俺が長谷部と綾小路を素通りしてから数日経ち、いよいよ、試験の告知から一週間がたち発表の木曜日がやって来た。
全クラスの想像通り、今回の試験は1週間をかけて行われていた。やはり堀北の予想通りで、生活態度や学校の規則を如何に順守できるかが評価のポイントとなっていたらしい。細かい配点までは教えてもらえなかったが、ほぼ4クラスが横並びだったことは伝えられた。
結果は一之瀬クラスが1位でクラスポイントが50。俺たちAクラスと龍園クラスが2位で、クラスポイントが10ずつに分けられた。そして綾小路たちのクラスは最下位でマイナス25ポイント。
ザマァねぇな!
おっと……綾小路の被害に遭いすぎて荒んだ心が現れてしまった。だが、あの化け物のクラスが沈むのを見るのは、日頃のストレスに対するささやかな栄養ドリンク代わりにはなる。
そんなこんなで放課後になり、俺はケヤキモールへと足を運んでいた。目的は、いつものマウンテンデューではなく新作のエナジードリンクを仕入れることだ。 いっつもマウンテンデューばっか飲んでると思われてるかもしれないが、俺はエナジードリンクも普通に飲む。特に新作は、毎回一度は試してみることにしている。
どんな習慣だ?と思うかもしれないが、世間にはスタバで新作が出るたびに買いに行く連中がいるだろ? あれとまったく同じだ。
しかも、数週間に一回ホイホイ買いに行くアイツらと違って、こっちは何ヶ月に一回ってレベルでしか新作が出ないから、経済的にはこちらの方が圧倒的に健全だと言える。
ちなみに俺の好みのエナジードリンクは、モンスターエナジーのピンク色だ。日本で発売されたZONEも色んな味が出ていて面白いのだが、いかんせん入れ替わりが激しくて、気づいたら販売終了していることが多いのが玉に瑕だ。そんなクッソどうでもいいことを頭の片隅で考えながら、ぼんやりとモールの通路を歩いていると、少し前方に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
一之瀬クラスの渡部と、よりによってあの綾小路が話をしている。関わったら絶対めんどい奴の組み合わせだ……秒速で回れ右して逃げよう。そう判断して素早く身を翻そうとしたのだが、あろうことか向こうの視線がこちらを捉えてしまった。
「目があったのに逃げるなよ、和泉!」
「関わりたく無いから逃げたんだよ!」
反射的に毒づいたが、もう遅い。渡部がズカズカとこちらに歩み寄ってくる。 どうやら彼は、同じく一之瀬クラスの網倉麻子に好意を寄せており、彼女が最近ジムに通っていることを知って自分も入会しようか迷っているらしい。
そして、ちょうど近くにいた綾小路がこれから一之瀬たちと一緒にジムを利用する予定だったため、コイツの紹介という形で入ろうか悩んでいる――というのが事の経緯らしかったが……
おい待て。なんでお前は俺の方を向くんだ、渡部。お前のその熱っぽい視線は、本来なら網倉に向けるべきだろ。少なくとも俺に向けるべき視線じゃない!
「和泉! お前も一緒に入会してくれ!」
「絶対に断る!」
なんだその狂気的な誘いは!綾小路と一之瀬という、この学校でも指折りの地雷原に自ら突っ込む馬鹿がどこにいるんだよ!色々と胡散臭い提案や熱意のない押し問答を繰り返した末、さすがに今日のところは入会を延期することになり、渡部は「また今度な!」と言い残してすごすごと引き上げていった。
ふぅ……と、俺は今日何度目になるか分からない深い溜息を吐き出す。
「俺も本来の目的を――」
そのまま何食わぬ顔で寮へ帰ろうと踵を返した瞬間、背後から冷ややかな声が降ってきた。
「待ってくれ和泉」
「……んだよ。もう今日の分の精神力は使い果たしたんだが」
振り返ると、そこには相変わらず感情の読めない瞳をした綾小路が立っていた。コイツはいつの間に俺の退路を塞いでいたんだ。神出鬼没すぎるだろ。
「少し話がしたい。この間、カフェで池を宥めてくれた件のお礼も兼ねてな」
……は? カフェで池を宥めた件?
