堀北と軽井沢による『綾小路君撃破同盟』が結ばれ、更に偶然そこにいた俺もその同盟に加入し頭を悩ませながら自室に戻り、シーツに沈み込む感触に身を委ね、目を閉じた瞬間――ピロンと、机の上に置いたスマホが、静かな部屋に通知音を響かせた。
嫌な予感しかしない手つきで腕を伸ばし、画面を点ける。 LINEの画面に表示されていたのは、一之瀬帆波からのメッセージだった。思い返せば一年生の時、なぜか一之瀬グループの集まりに混ざって遊ぶ機会があり、その時に奇跡的に連絡先を交換できたのだ。
あの当時、画面に『一之瀬帆波』の名が表示された時は心の中で『ぃやったーー!!!!』と、どこぞの盟主王並みに喜んだものだ。 だが……今となっては、これほどブロックボタンを押したい連絡先は中々存在しない。俺は既読にならないようにLINEを読む。
『和泉くん、あの時は軽井沢さんのこと気遣ってくれてありがとね^_^』
「今度、その件で二人でお話しできないかな?』
「……」
俺は静かにスマホの画面を暗転させ、暗闇の中で、俺は天井を見上げながら呟いた。
「……綾小路、頼むからお前の元カノと今の本命の管理くらい自分でやってくれ……」
明日の事は明日の俺に任せよう....そう結論付けて俺は寝た。
翌朝。不快なアラーム音で目を覚ました俺は、重い体を起こしてベッドの端に腰掛けた。真っ先に視界に入ったのは、机の上に置いたスマホだ。昨夜届いた一之瀬からのLINEが脳裏に焼き付いている。
『今度二人でお話しできないかな?』
……通知を既読にするのすら躊躇して、結局昨夜は画面を伏せたまま寝た。未読スルーという名の高度テクだ。相手はあの一之瀬だぞ? 普通なら男子高校生にとってご褒美以外の何物でもないシチュエーションだ。だが今のあいつはカワ・イジェン湖に生身で飛び込むくらいヤバイ。関わったら最後、綾小路を巡るドロドロの愛憎劇に巻き込まれて骨も残らん。
「……朝から憂鬱すぎる」
溜息を吐きながらクローゼットを開け、ハンガーに掛かった着古した黒ワイシャツに腕を通す。念のために言っておくが、俺が黒ワイシャツを着ているのはイキっているからではない。
一年生が入学して一週間経った頃、優雅に飲んでいた極甘のカフェオレを盛大に溢して白シャツを全滅させたからだ。校則でパーカーの着用は禁止、替えの白シャツは洗濯中。絶体絶命の状況で仕方なく持参していた私物の黒ワイシャツを着て登校したのが始まりだ。
その時、クラスの太陽だった櫛田に「それ、すっごく似合ってるよ」と眩しい笑顔で褒められ、単純な俺は「マジか!?」と調子に乗って黒ワイシャツを追加購入し、定着させてしまったのだ……後に櫛田の本性を知って「あの笑顔も全部演技だったのか?」と人間不信に陥るわけだが。
そして何より最悪なのが、2年に進級したタイミングで龍園の野郎が白シャツから黒シャツへと仕様変更しやがったことだ。 おかげで周囲から「あいつ、龍園の真似してイキってんの?」みたいな痛い誤解をされかねない空気になり、俺は毎日ひそかに『お前が白に戻せよ……』と呪いを込めて龍園の背中を睨んでいる。俺が先に戻す気はねぇけど。
身支度を整えてから、朝食を食べ寮を出て校舎へと向かう。校門をくぐると前方に別クラスの集団が見えた。その中心で、だらしなく制服を着崩した龍園が歩いている。当然のように胸元から覗く黒ワイシャツ。
俺は心の中で不毛な先住権を主張しつつ、俺は視線を逸らして自分たちの教室――3年Aクラスへと向かった。
◇
「おはよう、和泉くん」
教室のドアを開けた瞬間、飛び込んできたのは完璧な営業スマイルだった。 声をかけてきたのは櫛田だが、正直話しかけたくない。
「あぁ、おはよう……」
俺は必要以上に視線を合わせず、自分の席へと向かった。 あの裏の顔――豹変してナイフを突きつけてくるような殺気を知っている身としては、彼女の笑顔を見れば見るほど背中に嫌な汗が伝うのだ。教室の空気は、Aクラスに昇格した歓喜……など微塵もなく、重苦しく沈んでいた。 「綾小路清隆」の名札が消え、Cクラスへ移籍したという事実と特別試験の敗北はクラスメイトたちの心に重くのしかかっていた。
最前列では堀北が険しい顔で手帳を眺めており、平田が気遣わしげに周囲の生徒へ声をかけて回っている。そんな中、ガラリとドアが開き、軽井沢が入ってきた。
「みんな、おはよー」
いつものように少し甲高くて強気な声だ。佐藤や松下、篠原といった女子グループが、待ってましたとばかりに彼女の周りに群がる。誰もが綾小路との破局を心配し、触れるべきか迷っているのが手に取るように分かった。
