池達と別れた後、夕飯の買い物をしに来た俺はひとり虚しくケヤキモールの通路を歩いていた。モール内は相変わらず賑やかで楽しそうに笑い合う生徒たちの姿があちこちで見受けられる。そんな眩しい光景から視線を逸らし、俺はポケットの胃薬の感触を無意識に指先で確かめていた。
その時――ふと、首筋の毛羽立つような妙な違和感が走った。
……なんだ?
誰かに見られているような、あるいは背後に何かが貼りついているような薄気味悪い感覚。俺は足を止め、何気なさを装ってぐるりと後ろを振り返ってみた。だが、そこに広がっていたのは買い物を楽しむ一般生徒たちの日常風景だけだ。怪しい動きを見せる奴など一人もいない。
いや待て、油断させるのが敵の常套手段だ。バトルモノの映画や漫画だと、「なーんだ、気のせいか」なんて死亡フラグ立たせた直後に正面から死角を突いて刺客が突進してくるのがお約束なんだよ!
俺は心の中で急激に警戒レベルをMAXまで跳ね上げ、いつ正面から刺客が飛び出してきても速やかに回避できるよう、身構えながら前方に視線を戻したが........当然ながら誰も突っ込んではこない。
っ~~~~~!!? 恥ずかしいっ……!! 何やってんだ俺は!!
脳内で大音量の警告音が鳴り響き、顔面が一気に沸騰するような熱さに包まれる。『正面から刺客がやってくるお約束』とか脳内でイキってカッコつけて身構えていた自分が痛すぎて、本気で地面に穴を掘って埋まりたくなった。
誰も突っ込んでこないどころか、俺自身がただの「モール内で急に奇妙な構えを取った不審な一般生徒」として注目の的になっているだけじゃねぇか!
俺は急激に赤くなりそうになる顔を必死にポーカーフェイスで覆い隠すと、あたかも「あ、靴紐が少し緩んでいたかな?」というポーズを装って一旦姿勢を崩し、何事もなかったかのようにすっと姿勢を正した。
ローファーだけどな!
「……ふぅ」
平静を装って軽く咳払いをしてみたが、脇汗と冷や汗が同時に噴き出して止まらない。ダメージを負ったのは刺客ではなく、俺のメンタルとプライドだけだ。
しかし、この気味の悪さは間違いなく本物。俺は警戒心を悟らせないよう、溜め息混じりに通路脇に設置されたウッドベンチへと腰を下ろした。鞄からカバー付きのラノベを取り出し、パラパラとページをめくって「読書に没頭する一般生徒」を気取る。
視線は本に向けつつ、視野の端で周囲の状況を丹念に走査した。何がなんでも尻尾を掴む、そう意気込んで数時間が経過し、十数メートルほど離れた自動販売機のコーナーに目を向けた瞬間、違和感の正体が発覚した。
自販機の脇と壁とのわずかな隙間。そこに伸びる「影」の向きが太陽光の位置関係から露骨に変移していた。誰かが自販機の裏に身を潜め、じっとこちらを観察している動かぬ証拠だ。普通なら絶対に見落とすレベルの影の微妙なズレだ。しかし、四六時中ストレスと胃痛に晒され、警戒アラートを張り巡らせている俺の観察眼を舐めてもらっては困るな!
それに.....俺にあんな恥かかせた野郎の尻尾は何がなんでも掴んでやるからな!!!たとえ女子だろうと容赦せん!
俺は文庫本をゆっくりと閉じると、極めて自然な動作で立ち上がり自販機へと歩を進めた。喉が乾いたからジュースを買いに来ただけですよ、というフリを全力で演じながら。自販機の目の前まで到達し、俺は購入ボタンを押す代わりに、くるりと側面の死角へと回り込んだ。
「――ッ!?」
そこにいたのは、小柄な一人の女子生徒だった。気配がなさすぎて、視界に入るまで存在を察知できなかったほど影が薄い。
えっと.....誰ですか、この人?つーか本当に女子なんだけど....気まずッ....
俺と目が合った瞬間、その女子生徒はまるで幽霊でも見られたかのように肩を跳ねさせ消え入るような声で固まった。
「あ……あの……私……は……」
俺は声を限界まで低く抑え、ため息を一つ吐いた。
「怪しい影が見えたから確かめに来たんだが……ずっと俺の後をつけてたろ」
「私みたいな.....影の薄い人間の存在に、気づくはずが……」
彼女は絶望的な面持ちで身をすくめ、自信なさげに俯いた。彼女の特徴は圧倒的な存在感の薄さというのが嫌でも分かる。人並外れた感覚を持つ奴でもなければ、まず尾行にすら気づけないレベルだろう。実際、気配や音で察知するのは当然、俺も不可能だった。俺が執念で探し続けて自販機の影の微小な変移という「視覚的なバグ」にたまたま気づかなければ、まんまと巻かれていたはずだ。
「悪いが俺は無駄に観察眼だけは鋭いんだ。で? お前が、俺みたいなただの一般生徒をマークしてんだ?というか誰?」
俺が半目で静かに問い詰めると、彼女は消えそうな声で、ぽつりぽつりと口を開いた。
「……山村……美紀……です……三年Cクラスの……」
知らねぇ....マジでしらねぇ....