あれは、周りに迷惑をかけていたから試験の不利にならないように宥めただけで、お前に関係する面倒事の尻拭いなんてした覚えはない。嫌な予感が脳裏をかすめる。俺が何かを言い返す間もなく、綾小路は淡々としたトーンでトドメの一撃を放った。
「ちょうどいい。今なら施設の無料体験ができるらしい。せっかくだから、軽く体を動かしがてら付き合ってくれ」
「断る。なんで俺が、お前と一緒にジムの体験なんか――」
「無料だ。それに、少し突み入った話もできる」
「情報の対価が肉体労働って、どんなブラック企業の研修だよ」
だが周囲にいた一之瀬たちの「せっかくだし、みんなで一緒にやろうよ!」という爽やかな悪意(純度100%の善意の暴力)と、綾小路の「断らせない」という無言のプレッシャーに挟まれ、俺はあれよあれよという間に受付へと連行されてしまった。
綾小路から手渡されたのは、無機質なデザインのレンタル用トレーニングウェア一式だった。鏡に映る自分の姿は、まるで地獄のフィットネス送りにされた悲劇の人物そのものだ。
すぐにでも、このジャージを引き裂いて、自室のベッドでマウンテンデューを飲みながら動画でも観ていたい。逃げ場のない更衣室の隅で、俺は静かに絶望の胃薬を口に放り込み、観念して着替える事にした。
制服で隠していたはずの肉体が、ピチッとしたスポーツウェアのせいでいやでも露わになる。ため息をつきながらシャツの裾を整えていた時だった。ガラッとロッカーの扉が開き、隣で同じように着替えていた綾小路の野郎が、ふっと俺の身体を一瞥して口を開いた。
「意外と身体がしっかりしてるな」
「お前が言うか?」
思わず反射的に睨み返す。言うまでもないことだが、こいつの身体はとんでもねぇレベルで鍛え上げられている。服の上からは分かりにくいが、ふとした瞬間に垣間見える筋肉は、無駄な脂肪が一切そぎ落とされた完璧な細マッチョ――いや、もはや戦闘用のアスリートそのものだ。本当にこれが高校生の肉体かよと疑いたくなる。
「ジムで鍛えてるからな」
「お前のジョークが面白く無いことはよーく分かった」
「そうか……」
真顔で返すな。どこがジョークだと言いたげな無機質な瞳に見つめられると、こちらが気まずくなる。 だいたい、ジムに入っただけでここまで化け物じみた肉体になれるなら、この学校の生徒は全員もれなく筋肉ダルマになってるわ。
俺は中学まで陸上部に居たから、足腰の鍛え方を含めてそれなりに身体は動かしてきたし、自分でもそれなりに鍛えているつもりだった。だが、目の前にある綾小路のソレと比べたら、自分のこれまでの努力なんて赤子の砂遊びみたいなものだろう。
……まあ、あんな狂った化け物の肉体と自分を比べるだけ無駄なのは分かっているが。
羨ましいなんて微塵も思っていない――思っていないことに脳内で変換しながら、俺は現実逃避するようにロッカーを乱暴に閉め、地獄のトレーニングフロアへと重い足取りで踏み出す。
トレーニングフロアに足を踏み入れた瞬間、ゴムマットと金属特有の匂いが鼻をついた。広々とした空間には、最新鋭のランニングマシンや各種ウェイトトレーニングの機材がずらりと並んでおり、すでに何人かの生徒たちが汗を流している。……本来なら、こういう健全な汗をかく場所は嫌いじゃないが、今の俺にとっては「処刑場」以外の何物でもなかった。
「お、来た来た」
軽やかな声に顔を上げると、ランニングマシンの一角に、一之瀬帆波と網倉麻子の姿があった。網倉はすっきりとまとめた髪にスポーティなウェア姿で、タオルで汗を拭いながらこちらに手を振っている。その隣には、淡い笑みを浮かべた一之瀬が立っていた。相変わらず周囲の視線を自然と集めてしまう華やかさがあるが、昨日の今日で彼女の裏の顔を知ってしまった俺からすれば、あれは猛毒を隠し持った極上のトラップにしか見えない。
なんで俺は、わざわざ自分から地獄の炉端焼きに肉を焼きに来たみたいな真似をしてるんだ……
「あ、和泉くんじゃん。珍しいね、綾小路くんと一緒にジムになんて来てさ」
網倉がトコトコと近づいてきて、面白がるような目を向けてくる。 おいおい、お前のクラスメイトの渡部は「網倉さんと一緒にジムに入るためにどうこう」って悩んで結局逃げ帰ったんだぞと言いかけて、面倒臭いので飲み込んだ。
他人の恋愛沙汰の伝書鳩になどなる義理はない。
「通りすがりの事故みたいなもんだ。気にしないでくれ」
俺がそっけなく返すと、網倉は「ふーん?」と首を傾げた。 だが、それ以上に厄介なのはもう一人の方だ。一之瀬が、ふわりと柔らかな笑みを湛えたまま、俺と綾小路のほうへ歩いてくる。その一歩一歩が、なぜか精神的なプレッシャーとなって俺の胃壁をじわじわと削っていくのが分かる。
「和泉くん、お疲れ様。綾小路くんと一緒にトレーニングなんて、なんだか意外だな」
「不可抗力の人災だ。気にしないでくれ、俺はただの見学のつもりが間違えてジャージに着せられたからな」
「ふふっ、相変わらず面白い冗談を言うんだね。ねえ、せっかく来たんだし、一緒に軽く汗を流さない? マシンの使い方なら教えるよ」
――やめろ。その無駄に爽やかで人懐っこい笑顔で俺に近づいてくるな。 昨日の今日で、その奥底に潜む「綾小路に対する異常なまでの執着と独占欲」を垣間見てしまった身としては、彼女の優しさがすべて計算された包囲網のように感じられて仕方のないのだ。
「いや、俺はここで壁のシミでも観察しながら精神統一を――」
「和泉くん、逃げちゃダメだよ。ねっ、綾小路くんもそう思うでしょ?」
一之瀬がチラリと隣の綾小路に視線を投げる。 コイツのこういう、周囲を巻き込んで自然と自分のペースに引きずり込む手口、本当にタチが悪い。龍園の暴力的な支配よりも、ある意味で逃げ場がない分だけ厄介だ。
「そうだな。和泉もせっかく来たんだし、少し動いたほうがいい」
お前は黙ってろ綾小路! 誰のせいでこんなレンタルウェアを着せられて晒し者になってると思ってやがる!