「軽井沢さん大丈夫……?」
松下が気遣うように声をかけると、軽井沢は髪を指先で弄りながら、いつものギャルっぽい態度で笑ってみせた。
「えー? 何がぁ? 私は全然平気だし! ていうか、別にいつまでも引きずるようなタイプじゃないしねー」
完璧な強がりだ。コンビニのイートインで「あいつにとって何だったのかな」みたいな会話を消えそうな声で呟き、レモンティーのストローをいじっていた姿を知らなければ、俺も騙されていたかもしれない。
俺が呆れと感心が混ざった視線を送っていると、ふと、女子たちの人垣の隙間から軽井沢と目が合った。軽井沢は一瞬だけ表情をピクリと硬くさせたが、周囲に悟られないギリギリのタイミングで、俺に向かって小さく、本当に小さくアッカンベーをするように舌を覗かせた。
そして、あの時の「ミックスサンド」のお礼とばかりに、微かに口元を緩めて見せたのだ。
……目立つからこっち見るなよ。
俺はヒヤヒヤしながら即座に視線を外した。 だがあの時の通夜みたいな顔に比べれば、いくらか覇気が戻っている。少しは吹っ切れたのか、それとも強がる余裕が生まれたのか。いずれにせよリスクを冒してまで付き合った甲斐はあったのかもしれない。自分の机にカバンをかけ、俺は深く息を吐きながら席に腰を下ろした。
「さて……新しく買ったラノベでも……」
かばんの底から取り出したのは、春休み中に買い込んだ『学園もの』のライトノベルだ。中学のころの俺は、どこにでもいる男子中学生らしく「ラノベみたいな非日常を体験してみたい」なんて呑気な妄想を膨らませていたが、今の俺は絶賛その『非日常』を体験中だ。しかも、ちょっとでもやらかせば即・退学という、笑えない条件までセットでついている。
マジで笑えねぇ.....
――その時だった。
ガラガラ……と、教室の前ドアが静かな音を立てて開いた。
「失礼しまーす」
朝のホームルーム前、誰もが思い思いに過ごす騒がしい教室内に、一瞬だけ異質な静寂が混じる。クラスメイトの誰かが、不思議そうに声を漏らした。
「え....一之瀬さん……?」
朝のこの忙しい時間帯に、他クラスの生徒がわざわざこちらの教室にやってくること自体が稀だ。ましてや、姿を現したのがあの『一之瀬帆波』となれば、注目の集まり方がまるで違う。春の暖かな陽光を背に受けて立つ彼女は、相変わらず誰もが見とれるような、清々しく美しい笑顔を浮かべていた。一目見れば誰もが毒気を抜かれるような、完璧な美少女の姿。
――だが。
その可憐な瞳の奥に潜む「ナニカ」をうっすらと察している俺の直感が、脳内で全力の警報を鳴らし始めだが、その願いも虚しく、一之瀬は教室の中を一通り見回すと、迷いのない足取りで一直線に........
俺の席に向かって歩いてきた。
「……っ!?」
次の瞬間、教室中の視線が一斉に俺と一之瀬の二人に集中した。平田が不思議そうに首をかしげ、堀北が不審の念を隠そうともせず眉をひそめ、軽井沢に至っては「は? なにしてんのコイツ?」と言いたげな顔でこちらを凝視しており視線が物理的な針になって刺さりそうだ。
俺は速攻で開いていたラノベを鞄に叩き込み、席を立って教室を抜け出そうとした。
「あ、待って和泉くん」
だが、逃亡の初動を見事に先回りされ、一之瀬に呼び止められてしまった。完全に逃げ場を失った俺は諦めて机に座り直し、彼女は俺の目の前でぴたりと足を止めた。柔らかく、けれどこちらの逃げ道を完全に塞ぐような絶妙な距離感で体をかがめると、俺のに向けて穏やかな声音で囁いた。
「おはよう和泉くん……昨日のLINE、見てくれたかな?」
脳内で「命のカウントダウン」が爆音で鳴り響いた。周りからの殺気混じりの視線が痛すぎる。男子からの嫉妬と、女子からの疑念。クラス中の注目が一瞬で俺に収束していた。
「あー……見るのが遅くなって……返信してなくてな....」
ダラダラと背中に冷や汗を流しながら、俺はどうにか声を絞り出す。そんな俺の引きつった反応に対し、一之瀬はとびきり甘くて、どこか底知れない微笑みを返してきた。
「ううん、気にしないで。……それで、今日の放課後なんだけど、お話しする時間、作ってくれるよね?」
首を少し傾け、まっすぐに見つめてくる一之瀬。
……一つ質問させてくれ一之瀬。なんで俺が断らない前提で話が進んでんの?俺が断ったらどうするつもりだったんだよ.......まさかクラス中の視線が集中しているこの状況で、俺が断れるわけがないと踏んで……確信犯でやってるのか……!?
