むかしむかし、中国の南北朝時代、梁の大同年間(西暦535~546年)末頃のこと。
梁の平南将軍藺欽は、皇帝の命により、少数民族征伐のために中国南部へ赴いた。
藺欽は中国南部の桂林に至ると、李師古・陳徹などの敵将を打ち破り、大いに活躍したという。
この戦に、もう一人の将が携わっていた。
彼の名は欧陽紇。
まだ若き欧陽紇将軍は、梁軍の別動隊を率いて各地を攻略。長楽県のあたりまで来ると、少数民族たちの洞(集落)を次々に平定しながら、さらに深く険阻な土地へと軍を進めていった。
*
このとき欧陽紇は、自分の妻を軍に同行させていた。
なぜ戦場に妻を連れて来たのか、その理由は定かではない。
先述の藺欽将軍は、南方平定の後そのまま衡州刺史(長官)として現地に赴任する予定となっている。だから欧陽紇も一緒に移住するつもりで家族を伴っていたのかもしれない。
あるいは、愛する妻と離れ離れになるのが耐えられず、つい連れてきてしまっただけかもしれない。
いささか公私混同のようではあるが、そんな気持ちを抱くのも無理はない……と思わせるほどに、欧陽紇の妻は美しかった。
雪のように澄んだ白い肌。名匠の手になる精緻な彫刻の如く整った顔かたち。日の光に煌めく黒い髪。艶めかしくも流麗な立ち居ふるまい。どれひとつとっても人の目を引かずにはおかない。
欧陽紇の妻は、それほどの美女であった。
あるとき、欧陽紇の部下の一人が、奥方の姿を目にして言った。
「将軍! これほど麗しいお方を、どうしてこのような僻地にまで連れていらっしゃったのですか!
この地方には、盗みを得意とする神が住んでおります。若くて美しい女性は、特に危険です。どうか厳重にお守りなさいませ!」
これを聞いた欧陽紇は、はなはだ恐れた。
神だかなんだか知らないが、大切な妻を奪われるわけにはいかない。
欧陽紇は山中の駐屯地に廬を作らせると、その中に妻を隠し、十人以上の婢女をそばにつけて妻の様子を見守らせた。
そして廬の戸には内側から閂をかけさせて密室とし、さらにその周囲をビッシリと兵で囲み、水も漏らさぬ厳重な警備を敷いたのだった。
*
その夜は、宵の口から雨となった。
陰鬱な雨が降りしきり、廬の周囲は漆黒の闇に包まれている。
そんな中で夜通し警備に立たされていれば、兵士たちも疲れてくる。やがて兵士たちは、立ったままウトウトとしはじめた。
さらに夜は更け、五更(午前5時)を迎えた頃……
急に雨音が、止んだ。
と、そのとき。
何者かが闇の中をザァッと駆け抜けた。
その足音と異様な気配で、兵士たちが一斉に目を覚ます。
その途端、廬の中の婢女が金切声をあげた。
「ああっ! 奥様が!」
「まさか!」
兵士たちは、慌てて廬の戸に飛びついた。が、開かない。戸にはしっかりと閂がかけられたままだ。
やがてガタガタと音を立てて婢女が閂を抜き、内側から戸を開いた。
青ざめた顔の婢女を押しのけて見張りの兵が廬の中に飛び込んだ時には、もう、奥方の姿は忽然と消え失せていた。
*
信じられない出来事だった。
戸には、確かに閂がかかっていた。人が出入りした形跡はまったくない。にもかかわらず、欧陽紇の妻は確かに姿を消してしまったのだ。まさに神仙の仕業としか考えられない。
見張りの兵は、すぐに奥方を探そうとした。
しかし駐屯地の外には険しい山が広がっているうえ、あたりはほんの一咫(8寸)先も見通せぬほどの暗闇である。とても捜索できる状況ではない。
