一之瀬だの堀北だの軽井沢だの、綾小路に未練タラタラどころか、そのうち1人は愛通り越して病気レベル且つ治療不可能で病んでる女子たちを相手にしておきながら、胃が痛いくらいで済んでる俺を、そろそろ誰か盛大に褒めてくれてもいいんじゃないだろうか。
冗談抜きでキツい。そんな現実の地獄を一時的にでも忘れるために、俺は学校の昼休み、自販機の前で相変わらずの――マウンテンデューを押した。
ピッ、という淡々とした機械音と共に、取り出し口に見慣れた缶がゴトンと落ちてくる。俺はそれを取り出し、プルタブを開けようとしたのだが……連日の精神的疲労のせいか、うっかり手が滑って缶を床に落としてしまった。
「やべっ」
無情にも回転しながら俺の足元から離れていく缶。お前まで俺を嫌うのか......それの存在に気づき、かがんで拾い上げてくれたのは、同じクラスメイトの三宅明人だった。近くには長谷部波瑠加、そして幸村輝彦もいる。
「落としたぞ、和泉」
「ありがとう、三宅」
缶を受け取りながら、俺は心の中で静かに冷や汗を流す。この3人は、綾小路と、そして1年前に退学してしまった佐倉愛里を含めた5人で『綾小路グループ』という仲良しグループを作っていた。
だが、1年前の『満場一致特別試験』――あの悪夢のような特別試験の最後の課題。『クラスメイトが1人退学になる代わりに、クラスポイント100を得る』という選択肢に対し、綾小路は最初、クラスを裏切っていた櫛田を退学に追い込もうとした。櫛田の本性が白日の下に晒されたのはここからだ。
しかし、堀北の介入によってその方針は撤回され、最終的に綾小路が提示したのは「クラスで最もOAAが低い生徒」――つまり、佐倉愛里だった。
長谷部は最後まで激しく拒否し続けたが最後は佐倉本人が自分を差し出す形で退学を受け入れ、クラスは100ポイントを手に入れた。
正直、俺はあの試験でアレコレ言える立場では無い。結果的に俺も佐倉の退学に賛成の票を入れ、今ここに居る。自分に「仕方なかった」「あの場では多数派に乗るのが生存戦略だった」と言い訳を並べるのは簡単だ。だが、自分が教室の隅で震えながら賛成のボタンを押したあの瞬間の感触だけは、今でも指先に残っている。
クラスのポイントという目先の利益のために、仲間を切り捨てる選択に自分も加担したという事実。俺だって手は汚れているんだ。だからこそ、あの悲劇を真正面から背負い、傷つきながらも必死に前に進もうとしている彼らを直視するのが、たまらなく惨めで後ろめたい。自分の保身のために他人の犠牲を目をつぶって受け入れたあの重圧――あんな胸が引きちぎられるような地獄の選択なんて、二度と御免だ。
当然、その後グループは崩壊。その後の文化祭を経て一通り表面上の和解は果たしたようだが、綾小路は結局Cクラスに移籍。遺された3人の絆はより強固になったものの和解後に彼らが望んだ「グループへの復帰」を、綾小路はあっさりと拒否した。
……今の俺からすれば、綾小路が拒否したのは気まずさや遠慮からじゃない。あの野郎にとって、もうグループに身を置く「価値」すらなくなったと判断したからじゃないのか、と冷めた思考が頭をよぎる。そんな深い傷と因縁を抱えた3人だが、どういうわけか俺にとっては「綾小路に関連しすぎている危険人物たち」に他ならない。できることなら、あまり関わりたくないのが本音だ。
「最近大変そうだな、和泉」
身構える俺に対し、幸村が意外にも同情を込めた、労うような口調で話しかけてきた。
「あぁ……最近のポイント出費で、胃薬の購入割合が高くなってるのが一番の悩みの種だ」
俺が遠い目でお茶を濁すと、長谷部がくすっと悪戯っぽく笑いながら横から顔を覗かせてきた。
「大変そうだねぇ、和泉君。モテモテらしいじゃん? もしかして春が来た感じ?」
「長谷部……俺の置かれてる境遇を少しでも知ってるなら、あんな地獄絵図を『春が来た』なんて言葉で表すのは大いに間違ってるぞ」
俺は手に持ったマウンテンデューをギュッと握り締め、心底疲れ切った溜息を吐き出した。
「あはは、ごめんごめん。でもさ、あの堀北さんと軽井沢さんと一緒にいるところ、クラスの女子の間でも密かに噂になってるよ?」
長谷部が面白がるように口元を緩める。だが、その瞳の奥には、かつてグループの中心にいた「あの男」の名前を直接口に出せない、独特のしこりのようなものが透けて見えた。
「噂なんてろくなもんじゃない。俺はただの巻き込まれ事故の被害者だ……三宅、頼むから長谷部を止めてくれ」
