須藤と別れた後、俺は図書室へと向かっていた。返却期限を迎えた小説を返すためだ。
高度育成高等学校の図書館は、およそ高校の施設とは思えないほど無駄に広い。学術書から専門書、文芸誌に至るまで莫大な蔵書数を誇っているが当然のようにライトノベルの棚も充実している。
俺がここに足を運ぶ理由の7割はそのラノベを借りるためだ。一応ちゃんとしたモノも借りるからね? 今回返却しにきた本は西野圭吾さんの書いたミステリー小説だ。俺はこの人の本をちょくちょく借りて読んでいる。
そして残りの3割は――最近になり輪をかけて荒れやすくなった胃を休めるため怪物たちの視線が届かない安全地帯として逃げ込むためである。静まり返った館内を進み、まずは日課のようにラノベコーナーを一通りチェックしてから、圭吾さんの作品が並ぶ棚へと向かう。目当てのシリーズの最新刊が棚に戻っているかを確認しようと手を伸ばした、その時だった。
「――おや?」
棚の反対側から、鈴が転がるような控えめな声が聞こえた。本の隙間から覗いた視線の先にいたのは、肩にかかる柔らかな髪と、清楚で浮世離れした雰囲気を纏った少女――Bクラスの椎名ひよりだった。彼女の手にも、俺が探していたのと同じ西野圭吾さんの作品の文庫本が握られている。
「和泉灼くん……でしたよね? あなたも、この作家さんがお好きなんですか?」
椎名はパッと表情を明るくすると図書室の静けさに配慮して声のトーンを落としたまま、嬉しそうに小首を傾げて問いかけてきた。よりによってBクラスの読書家と遭遇するとは......
一瞬、脳裏にCクラスへ移籍していったあの男――綾小路の影がよぎり胃の奥がキュッと縮み上がる。俺は椎名が読書仲間として綾小路と親しいのを以前見た事がある。目の前の椎名から発せられているのは他者を警戒させたり腹を探り合ったりするような刺々しい空気ではない。ただ純粋に「好きな本が同じ仲間を見つけた」という、無害で無垢な喜びだけだった。
「あ、あぁ……偶に借りて読んでるんだ」
「この棚の前で和泉くんをお見かけすることがあったので、もしかしたらと思っていました」
彼女はそっと本を胸に抱えながら、柔らかく目を細めた。
「静かで、素晴らしい物語に没頭できる……図書館は本当に良い場所ですよね」
「……そうだな。静かなのは助かる」
俺は心の中で「特に胃の健康のために」と深く頷きながら同意した。正体不明の特別試験や崩壊寸前のクラスの空気。そんな校内の喧騒から切り離された図書館の片隅で、俺は束の間の穏やかな時間を噛み締めていた。
「――そういえば、図書室で見かける和泉くんは、いつもどこか疲れている風に見えましたが……大丈夫ですか?」
椎名は少し首をかしげ、気遣うような優しい眼差しを俺に向けてくる。椎名にまで心配されてるのか俺。なんならその疲労と胃痛の大きな原因の一端は、貴女が読書仲間として仲良くしている綾小路の野郎なんですけどね、とは口が裂けても言えない。俺は自嘲気味に息を吐き出し、思わず愚痴のような言葉をこぼしてしまった。
「あぁ....一之瀬やら龍園やら、挙句の果てには綾小路やら、何故か厄介な面倒ごとばかりが俺の周りに降りかかってくるからな……」
言い終えてから「しまった」と思った。『綾小路』というその名前を口にした瞬間――椎名の表情が、ほんの少しだけ陰った。いつもの穏やかな微笑みが消え、胸に抱えた本をキュッと小さく握り締める。彼女の瞳の奥に過ったのは、落胆と寂しさが入り混じったような、どこか悲しげな色だった。
綾小路がCクラスへと移籍し、かつての読書仲間としての距離感が変わってしまったこと。そして、彼が持つ冷徹な側面やクラス移動の裏にある思惑……椎名もまた、彼という存在の変容に心を痛め葛藤を抱えている一人なのかもしれない。静まり返った図書室の棚の狭間で、俺たちはそれぞれの理由で『綾小路清隆』という男が落とした影を背負いながら、しばし言葉を失って佇んでいた。
「……あ、すまん。変なこと言って」
俺が気まずさに耐えかねて頭をかきながら謝ると、椎名はハッと小さく息を呑み、慌てていつもの穏やかな笑みを繕うように首を振った。
「いいえ……こちらこそ、すみません。和泉くんに変な気を使わせてしまいましたね」
彼女は胸の前の西野圭吾の文庫本をそっと抱え直すと、少しだけ遠い目をして呟いた。
「綾小路くんが……Cクラスに移籍されてから、以前のように本のお話をする機会も減ってしまって。龍園くんたちの動きもあって、なんだか校内全体が落ち着かない雰囲気になってしまいましたから……」
