休日。堀北からの抜き打ちLINEも、一之瀬からの底知れないお茶のお誘いもなく奇跡的に胃の平和が保たれていた午後。俺はケヤキモールの本屋で、予約していた新刊のライトノベルを無事に受け取り、ホクホクとした気分でエスカレーターを降りていた。
「今日は帰ったらマウンテンデュー飲んで、この新刊を一気に読破して……」
最高の休日の計画を脳内で組み立てていた、その時だった。
「――あれ和泉?」
聞き覚えのある、ちょっと高めで華やかな声。 振り向くと、そこには私服姿の軽井沢恵が立っていた。制服姿のギャルっぽい雰囲気とは少し違い、トレンドを押さえたおしゃれなカジュアル服に身を包んでいる。相変わらずスタイルが良く、モールを行き交う男子生徒たちの視線をさりげなく集めていた。
「軽井沢…… 奇遇だな。一人か?」
「まぁねー。服見ようと思って来たんだけど、友達と時間合わなくてさ。あんたは何? また怪しい胃薬でも買いに来たの?」
「買いに来てねぇよ。本買っただけだ」
失礼な言いがかりに即座にツッコミを入れると、軽井沢は「ふーん」とラノベの袋をジト目で見つめ、それからニタッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……暇なんだ? ちょうど良かった、あんた服選ぶのに付き合ってよ」
「なんで俺が……」
「『同盟』の友情を深めるため! ほら、行くよ!」
「だから同盟を結んだ覚えは……って、引っ張るな」
つか、同盟なら堀北も誘えよ。俺は無理だけど。強引にブレザーの袖を引かれ俺は抗う間もなく服飾店へと連行された。
◇
「ねえねえ、これとこれ、どっちが良いと思う?」
そう言って軽井沢が両手にハンガーを掲げてみせた。右手に持っているのは、どんなボトムスにも合わせやすそうなアイボリー色のシンプルなVネック春ニット。
左手に持っているのは、今季のトレンドらしい淡いラベンダー色のクロップド丈カーディガンで、胸元に小さなリボンがあしらわれている。
「……右のやつ」
「えー、でも左の方が今年のトレンドっぽいんだよねー」
「じゃあ左にしろよ。最初から自分の中で答えが決まってんのに、なんで俺に選択権を委ねるんだよ」
「だって、たまには和泉の意見も参考にするかって思ったんだもん。あ、でも右も着回し効きそうだしなぁ……」
……だったら最初から悩むなよ。
と内心で盛大にツッコミを入れつつ、俺はハンガーラックに並ぶ他の春物衣料へと視線を逃がした。淡いパステルカラーや軽やかなトレンチコートなど、店内すっかり春の装いに染まっている。
「もう、ほんっとセンスないんだから! 人の意見を聞く気があるんだか無いんだか……」
……なんて散々な文句を言われつつも、俺はあちこちのショップへ引っ張り回されていた。すでに二個ほど増えた軽井沢の買い物袋。荷物持ち兼、適当な相槌役に甘んじているわけだが、当の軽井沢は次から次へと服を身体にあてがっては鏡の前でクルクルと表情を変えている。
「そんなに何着も買い込んでどうするんだよ」
「服はいくつあってもいいんだからね。それに――」
軽井沢はハンガーをラックに戻すと自慢げに胸を張り、ちょっと気取ったポーズを決めてみせた。
「女の子は、お砂糖とスパイスと素敵なもので構成されてるから、それぐらいおしゃれしたいの」
お砂糖とスパイスと素敵なもの?あぁ知ってるよ。ユートニウム博士が間違って『ケミカルX』とかいう余計なものまでぶち込んじゃったやつだろ……それじゃあ別ものが生まれるな。可愛い正義のヒーローになっちゃうからな。
「マザー・グースの童謡か」
「……え? 知ってるんだ?」
軽井沢は「和泉のくせに何で知ってんの?」と言いたげに、目を丸くしてパチパチと瞬きをした。
「前に読んだ小説に載ってた」
ちなみに、その小説の主人公は「女の子は何でできてる?」というマザー・グースのクイズを出された時の回答は『カレーライス』であった。実に潔い回答だと思う。
そして完全に余談だが、マザー・グースにおける男の子の構成成分は『カエルとカタツムリと仔犬のしっぽ』でできているそうだ。
……明らかな格差と人権の壁を感じたのは、俺だけだろうか?女の子がお砂糖とスパイスと素敵なもので作られているのに対して、男の子の材料がカエルとカタツムリ仔犬のしっぽって、神様も属性の割り振りと作画コストに差をつけすぎだろ。
「へぇ……和泉って、ほんと変なところで物知りだよね」
「雑学の引き出しが多いと言え」
「じゃあ雑学王の和泉くん、次はあっちのショップ行くよ!
