第1話 俺はどこへ落ちたのか
第1話 俺はどこへ落ちたのか
エルヴィン・スミスは、自分が死んだことを覚えていた。
獣の巨人ジークの投擲、自身に突き刺さる岩石の槍、絶え間なく流れ出る血、そして仲間たちに「進め」と命じた最後の声――――。
それらすべての記憶が、一つの結晶として、彼の意識の底に沈んでいる。
「(……地下室には、辿り着いたのだろうか)」
最後の瞬間、エルヴィンが選んだのは『進む』ことだった。
夢を捨て、生き残る選択肢もあった。リヴァイがその猶予を彼に与えた。
だが、エルヴィンは選ばなかった。
部下の屍ぶどうを背負ったまま、彼は壁の外へ進むことを選び、そして死んだ。
「(……なるほど。これが、死後、というやつか)」
しかし、彼の意識は途切れなかった。
暗闇の中で、彼は『次に何が起きるのか』を観察していた。生前と全く同じ思考の癖だった。
観察と分析。状況の把握。そして次の一手。
死してなお、エルヴィンの脳は『指揮官』であることをやめなかった。
***
目を覚ました時、エルヴィンが最初に感じたのは『泥の匂い』だった。
次に感じたのは、自分が仰向けに倒れていることと、頭上に広がる空が、見覚えのない色をしていることだった。
空が、青い。
ただ青いだけではない。彼の世界の空とは、何かが違う。湿り気が違う。光の差し方が違う。空気そのものに、別の重みがある。
「(……ここはどこだ)」
彼は、ゆっくり起き上がった。
起き上がる動作が、軽い。
異常なくらい、軽い。
彼は自分の手を見た。
「(……)」
手が小さかった。
いや、小さい、というより、若・い・。自分が記憶しているエルヴィン・スミスの手ではない。傷跡もない。腕も細い。
彼は急いで、近くにあった水たまりに自分の顔を映した。
「(……これは)」
水面に映っていたのは、十代後半と思われる青年の顔だった。
金髪、青い瞳、眉が太い。生前のエルヴィンと、輪郭は確かに似ている。だが、若・い・。彼が士官学校を卒業したばかりの頃の顔に近かった。
しばし、エルヴィンは水面を見つめた。
「(……転生、というやつか)」
結論は、すぐに出た。
いくつかの仮説――――地獄、夢、幻覚――――を検討し、すべて棄却した。
彼は『指揮官』である前に『考察家』だった。観察された情報から最も妥当な仮説を導き出すのは、彼の専門だ。
・体が若い。
・記憶は鮮明にある。
・空の色が違う。
・空気の組成が違う気がする。
・周囲の風景が、知っているどの土地とも一致しない。
結論:別の世界に、若返った肉体で、放り込まれた。
「(理屈はわからん。だが、起きたことは事実だ)」
エルヴィンは、立ち上がった。
立ち上がる動作も軽い。膝が痛まない。腰も問題ない。生前、長年の戦闘で蓄積されていた疲労や古傷の感覚が、まったくない。
不思議な気分だった。
「(さて、まずは状況把握だ)」
彼は、周囲を見回した。
倒れていたのは、どうやら街道脇の藪の中だったらしい。荒れた林道の端。馬車の轍わだちが残っているが、舗装されていない。中世的な、土の道。
空気には、薄く血の匂いが混じっていた。それも、戦場の血ではない。日常的な、街の血の匂い。
「(治安が、悪い土地のようだな)」
経験で、彼にはそれが分かった。
血の匂いが日常的に空気に混ざる土地は、彼の記憶に該当する場所はそう多くない。シガンシナ区が陥落した直後の、難民街道。そういう場所の匂いに、近かった。
***
しばらく歩いた先に、街道の合流地点があった。
そこに、案内板らしきものが立っていた。エルヴィンは近づいて、刻まれた文字を読もうとした。
「(……読めない)」
