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昨日レストランで遭遇した一之瀬からの刺さるような視線と、高円寺というクラスの特級呪物。それらのプレッシャーが一気に押し寄せてきた結果、俺の胃袋は朝から壊滅的な打撃を受けていた。
「ハァ……」
俺は自販機で買ったマウンテンデューの缶を片手に人の少ない校舎裏のベンチへと避難していた。ポケットから取り出した胃薬の小袋を手の手のひらに滑り込ませ、緑色の缶のプルタブを起こす。プシュッという炭酸の抜ける音とともに、苦い粉末を口に放り込み、強烈な炭酸で一気に喉の奥へ流し込んだ。
胃薬とマウンテンデューが胃壁で混ざり合い、奇跡的な薬品反応を起こして痛みを和らげていく感覚。本当ならジュースで薬を飲むなんて事はしないが、また自販機に戻って水を買うのが面倒だった。
「生き返る……」
「胃薬を炭酸で流し込むなんて、お医者さんが見たら泣いちゃいそうな飲み方だね?」
「……っ!?」
不意に頭上から聞こえた爽やかな声に、俺は喉を鳴らして盛大にむせ返りそうになった。慌てて缶を口から離すと、そこには見慣れたDクラスのリーダー、一之瀬が両手を後ろで組みながら悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。
昼休みに一人で静かに胃を休めてる俺を狙い撃ちしてくるとか、どんな索敵能力してんだよ……!俺は速やかに胃薬の空き袋をポケットの奥深くに隠し、いつもの表情を作り上げた。
「……い、一之瀬か。こんな寂れた校舎裏に何の用だ?」
「ううん、別に用ってわけじゃないんだけどね。和泉くんが一人で歩いていくのが見えたから、昨日の続きを少し話したいなーって思って」
俺は微塵もお前と話したく無いんだが?
一之瀬は自販機で買ってきたらしき緑茶のペットボトルを揺らしながら、俺の隣にちょこんと腰掛けた。可憐なシャンプーの香りが鼻腔をくすぐるが俺の脳内警戒アラートは過去最大音量で鳴り響いている。
「和泉くんっていつもそれ買ってるよね?」
一之瀬は俺が手にしてるマウンテンデューを見つめた。確かに自販機で何か買うときは大抵これしか買ってない。ぶっちゃけ俺は中学生の頃はこれの味がよく分からず、自販機ではいつも隣に並んでるペプシコーラを買っていた。
しかし高育に入学し、ストレスで胃と精神を擦り減らす日々の中で試しに買ってみたら、飛ぶほど美味かった。味覚の変化というものだろうか、それとも極限状態の脳がジャンクな糖分と強炭酸を欲しているだけだろうか。
「そうだな...いつも買ってるかもしれん」
俺は素っ気なく返し、缶の口を指先で弄んだ。他愛のない会話に見えるが一之瀬帆波という女の会話が単なる「好きな飲み物の雑談」で終わるはずがない。事情を何も知らない普通の男子だったら、こんな至近距離で美少女に密着されて確実に意識のキャパシティーを超え無駄にドキドキしてしまうところだろう。
だが、俺の隣にいる女は綾小路にしか興味が無い。こうして俺の隣に親しげに腰掛け、探りを入れてくるのも純粋な好意などでは断じてないし、あり得ない。俺の周りで動く女子たちの情報、あるいはクラスの動向や内部事情を少しでも引き出すために、こうして接触してきているに過ぎないのだ。要するに利用できるものは何でも利用するってことである。本当に恐ろしい奴だ。
「昨日の続きって……『ただの雑用係』だって結論は出ただろ」
「和泉くんはそう言ってたけどね。でも、あの堀北さんがそこまで誰かに『正式なお礼』としてご飯を奢ったり、生徒会の仕事を任せたりするなんて、私はあんまり見たことないよ?」
一之瀬の瞳が、まっすぐに俺の横顔を射抜いてくる。その笑顔はどこまでも暖かく柔らかいのに、問いかけてくる内容は完全に探りそのものだ。
「堀北さんは今、生徒会長としてすごく忙しいはずだし、特別試験の対策だってある。そんな大切な時期に信頼できない人に生徒会の裁定データなんて触らせないと思うんだよね」
鋭すぎるだろ、この女……昨日レストランでほんの二、三分会話しただけで、堀北との距離感や俺がデータ処理に関わっていたことまで正確にトレースしてやがる。
「買いかぶりすぎだ」
俺はマウンテンデューの缶を弄びながら、できる限り脱力した声で溜め息をついてみせた。
「堀北が俺を使ったのは、単純に俺が『誰の派閥にも属してなくて口が硬い』からだ。それに、うちのクラスでPCの入力作業を文句言わずにこなすやつが他に愚直に思いつかなかっただけで俺はただの労働力で、お礼もアイツの生真面目さだ」
「……そっか。堀北さんの『生真面目さ』ね」
一之瀬は俺の回答を吟味するように呟いた。追撃の仕方がえぐい。こちらの逃げ道を一つずつ潰しながら、別の角度から揺さぶりをかけてくる。
「じゃあ、堀北さんがそこまで買ってる『口の硬さ』と『処理能力』を持つ和泉くんが、今の特別試験で『何の役割も与えられていない』なんてこと、本当にあり得るのかな?」
言葉の語尾に甘やかな響きを混ぜながらも、内容は「お前が特別試験のキーパーソンだろ」と王手をかけてきている。
一之瀬の瞳は、こちらの生体反応をすべてリアルタイムでスキャンするかのように、微細な動き一つ見逃さず捉えていた。無害で甘やかな微笑みの裏側で、彼女の脳内コンピューターは俺の発する微細なズレ――呼吸の乱れや眼球の揺れ――を冷徹に収集・分析している。
一之瀬の提示したロジックは極めて厄介だ。ここで下手に「与えられていない」と即答すれば、「嘘をついている」ああるいは「クラス内で軽視されている理由への矛盾」を突かれる。逆に「少しは手伝っている」と認めれば、一気に「堀北クラスの参謀」として確定枠に叩き込まれる。
こんなときどうするか?答えは.....
