黒い魔力が、空を埋め尽くしていた。
病院上空。
結界内部は既に災害領域へ変わっている。
崩壊した空間。
軋む大気。
暴走する魔力。
その中心で。
闇の書の管理人格だけが、静かに浮かんでいた。
巨大な黒翼。
赤い瞳。
無機質な視線。
まるで世界そのものを見下ろす災厄。
なのはが砲撃を放つ。
「ディバイン――バスター!」
桜色の閃光が夜空を裂く。
だが。
管理人格の周囲へ浮かんだ大空の炎が、空間そのものへ同化した。
砲撃が、逸れる。
「えっ!?」
直撃したはずの魔力砲が、空間へ吸い込まれるように流されていく。
クロノが舌打ちする。
「空間干渉まで使うのか……!」
フェイトが高速機動で突撃する。
雷光が迸る。
「フォトン――ランサー!」
無数の雷槍。
しかし。
管理人格の周囲へ浮かぶ雲の炎が揺れた瞬間。
魔力槍が増殖した。
「なっ――!?」
次の瞬間。
制御を奪われた槍群が、逆にフェイトへ襲い掛かる。
「くっ!」
回避。
爆発。
衝撃波。
なのはが叫ぶ。
「フェイトちゃん!」
その直後。
管理人格の掌へ、嵐の炎が灯った。
空気が軋む。
さくらの目が鋭く細まる。
「避けて!」
黒い槍が放たれる。
高速。
だが、それ以上に危険だったのは――接触。
フェイトは回避する。
だが、掠めたビル壁面が、一瞬で石化した。
そして。
崩壊。
まるで風化した砂のように、建物が砕け散った。
クロノが目を見開く。
「分解能力……!」
さくらが低く言う。
「嵐の炎で“崩壊”を起こしてる」
「直撃したら終わりよ」
その時だった。
管理人格の周囲へ、雨の炎が広がる。
空気が重くなる。
なのはの魔法陣が揺れた。
「魔力が……!」
フェイトの速度も落ちる。
クロノの拘束術式まで減衰していた。
雨の炎。
沈静化。
抑制。
管理人格は、戦場そのものを支配し始めていた。
なのはが歯を食いしばる。
「このままじゃ……!」
その瞬間。
さくらが前へ出た。
クロノが振り向く。
「何をする気だ!」
「はやてを呼び戻す」
即答だった。
「このまま戦っても、管理人格は止まらない」
「今のあれは、“はやてごと”暴走してる」
なのはが息を呑む。
「……一体化してるの?」
「ああ」
さくらは管理人格を睨みながら言った。
「覚醒の瞬間、持ち主は管理人格へ呑み込まれた」
「今のあれは、管理人格だけじゃない」
「はやて自身も、内部にいる」
フェイトが目を見開く。
「じゃあ……!」
「中から目を覚まさせるしかない」
さくらは静かに言った。
「管理者権限を取り戻せば、制御を奪い返せる」
クロノが魔法陣を展開する。
「侵入中は、俺たちで抑える」
なのはが杖を握り直した。
「絶対、守る!」
フェイトも雷光を纏う。
「早く連れ戻して!」
さくらは小さく頷く。
そして。
霧の炎が揺らいだ。
紫色の炎。
構築の炎。
現実と精神を繋ぐ、幻想の炎。
その瞬間。
さくらの姿が、霧のように掻き消える。
――闇。
そこには、何も無かった。
空も。
地面も。
光も。
音すら存在しない。
ただ。
果ての見えない“闇”だけが広がっている。
底の無い黒。
無限に続く静寂。
その世界の中で。
さくらだけが立っていた。
「……何もないわね」
小さく呟く。
だが。
次の瞬間。
闇が揺れた。
黒い波紋。
そして。
その奥に、一つだけ炎が灯っていた。
小さな。
今にも消えそうな。
オレンジ色の炎。
大空の炎。
さくらは静かに歩き出す。
闇の中。
唯一の光へ向かって。
やがて。
その炎の前へ、一人の少女が見えた。
膝を抱えて座り込む、小さな背中。
八神はやて。
その右手。
大空のマーレリングだけが、微かに炎を灯している。
だが。
その身体には、黒い闇が絡み付いていた。
まるで、沈めるように。
呑み込むように。
さくらが静かに声を掛ける。
「はやて」
反応はない。
俯いたまま。
動かない。
さくらは、一歩近付く。
「迎えに来た」
その瞬間。
闇が揺れた。
低い唸り。
重い圧力。
そして。
機械のような声が、世界へ響く。
『……収集、継続』
『対象世界、侵食開始』
闇そのものが、喋っているようだった。
さくらは眉を顰める。
「うるさい」
短く吐き捨てる。
霧の炎が揺らぐ。
紫色の炎。
幻想を構築する炎。
その炎が、闇の侵食を押し返した。
そして。
さくらは、はやての前へ座り込む。
「起きなさい」
静かな声。
「みんな待ってる」
はやての肩が、僅かに震えた。
だが。
俯いたまま、小さく呟く。
「……怖い」
消えそうな声。
「うち……みんなを傷付ける……」
闇が揺れる。
黒い魔力が溢れる。
管理人格が拒絶している。
だが。
さくらは逃げない。
「だったら止めろ」
即答だった。
はやての瞳が、僅かに揺れる。
さくらは続ける。
「あなたが管理者なんでしょ?」
「なら、お前が終わらせるの!!」
闇が唸る。
世界が震える。
それでも。
さくらは真っ直ぐ、はやてを見た。
「なのはも」
「フェイトも」
「騎士たちも」
「みんな、お前を助けるために戦ってる」
「だから――帰って来い!」
沈黙。
長い沈黙。
そして。
はやての右手。
大空のマーレリングが、強く灯った。
小さかった炎が。
闇の中で、確かに燃え上がる。
その瞬間。
はやての唇が、微かに動いた。
「……さくらちゃん」
だが。
その声は、まだ弱い。
消えそうなほど小さい。
さくらは、はやての肩を掴む。
そして――叫んだ。
「はやてちゃん!!」
闇が震える。
「まだあなたの口から聞いていない!!」
真っ直ぐ。
真正面から。
さくらは叫ぶ。
「“生きたい”と言いなさい!!!!」
その言葉が。
闇の世界へ響いた。
はやての瞳が、大きく揺れる。
(生きる……!?)
その言葉。
その願い。
ずっと、望んではいけないと思っていた。
自分なんかが。
幸せを望んではいけないと。
生きたいと願ってはいけないと。
だけど。
もし。
もし本当に。
少しだけ。
願っていいのなら――
はやての瞳から、涙が溢れた。
そして。
少女は、叫ぶ。
「生ぎたい!!!!」
闇が、震える。
大空の炎が爆発的に燃え上がる。
はやては涙を流しながら、必死に手を伸ばした。
「うちも一緒に連れてって!!!!」
その瞬間。
闇の世界へ、巨大な亀裂が走った。