「....で、なんでこんなことを?」
「……綾小路くんに……頼まれて……」
「は?」
「『和泉くんの行動パターンと……交友関係を……観察してほしい』って……指示されて……」
綾小路清隆。
その名前を聞いた瞬間、胃の奥が雑巾を絞られるようにギリギリと痛み出した。ポケットの太田胃散が泣いている。あの野郎……Cクラスに移籍して早々、俺にまで探偵の目を差し向けてきてんのかよ……!
一之瀬や橋本だけでも胃壁が全焼しそうなのに、綾小路まで陰で俺をマークし始めているとは。しかも山村のような「ステルス特化型」の諜報員を送り込んでくるとは、どこまで性格が捻ね曲がってんだ。俺は痛む胃を押さえ、頭を抱えたくなった。
「……はぁ。分かった、お前を責める気はない。あいつの命令じゃ断れなかったんだろ」
「……すみ、ません……」
「とりあえず綾小路には『ただの陰キャが虚しくケヤキモールを徘徊して、ベンチで本を読んでいただけだった』って報告しとけ。事実だからな」
俺は山村に背を向けると、ポケットからマウンテンデューを買い込むべく自販機に硬貨を投げ入れた。ガトンと音を立てて落ちてきた缶を拾い上げながら、俺は冷や汗と胃痛を噛み締め、ひとり心の中で盛大に毒を吐くのだった。
ふざけやがって綾小路の野郎....!
マウンテンデューの冷たい缶を喉元に押し当て、微かな清涼感で胃の灼熱を強引に誤魔化す。山村は俺の「報告しとけ」という言葉に小さく頭を下げると、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、ぬるりと自販機の陰から姿を消していた。
本当に幽霊みたいな奴だ。アイツならMGS2のEUROPEAN EXTREMEをノーキルノーアラートでいけるんじゃ無いのか?いや、アレは見つかった時点でゲームオーバーだから、ノーアラートが前提じゃないと無理だったな....要するにスネーク並みのステルス性能を誇る人間を俺の監視に回すあたり、綾小路の引き出しの多さと性格の悪さが窺えて心底不快になる。
因みにだが、俺はあるニコニコな動画投稿者....具体的には猿のお面被って松明片手に壁にもたれてしゃがみながら松明を左右に振り回すあの人の動画を見ていた事がある。真似しようとしたら見事に敵の蜂の巣にされた思い出しか無い。あの人、マジで上手いよな。
俺はため息を吐きながらマウンテンデューのプルタブを押し開け、強炭酸の人工的な甘みを一気に流し込んだ。シュワシュワとした刺激が喉を通り、胃に到達した。これがないと俺の胃壁はとっくに全焼して穴が開いている。
「ふぅ……」
缶を握り潰さんばかりの力で握り締めながら、俺は再びケヤキモールの雑踏へと足を踏み出した。歩みを進めながら、脳内で急速に思考を巡らせる。なぜ山村を使ってまで俺の「行動パターン」と「交友関係」を探らせている?
堀北や須藤、あるいは平田あたりのメインキャストをマークするなら理解できる。だが、わざわざ放課後に一人でモールを徘徊してラノベを読んでいるような俺に、貴重な諜報戦力を割く合理的な理由がどこにある?
……まさか、どこかでボロを出したか?
過去の行動を高速でプレイバックする。高円寺とのプライベートポイントのやり取りか? 堀北に差し向けた影の助言か? それとも、須藤のサポートをした際の後始末にボロがあったか?いや、そんな筈はない。綾小路ほどの観察眼があれば違和感を抱く可能性はあるが、確証までは持てないはず……
「……あーくそ、考えれば考えるほど胃が痛ぇ」
ポケットを上から叩き胃薬の存在を確認する。一之瀬の腹を探るような視線。橋本のニヤニヤけたペテン師ヅラ。そして、綾小路の静かで冷酷な観察眼。全方位から包囲網が狭まってきてんじゃねぇかよ……
「なに一人で険しい顔して缶ジュース睨んでんの?」
突如、前方から気安く声をかけられた。ハッと視線を上げると、そこには買い物袋をぶら下げた軽井沢が少し呆れたような、けれどどこか親しげな顔でこちらを見立っていた。
「……軽井沢か」
「なにその『げっ』って顔。失礼ね。ていうかあんた、またそんな体に悪そうな炭酸飲んでるの? 胃が痛いならお茶にすればいいのに」
「何度も言うが、これが俺の命綱なんだよ。余計なお世話だ」
俺は低く呟き、マウンテンデューをひとくち口に含んだ。目の前の軽井沢は、かつての痛々しい張り詰め方が嘘のように、どこか柔らかい雰囲気を纏っている。綾小路との関係が変化し、彼女自身が自分の足で立ち始めた結果だろう。そういう「変化」を見破れる程度には俺の観察眼は無駄に鋭い。
「で? なんか困ったことでもあったわけ? あんたがそんな顔してるの、大体クラスの厄介事に巻き込まれそうになってる時でしょ」
「……何でもない。ただ、世の中には鏡を見ない奴と、人のプライベート覗き込む悪趣味な奴が多すぎるって痛感してただけだ」
「え、なにそれ?」
軽井沢は眉をひそめたが、追及してくる気配はない。こういう、適度な距離感で踏み込ん直さない軽さが、今の俺にとっては救いだった。
「山村って女子と橋本ってチャラ男のことだ」
「山村さんは知らないけど、橋本くんは知ってる」
「あのチャラ男、知ってんのか?」
「一年生の2月頃に、『付き合わない?』ってチャラそうに言われたの。当然断ったけど」
……は?