その声には、クラス間の争いや政治的な駆け引きに巻き込まれていくことへの寂しさと、どうしようもない諦めが滲んでいた。龍園の野郎が暴れまわってるBクラスで、純粋に本を愛する椎名みたいな存在は、ある意味一番煽りを受けてるのかもしれん。そして何より、Cクラスへ移籍してより底知れなくなった綾小路の存在。あの野郎が何を考えてクラスを動かしたのか椎名にとっても理解しがたい恐怖や寂しさがあるはずだ。
「……まあ、アイツの考えることは昔からサッパリ分からんしな。考えても胃が痛くなるだけだ」
俺が自虐混じりに胃のあたりを押さえて見せると、椎名は少し驚いたようにパチクリと目を叩き、それから「ふふっ」と小さく鈴を転がすように笑った。
「和泉くんは……本当におもしろい方ですね。みんなが警戒したり思い悩んだりしている中で、一番に『胃の心配』をなさるなんて」
「笑い事じゃない。俺の胃袋はいつ崩壊してもおかしくない危機的状況なんだからな」
「ごめんなさい。でも……和泉くんとお話しできて、少し胸のつかえが取れた気がします」
椎名は柔らかく目を細め、胸の前で大切そうに本をぎゅっと抱きしめた。
「本を愛する人に、悪い方はいませんから。和泉くんも……あまり無理をなさらないでくださいね?」
「……おう。サンキュ」
真っ直ぐで毒気のない言葉に、俺の荒みかけていた心が少しだけ解きほぐされるのを感じた。
椎名は「では、私はこれで」と小さくお辞儀をすると、静かな足取りで貸出カウンターの方へと歩いて行った。一人残されたラノベとミステリーの棚の前で、俺は手の中の本を見つめ、小さく息を吐き出した。校内中に張られた張りつめた糸と、怪物たちの思惑に俺はまた振り回されると思いながらも、目的の文庫本を棚から引き抜き、静寂の残る図書室を後にした。
そんな時、ポケットの中でスマホが短く震えた。画面を開くと、表示されていたのは堀北からのメッセージだった。昨日の生徒会業務のお礼兼「報酬」としてのご飯の打ち合わせだった。俺はケヤキモール内のレストランでご飯を奢ってもらうことにする。
タダ飯にありつけるのは至極ありがたい話なのだが……昨夜の高円寺への50万プライベートポイントの自腹支払いの現場を目撃し、その直後には須藤に対して「堀北のプライドを守れ」などと最もらしいことを偉そうに語った手前、今日のこの誘いは流石に少しばかり気まずかった。
自分の財布の心配をしている彼女の懐事情を思えば、ここで「やっぱり遠慮する」と身を引くのが大人の配慮というものだろう。だが、それを切り出そうとした瞬間、堀北のあの有無を言わせない凛とした眼差しを思い出してしまい、結局言い出せずじまいだった。俺は18時にファミレスで待ち合わせる事にし、それまでは適当に時間を潰し目的の時間が迫ると俺は移動する事にした。レストラン前で合流しテーブルに着く。
「本当にここで良かったのかしら?」
テーブルの向かい側でメニュー表から視線を上げた堀北が、少し意外そうに尋ねてきた。周囲を見渡せば放課後のケヤキモールは多くの生徒たちで賑わっている。女子生徒たちが楽しそうにおしゃべりをしていたり、カップルらしきペアが仲良く食事をしていたりと、華やかな雰囲気が漂う店だ。
俺が指定したのはイタリア料理のファミリーレストラン。特筆すべきはその圧倒的な安さだ。全品頼んでも3万前後で済み、1000円あれば十分に腹は満たされるほどで、中学の時も家族でよく利用していた。
「変に気取った高級店に行かれても緊張して味が分からなくなる」
半分は本当で半分は嘘だ。
本当に緊張して味が分からなくなるのは事実だが、もう一つの理由は単純に50万という大金を一人で背負い込んだ彼女の財布に、これ以上無駄なダメージを与えたくなかったからだ。もちろん、そんな気遣いを面と向かって伝えたところで「余計なお世話よ」と一蹴されるのがオチだろうから、口には出さないが。
俺は手元のメニューを指差しながら半目で答えた。
「あなたが納得しているなら何よりだわ。今日は遠慮なく好きなものを頼んで。生徒会での雑務を引き受けてくれたことへの正式なお礼なのだから」
「言ったな? 後で『やっぱり割り勘で』とか言い出しても撤回不可だからな」
「私は前言を翻すような真似はしないわ」
50万ポイントも自腹で切っといて、よくそんな堂々としていられるもんだ……
堀北は少し呆れたように、けれどどこか小さく口元を緩ませた。俺は自分のスマホでQRコードを読み取り、トマトパスタとフォカッチャ、それとドリンクバーを注文する。
