雨降りの約束 ―壊した才能と、もう一度走る理由― 作:九頭T
翌日の午後。
九頭は、自分の部屋で白根とルイテンキューを待っていた。
一応、最低限の片付けはした。空き缶を捨て、洗濯物をまとめて押し入れに突っ込んだ。だが、それでも部屋は酷いものだった。
カーテンは閉めっぱなしで、薄暗い。空気も淀んでいる。床には、まだ煙草の吸殻が転がっている。
「……まぁ、いいか」
九頭は、ベッドに腰を下ろした。
ノックの音が響いた。
「九頭、入るぞ」
白根の声。
「……ああ」
ドアが開いた。
白根が入ってくる。そして、その後ろに——
小柄で、華奢な体つきのウマ娘が立っていた。
明らかに怯えた表情。
九頭は、その顔を見て、確信した。模擬レースで八番ゲートにいたあいつだ。雨の日にグラウンドを走っていたのも、おそらくこいつだろう。
「……こいつが?」
「ルイテンキュー。こいつが九頭龍介。お前のトレーナーだ」
白根が紹介する。
九頭は、面倒臭そうに立ち上がった。
「……九頭だ。よろしく」
適当な挨拶。ルイテンキューは、小さく頭を下げた。
「……ルイテンキューです。よろしくお願いします」
か細い声。自信のなさが滲み出ている。
九頭は、改めてルイテンキューを観察した。
細い。本当に細い。こんな体で、レースに出ているのか? 信じられない。
「で、白根。これからどうすんだ?」
「お前に任せる」
「は?」
「トレーニングメニューも、練習時間も、全部お前が決めろ」
「おい、待て。俺、もう何年もトレーナーやってないんだぞ」
「知ってる」
白根は、平然と言った。
「だが、お前は元々有能だった。その技術は、まだ残っているはずだ」
「残ってるわけねぇだろ……」
「やってみろ。できなければ、それまでだ」
白根は、ルイテンキューの肩に手を置いた。
「ルイテンキュー。九頭は、見た目通りのクズだ」
「おい」
「だが、かつては優秀なトレーナーだった。お前が本気で走りたいなら、こいつについていけ」
ルイテンキューは、九頭を見上げた。
その瞳には、わずかな希望の光が灯っているように見えた。
九頭は、その視線から目を逸らした。
「……好きにしろ」
白根は、部屋を出て行った。
残されたのは、九頭とルイテンキューだけ。
沈黙が流れた。
重苦しい、気まずい沈黙。
「……座れよ」
九頭は、椅子を指差した。
ルイテンキューは、おずおずと椅子に座った。
九頭は、再びベッドに腰を下ろした。
「まず、確認するが」
「……はい」
「お前、才能ないよな」
ルイテンキューの表情が、わずかに歪んだ。
「……はい」
「なんで走りたいんだ?」
「……それは」
ルイテンキューは、言葉に詰まった。
「走りたい、んです」
「理由は?」
「……分かりません」
「分からないのに走りたいのか」
「はい」
九頭は、煙草を取り出した。火をつけようとして、一応ルイテンキューの方を見た。
「……吸っていいか?」
「あ、はい」
煙草に火をつける。煙が部屋に広がる。
「俺は、はっきり言って、やる気ない」
九頭は、煙を吐き出した。
「お前を強くする気もないし、勝たせる気もない。ただ、白根に頼まれたから、形だけトレーナーをやる」
ルイテンキューは、何も言わなかった。
「だから、期待するな。俺は何もしない。お前が勝手に練習して、勝手にレースに出て、勝手に結果を出せ」
「……はい」
「何か質問は?」
「……ありません」
「そうか。じゃあ、今日はこれで終わりだ」
九頭は、煙草を灰皿に押し付けた。
「明日から、一応練習には付き合う。時間は……そうだな、朝六時。グラウンドに来い」
「はい」
「遅刻するなよ」
「……分かりました」
ルイテンキューは、立ち上がった。
「じゃあ、失礼します」
小さな声で言って、ルイテンキューは部屋を出て行こうとした。
「おい」
九頭が声をかけた。
ルイテンキューが振り返る。
「……なんでしょうか」
「……いや、なんでもない」
九頭は、手を振った。
「行けよ」
「……はい」
ドアが閉まる。
九頭は、一人残された部屋で、天井を見上げた。
「……最悪だな、本当に」
自嘲の笑みが、口元に浮かんだ。
才能のないウマ娘。クズのトレーナー。
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ルイテンキューは、九頭の部屋を出て、廊下を歩いた。
足が、震えていた。
あれが、自分のトレーナー。
クズだと、白根さんは言っていた。その通りだと思った。
部屋は荒れていて、煙草の臭いが充満していて、九頭自身も無気力そうで——
でも。
「……トレーナー、か」
ルイテンキューは、小さく呟いた。
三人目のトレーナーに見放されてから、もうトレーナーなんてつかないと思っていた。
このまま、一人で練習を続けて、いつか力尽きて、退学する。
そういう未来しか、見えていなかった。
でも、今、また一人のトレーナーがついた。
期待するなと言われた。何もしないと言われた。
それでも——
「……頑張ろう」
ルイテンキューは、自分に言い聞かせた。
寮に戻ると、ダスタンテがいた。
「……おかえり」
珍しく、ダスタンテが声をかけてきた。
「ただいま」
「……トレーナー、決まったんだって?」
「うん」
ルイテンキューは、ベッドに座った。
「九頭さんっていう人」
「……九頭?」
ダスタンテが、本を閉じた。
「聞いたことある。昔は凄腕だったって」
「え?」
「でも、今は……まぁ、いいや」
ダスタンテは、それ以上何も言わなかった。
明日から、新しい生活が始まる。
ルイテンキューは、窓の外を見た。
空が、夕暮れ色に染まっている。