助けを求めるように視線を向けられた三宅は、肩をすくめながら小さく苦笑した。
「和泉。波瑠加のやつ、最近こういう他人の話に首突っ込むのが息抜きになってるみたいだ。まあ……クラスの空気が空気だからな」
「まあね。重苦しい話題ばっかりじゃ気が滅入るでしょ」
長谷部がふっと自嘲気味に笑う。その言葉の裏にある重みに、俺は返答を失った。彼女たちの傷は、文化祭を経て表面上は癒えたことになっている。だが、一番近くにいたはずの綾小路清隆という存在が、自分たちを「利用価値」だけで切り捨て、何事もなかったかのように隣のクラスへ移籍していった事実。その残痕が完全に消えることなんて、きっとこの先もないのだ。
「……にしても、和泉」
それまで静かに聞いていた幸村が、眼鏡の奥の鋭い視線を俺に向けてきた。
「お前、最近堀北や軽井沢だけじゃなく、Dクラスの一之瀬とも接触していただろ……何かクラス間で動いているのか?」
「……ッ」
幸村の鋭い指摘に、俺の背中に冷や汗が伝う。さすがに勉強ができるだけあって、観察力も伊達じゃない。
「違う、誓って違う。あれはただの事故だ。偶々一之瀬が話しかけてきただけで、謀略とか交渉とかそんな大層なもんじゃない」
俺は必死に手を振り、慌てて否定した。ここで彼らに余計な情報を与えるわけにはいかない。「綾小路撃破同盟」の件も、一之瀬の底知れない執着も、彼ら『元・綾小路グループ』の耳に入れば、確実に事態が複雑化する。彼らにとって綾小路は、今なお感情を揺さぶられる最大の特異点なのだから。
「ふーん……? まあ、和泉君が裏切りとかそういう器用な真似をするタイプじゃないのは分かってるけどさ」
「言っておくが、俺はクラスを裏切るような事は絶対しない。この胃薬とマウンテンデューに誓ってでもな」
俺が真顔で言い切ると、長谷部の目が大きく見開かれた。俺が飲料と胃薬に誓ったからなのかは分からないが、隣にいた三宅すら「そこまで重い誓いなのか……?」と困惑気味に眉をひそめている。
「……お前が嘘をついて焦っているようには見えないな。いや、焦ってはいるが……それは裏切りというより、単純に災難に遭っている人間の顔だ」
うん、本当にその通りです。幸村は溜息をつきながら眼鏡の位置を正すと、それ以上追求するのをやめてくれた。助かった....危うくここで第二の審問会が始まるところだった。
長谷部がじっと俺の顔を観察したあと、少しだけ柔らかい表情に戻った。
「あんまり一人で抱え込まないようにね? 胃薬ばっかり飲んでると、本当に体に毒なんだから」
「……心構えだけはしておくよ」
俺は手に持ったマウンテンデューのプルタブを、今度こそ慎重に指にひっかけた。プシュッ、と弾ける軽い音とともに、人工的な甘い香りが周囲に漂う。
「それじゃ、俺は教室に戻るわ。缶、拾ってくれてサンキュな」
「またな、和泉」
三宅の短い見送りの言葉に片手を振り返し、俺は3人から逃げるように廊下を歩き出した。ひとくち口に含んだマウンテンデューの強烈な甘さと炭酸が、喉を通って冷えた胃袋に染み渡っていく。
誰も彼も、あいつに振り回された傷を抱えて生きてるんだな
冷たい缶の感触を噛み締めながら俺は大きく溜息をついた。綾小路清隆という男が残していった爪痕の深さを再確認させられるたび、俺の胃痛は一向に治まる気配を見せない。
綾小路許すまじ...!
それから午後の授業を終え、放課後の校舎を脱出した俺は、逃げ場を求めてケヤキモールへと続く通路をトボトボと歩いていた。堀北の尋問はやはりクラスメイトが俺に対するイメージを払拭する為にしたそうだが、にしたってキツイ。
「ハァ……どこに行っても地獄だな……」
ため息を吐きながらポケットの胃薬の感触を確かめていると、前方から独特の重圧を纏った男が歩いてくるのが見えた。肩を揺らす独特の歩調、首元を緩めた制服、そして胸元から覗く黒ワイシャツ。Bクラスのリーダー、龍園翔だ。
……今日という日は本当に厄介ごとのフルコースかよ。2年前の俺なら龍園の姿を見た瞬間に回れ右をして逃げ出すか、壁際で存在感を消してやり過ごそうとしていただろう。だが、今の俺は違う。
覚醒した一之瀬の甘い毒に晒され、堀北の冷徹な眼光と軽井沢の重すぎる過去に揉まれてきた3年目だ。俺の精神の皮膚は嫌でも分厚く、そして図太く鍛え上げられていた。龍園はこちらの存在に気づくと、薄っすらと凶悪な口角を上げ俺の前で立ち止まった。
「ククッ……誰かと思えば、今学期一番の『時の人』じゃねぇか、和泉」
なんでお前が俺の名前覚えてんだよ、有象無象共に興味ねぇだろお前は。