注文を終え料理が運ばれてくるまでの間、俺は取ってきたジンジャーエールを一口すする。ガラスコップの冷たさが喉を通り、胃の中に心地よく収まっていく。本当ならマウンテンデューが飲みたかったが生憎この店のドリンクバーには用意されていない。そこだけが唯一の誤算だった。
「それにしても……あれ以降生徒会の方は少し落ち着いたのか?」
「ええ。あなたに入力してもらったデータと整理された過去の裁定記録のおかげで、1年生の暴力事件に関する一次審議は無事にまとまったわ。双方のクラスの担任にも共有を終えて、今は処分案の調整段階に入っているところよ」
「そりゃ何よりだ」
「本当に助かったわ、和泉くん。あの時、あなたが手伝ってくれなかったら、私は特別試験の対策どころか、審議の遅延で生徒会長としての信用を失っていたかもしれない……感謝しているわ、本当に」
いつになく素直で真摯な堀北の言葉。いつもは勝ち気で理屈っぽい彼女が、どこか柔らかい表情でまっすぐに感謝を伝えてくるものだから、こちらの方が少し気恥ずかしくなってしまう。
くっ....!普段ツンツンしてる女子にこういう顔で礼を言われると、男としては妙に調子が狂うな……俺は視線を明後日の方向へと逸らしながら頭をガリガリと掻いた。
「ま、まあ……減るもんじゃないしな。それに、こうやって美味い飯に化けたんだから、俺としては結果オーライだ」
「相変わらずね……でも、そういう裏表のない所は今のギスギスした状況においては貴重なのかもしれないわね」
堀北がくすりと笑ったそのタイミングで、「お待たせいたしました」と店員が湯気を立てる熱々の料理を運んできた。テーブルの上に香ばしいトマトとガーリックの香りが広がり、思わず腹が鳴りそうになる。
「よし、冷めないうちに頂くか」
「ええ、召し上がれ」
そう言った堀北の元にも、小エビのサラダと熱々のドリアが届いた。
「「いただきます」」
フォークとスプーンを手に取り、パスタをくるくると巻きつけて口に運ぶ。もちもちとした麺に濃厚なソースが絡み、ここ数日間の疲労とストレスが一気に吹き飛んでいくようだった。
「……美味い」
「良かったわね」
賑やかなレストランの喧騒の中、いつもなら泥沼のクラス間抗争や特別試験の探り合いに頭を悩ませている堀北と平穏を求める俺。ほんの束の間ではあるが、胃痛の種から解放された平和で穏やかな時間が、そこには流れている。
フォカッチャをちぎってパスタの残ったソースに浸し、口へと運ぶ。モチモチとした食感とトマトソースの酸味が絶妙で、思わず喉の奥から満足の吐息が漏れた。ふと視線を感じて前を向くと、堀北がドリアを小さくスプーンですくいながら、どこか興味深そうにこちらを見ていた。
「人の食い方に何か文句でもあるのか?」
「いいえ。ただ……本当に美味しそうに食べるのねと思って。普段クラスにいる時は、いつどこで胃痛を起こすか怯えているような顔ばかりしているから」
「余計なお世話だ。俺だって平和に美味いもん食ってる時くらいは普通にしてたいんだよ……というか、堀北こそ、そのドリア冷めないうちに食わないと固くなるぞ」
「あら、ご親切にどうも」
堀北は上品にドリアを口に運ぶと、熱そうにハフハフと吐息を漏らしながら咀嚼した。
「……確かに、美味しいわね。これほどのクオリティの料理がこの価格帯で提供されているのは費用面でも素晴らしいわ」
「だろ? フレンチとかイタリアンの気取ったコース料理なんかより、俺はこういうところで満足できる舌で良かったと思ってるよ。財布にも胃にも優しい」
「あなたらしいわね」
クスリと微笑む堀北。クラスを背負うリーダーとしての重圧、生徒会長としての多忙な日々。普段なら常にピンと張り詰めている彼女の肩の力が、ほんの少しだけ抜けているのが分かった。
……と、その時だった。
「――あれ? 堀北さんと……和泉くん?」
レストランの通路から、聞き覚えのある柔らかい声が降ってきた。
俺の身体が瞬時に凍りつく。フォカッチャを掴んでいた手がピタリと止まり、ゆっくりと声のした方へ視線を向けると――そこには、片手ににオレンジジュースを持った一之瀬帆波が、目を丸くしてこちらを見つめて立っていた。
胸の奥で、胃薬を告げる警告音が鳴り響く。
「あら、一之瀬さん。奇遇ね」
堀北は慌てる様子もなく至極自然にスプーンを置いて一之瀬に向き直る。だが俺の脳内では緊急アラートが鳴り響いていた。なんでここでBクラスのトップと遭遇するんだ....明日一之瀬に話しかけられるフラグ、まさに今ここで立っちゃってんじゃねぇか!!