お砂糖にスパイスと素敵なモノ(と、ほんの少しの劇薬)で出来ているギャルに容赦なくこき使われながら、俺は苦笑交じりにその後ろ姿を追いかける。
しかし俺は、いつ一之瀬や堀北、あるいは綾小路といった怪物たちが影から現れて「何をしているの?」なんて声をかけてこないか、身体中の毛穴という毛穴から冷や汗を流しながら警戒している。 高育という修羅場で生き残るための防衛本能が、休むことなく警報を鳴らし続けているのだ。
いや、でもさ……チラリと、隣を歩く軽井沢の横顔を見る。服をあてがいながら楽しそうに鏡を覗き込む姿。「これかわいくない?」と無邪気に同意を求めてくる笑顔。通り過ぎるウィンドウに映る並んで歩く俺たちの姿。普通に女子と買い物するのって……めっちゃ楽しくね……?高育に入る前の中学時代の俺からすれば、こんな風におしゃれな女子生徒と一緒にモールを歩き、他愛もない買い物に付き合うなんて、夢のまた夢のようなシチュエーションだ。荷物持ちだけど.....
怪物たちの影に怯える胃痛の恐怖はある。だがそれ以上に、「年相応の高校生として、可愛い女の子と一緒に休日を過ごしている」という純粋な嬉しさが、じわじわと胸の奥に広がっていくのを隠せなかった。
「……何ニヤニヤしてんの?」
「してねぇよ、服の値段見て『高いな』って思ってただけだ」
表情を繕う俺を見て、軽井沢は「あやしいー」とジト目を向けつつも、どこか嬉しそうにクスクスと笑った。
「まあいいわ。付き合ってくれたお礼に、カフェでジュースくらい奢ってあげる……和泉の奢りだけどね!」
「それ奢ってねぇだろ」
軽やかな軽井沢の笑い声が、モールの吹き抜けに響く。怪物たちの謀略が渦巻くこの学校で、奇跡的に訪れた小さな平和。俺はポケットの中で静かに眠る胃薬の存在をすっかり忘れ、ガラにもなく跳ねる胸の鼓動をごまかすように、彼女の後ろを追いかけるのだった。
「服選び終わり~! つっかれたー」
ショップを出た軽井沢が、満足そうに両手を広げて大きな伸びをした。その手には俺が持たされている紙袋の山。荷物持ちとしての仕事は完璧にこなしたはずだ。
「じゃ、俺はこれで」
「甘ーい! 誰がここで解放するなんて言ったのよ?」
「えっ?」
くるりと振り返った軽井沢の瞳が、悪戯っぽく輝いている。彼女が指差した先――そこは、ケヤキモールで派手な重低音と電子音を響かせている空間だった。
「……ゲーセンか?」
「そう! 買い物につきあわせたお礼に、和泉の得意分野に付き合ってあげようと思って!」
「いや、俺の得意分野は家で一人でやるPS5であって、こういうリア充御用達の空間じゃ……」
「つべこべ言わない! ほら、行くよ!」
強引に袖を引っ張られ、俺たちは煌びやかな照明とゲーム音に包まれた店内へと足を踏み入れた。確かにゲーセンは嫌いではないが、リア充共を見ると....虚しくなる。休日ということもあって、店内は他学年や他クラスの生徒たちで賑わっている。俺は、すかさまず防衛本能を働かせ、周囲に堀北や一之瀬あるいは龍園あたりの危険人物がいないかを素早く索敵した。よし、エンカウント対象はゼロ。
安全圏だ。
「ねえねえ和泉! あれやってみたい! UFOキャッチャー!」
軽井沢が目を輝かせて駆け寄ったのは、大きめのアニメキャラのぬいぐるみが並ぶプライズコーナーだった。
「これ! この巨大なペンギンのぬいぐるみ! かわいくない!?」
「あー……まあ、かわいいんじゃないか?」
「取って!」
「なんで俺なんだよ?」
「こういうのパパッと取って女子にプレゼントするのがモテる男の嗜みでしょ?」
えーそうなの?クレーンゲームの景品取れてモテるなら結構な人がモテると思うけどー?