俺の眉間が、再び嫌な縦ジワを刻む。つうか、その時期って確か軽井沢が平田との偽装の恋人関係を清算したかどうかのゴタゴタしてた頃じゃねぇか。そんな時期に、あの胡散臭いDクラスの狐野郎が軽井沢にちょっかいかけてただと……?
「あの野郎……」
俺はカフェでニヤニヤと絡んできた胡散臭いチャラ男の顔を思い浮かべ、盛大に舌打ちすると軽井沢は不思議そうに小首を傾げた。
「なに? あんた橋本くんと何かあったの?」
「いや、あいつの節操なさが想像を絶してたもんでな。時期的に考えて、お前が平田との関係を清算した直後だろ? よくもまあ、そんなタイミングで軽々しく声をかけられたもんだ」
……おっと、ここで「お前も似たようなもんだろ」なんて顔をするんじゃない。アイツと俺を一緒にすんな! 俺は軽井沢の過去の事情やトラウマに踏み込んでいるとはいえ、下心や面白半分で近づいた覚えは一切無い!
「ほんとねー。しかも、あんなチャラいノリで『恋愛はどうなるか分からないから面白いんだぜ?』とか言ってきてさ、マジで虫酸が走ったというか鳥肌立った。あんなののどこがいいのか全然分かんない」
軽井沢はぶるっと身震いし、買い物袋を持ち替えた。彼女にとって橋本のようなタイプは、かつての痛々しいトラウマを刺激するというより、純粋に「めんどくさいチャラ男」の枠に入るらしい。過剰に怯えるわけでもなく、ただの「ウザい奴」としてバッサリ切り捨てているあたり、彼女の精神的なタフさや変化がよく分かる。
「それにしても和泉って案外、人のことよく見てるよね。私と平田くんのゴタゴタの時期まで覚えてるなんて、もしかして私のことストーカーでもしてたわけ?」
「しねぇよ! 情報収集の一環だ」
反射的に声を荒らげると、軽井沢は「はいはい、そういうことにしといてあげる」と面白がるような、からかうような笑みを浮かべた。
つか軽井沢と平田が別れたって話は結構有名だっただろうが!
「……まあ、流石の軽井沢もあの野郎はお断りか」
「当たり前でしょ。私、そういうのもうお腹いっぱいの限界だから……」
軽井沢はどこか照れくさそうに、しかし以前のような虚勢ではなく、どこか吹っ切れた自然な笑みを浮かべた。 あぁ....なるほど。今の彼女には、綾小路という得体の知れない化け物との複雑な関係がある。それを踏まえて「他の男になびくわけがない」という自負もあるのだろう。
「……そうだな。お前の見る目がそこまで腐ってなくて何よりだ」
「もうちょっとこう、言い方ってものがあるでしょ!」
軽井沢が不満そうに頬を膨らませるが、その表情にとげとげしさは一切ない。かつての「女王様」として怯えやプライドに必死でしがみついていた頃に比べれば、今の彼女はよほど人間らしく、見ているこちらの胃にも優しい。あと目の保養にもなる。
「悪かった.....で、いつまでもこんなところで話してたら、また周りの女子グループに怪しまれるだろ。そろそろ戻らなくていいのか?」
俺が周囲の目を気にしてあごをしゃくると、軽井沢は「あ、やば、そろそろ戻らないとまたクラスのみんなに何か言われるかも」と慌てたようにスマホの時間を確認した。
「じゃ、私はこれで……あ、そうそう、和泉」
踵を返しかけた軽井沢が、ふと足を止めて振り返る。
「ん?」
「あんまり無理して、胃薬ばっか飲まないことね。見ててこっちが胃もたれしそうだから……じゃ!」
それだけ言い残すと、軽井沢は軽やかな足取りで寮に向けて足を運んだ。残された俺は、ポケットの中で音を立てた胃薬の小袋にそっと手を触れ、やれやれと深く息を吐き出す。
「……クラスの女子に胃の心配されるようじゃ俺もまだまだだな」
自嘲気味につぶやきながら残りのマウンテンデューを喉に流し込み、俺は今日一日の消耗を癒やすべく、自分の寮へと重い足取りを向けたのだった。
山村を発見出来る方法として作者が出来る限り可能な案の結果がこれです。