「……分かった。今日の放課後、時間を作る」
ここで無駄に抵抗して騒ぎを大きくすれば、クラス内での俺の立ち位置が致命的なことになりかねない。そう判断した俺は、諦めとともに小さく頷くしかなかった。
「ふふ、よかった! ありがとう、和泉くん」
俺の返答を聞くと、一之瀬は満足そうに微笑み、すっと体を起こした。
「じゃあ、放課後にパレットで待ってるね。逃げちゃダメだよ?」
語尾に音符が見えそうなほど軽やかな声だったが、「逃げちゃダメ」の部分だけ妙にリバーブがかかって聞こえたのは俺の気のせいだろうか。
一之瀬は教室内の奇妙な静寂など意にも介さず、軽やかな足取りでAクラスの教室を後にしていった。
「……和泉」
即座に隣の席の男子が、死んだような目で俺の肩に手を置いてきた。
「……処す」
「待て話を聞け。俺は被害者だ。何もしていない」
「一之瀬さんに『逃げちゃダメだよ?』とか言われて何もしてないわけねぇだろ! 吐け! どこでどうやって接触した!」
「落ち着けって! 事故だ!」
必死に弁明していると、ガラリと再びドアが開き、担任の茶柱先生が入ってきた。手に教務用のファイルと出席簿を抱えている。
「ホームルームを始めるぞ....」
絶妙なタイミングでの先生の登場に、俺は心から感謝した。命拾いしたとはこのことだ。男子連中は渋々といった様子で自席に戻り、俺をギロギロと睨みつけながら着席した。
だが、安堵したのも束の間。先生が教壇に立ち、連絡事項を話し始めている最中、斜め前の席から殺気を感じて視線をやると――軽井沢が死んだような目でこちらを振り返っていた。
しかしAクラスの状況においてほとんどのクラスメイトが俺に向ける視線は、単純な嫉妬以上に『重い疑念』だ。なにしろ今の一之瀬帆波は、「綾小路大好き宣言」をして、他クラスも含めた無数の男どもの心を粉砕したばかりだ。若干俺もショックを受けたからな。彼女が綾小路清隆という男に異常なまでの執着を見せていることは、すでに学年中の周知の事実となっている。
それなのに、なぜAクラスで平田や堀北といった中心人物ならまだしも、俺のもとへ直行し、放課後に二人きりで会話の約束を取り付けるのか?
『コイツ、Cクラスの綾小路やDクラスの一之瀬と裏で繋がってんのか?』
『Aクラスを裏切る気か?』
クラスメイトたちの刺さるような視線からは、そんな疑念がひしひしと伝わってくる。
朝のホームルームが終わり、教員が教室を退出した瞬間、俺は弾かれたように席を立った。クラス内に漂う、あの絶妙に気まずい空気と好奇の視線。これ以上あそこに留まっていたら、クラスの連中に物理的に詰問されかねない。俺はそそくさとなじみの薄い廊下へ逃げ出した。
ふう、と息をつき、授業までの時間をどこで潰そうかと頭を巡らせた――その矢先だった。
「――ちょっと来て」
「っ!?」
背後から掛けられた冷ややかな声と同時に、ブレザーの袖をぐいっと強引に引っ張られた。振り返る隙すら与えられず、俺は校舎の陰、人気のない階段の踊り場へと速やかに連行される。捕獲者は、案の定――軽井沢恵だった。
「軽井沢……急に引っ張るなよ……」
「.....」
階段の壁に背を預けた俺の前に、軽井沢が腕を組んで立ちはだかる。その表情はあからさまに不機嫌そのもの。朝の一之瀬の襲撃といい、今日の俺の命運はすでに尽きかけているんじゃないだろうか。軽井沢は低く、トゲの混じった声でじりじりと距離を詰めてくる。
「ねえ……『一之瀬さんは危険だ』とか言ってたの、誰だっけ?」
「……」
「あからさまに鼻の下伸ばして放課後の約束とりつけるって、どういうこと? 私の頼みは理由つけて断るくせに、一之瀬さんの頼みは即OKなんだ? ふーん……」
「ふーん」の文字に込められた圧力が凄まじい。冷気すら感じさせる怒涛のトゲに、俺は冷や汗を流しながら必死で手を振った。このまま黙っていたら、要らん誤解で社会的に抹殺される!