空が白みはじめてから、ようやく兵たちは奥方の捜索を開始した。が、地面には足跡ひとつ残っていない。これでは探しようがない。
欧陽紇が夜中の事件を聞いたのは、この時だった。
欧陽紇は痛々しいほどに激しく憤り、天に向かって叫んだ。
「おのれっ……! 妻を取り戻すまで私は決して帰らないぞ!」
かくして欧陽紇は病と称して軍を留まらせ、自分は毎日四方の山々の奥深くまで妻を捜し歩きはじめたのだった。
*
一ヶ月が過ぎた。
欧陽紇は周辺の山々を歩き回り、死に物狂いで妻の行方を探し求めていたが……
ある日、ついに手がかりを発見した。
駐屯地から百里も離れたところの篠竹(笹の一種)の草むらに、一足の履が転がっていたのである。
雨に濡れ、すっかり汚れて果ててしまっているが、この見事な刺繍を見間違えるはずもない。これは妻が履いていた履だ。
欧陽紇は、濡れた履を握りしめた。
「ああ……! どうか無事でいてくれ……!」
彼の胸は心配で張り裂けんばかりであった。
とにかく、この方角に妻が連れて来られたことは間違いない。欧陽紇は部下の中から三十人の強者を選りすぐり、食糧を背負ってさらに探索を進めた。
岩山の中に寝泊まりし、食事も野外で取り、ひたすら妻の姿を追い求め、歩き続けて十日あまり。
履を見つけた所からさらに百里も進んだところで、欧陽紇一行は、ひとつの山に行き当たった。青々とした草木に覆われ、周囲の山々よりひときわ高くそびえたつ、美しい山である。
その麓には、山を囲むように深い渓流が走っている。
欧陽紇たちは、木を編んで筏を作り、渓流を渡った。
と……
渓流を渡った先で、欧陽紇は妙なものを見た。
岩むきだしの絶壁の上、翠輝くような竹林の合間に、紅色の衣がひるがえっているのがチラリと見えたのである。
衣だけではない。耳を澄ましてみれば、何人かの女たちが笑い語り合う声も、微かに聞こえてくる。
「ひょっとすると……」
欧陽紇たちは、目の前の絶壁に挑み始めた。蔦を掴んで岩をよじのぼり、上から綱を垂らして後の者を登らせ、どうにか全員で岩壁の上までたどり着いた。
その先には、信じられないような景色が広がっていた。
すばらしい木々が列を作って植えられ、色とりどりの名花がその間を満たし、足元には青々とした草が絨毯のように柔らかく広がっている。
清らかで静かで、とても人間の領域とは思われぬ。
伝承にある神仙の住まい、仙境というのは、こういう場所を言うのだろうか。
向こうの方を眺め見ると、奥の岩山の壁面に、大きな洞窟が口を開けているようだ。
単なる自然の洞窟ではない。入口には、東向きに石造りの門が備えられている。
欧陽紇は、あっ、と息を飲んだ。
あの石門の隙間から、鮮やかな衣をまとった数十人の女性が、嬉しそうに歌い笑い遊びながら出入りしているではないか。
欧陽紇は、女たちの方に近づいていった。
女たちは、欧陽紇に気づくと、特に警戒するでも驚くでもなく、ぼんやりと立ち止まって欧陽紇を見つめた。
やがて、女の一人が欧陽紇に尋ねた。
「どうして、ここへお越しになったの?」
欧陽紇は正直に答えた。ひと月あまりも前の夜、妻が何者かにさらわれたこと。ここまで必死の捜索を続け、妻の痕跡を辿ってこの山までやってきたことを。
女たちは、顔を見合わせ、嘆いた。
「たしかに、ひと月あまり前、ここに連れて来られた女性がいましたわ。きっと、あの方が貴方のご賢妻でしょう。
奥様は今、病で伏せっておられます。ご案内しましょう。さ、こちらへ……」
(つづく)