雨降りの約束 ―壊した才能と、もう一度走る理由― 作:九頭T
それから二週間が過ぎた。
五月も下旬。空は重く、季節はすでに梅雨の気配を帯びていた。晴れ間は減り、代わりに細かな雨が学園を覆うようになっていた。
九頭龍介は、変わらず学園の中を漂っていた。
正式な担当ウマ娘はいない。トレーナーとしての仕事も実質的には失っている。肩書だけが残り、実務はどこにもない。
それでも籍だけが残っているのは、白根が裏で調整しているからだ。
その事実を、九頭自身も理解していた。
廊下で、別のトレーナーとすれ違う。
「またいるのかよ」
視線には露骨な拒絶が混じる。
「悪いかよ」
九頭はそれだけ返して通り過ぎる。
居場所は、もうどこにもない。あるのは“時間を潰す場所”だけだ。
窓の外では雨が降り始めていた。
最初は細かく、すぐに線のような強さへ変わる。
「梅雨か」
誰に向けるでもなく呟く。
グラウンドは空白だった。
通常なら、雨天時は屋内施設に切り替わる。そこに疑問はない。ないはずだった。
――だが。
視線が止まる。
遠く、雨の中に人影があった。
一人。
グラウンドを走っている影がある。
距離が遠く、顔は分からない。ただ、明確に分かるのは「走っている」という事実だけだった。
九頭は目を細めた。
「……馬鹿か」
そう吐き捨てるように言って、背を向ける。
雨の日に外を走る理由などない。合理性もない。成果にも繋がらない。
それでも一瞬だけ、視線は戻った。
その夜。
九頭はいつもの店にいた。
カウンターで、安酒を流し込む。
氷が溶けていく速度すら、もうどうでもいい。
「また荒れてんな」
バーテンダーの声が遠い。
「元からだろ」
九頭は短く返す。
酒だけが、余計ものを消す。
ただ、何も考えない時間だけが欲しかった。
翌朝。
頭痛とともに目が覚める。
最低の目覚めだが、もはや評価する意味もない。
水で顔を洗い、鏡を見る。
そこにいるのは、かつての誰かではなかった。
「……誰だよ」
答えは返ってこない。
そのまま学園へ向かう。
雨は止んでいた。
代わりに、湿った空気だけが残っている。
グラウンドでは既に練習が始まっていた。
声、足音、呼吸。
積み上げる者たちの音。
九頭は柵越しにそれを眺める。
そこにいるのは、未来を持った連中だ。
そして、自分はその外側にいる。
「九頭」
背後から声が落ちる。
振り返る必要はなかった。
白根秀一。
唯一、今も九頭に関わろうとする人間。
「話がある」
「説教ならやめろよ」
「違う」
間。
白根の声は、いつもより硬い。
「頼みがある」
その一言で、空気が変わる。
九頭はわずかに目を細めた。
こういう時の“頼み”は、だいたい綺麗な話では終わらない。
だが断る理由もない。
「……いいぜ」
九頭は歩き出す。