パレットの自動ドアを出ると、夕暮れの冷たい風が頬を撫でた。 店内での重苦しい空気から解放され俺は深々と溜息を吐き出す。手首の血管から一気に毒素が抜け落ちていくような感覚だ。
「……死ぬかと思った」
かつては「学園一の善人」として男子生徒たちの憧れの的だった少女は、今や「笑顔で逃げ場を奪ってくる美しき捕食者」へと進化を遂げていた。 一口も残さず飲み干した和紅茶の若干の渋みが未だに舌の上に残っている。
絶対に俺の反応を楽しんでただろ…俺は二度と一之瀬とサシでカフェに入らないことを心に誓う。2年前の俺なら『頭イカれてんのか?』と絶対言う自信があるぞ....そんだけ俺は変わってしまったのだろう。俺は寮へ向けて脚を進めようとした――その時だった。
「案外、長かったじゃん」
植え込みの陰、ベンチの端っこに腰掛けていた人物が、立ち上がりながら声をかけてきた。制服のスカートをたなびかせ、片手に飲みかけの缶ジュースを持った少女。軽井沢恵だった。
「……マジで見ていたのか?」
俺はあからさまに嫌そうな顔をして足を止めた。まさか本当に待ち伏せされていたのだろうか。放課後、教室から最速で脱出した俺を追ってきたというのか。軽井沢は髪をふわりとなびかせ、腕を組みながら歩み寄ってきた。いつもの意地悪そうなギャルスマイルを浮かべているが、その瞳には探るような光が宿っている。
「別にー? 買い物があって立ち寄ったら、た・ま・ま・た、窓際の席で一之瀬さんとデレデレおしゃべりしてる和泉くんが見えただけだし」
軽井沢のあからさまな喋り方に俺は軽井沢が本当に見ていた事を確信する。
「デレデレしてねぇよ。俺の顔を見てみろ。尋問を終えた容疑者みたいな顔してるだろ」
「で? 本当に何話してたの? 『和泉くんって優しいんだね』とか言われて鼻の下伸ばしてたんでしょ?」
煽ってくる軽井沢。 だが、その強がりな態度の裏に、微かな不安が見え隠れしているのを俺は見逃さなかった。一之瀬が何を聞き出そうとしていたのか。内心ヒヤヒヤしているのかも知れない。
「別に大した話はしてない。『軽井沢のこと心配だったから助けてくれてありがとー』って言われて、俺が『腹減ってたからサンドイッチ食っただけだ』って返しただけだ」
「……え?」
軽井沢がぽかんと口を開けた。
「それだけ……?」
「当たり前だ。言っとくがな、俺は口の軽いやつと、人を道具みたいに扱うのと、人の不幸をダシにしてポイント稼ごうとする奴が一番嫌いなんだ」
俺が淡々と言い放つと、軽井沢は固まったまま、パチパチと瞬きをした。
「……あ、そう。ふーん……」
急速に彼女の顔が赤くなっていくのが見えた。 照れくささを隠すように、軽井沢はあわててジュースに口をつけ、ゴクゴクと勢いよく飲み干した。
「……べ、別に? 私は何も隠すことなんてないし! 一之瀬さんに何言われたって痛くも痒くもないし!」
軽井沢はプイッと横を向いたが、その耳の先端まで真っ赤に染まっていた。2年前の彼女なら、ここでキーキーと金切り声を上げて周囲の女子を味方に付け、俺を悪者に仕立て上げていただろう。だが今の彼女は、ただの「素直になれない普通の女の子」だ。
「……ねえ」
帰り道、並んで歩く軽井沢が、ぽつりと小さく声を漏らした。
「どうした?」
「……綾小路君のこと。やっぱり何か言ってた?」
一瞬、軽井沢の声に切なさが混じった。 強がってはいても、やはり気になるのだ。綾小路の隣に新しく並び立とうとしている一之瀬の存在が。そして、彼らが何を考えているのかが。俺は夕空を見上げながら正直に答えた。
「……『絶対に手に入れたいモノがある』ってさ。かなり本気だったぞ……目つきが、一年前の一之瀬じゃなかった」
「……そっか」
軽井沢は短く返事をすると、ぎゅっとファンタの空き缶を握りしめた。
「……負けないから」
「ん?」
「私も、負けないから。振られたからって、惨めなまま終わるつもりはないし。あいつに....綾小路くんに『振らなきゃよかった』って後悔させてやるんだから」
街灯の光に照らされた彼女の横顔には、さっきまでの弱々しさは微塵もなかった。 一年生の頃の「威圧的な一軍ギャル」の強がりではなく、挫折を知り、痛みを経験した人間だけが持つ、本物の強さの芽生え。
……凄いな
俺は感心した。本当にこの学校の生徒たちは化ける。綾小路という異物が混ざったことで、全員が歪で、けれど確実に強く変化していく。....俺も俺で、変に図太く精神が成長した気がする。
「……まあ、頑張ってくれ」
「ちょっと! そこは『応援してるよ』とか言う場面でしょ!同盟関係忘れたの!」
「おーえんしてる」
「棒読み!ほんとつまんない奴!」
軽井沢は怒りながらも最後はフッと笑い、少し先を歩き始めた。 軽やかなステップで重苦しい気配は、もうすっかり払拭されていた。一之瀬への対応もギリギリでかわした。これで一難去った....