文字は、知らない言語だった。
ラテン文字でも、彼の世界の文字でもない。装飾的な、しかし実用的な書体。
「(言語の壁。これは厄介だ)」
エルヴィンは少しだけ唸った。
異郷で生き延びるために、最初に必要なのは食料でも金でも武器でもない。情報だ。情報を取れない者は、最も早く死ぬ。
「(だが、不思議なことに……)」
彼は、案内板の前で目を細めた。
文字は読めない。しかし、案内板の構造――――矢印、距離表示、地名らしき記号の並び――――から、これが街道の案内板であることは『理解』できた。
まるで、文字の意味は分からないが、文字の機能は分かる、という感覚だった。
彼は試しに、自分の口で何かを呟いてみた。
「……水」
単純な単語だ。
口から出た音と、頭の中で思い浮かべた概念が、ちゃんと一致している。
「(……言語は、通じる)」
次に、もう少し長い言葉を試した。
「道はどちらだ」
誰もいない街道に向かって、独り言を言う男。
傍から見れば、かなり怪しい絵だった。
その怪しい絵を、ちょうど目撃した人物がいた。
「あ、人だ! 大丈夫ですか?」
街道の向こうから、声が飛んできた。
馬車を引いた中年の女性が、こちらに向かって小走りで近づいてくる。表情は警戒交じりの善意。行商人、といったところか。
「(……タイミングが悪い)」
エルヴィンは内心で呟いた。
怪しい独り言を、しっかり聞かれた可能性がある。
だが、振り返って気づいた。
女性の話す言葉は、明らかに彼の母語ではない。にもかかわらず、声の意味が『理解』できた。
「(……何らかの干渉が働いている。意味だけが、勝手に翻訳されている)」
仮説を、また一つ立てた。
「あんた、こんなところで何を……。怪我は?」
「ない」
エルヴィンは答えた。自分の口から出た言葉は、相手の言語と同じ響きを持っていた。
「(……話せる、か)」
不思議な感覚だった。彼の母語ではないはずの言語が、口から自然に出る。聞いた言葉も、理解できる。文字だけが、なぜか読めない。
「あらそう、それならよかった。最近、街道で野党にやられた人を運ぶことが多くてね……。あんた、街までついてくる?」
「街、というのは」
「迷宮都市オラリオ。そこから二日の距離だよ」
エルヴィンは、その地名を初めて聞いた。
「(迷宮都市――――)」
頭の中で、彼は単語を咀嚼した。
迷宮、という単語が示す範囲は、彼の世界では限定的だ。古代神話の、ミノタウロスを閉じ込めた構造物。あるいは比喩的に、人を惑わせる場所。
だが、行商人の口ぶりからすると、この『オラリオ』は実在する街であり、しかも『迷宮』という名前を冠した街である。
「迷宮、というのは、比喩か」
「比喩? ああ、いや、本物だよ。バベルの下に、本物の迷宮ダンジョンがあるんだ。冒険者がそこに潜って、怪物モンスターを狩るのが仕事」
「冒険者」
「あんた、本当に何も知らないんだね……? 大丈夫かい、頭でも打った?」
エルヴィンは少しだけ苦笑した。
ある意味、頭を打ったどころの話ではない。
「(怪物モンスター、迷宮ダンジョン、冒険者、バベル――――この世界は、俺の世界とはかなり違う構造を持っている)」
彼は、行商人の馬車に乗せてもらうことにした。
「ありがとう。世話になる」
「いいよ、いいよ。代わりに、街に着くまで荷物の見張りを手伝ってくれたら助かる」
「了解した」
馬車に揺られながら、エルヴィンは行商人から、この世界についての断片的な情報を集め始めた。
***
二日の旅路で、エルヴィンが理解したのは以下のことだった。
・この世界には『神々』が実在する。天界から降臨した存在。