ブツブツ文句を言いながらも、俺は100ポイントを投入した。中学時代、俺は友達とゲームセンターのプライズゲームの構造やアームのクセを研究しまくっていた時期がある。やり過ぎて財布のダイエットに成功したこも何度かあり、その度に親に叱られたものだ。
アームの位置を慎重に合わせ下降ボタンを押す。 ガトン、と音を立ててアームが落ち、ペンギンのぬいぐるみの重心を的確に捉えた。
ズズ……ゴトン!
「……あ」
一発で取り出し口に転がり落ちるペンギン。
「えっ!? ウソ、一発!? !!」
軽井沢が目を丸くして歓声をあげ、取り出し口から抱きかかえるようにペンギンを取り出した。
「こういうのは得意なんだよ」
ドヤ顔を決める俺。しかし実際はマジでまぐれだ。クレーンゲームなんて回数重ねるのが定石どころか当たり前。一発なんて余程運が良くなければ出来ない。そんな思いはつゆ知らず軽井沢はペンギンをぎゅっと抱きしめながら、心底嬉しそうな笑顔を向けた。
「へえ……あんた、意外と頼りになるじゃん。見直したかも」
「……っ」
不意に間近で見せられた無邪気な笑顔と、素直な褒め言葉。 心臓がドクンと跳ね上がる。
やべぇ……普通にめちゃくちゃ可愛い……いつもは強がりで、ツンツンしていて脅迫めいた要求をしてくるギャルが、今はただの「ぬいぐるみを喜ぶ普通の女の子」として俺の目の前にいる。怪物たちの謀略やクラス間の殺伐とした点数争い。そんな重苦しい現実が、この騒がしいゲームセンターの音の中に溶けて消えていくようだった。
「次はあっちのエアーホッケーやろ! 私負けないからね!」
「荷物持ったままホッケーは無理だろ....」
無邪気に次の筐体へ向かって走り出す軽井沢の後ろ姿を追いかけながら、俺は胸の奥が高鳴るのを隠せなかった。俺は思わず緩みそうになる口元を必死に引き締めながら、彼女の待つ対戦台へと足を進める。
「はい、着いた! ここ、ここ!」
軽井沢が指さした先には、色鮮やかな光を放つ最新のエアーホッケーの対戦台があった。プラスチックのパックがシュシュッと軽快な音を立てて滑る、ゲームセンターの定番アトラクションだ。
「おい、ちょっと待て。この両手のショッパーの山はどうすんだよ。これでホッケーやったら腕がもげる」
俺が両手に抱えた大量の買い物袋をひょいと持ち上げて見せると、軽井沢は「あ、そっか」と軽い調子で頭をポンと叩いた。
「じゃあ、そこのロッカーに全部放り込んできてあげる! ほら、早く!」
「……はいよ」
言われるがまま近くのロッカーに荷物を押し込み、身軽になってから対戦台の前に戻る。その間に軽井沢はすでに100ポイントを消費し、マレット片手に気合十分のファイティングポーズをとっていた。
「ふふん、手加減なしだからね、和泉!」
「こっちのセリフだ」
カチャン、と軽快な電子音とともに、センターから赤いパックが勢いよく飛び出してきた。
「――っらあ!」
「おっと甘い!」
コンッ、コンッ、と乾いたプラスチックの弾ける音がゲームセンターの喧騒の中に響く。最初は「女子に付き合ってやってる」なんて余裕をかましていたものの、目の前の元ギャルは想像以上に反射神経が良く、鋭いストロークでガツガツと攻めてくる。激しい攻防が続き、お互いに引かない白熱した膠着状態の中、軽井沢が不意に盤面から目線を外し、俺の背後を指さして叫んだ。
「あ、一之瀬さん!」
「なに!?」
その名前に脳裏をよぎる恐怖と胃痛。俺が思わず反射的に振り返った瞬間――カンッ!と乾いた衝撃音が響き、俺のゴールが鮮やかに撃ち抜かれた。
