第一話 始まりは、静かな夕暮れ
夕焼け色に染まった街を、自転車が静かに走っていく。
春の終わり。
海鳴市の空は穏やかで、吹き抜ける風もどこか暖かかった。
「うぅ~……疲れたぁ……」
自転車の前を走っていた少女――高町なのはが、大きく伸びをする。
その後ろを、もう一台の自転車がゆっくり追い掛けていた。
「なのは、前見て走りなよ」
落ち着いた声。
長い茶髪をポニーテールにした少女、高町さくらだった。
顔立ちはなのはとよく似ている。
けれど、なのはが元気に感情を表へ出すタイプなら、さくらはどこか静かで落ち着いていた。
「だってー、今日いっぱい走ったんだもん」
「体力ないだけでしょ」
「むぅ」
なのはが頬を膨らませる。
そんな妹を見て、さくらは小さく笑った。
高町家の次女。
どこにでもいるような、少し物静かな女子小学生。
けれど、さくらは昔からどこか一歩引いたように周囲を見ていた。
まるで、自分だけがこの世界から少し浮いているように。
「お姉ちゃん?」
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
さくらは軽く笑いながら答える。
なのはは少し疑わしそうな顔をした後、また前を向いた。
その時だった。
『……助けて……』
不意に。
頭の奥へ、か細い声が響いた。
「え……?」
なのはが急に自転車を止める。
さくらもブレーキを掛けた。
「どうしたの?」
「今……誰か……」
なのはが辺りを見回す。
夕焼けに染まった街。
周囲に人影はない。
だが。
『助けて……』
また声が響く。
なのはが不安そうに胸元を押さえた。
その瞬間。
さくらの表情が僅かに変わる。
来た。
物語の始まり。
ジュエルシード事件。
本来なら、ここからなのははユーノと出会い、魔法少女になる。
さくらは静かに目を伏せた。
――干渉しない。
そのつもりだった。
なのはが選ぶ物語だから。
「お姉ちゃん、今の聞こえた?」
「……いや」
小さく嘘を吐く。
本当は、聞こえていた。
だが、さくらは知らない振りをした。
なのはが自分で歩き出すべき物語だから。
「でも、気になるなら行ってみる?」
なのはは少し迷った後、こくりと頷く。
二人は声のした方向へ走り出した。
夕暮れの公園。
奥の林。
そして。
そこで、二人は一匹の傷付いたフェレットを見付ける。
「きゃっ!?」
なのはが慌てて駆け寄った。
白い毛並みは汚れ、身体中に傷がある。
苦しそうに息をしていた。
「大丈夫!?」
なのはが心配そうに抱き上げる。
フェレットは弱々しく目を開いた。
その瞳を見た瞬間。
さくらは小さく目を細めた。
「病院連れてかなきゃ!」
なのはが慌てた声を上げる。
さくらは小さく頷いた。
「……そうだね」
そのまま二人は、近くの動物病院へ向かう事になった。
夜。
動物病院から戻った高町家は、いつも通りの静かな時間が流れていた。
夕食を終え、それぞれが自分の時間を過ごしている。
なのはも部屋へ戻っていたが、どこか落ち着かなかった。
動物病院へ預けてきたフェレットの事が気になって仕方ない。
「大丈夫かな……」
ベッドへ寝転びながら、小さく呟く。
その隣では、さくらが静かに本を読んでいた。
「先生、大丈夫って言ってたでしょ」
「うん……でも……」
なのはが不安そうに抱き枕を抱える。
そんな妹を見て、さくらは小さく笑った。
「明日には元気になってるよ」
「……だといいなぁ」
やがて部屋の灯りが消え、夜が深まっていく。
静かな時間。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
その時だった。
『……助けて……』
「っ!?」
なのはが勢いよく目を開く。
頭の奥へ直接響く、あの声。
『助けて……!』
今度は昼間よりもはっきりしていた。
なのはが慌てて身体を起こす。
隣のベッドを見る。
さくらは静かに眠っていた。
起こさないようにそっとベッドを降りると、なのはは静かに部屋を抜け出した。
夜の海鳴市を、小さな足音が駆けていく。
向かう先は、動物病院。
なのはは息を切らしながら走った。
『助けて……!』
声が近付いてくる。
そして。
動物病院へ辿り着いたなのはは、そこで異様な光景を目にした。
「え……?」
夜の道路。
そこにいたのは、昼間のフェレットだった。
そして、その後ろから追い掛けている巨大な化け物。
黒い泥のような身体。
赤く光る瞳。
異形。
化け物は唸り声を上げながら、フェレットへ迫っていた。
「危ないっ!!」
なのはは咄嗟に飛び出した。
フェレットを抱き抱える。
その直後。
化け物の腕が地面を叩き砕いた。
轟音。
アスファルトが割れる。
なのはの顔が青ざめた。
「な、なにこれぇぇっ!?」
震える声。
だが、その腕の中でフェレットが光り始める。
そして。
淡い赤い光の中から、一つの杖が現れた。
宝玉の埋め込まれた、美しい杖。
『Stand by ready.』
機械的な声が夜へ響く。
なのはが目を見開く。
「しゃ、喋ったぁっ!?」
フェレット――ユーノが苦しそうに声を上げた。
「それを使って! 君なら使える!」
「つ、使えるってぇ!?」
化け物が再び迫る。
逃げ場はない。
なのはは震える手で杖を握った。
すると。
頭の中へ、不思議な言葉が流れ込んでくる。
呪文。
魔法。
自然と理解出来た。
なのはは杖を胸の前へ抱く。
「レイジングハート……セットアップ!」
瞬間。
桜色の光が夜空へ弾けた。
光がなのはの身体を包み込む。
リボン。
バリアジャケット。
桜色の魔力。
そして。
夜空へ浮かぶ、一人の魔法少女。
高町なのはの、始まりだった。