「発想が飛躍しすぎだろ。ラノベの読みすぎじゃないか?」
因みに俺はガッツリ読み過ぎの部類に入る。半目でじっと一之瀬を見つめ返し、顔面の全筋肉を完全に弛緩させた。動揺を隠すための「平常心」を作るのではない。「本気で呆れ返っている奴のダルさ」を全身から醸し出すのだ。
「本当に……?」
「本当だ。現に俺はクラスの戦略にも試験の対策にも一切タッチしてない。俺の望みは『無事に赤点を回避して、波風立てずに卒業すること』だけなんだからな」
残念ながら大嘘である。須藤の部屋で堀北や須藤、小野寺と共に特別試験のルールについて対策を講じたが、俺もガッツリ関わっている。だが、そんな思考の欠片すら表情に出すわけにはいかない。
「そっか。じゃあ和泉くん。最後に一つだけ質問させて?」
「……断っていいか?」
「別に構わないけど、質問を拒否されたっていう『事実』だけを持ち帰って、自分の中で答え合わせをするだけだよ?」
くそっ、逃げ道を完璧に塞ぎやがる!
「……分かった」
「綾小路くんのこと、どう思ってる?」
唐突に投げかけられたその名前に、俺の心臓が一瞬だけドクンと跳ねたが、俺は長年培ってきた「ポーカーフェイス」を死守した。目線も動かさず、呼吸も乱さず、ただ死んだような半目を一之瀬に向ける。
ここで動揺すれば、俺が「綾小路の裏の顔や実力を知っている側の人間」だと一之瀬に看破される。そうなれば最後、俺はコイツと綾小路の化かし合いの「情報源」として永久に引きずり回されることになる。
「綾小路? ……どう思ってるも何も、Cクラスに移籍した裏切り者だろ」
俺は努めて無関心に、クラスメイトの誰もが抱くであろう標準的な感情を口にした。
「元々は口数の少ない地味な奴だと思ってたが……まさか他クラスに即移籍するような大玉だとは思わなかった。堀北たちはショックだし、おかげでクラスは大混乱だ……正直、俺からすれば『これ以上クラスをかき乱して俺の胃を痛くさせるな』としか思わん」
実際はアイツが陰でやっていた事を引き継ぎなしで俺に強引に託しやがったクソ野郎という認識だ。
「……へぇ」
一之瀬は俺の目をじっと見つめたまま、数秒間の沈黙を作った。沈黙によるプレッシャーは相手に「何か言い足さなければ」という焦りを生ませ、口を滑らせるための典型的な取り調べの手法だ。
だが、俺は黙ってマウンテンデューを一口煽り無言で彼女の視線を受け流した。余計な情報は一字たりとも与えない。やがて、一之瀬は満足したように微笑みベンチから離れるも、俺の正面に立ち止まった。
「和泉くんの言葉には『嘘』がないね」
「……だから言ったろ。俺はただの一般生徒だ」
「ううん。『嘘』はないけど……『本当のこと』を半分しか喋ってないだけ」
一之瀬はペットボトルの蓋をキュッと締めると、可憐にスカートの裾を揺らして振り返った。
「綾小路くんを『裏切り者』って呼びながら、和泉くんの目には怒りも憎しみもなかった。あるのは……ただの『深い警戒心』だけ。和泉くんは、綾小路くんの『本当の怖さ』を知ってるんだね?」
「――ッ!」
「それにね、和泉くん」
立ち上がりかけた一之瀬が、ふと足を止めて振り返る。その瞳には隠しきれない観察者としての光が宿っていた。
「自分のことを『ただの一般生徒』って言いたがる人ほど、本当はすごく大きな力を持ってる……なんてこと、この学校ではよくあるから。私は和泉くんのこと、これからも注目させてもらうね?」
彼女がくるりと背を向け、去ろうとしたその瞬間――俺の口が勝手に動いていた。このまま引き下がるのが鉄則だ。だが、ここまで土足で俺の内面に踏み込まれて黙って逃がすのは、あまりにも腹の虫が収まらない。
要するに不愉快だ。
「じゃあ、俺からも質問させてくれ」
一之瀬は足を止め、少し驚いたように首を傾げて振り向いた。
「うん。なにかな?」
