夜の帳が、静かに街を覆っていた。
八神家。
普段なら暖かな灯りと賑やかな声が満ちている家は、今夜に限って重苦しい沈黙に包まれていた。
部屋の中央。
ベッドへ横たわるはやての呼吸は、浅い。
苦しそうに上下する胸。
額には脂汗。
肌は青白く、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
シャマルが治療魔法を展開している。
だが。
光は、ほとんど意味を成していなかった。
「……駄目です」
震える声。
「侵食速度が、もう……」
その言葉に、部屋の空気が凍る。
ヴィータが唇を噛み締めた。
「クソッ……!」
拳を壁へ叩きつける。
鈍い音。
だが、その怒りのぶつけ先など、どこにもなかった。
シグナムは静かに目を閉じる。
ザフィーラも低く唸るように沈黙していた。
誰もが分かっていた。
もう、限界だと。
本来なら。
闇の書の侵食は、もっと早く持ち主を壊していた。
だが。
それでも、はやてが今まで生き延びていた理由がある。
部屋の隅。
椅子へ腰掛けていた少女が、静かにはやてを見つめていた。
高町さくら。
ここ数日。
彼女は毎日のように八神家へ通い続けていた。
その理由は一つ。
はやての命を、少しでも繋ぎ止めるため。
はやての右手の中指にある、大空のマーレリングが小さく灯っていた。
羽を広げた装飾。
その宝石から揺れる、オレンジ色の炎。
大空の炎。
調和の炎。
その炎が、闇の書の侵食を辛うじて抑え込んでいた。
だが――
「……もう、追いつかない」
静かな声だった。
その言葉に、守護騎士たちの表情が強張る。
シャマルが振り返る。
「さくらさん……!」
「限界よ」
さくらは静かに言った。
「侵食そのものが、もう持ち主の生命活動へ食い込んでる」
「今のあたしじゃ、時間稼ぎが精一杯」
ヴィータが叫ぶ。
「だったらもっと炎を――!」
「無理」
即答だった。
さくらは、はやての右手に灯る炎を見つめる。
「死ぬ気の炎は、持ち主の覚悟に応じて変わる」
静かな声。
だが、その言葉は重かった。
「つまり――はやての生命力が、もう限界なのよ」
ヴィータが言葉を失う。
沈黙。
重苦しい空気。
その中で。
はやての右手だけが、微かに光を灯していた。
右手の中指。
羽を広げた装飾が施された、大空のマーレリング。
その宝石から。
今にも消えそうなほど弱々しい、オレンジ色の炎が揺れている。
小さく。
頼りなく。
まるで、持ち主の命そのもののように。
さくらは、その炎を見つめていた。
弱々しい。
だが。
消えていない。
まだ、灯っている。
その瞬間だった。
さくらの瞳が、僅かに細められる。
「……そう」
小さく呟く。
守護騎士たちが顔を上げた。
さくらは静かに立ち上がる。
その横顔には、覚悟が浮かんでいた。
シグナムが低く問う。
「何をするつもりだ」
さくらは答えない。
ただ。
はやての右手。
大空の炎を、静かに見つめる。
そして。
「――決めた」
その声は、小さかった。
だが。
迷いだけは、一切無かった。
シャマルが不安そうに言う。
「さくらさん……?」
さくらは振り返る。
「このままじゃ、持ち主は死ぬ」
誰も否定できない。
それほどまでに、現実は残酷だった。
「だから――闇の書を覚醒させる」
その瞬間。
空気が凍りついた。
ヴィータが目を見開く。
「なっ――!?」
シグナムが鋭く声を上げる。
「正気か!?」
ザフィーラですら目を見開いていた。
闇の書の覚醒。
それが何を意味するかなど、誰より彼らが知っている。
世界を滅ぼしかねない暴走。
最悪の災厄。
だが。
さくらは静かだった。
「分かってる」
「覚醒すれば、厳しい戦いになる」
「下手すれば、誰かが死ぬかもしれない」
静かな声。
だが。
揺らがない。
「でも、このままなら、はやては確実に死ぬ」
沈黙。
誰も言い返せなかった。
さくらは続ける。
「だから、賭けるしかない」
「管理人格を起こして、持ち主を中へ引き上げる」
「その上で、“闇”そのものを叩く」
シグナムが低く問う。
「……成功する保証は」
「ない」
即答だった。
「でも、可能性はある」
ヴィータが俯く。
拳が震えていた。
シャマルは、はやての寝顔を見つめている。
ザフィーラが静かに目を閉じた。
長い沈黙。
その後。
シグナムが、静かに頭を下げた。
「……頼む」
騎士としてではない。
家族として。
その言葉だった。
ヴィータも歯を食いしばりながら言う。
「主を……助けてくれ」
シャマルも涙を堪えながら頷いた。
ザフィーラも低く唸る。
さくらは小さく息を吐いた。
そして。
ポケットから携帯端末を取り出す。
通信先は、一人。
高町なのは。
コール音。
数秒後。
『……お姉ちゃん?』
通信が繋がる。
その声は、どこか張り詰めていた。
まるで、連絡が来ることを予感していたように。
さくらは静かに口を開く。
「――状況が変わった」
短く。
だが、その一言だけで十分だった。
なのはの声が変わる。
『……もう、抑えきれないんだね』
「ああ」
さくらは肯定する。
「闇の書の暴走を抑え込むのは、もう困難よ」
短い沈黙。
そして。
なのはは静かに言った。
『分かった』
『すぐ行く』
通信が切れる。
部屋へ静寂が戻る。
その中で。
はやての右手。
大空のマーレリングだけが、弱々しく炎を灯していた。
まるで。
消えかけながらも、必死に未来へ縋るように。