ジムで嫌な汗といい汗のどちらも流し終え、網倉が「じゃあ私、先に行くね!」と爽やかに帰っていった。俺はその絶好の波に乗り、さっと身を引いてそのまま自室へ帰ろうとした。
だが、甘かった。
「和泉くん、ちょっといいかな?」
背後から掛けられた一之瀬の声に、俺は足を止めることなく「悪いが急用がある」と、できる限りの冷淡なトーンを装ってその場を足早に離れようとした。これ以上あの聖女のペースに巻き込まれたら、確実にロクなことにならないという野生の勘が警報を鳴らしていたからだ。
しかし、彼女の口から零れ落ちた次の瞬間の一言が、頑なに動き続けていた俺の足を、まるでコンクリートにでも固められたかのようにその場にピタリと縫い付けた。
「軽井沢さんの件なんだけど――」
その名前を聞いた瞬間、背筋を冷たいものが走り抜けた。恐る恐る振り返ると、そこには夕日に照らされた一之瀬帆波と、その隣にまるで影のように佇む無表情な綾小路清隆の姿があった。周りは誰もいないケヤキモールに続く道。もはや逃げ場のない行き止まりに近い。俺は、その学園の頂点に君臨する怪物二人と、完全に真正面から対峙する羽目になってしまった。
一之瀬は相変わらずの、周囲の人間を無条件に安心させるような柔らかい微笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥には一切の隙がなく、獲物を捉えた猛獣のような冷徹な光が宿っていた。彼女は流れるような、しかし逃げ道を完全に断つような声で切り出してきた。
「軽井沢さん、最近私たちのクラスの情報を集めているみたいなんだよね。すごく熱心なのは分かるんだけど……正直、少し困ってるの。だから、和泉くんから彼女に『やめてほしい』って伝えてもらえないかな?」
「……何を言い出すかと思えば」
ふざけやがって。他のクラスの動向を探るなんて、この特別試験の期間中において全クラスが水面下でやっている当たり前の駆け引きに過ぎない。それを、わざわざ個人名を出して、しかも俺を経由して牽制してくるなど、悪質極まりない心理戦だった。
俺は鼻で笑い即座に反論した。
「クラスの情報集めなんて、他のクラスの生徒だってどこでもやってることだろ。なんで軽井沢だけを狙い撃ちにして目の敵にするんだよ。お前のその綺麗ごとの裏で、個人的に潰したいだけなんじゃないのか? どっからどう見ても筋が通らないな」
俺の強い反論に、一之瀬は少しだけ首をかしげると、どこか探るような、可憐で冷徹な瞳をこちらに向けた。
「ふふ……和泉くんってば、すごく軽井沢さんを庇うんだね」
一之瀬はふっと柔らかく笑いながら、まるで子供の他愛のない言い訳を見抜くかのように、スッと俺の顔を覗き込んできた。その澄んだ瞳は、こちらの逃げ道を一歩ずつ塞いでいくような底知れなさを湛えている。彼女はわずかに首をかしげると、さらに追撃するように、探るような甘い声を重ねてきた。
「ねえ、和泉くん……もしかしてだけど、軽井沢さんのことが好きなのかな?」
「っ……!?」
一之瀬の軽やかな声が耳に届いた瞬間、俺の心臓は激しく跳ね上がり、呼吸が完全に止まった。動揺を悟られまいと必死に息を呑みかけたが、そんな足掻きなど無駄だったとばかりに、全身の血が一気に引いていくのが分かる。
――図星だった。隠し通してきたはずの、自分でも目を背け続けてきたドロドロとした本音が、あまりにもあっさりと暴かれてしまった。いや、待て。ここで肯定するな、否定しろ。「ふざけるな」と笑い飛ばして、「ただのクラスメイトだ」といつもの調子で言い訳を並べ立てればいい。他人の恋路の当て馬になんて、一番なりたくないはずなのに――
頭の中では必死に理性が警報を鳴らし、言い訳の言葉を探そうとしているのに、喉の奥までせり上がってきた感情は、冷や汗とともに俺の思考をぐちゃぐちゃにかき乱していく。けど.....