俺は手に持ったマウンテンデューの缶を強く握り締め心の中で胃薬のパッケージを念じながら、真っ直ぐに一之瀬の瞳を見据えた。
「お前にとって、綾小路はなんなんだ?」
今までクラスの絶対的リーダーとして仲間を愛し寄り添ってきた彼女。だが、今の彼女から漂うのは、かつての生ぬるい善意ではない。綾小路という異物を前にして変貌を遂げた、果てしない執着と底知れぬ影だ。
「私にとって、綾小路くんが何なのか……」
昼下がりの穏やかな光が彼女の綺麗な髪を透かしている。その立ち姿はどこまでも可憐で美しく、まるで学園もののヒロインそのもの……だが、俺に向けるその眼差しには甘さや照れなど微塵も存在しなかった。
一之瀬は自嘲気味に呟くと、手に持った緑茶のペットボトルを慈しむようにそっと撫でた。その瞳から一瞬だけ、俺の防壁を穿った鋭利な観察者としての光が消える。代わりに浮かび上がったのは底なしの深淵を覗き込むような、甘く歪んだ狂気。彼女は一歩、俺の方へと足を踏み出してきた。可憐なシャンプーの香りが再び鼻腔をくすぐる。その香りはまるで甘い毒だ。
「初めはね……すごく頼りになって、私やクラスを陰から救ってくれた『特別な存在』だと思ってたの。彼がいてくれるだけで胸がキュッとなって、世界が明るく見えて……」
一之瀬の視線は俺を通り越し、どこか遠く――かつて綾小路と重ねたであろう時間の残像を見つめている。
「でもね、知れば知るほど分からなくなるんだよ。綾小路くんは誰に対しても平等で誰に対しても冷酷。まるで……世界そのものを高みから眺めてる神様みたいに」
こういうところで『神様』なんてワード使うタイプに碌な奴はいないと思っている。一之瀬はそこまで言うと、ゆっくりと視線を俺へと戻した。その瞳に宿る熱量は、俺の胃袋を直接炙り出すのではないかと思うほど重く恐ろしかった。
「だから……決めたの。綾小路くんが私を見てくれないなら、私が綾小路くんの『目』を私から逸らせないようにしてやるって。クラスも、ポイントも、この学校の構造も……全部を使って、私という存在を綾小路くんの心に刻み込んでやるんだって」
俺の脳内で、危険信号のサイレンが鳴り響くどころか警報器が爆発した。なんだこの重すぎる愛と執着のハイブリッドは。純愛と狂気が混ざり合って、化け物級の執念へと昇華している。
「……よく分かった」
俺は短く返した。これ以上、この深淵に首を突っ込むのはあまりにも危険すぎる。俺の細い胃壁が耐えられるキャパシティをとうに超えている。
「分かってくれたかな?」
「あぁ、俺はお前と関わりたく無いってことが痛いほど伝わった」
俺はハマーン様の『土足で人の心に入るな!』って台詞を真に理解出来た気がする。そして今まで心のどこかで拒否していたが、今の俺ならハッキリとその言葉を形に出せる。
俺は一之瀬帆波が嫌いだ。
かつての『みんなに優しくて聖母のような一之瀬』なら、まだ笑ってスルーできただろう。だが今のコイツは違う。完璧な笑顔と慈愛の皮をかぶりながら、他人のパーソナルスペースを土足で上がり込み、内面を暴き立て挙句の果てにそれを自分の執着のために利用しようとしてくる。俺が心底嫌うタイプに他ならない。
「酷い言い草だなぁ」
一之瀬はくすくすと可愛らしく笑ったが、その笑顔の裏には、もう「引き返す気など毛頭ない」という絶対的な覚悟が横たわっていた。
「今日のところはこれぐらいにしておくね和泉くん。あ、でも……胃薬の炭酸飲みは、本当に身体に良くないからやめた方がいいと思うな?」
「……大きなお世話だ。俺のライフラインに口を挟むな。つか俺だってこんな飲み方しないからな」
「ふふ、そうだったね」
軽やかな足取りで去っていくDクラスのトップ。その背中が見えなくなった瞬間、俺はベンチに深く背をもたれかけ、天を仰いだ。
「あー……ダメだ。胃が死ぬ……今すぐ自分の部屋に帰って、マウンテンデュー飲みながらバイト4やりたい……セミショバグ使ってP.R.L.412でガナード共ぶっ殺したい」