・神々は人間と『眷属契約ファルナ』を結び、ファミリアと呼ばれる組織を作っている。
・冒険者と呼ばれる者たちが、ダンジョンに潜って怪物を狩る。
・冒険者にはレベルがあり、神からの『恩恵ファルナ』によって強化される。
・オラリオは『迷宮都市』と呼ばれる、世界の中心都市。
・現在のオラリオは『暗黒期』と呼ばれる時代にある。闇派閥イヴィルスと呼ばれる悪のファミリア群が暗躍し、街の治安は最悪。
・最強と呼ばれた【ゼウス・ファミリア】と【ヘラ・ファミリア】が黒竜の前に敗れて以降、街の秩序は失われつつある。
「(……戦時下、ということか)」
エルヴィンは、馬車の荷台で揺られながら、頭の中で情報を整理した。
神々が実在する世界。怪物が地下から湧く世界。冒険者という名の戦士たち。そして、闇派閥という敵。
巨人を相手にしてきた彼にとって、怪物そのものは特段珍しい存在ではなかった。形が違うだけだ。
ただ――――この世界には、彼が今まで戦ってきた『調査兵団』のような、組織として怪物に立ち向かう仕組みがある。そして、その仕組みを支えるのが『神』という存在だ。
神の力を借りて戦う。
彼の世界では、ありえなかった概念だった。
「(神に祈って戦う、ということではない。神の力を直接受けて、強くなる、ということか)」
その仕組みは、彼にとって興味深かった。
彼の世界では、人間は人間の力だけで巨人と戦った。立体機動装置、雷槍、知識、そして犠牲。それが彼らの武器だった。
この世界では、神そのものが武器になる。
文化が、根本的に違う。
「兄ちゃん、何難しい顔してるんだい」
「いや、考え事だ」
「あんた、頭のいい子だね。話してても分かるよ。冒険者になるつもりかい?」
「……まだ決めていない」
エルヴィンは正直に答えた。
冒険者になる、という選択肢は、確かに頭の中にあった。だが、まだ早い。情報が足りない。
まずは、街に着いてから動く。
彼は、それを決めた。
***
二日目の昼過ぎ、馬車は街の門にたどり着いた。
オラリオ。
エルヴィンが最初に見たのは、街そのものではなかった。
空に、聳そびえる巨大な塔。
円形の市壁の中央に、白い石造りの巨塔が天を貫いていた。雲を貫くほどの高さ。建造技術として、彼の世界には存在しない規模の建築物だった。
「(バベル……)」
行商人がさっき口にしていた塔の名を、彼は思い出した。
あの塔の地下に、怪物の溢れる迷宮があるという。
「(戦場の上に、街が乗っているのか)」
エルヴィンは、唸った。
彼の世界では、戦場と街は分離していた。壁の外に巨人がいて、壁の内に人間がいた。
この世界では、街の真下に戦場がある。冒険者は毎日、自分の足元の戦場へ降りていく。
奇妙な構造だ、と思った。奇妙だが、合理的でもあった。戦場が固定されていれば、人々はその上で生活ができる。
「兄ちゃん、ここで降りるかい?」
「ああ、世話になった」
「気をつけてね。暗黒期だから、夜は出歩かないこと」
「肝に銘じる」
エルヴィンは馬車から降り、行商人に礼を言った。
行商人は荷物の見張りをしてくれた礼として、彼に小銭を数枚握らせた。彼はそれを受け取った。プライドより、まず生存だ。彼は知っていた。
***
オラリオの街に入った最初の数時間で、エルヴィンは多くを学んだ。
街は、思っていたより活気があった。
冒険者と思しき若者たちが武器を背負って歩いている。商人の声が響く。神官らしき男が街角で説教している。神々と思しき美しい男女が、人混みの中を堂々と歩いている。
「(神は隠れていない、のか)」
神々が市民と同じ目線で街を歩いている、という光景は、エルヴィンの想像を超えていた。