正直に言えば……俺は、
俺は軽井沢恵という女子に、ずっと惚れていた。
それこそ一年の頃、気安く口に出せば「気持ち悪い」と一蹴されるだろうが、あれはまさしく一目惚れだった。クラスの中心で派手に笑い、賑やかに振る舞いながら、どこか危うくて、だからこそ目を離せない――そんな彼女の存在に、俺はいつの間にか心を奪われていた。
だが、当時の彼女の隣には同じクラスの平田という容姿も人望も完璧な超絶ハイスペック男子がいた。俺のちっぽけな恋心なんて、言葉にする以前の塵芥と同じだ。芽生えた瞬間に、呆気なく踏みにじられて砕け散っていた。だからこそ、「自分には関係ない」と諦めることで、どうにか心を保っていた。
その後、二年になって彼女が平田と別れたと耳にした時、俺の胸の奥で一瞬だけ「もしかして、俺にもチャンスがあるんじゃないか」という甘い期待が息を吹き返した ――だが、それが何だというんだ。
俺の根底にあるのはいつだって「平穏に生きたい」という臆病な言い訳だ。自身の意志の弱さと、傷つくことへの恐怖心から、結局は何も行動を起こせず、ただ遠くから眺めていることしかできなかった。そうやって自分の殻に閉じこもってきた卑怯者が、今さら何をかたろうというのか。
そして進級した時には、彼女はあの綾小路と付き合っていた。『アイツのいったい何がいいんだよ』と、ひねくれたルサンチマンを抱きもしたが、綾小路の秘めたスペックや底知れなさについては今さら語るまでもない。勝てる要素など最初から何一つ存在しなかったのだ。負け犬が遠吠えする資格すらない。
三年になり、彼女がその綾小路と別れたと知った時は純粋に驚いたし、どこかざわつく胸を抑えきれなかった。閉じ込めたはずの蓋が、音を立てて浮き上がりそうになるのを、必死に理性の手で押さえつけていた。
そして、一之瀬と軽井沢が接触したあの日のことだ。俺は「後味が悪い」とか「夢見が悪い」とか、もっとらしい理屈を並べ立てて彼女を助けた面持ちでいたけれど――本当は、そんな綺麗事じゃなかった。
本当は……本当は、ずっと軽井沢の隣にいたかったのだ。彼女の近くで、その笑顔を見ていたかった。 あの日、見捨ててしまえば楽だったはずなのに身体が勝手に動いてしまったのは、心のどこかで彼女に触れたかったのだ。
だからこそ、彼女と二人でエアホッケーやった時も放課後にアーマード•コア6で遊んだ時も、並んで夕飯を食べた時だって俺の胸は潰れそうなほど跳ねていたし、たまらなく嬉しかった。
俺は、自分自身の心にずっと嘘をつき続けていた。
『派手な女子や賑やかな女子よりも、静かで落ち着いた子の方が好みだ』なんて、傷つかないための省エネ男子のポーズを取っていた。だが違った。俺が本当にどうしようもなく惚れていたのは軽井沢のように明るく、傷つきながらも周囲を巻き込んで前を向こうとする人間だったのだ。
カッコつけて傍観者を気取っていただけのくせに、本当は、一番近くで彼女の救いになりたかったんじゃないのか――!
喉の奥がヒリヒリと痛む。隠し通したかった。こんな情けない独占欲も惨めな片思いも、一生墓場まで持っていくつもりだった。ただ単に――俺は軽井沢が好きで彼女が傷つくのが耐えられなかっただけ。
正直に言えば、俺は軽井沢と付き合いたい。クラス間の泥沼の争いになんて、本当はこれっぽっちも関わりたくない。彼女が笑ってくれるなら、そんな面倒な世界はどうだってよかった。
でも――彼女はそれを望んでいない。なら....もうカッコつけて傍観者を気取るのも自分の気持ちから目を背け続けるのも、ここで全て終わりにしよう。
「……そうだよ」
俺は腹を括り、一之瀬の瞳を真正面から見据えた。
「俺は軽井沢のことが好きだよ」
一之瀬は一瞬だけ目を丸くし、驚愕の色を浮かべた。だが、それはほんの一瞬で、すぐにいつものすべてを見透かしたような柔らかな笑みへと戻る。
「おぉ正直だね……でも、軽井沢さんは今でも綾小路くんに気があるみたいだよ?」
まるで、お前の恋路の芽など最初から存在しないのだと諭すような優しさに包まれた残酷な響きだ。しかし長い間胸の奥に押し込めて、誰にも言えずに腐らせてきたこの感情を吐き出した今の俺には、そんな小手先の揺さぶりなどもう届かなかった。
「確かに叶わないかもな……でも」
「惚れた女の子には幸せになってほしいだろ」
ぽろりと零れ落ちた言葉は自分でも驚くほどまっすぐだった。ずっと胸の奥底に溜め込んでいた泥のような感情だ。惨めで、臆病で、卑屈で、誰にも見せられないと思っていた俺の情けない初恋。それをこの地獄みたいな二人の前で晒してしまったというのに、不思議と後悔や惨めさは湧いてこなかった。