ピロン
ポケットの中で、スマホが嫌な音を立てた。嫌な予感しかしない手つきで画面を開く。 差出人は堀北鈴音。
『和泉くん。今日の放課後、一之瀬さんと何を話していたの? 明日の朝速やかに説明してくれる?』
「……」
誤解されないように言っておくが、俺と堀北はプライベートの個人LINEを交換するほど仲が良いわけではない。クラスLINEのメンバーには彼女も入っているため、そこから俺の個別チャットへ直接連絡を飛ばしてきたのだろう。
俺は静かにスマホをポケットに押し戻した。……忘れていた。Aクラスのリーダー・堀北が俺と一之瀬と接触したことを見逃すような人ではないと言う事を。
「どうしたの?」
隣で不審そうな顔をしている軽井沢に、俺は画面を見せると、軽井沢は一瞬ハッとした顔をして、気まずそうに視線をそらす。
「あー……ごめん。一之瀬さんと会ったこと、堀北さんに報告するの忘れちゃった」
「……」
俺は鋭いツッコミを入れようと口を開きかけ……そして、よく考えたら俺自身も堀北に事後報告を怠っていたことに気づき、そっと口を閉ざした。まあ、どっこいどっこいか。いや、怒られるのはいつも俺の役目なんだが。
「……なぁ、軽井沢」
「ん? なに?」
振り返った軽井沢に、俺は死んだような目で問いかけた。
「明日、俺が学校で堀北に処刑されそうになったら、かばってくれるか?」
「うーん、難しいかも」
即答だった。
……知ってたよ。夜の帳が降りる中、俺は自分の胃の寿命が卒業まで持つかどうか、本気で心配になり始めていた。
「どうにかなるって、和泉くん!」
軽井沢は「じゃ、また明日!」と悪びれもせずヒラヒラと手を振り、自分の寮の部屋へと去っていった。一人残された俺は、冷え切った夜風に吹かれながら、重い足取りで自分の部屋へと向かう。
明日、確実に面倒な尋問が待ってるぞ、これ....
翌朝。俺は重い足取りで校舎へ続く道を歩いていた。昨夜届いた堀北からのLINE――『明日の朝、速やかに説明して』という死刑通告のようなメッセージが、未だに脳裏から離れない。
「……ハァ」
本日何度目かわからない溜息を吐き出す。 せっかくDクラスから泥水をすする思いでAクラスに這い上がってきたというのに、俺を待ち受けていたのは誇らしい栄光ではなく、女子たちのドロドロとした愛憎劇の巻き添えだった。
誰だ「Aクラスに入ればバラ色の高校生活が待っている」なんて言ったやつは。出てこい、問い詰めてやる。※だれも言ってません。
教室のドアを静かに開けると、朝のホームルーム前独特のガヤガヤとした喧騒が聞こえてきた。 だが、俺が足を踏み入れた瞬間、最前列の席から放たれた絶対零度の視線が、俺の皮膚を正確に射抜いた。堀北だ。彼女は腕を組み、背筋をピンと伸ばした完璧な姿勢で自席に座っていた。その眼光は完全に獲物を待ち構える肉食獣のそれである。
俺はカバンを肩にかけ直し、観念して堀北のデスクへと歩み寄った。
「おはよう、堀北」
「おはよう。和泉君」
堀北は眉ひとつ動かさず、氷のような声音で返してきた。彼女は手元の本をパタンと閉じると、まっすぐに俺を見上げてくる。
「単刀直入に聞くわ。昨日、あなたがケヤキモールで一之瀬さんと二人で会っていた目的は何? CクラスのリーダーがAクラスの生徒に接触してきた理由、当然納得のいく説明ができるわよね?」
流石はAクラスを率いるリーダー。周囲のクラスメイトたちも、心なしか会話のトーンを落としてこちらを盗み見ている。昨日の朝、一之瀬が自席までやってきた光景を見ているだけに、全員がこの「尋問」の行方を気にしている。
堀北の追及をどうにか交わし、綾小路の動向や一之瀬の変化に対して抱いている懸念に触れる クラス全体の空気や、今後の波乱を予感させる展開にする周囲の視線が集中する中、俺は堀北の冷徹な瞳を真っ直ぐ見返した。ここで下手に動揺を見せれば、堀北は容赦なく追及を深めてくる。それに、教室のあちこちから突き刺さる男子どもの嫉妬と殺気の混ざった視線をいなすためにも、態度はどこまでも「無関心」を装うのが正解だ。
「……ただの世間話だ」
「世間話ね」
堀北は眉をひそめ、人差し指でトントンと本の表紙を叩いた。規則的なその音が、尋問室の取り調べみたいな圧迫感を醸し出す。
