これは私のお仕事です!〜追放された剣王の悪役令嬢。10歳の若さで亡き父の騎士団を継ぐことになりました〜 作:るるの
この世界を満たしているのは、神の慈愛などではない。地脈を流れ、大気を震わせる青白い霧──「魔素」という名の猛毒だ。かつて人類はこれを魔力と呼び、文明の灯火とした。だが、その恩恵を享受できるのは、体内に魔力回路という「疑似的な血管」を持つ、選ばれた一割の人間のみである。適性のない者が高濃度の魔素に触れれば細胞は崩壊し、耐性を持つ者ですら、一度制御を誤れば精神は砕け、理性を失った肉塊──「崩落者(魔物)」へと堕ちる。
聖王国アステラリアにおいて、魔術を行使できることはすなわち「貴族」であることの証明だ。彼らは強力な結界を張り、魔石という名の結晶から文明の利器を産み出す。しかし、その華やかな繁栄の裏側では、肉体進化の果てに自壊の危機と隣り合わせのドワフガルドや、神の恩寵を汚した罪人と蔑まれるデモンライズ、そして聖銀の副作用によって感情を失っていく「空白病」の犠牲者たちが、音もなく積み上げられていた。
かつて、王都の喧騒から遠く離れた、霧深い隠れ屋敷。そこには、公式記録には存在しないはずの生活があった。一人の少女が、そこで「隠し子」として育てられた。母エレノアは物心つく前に亡くなり、唯一の肉親である父ガウルは、たまに屋敷を訪れては、愛娘に剣を握らせた。
「いいか、リリ。お前がどんなに世界から蔑まれようと、俺はお前の傍にいる」
白銀の調律魔装に身を包んだ「剣王」ガウル。その瞳には、常に言い知れぬ焦燥と、深い慈しみが同居していた。彼はドワフガルドの英雄として祭り上げられながら、その実、忌むべきデモンライズである己の正体を隠し続けていた。
修行は過酷を極めた。十歳にも満たない少女の柔肌を、煤けた銀の剣が容赦なく叩く。ガウルにとって、生き残ることこそが唯一の正義であり、娘に与えられる唯一の愛だった。だが、ガウル視点で見れば、少女の小さな掌にできる肉刺(まめ)の一つ一つが、いつか自分がいなくなった後に彼女を守る鎧になると信じていた。魔力に愛され、同時に呪われた娘。自分と同じデモンライズの血を引く彼女が、この残酷な世界で「捕食者」として君臨するためには、慈悲など無用だった。ガウルは、娘が上げる悲鳴をあえて無視し、その心に「力こそが全て」という杭を深く打ち込み続けた。
そんな歪な教育は、少女の精神を緩やかに、しかし確実に歪めていった。隠蔽された生活。自分を愛していると言うくせに、会いに来るたびに傷を負わせる父。少女はいつしか、「愛されるためには、相手が抗えないほどの力を示さなければならない」と確信し始めた。屋敷に仕える数少ない使用人たちに対し、彼女は次第に尊大に振る舞うようになった。
「私に触れるなと言ったはずよ。下賤な者が、私の魔力を汚すつもり?」
幼い唇から放たれる言葉は鋭く、その瞳には、父譲りの苛烈な光が宿る。それは、自分が「特別な存在」であると思い込まなければ、いつ捨てられるか分からないという恐怖の裏返しだった。誰よりも有能で、誰よりも美しく、誰よりも傲慢でなければ──この霧深い牢獄の中で、自分という存在が消えてしまう気がしたのだ。
そんな歪な日常は、一通の文によって呆気なく崩壊した。
──ガウル・ヴァン・ブラッドレイ、戦死。
辺境の防波堤として、押し寄せる魔物の群れから領地を守り抜いた末の、不名誉な死。王都は「堕ちた英雄」の最期を冷笑と共に聞き流したが、少女の手元には、血に汚れた一通の遺書が届けられた。
『愛する娘へ。これをお前が読んでいるということは、俺の時間は尽きたのだろう。不甲斐ない父を許してくれ。お前を日陰に閉じ込め、ただ剣を振るうことしか教えられなかった俺を。だが、お前には可能性がある。母から受け継いだ白銀の輝きと、俺から受け継いだ不屈の牙が。今日この時より、お前がブラッドレイ家当主であり、騎士団長だ。世界を包む優しき花のように、そして世界を変える悪魔のように、強くなれ。お前なら、この呪われた地を「故郷」に変えられると信じている』
父が願った「優しき花(リリー)」の慈愛は、地脈に沈んだ。リリスは手にした遺書を握りしめると、傍らのテーブルに置かれた花瓶を、裏返しの手で激しく弾き飛ばした。陶器が砕け、溢れた水が絨毯を汚すが、彼女は一瞥もくれない。遺書を読み終えた少女の瞳に、涙はなかった。あるのは、夜の底に沈むような深い紫の輝きと、燃え上がるような傲慢な意思。
「……あははっ! あはははははははっ!!」
少女は笑った。腹の底から、喉が裂けるほどの高笑いを上げた。
「不甲斐ない? 許してくれ? 何をいまさら……! 貴方は死んでまで、私に責任を押し付けるのね、パパ!」
笑い声は次第に狂気を帯び、誰もいない屋敷の広間に反響する。その時、彼女の身体から紫色の魔力が溢れ出し、煤けた残滓となって周囲を渦巻き始めた。リリスの意志に呼応し、影が蠢く。
「いいわ、望み通りにしてあげる! 私を日陰に置いた世界も、貴方を殺した連中も、全部私の足元に跪かせてあげるわ!」
彼女の背後で、魔力の残滓が揺らめき、見えざる「影」が這うようにして彼女の足元に集まっていく。
「……ふん、最後まで勝手な言い草ね、パパ。でも、残念だったわね。私は『優しき花』になんてなってあげない」
残されたのは、夜を統べる「悪魔(リリス)」の如き傲慢な魂。影が幽霊のように部屋を舞う中、リリスは両手を広げて天を仰いだ。
「……いいわ。捨てられた英雄の娘が、どれほど残酷にこの地を支配してあげるか。特等席で見せてあげる!」
聖銀に焼かれた母の純潔と、魔素に狂った父の野性を継ぐ、最果ての王。
「私の名はリリス。……リリス・ヴァン・ブラッドレイよ」
それは、最果ての地に君臨する新たな「主」の誕生を告げる、静かな、あるいはあまりにも狂った宣戦布告であった。