「やったぁ!」
ピロリロリーンと勝利の電子音が鳴り響き、軽井沢が両手を挙げて大はしゃぎする。
貴様ぁ……!一之瀬という俺の最大のトラウマかつ弱点を突いてまで勝とうとするとは、いい度胸だな……! なら俺も手段は選ばん!敗北の屈辱に燃える俺の魂に火がついた。俺は自分のゴール口に手を差し込み、パックを取り出すフリをしながら、そのままじっと数秒間動かずに待った。
「どうしたの?」
案の定、不審に思った軽井沢が首を傾げてこちらの様子を伺ってくる。
「いや、パックが出てこなくてな。軽井沢の方に出てないか?」
「え? こっち?」
軽井沢が「どこどこ?」と自分のゴール口の中を確認しようと、無防備に深くかがみ込んだ瞬間――
「隙ありぃ!」
俺は手の中に隠していたパックを、ノータイムでそのまま軽井沢のゴール口へとストレートに手で放り込んだ。
「あぁ! ずるい!」
判定ランプが赤く点灯し、無情にも俺の点数としてカウントされる。
「軽井沢、やはりパックはそっちにあったようだな!」
「ぐぬぬぬぬ!」
不意打ちを喰らって顔を真っ赤にし、悔しそうに拳を握りしめる軽井沢。クラスの女王様らしからぬその子供っぽい表情に、俺は思わずニヤリと悪代官のような笑みを浮かべる。
そこからは、まさに一進一退の攻防戦だった。 お互いに卓を囲んで身を乗り出し、パックの軌道を狂気的な集中力で追う。フリスビーのように鋭く曲がる変化球を打ち返せば、軽井沢も負けじと身体を大きく使ってカウンターを叩き込んでくる。
「そこっ!」
「ぬっ……!」
ガツン、と激しい音を立てて、マレットがぶつかり合う。 周囲の通行人や他の客が「なんかあそこのカップル(※カップルではありません)、めっちゃ本気じゃね?」という視線を向けてきている気がするが、今の俺たちにそれを気にする余裕はない。
勝負の行方は、いよいよファイナルポイントへ――。
「これで終わり!!」
軽井沢の掛け声とともに、これまでで一番の重さとスピードでパックが自陣へ弾き飛ばされる。 俺は反射的に体をひねり、持てる動体視力と運動神経のすべてをその一撃に集中させた。
パァン! と乾いた快音が響き渡り、パックは鮮やかな軌を描いて――相手のゴールへと突き刺さった。
電光掲示板が『GAME OVER』の文字とともに、俺の勝利を告げる。
「しゃぁ……!」
「嘘……!?」
俺たちはそれぞれ台に両手をつき、息を弾ませながら顔を見合わせた。わずかな静寂のあと、軽井沢が「くっそー! 土壇場で本気出してきたでしょ、ずるい!」と唇を尖らせて悔しがる。
「勝負に手加減は無用だっての……」
俺が汗を拭いながらフッと笑うと、軽井沢は少しだけ目を見張り、それからいつもの悪戯っぽい笑みを引っ込めて、どこか柔らかい、嘘偽りのない笑みを浮かべた。
「ま、たまには、こういう息抜きも付き合ってあげる……ありがとね、和泉」
その素直な一言に、さっきまで熱くなっていた頭が、別の意味で一気に沸騰しそうになる。心臓の鼓動が、ゲームの激しさとは違う理由でトクンと大きく跳ねた。やばい、この距離感は色んな意味で胃に悪い。
「……お、おう。じゃあ、戦い終わったことだし、敗者のおごりでジュースでも飲むか」
「えーっ、私が負けたのに奢りなの、おかしくない?」
「勝者へのリスペクトだ」
汚い手を使ったとはいえ、見事に勝利した俺に対し、軽井沢は不満な様で「もう! 絶対許さないんだから!」とまだ頬をプクーと膨らませて納得してないようだった。
というか最初に汚い手使ったの貴女ですよね?