「彼女がわざわざAクラスの教室まで足を運んで、あなたを指名してまで呼び出した理由が『ただの世間話』で済むと思っているの? 彼女は今、Cクラスのリーダーとして、そして……綾小路くんの移籍に伴う環境の変化の中で、大きく動き始めているわ」
堀北の口から出た「綾小路」という名前に、教室の空気がピリッと張り詰めた。最前列の堀北から少し離れた席で、軽井沢が佐藤たちと話す振りをしながら、こちらの会話にじっと耳を澄ませているのが気配で分かった。自分が話題に上がらないか、ハラハラしているのだろう。
「嘘だと思うなら一之瀬に直接聞けばいいだろ。あいつが探ってたのは、クラス替え後のAクラスの様子と……まあ、綾小路が抜けた後の俺たちの『揺らぎ』だよ。要するに様子見だ」
「……様子見?」
「あぁ。昨日、直接顔を突き合わせて確信した。あいつはもう、昔みたいに『みんなで仲良く』なんて生ぬるいこと考えてない。敵潰してでも自分のクラスを勝たせる……いや、綾小路の期待に応えるために何でもする顔をしてた」
嘘は言っていない。一之瀬の「絶対に欲しいモノがある」という言葉とその眼光の重さは、紛れもない本物だったからだ。軽井沢の秘密を守りつつ、堀北に「一之瀬への警戒」という最も重要な情報を与える。これによって、俺の私的なカフェデート疑惑を「敵国のリーダーによる接触と情報収集」という公的な警戒事項へスライドさせる高度な話題逸らしだ。
堀北はしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがて探るような視線を収め、小さな溜息を吐いた。
「……そう。あなたも彼女の変化を感じ取っていたのね」
「感じ取らない方が無理だろ。あんな重い圧を至近距離で浴びせられたら、誰だって気づく」
「あなたが一之瀬さんに情報を売るような真似をしないことくらいは分かっているわ。ただ……今の彼女は危険よ。綾小路くんがCクラスへ移籍したことで、彼女がどう化けるか読めない部分が多すぎる。無駄に接触して余計な隙を見せないで頂戴」
「言われなくても二度とごめんだ。俺の胃が持たん」
俺が本気で嫌そうな顔をすると、堀北は納得したようにうなずき、本を開き直した。
「分かればいいわ……もうすぐホームルームが始まるわよ」
「そうだな」
解放された俺は、深々と胸を撫で下ろしながら自分の席へと向かった。 途中でチラリと軽井沢の方を見ると、彼女はホッとしたように胸に手を当て、俺と目が合うと『グッジョブ』とでも言いたげに、微妙な小顔で頷いて見せた。
(感謝するなら明日からマウンテンデュー奢れよ……)
そう心の中で毒づきながら席に腰を下ろすと、ちょうどガラガラとドアが開き、茶柱先生が入ってきた。
「全員、席に着いたな。……これよりホームルームを始める」
教壇に立つ茶柱先生の表情は厳しく、これから始まる3年目の戦いがどれほど過酷なものになるかを物語っていた。かつて綾小路清隆の名があった空白の場所。そして、覚醒した一之瀬帆波という脅威。傷を抱えながらも前を向こうとする軽井沢恵とクラスを率いる堀北鈴音。
教壇に立つ茶柱先生の声が響き渡る教室で俺は誰にも聞こえないように、本日何度目になるかわからない溜息をそっと吐き出した。省エネ主義。目立たず余計な摩擦を起こさず、ただ平穏に高校生活を終える。それが、高度育成高等学校に入学して以来、俺が掲げ続けてきた唯一にして絶対の目標だったはずだ。
だが――そんな甘い幻想は、もう綺麗さっぱり捨て去るしかない。一之瀬には狙われ、軽井沢とは秘密を共有し、堀北からは尋問を受け、挙げ句の果てにクラス中から注目の的だ。何が省エネだ。すでに俺の平穏は木端微塵に打ち砕かれている。
目立つことを完全に避けるなんて、今の俺の立ち位置ではもう不可能だ。ならば、目標を下方修正……いや、再設定するしかない。どれだけ泥をすすることになろうが、どれだけ厄介事に巻き込まれようが、何がなんでもAクラスのまま無事に卒業すること。
それが、今の俺に残された唯一の生存戦略だ。
なるべく普通の主人公にしようと思ったが、よう実世界で普通の主人公になってしまった。つまる所、和泉は一逸人です。