「ろくな噂じゃないことくらい自分でも分かってる」
俺は逃げるでもなく、かといって挑発するでもなく、ごく自然なトーンで答え龍園を見返すと龍園は面白そうに目を細め煽るような態度をとった。
「あの一之瀬がお前のとこまで出向いて『仲良くデート』。その上、傷心の軽井沢を手込めにするたぁ……ククッ、大モテじゃねぇか。いつからAクラスのハーレム主人公に昇格したんだ、あぁ?」
「ハーレムとは程遠いことくらい、お前なら察してるだろうが。俺から言わせれば、ただの災害に巻き込まれた被害者だ。後、お前のところの伊吹にも言っとけよ。腑抜けてたとはいえ、うちのリーダーに背後から飛び蹴りぶち込むのは暴力沙汰だぞ。おかげで堀北の機嫌が最悪で、その煽りを全部俺が食らってんだ」
「ハッ! 伊吹のやつ、鈴音に蹴り入れたのか。傑作だな。あいつにしちゃ上出来だ」
龍園は心底嬉しそうに腹を抱えて笑った。人の不幸で飯が美味いタイプの男だ。一生相容れん。けれど笑い声を収めた龍園の瞳が、ふっと鋭く光ったのを俺は見逃さなかった。龍園の観察眼は伊達じゃない。以前の俺なら「ひっ」と声を漏らして引きつった笑いを浮かべていた場面だ。だが、今の俺は眉一つ動かさずに会話を継続している。
「……前なら俺と目が合っただけで死にそうな顔してた雑魚が、随分と肝が据わったじゃねぇか」
「この学校で3年間も揉まれてみろ。誰だって胃に穴があくか、心臓に毛が生えるかの二択を迫られるわ……それと龍園、一つ言っておくが、黒ワイシャツを着始めたのは俺の方が1年目の春からだからな。真似したとか言われるのは俺にとっちゃ冤罪だ」
「あ?」
龍園が一瞬、予想外の角度からの主張に呆気にとられたような顔をした。すかさず俺は一息で言葉を続ける。
「お前が2年になって黒シャツを着だしおかげで、クラスの男子から『龍園の真似してイキってる』って変な目で見られたんだよ。先住権は俺にある」
「ハッ! くっだらねぇことを気にしてやがるな」
龍園は腹の底から愉快そうに声を上げて笑った。凶暴な笑みだが、先ほどまでの威圧的な雰囲気は幾分か和らいでいる。
「……で? 実際のところどうなんだ和泉。一之瀬の奴、完全にタガが外れてやがるだろ」
笑いを収めた龍園の目が、スッと冷たい観察者のそれに変わる。やはり茶化すのは前振りに過ぎず、本命はCクラスに移籍した綾小路と、それに伴って変貌を遂げた一之瀬の情報を探ることだったらしい。だが、ここで龍園に余計な情報を渡す気は毛頭ない。
「あいつが何を考えてるかは知らん。俺はただ、一之瀬の気まぐれに付き合わされて、男子から死刑宣告を食らっただけだ」
「一之瀬がただの気まぐれで動くと思うか? あの女は今、綾小路っていうデカい獲物を仕留めるために手段を選ばなくなってきてるのはわかってんだろ」
お前も手段選ばねぇくせによく言うな、
「お前みたいな無害な雑魚を突っついているのも、何かしらの盤面を動かすためだろ」
「否定はしないが……あいにく俺はどの盤面でもただの『障害物』にしかならねぇだろ。一之瀬にも堀北にもそう言ってきた」
俺が一切の揺らぎを見せずに言い切ると、龍園は煙に巻かれたような顔で俺を凝視した。
「…相変わらず徹底して普通を気取りやがる。だがな和泉、嵐の中に突っ立ってて無傷でいられるなんざ思うなよ。綾小路を軸にしたこの学年の殺し合いに、巻き込まれずに済む奴なんざいねぇんだからな」
お前に名前覚えられてる時点で巻き込まれてるし、平和からまた一歩遠ざかってんだよクソが。
「重々承知してるわ。俺はいつでも死んだフリができるように胃薬を常備してるんだよ」
俺がポケットから胃薬の小袋をチラリと見せると、龍園は「ケッ」と吐き捨てるように鼻を鳴らした。
「つまらねぇ返答だ……まあいい。お前が一之瀬に食い殺されるか、軽井沢か鈴音に絞め殺されるか、高みの見物とさせてもらうぜ」
龍園はそう言い捨てると、俺の横を通り過ぎ、連絡通路の奥へと歩み去っていった。すれ違いざま、その背中に向かって俺は心の中で静かに毒づいた。高みの見物ね.....お前だって綾小路相手に相当頭を痛めてるくせに……
だが、龍園の圧力を正面から受け流せたことには自分でも少し驚いていた。かつては恐怖の対象でしかなかったあの暴君と、こうして普通に会話を成立させられるようになっている。高度育成高等学校という地獄の環境は、確実に俺の図太さをアップデートさせていたらしい。
本当に嫌なアップデートだ。
龍園と会話してる時点で和泉のメンタルはめちゃくちゃ強化されています。よう実で一般人書くの難しい。