「二人でご飯なんて珍しいね?」
一之瀬の視線が堀北から俺へ、そしてテーブルの上の料理へと滑るように移動する。その可憐な笑顔の奥で彼女の持ち前である鋭い洞察力がフル回転しているのが手に取るように分かった。完全に『堀北クラスの右腕候補と生徒会長の極秘会談』みたいな誤解をされかねん……!俺はジンジャーエールを飲み干し、喉の奥に広がる炭酸の刺激で無理やり動揺を抑え込むと、半目で答えた。
「一之瀬。誤解のないように言っておくが、これは単なる『慰労会』だ」
「ふふ、和泉くんったら。そんなに嫌そうにしなくてもいいのに」
なら、お前は自分の行いを一度振り返ろ!一之瀬はくすりと笑ったが、その瞳の奥にある観察眼は一瞬たりとも緩んでいなかった。
「堀北さん、試験前にあんまり和泉くんをいじめちゃダメだよ?」
「俺は堀北にいじめられた記憶はないぞ、一之瀬」
「彼の言う通り、いじめているつもりはないわ。正当な報酬を支払っているだけよ」
堀北もまた淡々とした態度で返す。二人の美少女の間で交わされる表面上は朗らかな、しかし水面下では高度な探り合いが混じる会話。その中心に挟まれた俺の胃袋は、先ほどまでの幸福感が嘘のようにギリギリと痛み始めていた。
ポケットの中の太田胃散の感触を指先で確かめながら、俺はこれから訪れるであろう波乱の予感に、心の中で激しく頭を抱える。
「……そっか。生徒会のお仕事、本当にお疲れ様」
一之瀬はふんわりと微笑みながら、手に持ったオレンジジュースのグラスを軽く掲げてみせた。
「堀北さんも、生徒会長として色々大変そうだけど……無理しすぎないでね。和泉くんみたいな頼れる人が近くにいてくれて、少し安心しちゃった」
一見するとただの心優しい同級生の気遣い。だが、その言葉に潜む「和泉くんみたいな頼れる人」というフレーズの重みを、俺は見逃さない。ただの労いじゃないな……堀北の側近として俺の存在をしっかりインプットしやがった……
「頼れてなんかねぇよ。ただの便利屋だ。というか、俺の頼れるポイントは『黙々と作業をこなせること』くらいなもんだからな」
俺は即座に自分の価値を底値まで暴落させるべく、ジンジャーエールの氷をカランと鳴らしながら不機嫌そうに付け加えた。
「そうかしら? 丁寧で正確な仕事ぶりだったわよ。まあ、本人がそう思いたいなら否定はしないけれど」
余計な一言を添えてくれる堀北。お前は、お願いだから今は黙ってくれ。胃の裏側がジリジリと焼け付くような感覚が強まっていく。一之瀬はそんな俺たちのやり取りを興味深そうに見つめた後、小さく「ふふっ」と胸の前で手を叩いた。
「うん、二人とも息がピッタリだね。邪魔しちゃってごめんね。私、友達が待ってるからもう行くね」
「ええ、またね、一之瀬さん」
一之瀬は軽やかに会釈をすると、レストランの奥へと歩き去っていった。その背中を見送りながら、俺はテーブルの上にガクッと力なく突っ伏した。
「……堀北。頼むからもう少し俺を『ただの使い走り』扱いしてくれ。あんな怪物に目をつけられたら胃が持たん」
「何を言っているの、事実を言ったまでよ。それに、彼女に警戒されたからといって、あなたが私に貸した労力が消えるわけではないわ」
「そういう冷酷なところは本当にブレないよな……」
突っ伏したまま片手でポケットを探り、胃薬の小袋を指先で弄ぶ。明日、一之瀬に廊下で呼び出され、「昨日言ってた生徒会のお手伝いの件だけど……」と探りを入れられる未来が、すでに確定演出として脳裏に浮かんでいた。
「……もう一食、奢ってもらわないと計算が合わねぇな」
「調子のいいことを言わないで。次はあなたが私にお返しをする番よ」
「鬼か」
運ばれてきた冷めかけのパスタを再びフォークで巻き取りながら、俺は明日から始まる怒涛の心理戦と特別試験に向けて、重い溜め息を吐き出すのだった。
フラグを立てたら結構面倒な事になる人物とフラグを立てるのが和泉クオリティー。