散々熱くなってエネルギーを消費したせいか、ゲームセンターを出る頃にはすっかりいい時間になっており、ケヤキモールの通路には少しずつ夕暮れの橙色の光が差してきている。
「はぁ……負けたの悔しすぎるんだけど。汚い手まで使うの無しだからね!」
「勝負の世界に汚いもクソもないって、どっかの偉い人が言ってたり言ってなかった気がするぞ」
「絶対言ってないわよ、そんな汚い格言!」
軽井沢はジト目を向けつつも、どこか楽しそうにクスクスと笑っている。せっかくの休日、ここまで付き合わされたんだし、そろそろ解散して寮に戻って甘い物でも飲みたいところだが――彼女は足を止め、じっと俺の顔を見上げてきた。
「……で、一応今日の付き添いのお礼はまだちゃんとしてなかったし……」
軽井沢は少し照れくさそうに髪の毛を指先でくるくると巻きながら、大きなカフェスペースの方へとあごをしゃくった。
「ほら、あそこの『パレット』。私がご馳走させる……それで文句はなし!」
「じゃあお言葉に甘えて……」
俺たちが向かったのは、カフェ『パレット』だった。夕方前の落ち着いた店内で窓際の席に腰を下ろし、さっそくメニューに目を通す。
「何にする? 甘いフラッペとかもあるけど」
「俺は水出し和紅茶のアイス、ガムシロ付きで」
「分かった」
軽井沢は店員さんに注文を告げると、彼女は「またそれなの?」と呆れたような、でもどこか面白がるような目を向けてきた。
「最近のお気に入りなんだよ」
やがて運ばれてきたカップには、透明感のある美しい琥珀色の液体と、涼しげな氷が浮かんでいた。ストローを挿し込み、まずは一口。渋みのない澄んだ茶葉の香味が喉を潤し、エアホッケーの白熱で熱を持っていた身体が心地よく冷やされていく。
「……生き返るな」
「ほんと、和泉って見た目に反して変なところで渋いというか、こだわりあるよね。もっと女子受けしそうなモノとか頼むかと思ったのに」
「余計なお世話だ。すっきりしてて美味いからいいんだよ」
「ふーん……ねえ、和泉」
軽井沢は自分が頼んだ甘そうなフラッペのストローをくるくると指先で転がしながら、少しだけ言いづらそうに視線を泳がせた。夕暮れのカフェの暖色の明かりが、彼女の横顔を柔らかく照らし出している。
「んだよ。急に真面目な顔して」
「べつに、大したことじゃないけどさ……」
彼女はカップに目を落としたまま、ぽつりと言葉を紡いだ。
「この前……長谷部さん達と話してたでしょ。そん時のアンタ思い詰めてる顔してたし....一年前のあの試験の事思い出してたんでしょ」
その名前が出た瞬間、俺の胃のあたりがキュッと小さく縮み上がった。ポケットの奥で、出番のない胃薬のパッケージがひっそりと冷たさを主張している。
おいおい、せっかくのティータイムにその話題かよ。一気に胃酸が逆流しそうになるだろ……というかあの時、軽井沢近くにいたのか。俺が表情をこわばらせるのを察したのか、軽井沢は慌てて手をパタパタと振った。
「あ、責めてるわけじゃないからね!? 私だってあの場ではどうすればいいか分かんなくて、ただ怖くて言われるがままに賛成票入れたし……だから、和泉だけが背負う必要なんてないっていうか……その」
彼女は言葉を探すように少し詰まり、それから、恥ずかしそうに頬を赤らめて小さく吐き捨てた。
「兎に角……言いたいのは、その、重い空気の中で、和泉まで塞ぎ込まれたら、私まで調子狂うってこと! ……それだけだから!」
不器用な慰めなのかもしれない。あるいは、他人の目を気にして仮面を被り続けてきた彼女なりの、精一杯の歩み寄りかもしれない。クラスの女王として振る舞い誰も本当の自分を知られたくないと怯えていた軽井沢恵が、今こうして俺の前に「素の表情」で座っている。
綾小路が消え、クラスがバラバラになっても、彼女は彼女なりにこの過酷な学園で足を踏ん張り、前を向こうとしているのだ。俺はカップに残っていた水出し和紅茶をストローで吸い込み、ふぅと息をついた。
「ありがとな軽井沢。お前のその我が儘な励ましのおかげで、少しだけ胃薬を飲むタイミングが先延ばしになった」
「せっかくいいこと言ってあげたのに、最後の最後で台無しじゃない!」
ぷいっとそっぽを向いて頬を膨らませる軽井沢。だが、その口元には隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた。 窓の外では、ケヤキモールの街灯がパッと灯り始め、夜の帳が下りようとしている。
「こういう日も悪くないかもな.....」
「でしょ? 私の奢りだし、もっと感謝しなさいよね」
パッと表情を明るくして、いつもの勝気な笑みに戻る軽井沢。明日から、また厄介な面倒ごとに巻き込まれて胃を痛める日々が戻ってくるだろう。堀北の焦りや崩壊しかけたクラスの現状、そして一之瀬からの執着、何より——綾小路清隆という存在が残した巨大な影。考えなければならない問題は山積みだ。
それでも――今日というこの瞬間だけは、この騒がしくも心地よい「平穏」に、俺はもう少しだけ浸かっていたかった。