「ほら、和泉くん。あっちのランニングマシン、空いてるから行こっか」
「……誰か、今すぐ俺をここから連れ出すか、あるいは記憶喪失にしてくれ……」
俺は絶望的な心持ちで逃げ場のない地獄のフィットネスフロアへと足を踏み出す。
逃げ場のないランニングマシンの前で腹を括り、俺が絶望的にコンソールパネルのボタンを押そうとした、その時だった。
「ねえ、和泉くんって身体、結構鍛えてるよね?」
網倉が、何の裏もなさそうな真っ直ぐな瞳で、直球すぎる質問をこちらに投げてきた……おい、女子高生が男子の身体をそんな凝視するんじゃない。
「……別に。平均的な男子高校生の範疇を出ないだろ」
俺は素っ気なく返しながら、レンタルジャージの胸元を少し引っ張って誤魔化そうとした。だが、陸上部時代の遺産はそう簡単には隠しきれないらしい。
俺が通っていた中学は、陸上部がそこそこ強い強豪校だった。お陰で当時は毎日死ぬほどマジで鍛え上げられたのだ。それに加えて、運良く身体のフレーム構造にも恵まれたらしく、脱げば誰が見てもまあ恥ずかしくはない程度の肉体には仕上がっている。おそらくこれは、母親の遺伝子のお陰だろう。俺の母親は、俺からゲーム好きと根暗っぽいところを綺麗に削ぎ落としたような、底抜けに身体を動かすのが大好きな人物だ。
じゃあ親父はどうなのかって?親父は根が真面目ではあるものの、妙に根暗でゲーム好きで、休みの日も部屋から出ずに運動は一切しないタイプである。
……つまり俺は、母親から「ムダに動きやすい身体」を継承し、親父から「根暗でゲーム好きで引きこもりたい精神」をバッチリと引き継いでしまったわけだ。両親の長所(?)が見事に悪魔の合体を果たしちまったみたいだ。お陰で「鍛えられた肉体を持つ引きこもり志望の人間」という、非常に歪な存在が出来上がってしまった。
「ううん、全然平均じゃないって。脚のラインとかすごくしっかりしてるし、絶対なんか運動やってたでしょ? 陸上とか」
「……中学の時に、ちょっとだけな。もう過去の栄光だ」
網倉の鋭い観察眼にヒヤヒヤしながら適当に流そうとしたが、隣に立っていた一之瀬が「へぇ」と、どこか深い興味を示したような視線をこちらに向けてきた。
後、俺は高校に入ってから最初から部活に入っていなかったわけではない。正確には、一年の5月辺りで辞めたのだ。あの頃はちょうど、クラス間でのポイント争いや泥沼の引きずり降ろし合いが存在すると発覚した悪夢の時期だ。
学校の裏の顔を知った俺は、周囲の誰も彼もが敵に見えるという極限の恐怖と怯えに支配され、「部活どころじゃねぇ!」と速攻で退部届けを叩きつけたというのが真相である。
そんな情けない理由で運動を辞めたにもかかわらず、未だに筋肉がそこまで落ちていないのは、本当に親の身体能力の遺伝子に恵まれているとしか言いようがない。ありがたいような、無駄に目立って迷惑なような、複雑な気分だ。
俺は引きつりそうな頬の筋肉を必死に抑え込みながら、逃げるようにランニングマシンのスタートボタンを叩き込むのだった。
次回は投稿をお休みするかも知れません。