「鼻の下なんか1ミリも伸ばしてねぇから!! むしろ脅迫されたんだよ俺は!」
「脅迫ぅ? あの笑顔で『放課後お話ししてくれるよね?』って言われてただけじゃない。どこが脅迫なのよ」
ジト目のまま眉をひそめる軽井沢に、俺は頭を抱えた。
「あの状況を思い出してみろ、クラス中の視線が集まってる中で、あの距離感で囁かれたんだぞ? あそこで俺が『いや、無理です』なんて断ってみろ。男子全員敵に回して、俺の高校生活が詰むわ!」
「……まあ、確かにあの状況で断るのは度胸いるでしょうけど……」
「あれは合意の上での約束じゃない、逃げ道を塞がれた上での『実質的な脅迫』なんだよ!」
熱弁する俺を、軽井沢はまだ疑わしそうな目で見つめている。だが、最初ほどの苛立ちからは少しだけ毒気が抜けたようだった。
「……ホントに、浮かれてOKしたわけじゃないのね?」
「当たり前だろ、むしろ放課後に何を聞かれるのか生きた心地がしねぇよ!」
心底から絞り出した俺の悲鳴に、軽井沢は小さく溜め息をつき、組んでいた腕を解いた。
「はぁ……全く。あんたが頼りないから、見てるこっちまでハラハラするじゃない……」
不満げにブツブツと文句を言いながらも、軽井沢は少しだけ柔らかくなった表情で俺を振り返った。
「……あんな可愛い顔して、やってることはヤバイよね。朝からクラス中を巻き込むなんて……」
軽井沢は呆れたように首を振ると、壁から体を離して俺との距離をほんの少し縮めた。
「で? 放課後、一之瀬さんと何話すつもりなの? また綾小路君のこと?」
「知らん……と言いたいところだが、十中八九そうだろうな。あいつの今の関心事は綾小路のことだけだし。それに……」
「さっきの一之瀬の顔見たか? 表面上はいつも通りのスマイルだったが、目の奥が全然笑ってなかった。『逃げちゃダメだよ』の圧がマジで洒落になってない」
「……うん、まあ……最近の一之瀬さん、雰囲気が変わったのは私も嫌でも分かるけどさ」
軽井沢は眉をひそめ、少しだけ不安そうな色を瞳に宿させた。彼女にとっても、かつて自分を弄び、そして突き放した綾小路という存在、そしてその綾小路に執着して変貌を遂げた一之瀬の存在は、決して他人事ではないのだ。
「大丈夫なの? あんた、また変なことに巻き込まれて……私の時みたいに、変に抱え込んだりしないでよ?」
ポツリと呟かれたその言葉には、先ほどまでの嫉妬混じりのトゲはなく、純粋な俺への懸念が含まれていた。
「……俺の保身能力を舐めるなよ。一之瀬が何を仕掛けてこようが、俺は『何も知らない、ただの一般生徒』を通し切る。怪しい話になりそうだったら、速攻で帰る予定だ」
「なにそれ、ダッサ……」
俺の情けない逃走計画に、軽井沢は思わず「ふふっ」と吹き出した。その表情からは完全に苛立ちが消え、いつもの調子が戻っていた。
「まあいいわ。とりあえず、放課後のカフェには私も影からついていってあげる」
「余計な火種を増やすなよ」
「あんたが速攻で一之瀬さんに言いくるめられて、変な約束させられないか見張るためよ。ほら、一応『同盟』なんだから、メンバーの監視とフォローは当然でしょ?堀北さんにも伝えとくからさ」
「監視は要らんし、同盟なんて結んだ覚えはないって何度も言ってるだろ……」
俺が頭を抱えると軽井沢はイタズラっぽく胸を張って見せた。
「大丈夫~!私は陰から見守ってあげるから、せいぜい一之瀬さんの猛攻から生き延びなさいよね」
チャイムの予鈴が、校舎内にむなしく響き渡る。
「じゃ、授業始まるから戻るわよ。……あ、一之瀬さんに鼻の下伸ばしたら、後で堀北さんに言いつけるからね!」
「伸ばしてないって言ってんだろ。アイツの声はもう神経逆撫でする甘美な誘いだ」
くるりと背を向け、軽快な足取りで階段を登っていく軽井沢。放課後の一之瀬とのサシのお茶と、影から見張るとか言い出した軽井沢。 そして教室で手ぐすね引いて待っているであろう堀北。
「……神様、俺の胃袋にコーティングを施してください……」
俺は絶望的な放課後へ向けて、重い足取りで教室への廊下を歩き出すのだった。
みなさんは覚醒した一之瀬と2人でお話してみたいですか?※生きて帰れるかは分かりません。
和泉はこの学校に揉まれてるのでメンタルは図太くなっています。そうでもしないも生き残れないので。