神とは、彼の世界では『信仰の対象』だった。教会の中、祭壇の上、人の手の届かない場所にいるものだった。
ここでは、神は隣を歩いている。
「(面白い世界だ)」
彼は、本気でそう思った。
壁の外を知りたかったエルヴィン・スミスにとって、別の世界の構造を観察するという機会は、まさに『壁の外』そのものだった。
彼は、街の中心部に向かって歩いた。
目的は、宿を取ることと、情報を集めることと、『この世界での自分の立ち位置』を見つけることだった。
***
夜になって、エルヴィンは安宿に部屋を取った。
行商人にもらった小銭と、街道で拾った――――正確には、藪の中で目を覚ました時に、自分の懐に入っていた――――数枚の銀貨で、何とか一晩分の宿代を払えた。
部屋は狭く、ベッドは硬く、窓の外からは酔っ払いの怒鳴り声が聞こえた。
「(……街の治安は、聞いていた以上に悪いな)」
彼はベッドの上で、天井を見上げていた。
今日一日で観察した情報を、頭の中で整理する。
・この世界には神がいる。
・神の力で人は強くなる。
・街の真下には怪物の住む迷宮がある。
・闇派閥イヴィルスと呼ばれる悪が、街の影で動いている。
・秩序を守る『正義のファミリア』らしき組織も、いくつかあるらしい。
その『正義のファミリア』のうち、最も評判が良いのは――――。
「(アストレア・ファミリア、と言ったか)」
昼間、市場の老婆が口にしていた名前だった。
暗黒期のオラリオで、闇派閥に対して立ち向かっている数少ない『真っ当』な組織。神アストレアが主神。団長は赤い髪の少女だという。
老婆はそれを語る時、少しだけ目を細めて言った。
『あの子たちは、本当に正しいことをやろうとしてる。けど、暗黒期だ。正しいだけじゃ、生き残れないかもしれない』
「(生き残れないかもしれない、か)」
その言葉を、エルヴィンは反芻していた。
壁の中の人類が、絶望の中で巨人と戦った時の言葉に似ていた。
『生き残れないかもしれない、けれど、進む』
そういう種類の組織と、そういう種類の人間を、彼は知っていた。彼自身が、そういう人間だった。
「(一度、見に行く価値はあるな)」
エルヴィンは目を閉じた。
明日、街を歩こう。
アストレア・ファミリアの拠点を、自分の目で見てみよう。
もし――――もし彼らが、自分が知る種類の『進む者たち』であるならば、自分はこの世界で、もう一度、進む側に立てるかもしれない。
そう思った時、エルヴィンの口元に、ほんの少しだけ、笑みが浮かんだ。
「(俺はまだ、進めるか)」
眠りに落ちる前、彼は天井に向かって、独り言を呟いた。
「悪くない、第二の人生だ」
翌朝。
エルヴィン・スミスは、暗黒期のオラリオを、自分の足で歩き始めた。
目指すは、アストレア・ファミリアの拠点。
赤い髪の少女が団長を務める、正義の旗の下――――。
第1話 俺はどこへ落ちたのか 完
エルヴィン・スミス
壁の外を知りたかった男。死んだら、別の世界に転生していた。十代後半の若い肉体に放り込まれ、記憶はそのまま。早速、行商人の馬車に乗って情報収集を始める辺り、生前の指揮官の癖が抜けていない。
行商人の中年女性
街道で気を失っていた金髪の青年を拾い、馬車に乗せてくれた善人。荷物の見張りと引き換えに小銭を握らせた、暗黒期のオラリオ郊外を生き抜く生活力の塊。
オラリオ
円形の迷宮都市。中央にバベルの巨塔が聳える。空気に薄く血の匂いが混じる、暗黒期の街。
アストレア・ファミリア(噂のみ)
市場の老婆が『あの子たちは本当に正しいことをやろうとしてる』と評した、正義のファミリア。エルヴィンが次に向かう先。