一之瀬の去った気配を完全に確認し、俺はベンチで深々と天を仰いでいた。あの女の笑顔の裏にあった探るような眼光。堀北の容赦ない無茶振りと、高円寺の破格の50万ポイント。 須藤の純粋すぎる熱血と本格化してる特別試験。情報量とストレスが過剰摂取気味で、脳みそと胃袋が同時に悲鳴を上げていた。この学校で過ごしていると、息を吸って吐くだけで体力を削られていく気がする。
そんなとき
「和泉? なにベンチで死にかけてるの?」
頭上から降ってきたのは、先ほどまでの一之瀬の「探り」を含んだ声とは全く違う、どこか軽快で呆れたような高めの声だった。うっすらと目を開けると、そこには髪を揺らしながら腰に手を当てて立っている軽井沢の姿があった。
「……軽井沢か。見ての通り平穏を愛する一人の男子生徒が息絶える瞬間だ」
「なにそれ?っていうか、そんな変な組み合わせで薬飲んでるの? 胃薬とマウンテンデューって、絶対身体に悪いでしょ」
軽井沢は眉をひそめながら俺の隣にすとんと腰掛けた。一之瀬の時とは違い、そこには一切の計算や探り合い腹の探り合いが存在しない。
「……この組み合わせが俺の命綱なんだから放っておいてくれ。つか普段ならしないから」
「ふーん。まあいいけどさ」
軽井沢はポッケからガサゴソと漁って小さな包みを取り出した。
「ほら、これあげる」
手渡されたのは、イチゴ味の小さなキャンディだった。
「……なんだこれ?」
「見て分かんない? 飴。そんな苦そうな顔して炭酸飲んでるから口直し。私のお気に入りなんだから感謝してよね」
「……ありがとう」
包みを破り、ピンク色の粒を口に放り込む。甘酸っぱいイチゴの風味が広がり、口の中に残っていた胃薬の苦味と炭酸の刺さるような刺激を優しく包み込んでくれた。
「……生き返るな」
「でしょ? ちゃんと味わって食べなさいよ」
軽井沢は満足そうにフンと鼻を鳴らすと、足を少しパタパタさせながら、気持ちのいい秋の空を見上げた。
「なんかさ、最近クラスもピリピリしてて嫌になっちゃうよね。みんな固い顔してさ」
軽井沢はベンチに預けた背中を少し丸めると、どこか寂しげに息を吐き出した。クラスの対立や、Cクラスへの移籍を果たした綾小路を巡る動揺。そして何より、各クラスが抱える思惑とプレッシャー。俺ですら胃を痛めているのだから、クラスの女子のリーダー格として前面に立ち続けてきた軽井沢の心労は、俺の想像以上に重いのかもしれない。
「お前も、色々と気苦労が多いだろ。平気な顔してるけどさ」
俺が何気なくそう呟くと、軽井沢はパタパタと動かしていた足をピタリと止め、少し驚いたように丸い目をしてこちらを見た。
「……別に私は、ただ普通に過ごしたいだけだし。そんな心配されるようなこと、何もないし」
強がるようにそっぽを向くが、その横顔には隠しきれない疲労感が滲み出ている。
「ならいいけどな」
「ま、和泉のおかげでもあるからね」
そう言って俺の方を向き、軽井沢は少し照れくさそうに、けれど屈託のない笑みを浮かべた。つか可愛いな....先ほどまでの息が詰まるような探り合いが嘘のように、固まっていた俺の肩の力がすーっと抜けていくのが分かった。
クラスの頂上決戦や特別試験の謀略とは無縁の、ただの同級生としての時間。 口の中に広がるイチゴの甘さと隣で気楽に喋る軽井沢の存在が、瀕死だった俺の精神と胃袋をじわじわと癒やしていく。
「……ありがとな、軽井沢」
「え? なにが?」
「アメだよ。美味かった」
俺が不愛想にそう言うと、軽井沢は少し意外そうに目を見張り、それから「どういたしまして!」と嬉しそうに微笑んだ。彼女の笑顔が見れるならまだ俺はやっていけるかもしれない。そんな思いがふと頭をよぎった。
和泉の支えになってる物
•マウンテンデュー
• 胃薬
•軽井沢の笑顔※割と重要