈さと中途半端さに、口の中で自嘲の笑みが漏れた。須藤が放つ光が強くなればなるほど、その足元にぽっかりと伸びる俺自身の泥くさい陰の暗さが嫌でも際立ってしまう。
まぁ.....主役には主役の華々しい戦場があって日陰者には日陰者らしい泥臭い役割ってのがあるだろう。自分には須藤のような眩しさは逆立ちしても手に入らない。なら日陰者なりに、この影の場所からアイツや堀北、軽井沢が倒れないための下地くらいは作ってやるしかないのだ。
俺は静かに廊下を歩き出す。特別試験という名の戦場で己の泥臭い役目を全うするために。
みなさんは中学生の時に毎日勉強してましたか?私は.......してましたよ?(震え声)