雨降りの約束 ―壊した才能と、もう一度走る理由― 作:九頭T
九頭龍介――通称「九頭」、あるいは「クズ」――は、観客席の最上段で膝を抱えるように座っていた。
五月の午後。模擬レースはまだ始まっていない。だが彼にとって重要なのは、開始の瞬間ではなく「結果」だけだった。
「なあ、今日はどれ行く?」
隣の男が紙切れを弄びながら聞いてくる。顔も名前も曖昧な、同じ穴の賭け仲間だ。
「三番だ」
九頭は短く答えた。
「堅いとこいくな」
「堅いんじゃねぇ。“負けない”とこを拾うだけだ」
煙草を咥えたまま、視線だけをトラックへ落とす。スタートゲートに並ぶウマ娘たちの中で、三番は明らかに格が違っていた。勝つ側に賭ける。それだけだ。
賭けに夢を見る段階は、もうとっくに終わっている。
ゲートが開く。
八つの影が一斉に弾けた。九頭は迷いなく三番を追った。理想的な位置取り、無駄のないコーナーワーク。直線で抜け出し、そのまま押し切る。
予定通りの勝ち。
「よし」
小さく息を吐く。これで数千円。夜の帳が降りるまでの繋ぎにはなる。
「なあ、また八番転んでるぞ」
隣が笑うように言った。
九頭は視線だけをずらす。
遅れている一人。八番。名前も記憶に残らない。だが、転ぶ光景だけは毎回同じだった。
「またかよ」
「がんばるねぇ」
「それより3番だろ、来る!」
笑いが混ざる。悪意というより、消費だ。観客にとってはただの余興にすぎない。
九頭も短く鼻で笑った。
「向いてねぇんだろ」
(間)
「……まぁ、そういうもんだろ」
言葉に感情はない。断定だけがある。
転ぶ。立つ。また倒れる。
その繰り返しを、誰も真剣には見ていない。
ゴール前、動きが止まる。
「失格」
機械的なアナウンスが落ちると同時に、視線は散った。
興味は、終わった。
九頭も席を立つ。
「九頭、飲むか?」
「今日はいい」
短く返し、階段を降りる。
学園外れの通路は、光が薄い。人の気配もない。
九頭はスマートフォンを取り出し、画面を見た。
並ぶ名前はどれも金の匂いがする。
借金。延滞。催促。
「クソが」
吐き捨て、画面を消す。
表の賭けでは足りない。裏に回ってもなお足りない。どこに行っても“帳尻”だけが残る。
本締。北川。
そして、三年前の破綻。
――ハナハルカ。
その名前だけが、鮮明に残っている。
未来そのものだった、あの時は。
結果だけが、全てを壊した。
「……関係ねぇだろ」
自分に言い聞かせるように呟く。
スマートフォンが震える。
北川。
出ないという選択肢は、もう存在しない。
「もしもし」
『来週までに五万』
端的な要求。
「分かってる」
『分かってる奴の声じゃねぇな』
沈黙。逃げ場はない。
『次はないと思えよ』
通話が切れる。
九頭は画面を見下ろしたまま動かない。
五万。
勝ち続けるしかない。だが勝ち続けられるなら、そもそもここにはいない。
視界の端に、さっきの光景がよぎる。
転び続ける八番。
何度も立ち上がる背中。
「……馬鹿だな」
それは嘲笑でも、同情でもない。ただの評価だった。
やがて九頭はスマートフォンをポケットに押し込み、歩き出す。
行き先は決まっている。
安い酒と、次の賭け。
それだけが、今の現実だった。