「……驚いたよ。和泉くんがここまでハッキリ言うなんてね」
「あぁ。もう吹っ切れたんだよ」
「吹っ切れた、ね……」
一之瀬は呟くようにそう言うと、顎に小さく手を添え、まるで不可解な数式でも解き明かそうとするかのように俺の顔をまじまじと見つめてきた。その可憐な立ち振る舞いとは裏腹に、瞳の奥に宿る眼光はどこまでも冷たく鋭い。
「でもね和泉くん。それってすごく矛盾してないかな?」
彼女は静かに一歩、俺との距離を詰めてきた。整った唇から紡がれる言葉は、優しく諭すようなトーンでありながら、確実に相手の退路を削ぎ落としていく。
「和泉くんは今までずっと、クラスの争いにも、誰が誰と付き合おうと誰が落ちていこうと、一切興味を示さなかった。誰の味方もせず、誰の敵にもならず……そうやって器用に『傍観者』の位置を保ち続けてきたじゃない。それが君の賢い生き方だったはずでしょう?」
「……だから何だよ」
「そんな君が、急に『軽井沢さんのため』なんて理由で前に出てくるなんて、おかしくない?」
一之瀬の瞳が、ふっと細められた。その奥に張り巡らされた緻密な計算と軽井沢恵という存在を完全に掌握・排除しようとする冷徹な意思が透けて見える。
「軽井沢さんが今置かれている状況も、彼女が選んできた結果だよ。私と綾小路くんの関係にしてもそう。外側にいる君が口を挟む筋合いなんて、本当はないんじゃないのかな?」
淡々と、けれど容赦なく傷口を抉ってくるような一之瀬の問いかけ。かつての俺なら、その圧倒的な正論と冷酷な視線に気圧され言葉を詰まらせて逃げ出していただろう。だが、今の俺には、そんな整えられたロジックなど何の意味もなさなかった。
「そもそも、和泉くんは基本誰に対しても不干渉だよね? 私が綾小路くんと何かしても、どうでもいいはずだよね?」
一之瀬が畳みかけるように尋ねてくる。その声には棘のような冷たさが混じり、まるで俺のこれまでの生き様や処世術を丸裸にして見せしめるかのような、意図的な探りが含まれていた。
俺は自嘲気味に乾いた鼻で笑った。
「そうだな.....基本はどうだっていい。他人の恋愛も、クラスの潰し合いも、あんな退屈な生存競争も、心底どうでもいい……だけどな!軽井沢の恋心をへし折ろうとしたお前はやっぱり大嫌いだし、彼女を振って路頭に迷わせた綾小路も大嫌いだ....!」
喉の奥でくすぶっていた黒い感情が、堰を切ったように一気に溢れ出していく。もう止める気などなかった。
「不干渉? そんなの面倒に巻き込まれたくないっていう臆病な言い訳のために俺が使ってた、薄っぺらい建前に決まってんだろ!綺麗な大義名分なんてどこにもない!俺はただの個人的な私怨で、お前ら二人のことが心底嫌いなだけだ!これが俺の今の本音だ!」
ヤケクソになって、心の奥底に何年も溜め込んでいた不格好な本音を二人の顔面に一気に叩きつけてやった。静まり返った道に荒い俺の息遣いだけがやけに大きく響く。
一之瀬の瞳が一瞬大きく揺れ、常に完璧に張り詰めていたその美しい仮面に耐え難い亀裂が入るのが分かった。彼女にとって想定外だったのは利害でも打算でもなく、純粋な「個人の嫌悪感」をぶつけてくる異分子が存在することだったのだろう。
そして、その隣に立つ綾小路は――相変わらずの無表情のまま、感情の色を一切浮かべず、どこか底の知れない海の底を覗き込むような無機質な視線で、じっと俺の全身を観察するように見つめていた。
「……言いたいことは全部言った。じゃあな」
これ以上ここに長居すれば、せっかく張った強がりが崩壊してその場で崩れ落ちてしまいそうだった。俺は二人の返答を待つことすら放棄し、踵を返して重い一歩を踏み出した。
夕闇の冷たい風が、火照りきった俺の頬を撫でていく。胸の奥を重く縛りつけていた「平穏」という名の呪いは、たった今、自分の手で完全に砕け散った。これからの学校生活が、地獄のような針の筵になることくらい分かっている。あの二人を同時に敵に回し、平穏な日々なんて二度と戻ってこないだろう。明日からは一之瀬の計算と、綾小路の底知れない観察眼に晒され続けることになる。
それでも――後悔は欠片もなかった。
傷つくのを恐れて自分の感情に蓋をし、安全圏から指を咥えて見ているだけの情けない自分には、もう絶対に引き返さない。たとえこの恋が報われなくても。どれだけ無様で惨めな結末が待っていようとも。
俺は俺のやり方で、ただ一人大切な彼女の笑顔を守るために抗い続ける。夕日に染まるケヤキモールの街灯が、ひとつ、またひとつと灯り始めた。俺はカバンのストラップを強く握り直し、前だけを見つめて、暗くなり始めた夜の道へと足を踏み出した。
本来ならもう少し先で書く予定の話でしたが、前倒しで投稿します。