また来週も頑張ります。これからは主に週末に投稿すると思います。
第5話 正義の誓い
——前回までのあらすじ。
壁の外を知りたかった男、エルヴィン・スミス。
調査兵団団長として人類を導き、ウォール・マリア奪還作戦で命を落としたはずの彼は、神々と怪物の都市、オラリオへと落ちた。
工場地帯での戦闘を経て、エルヴィンは正義の眷族、アストレア・ファミリアに加入する。
Lv.1。
ステータス初期値。
スキル【策謀看破】。
新たな肉体はまだ弱い。
だが、前世で積み上げた二十年の戦場経験は消えていなかった。
輝夜との毎朝の鍛錬。
賑やかな食卓。
アリーゼとリューの距離感。
ライラの軽口と仲裁。
エルヴィンは少しずつ、星屑の庭という家の空気を知っていく。
そんな朝、ガネーシャ・ファミリアのシャクティとアーディが星屑の庭を訪れた。
燃えた工場跡地から、魔石製品の心臓部である撃鉄装置が十二基消えていた。
それは単なる盗難ではない。
エルヴィンは報告書の図面を見て、そう看破する。
「盗難ではない。準備だ」
星屑の庭の朝に、暗黒期の戦場の匂いが入り込んだ。
***
食堂に残された報告書は、沈黙よりも重かった。
燃えた工場跡。
第三棟。
消えた撃鉄装置、十二基。
エルヴィンは、もう一度図面に目を落とした。
文字は読めない。
だが、配置は読める。
火元。
搬入口。
倉庫。
盗まれた部品の位置。
残された金目の品。
そこには、犯人の意図が残っていた。
「一つ確認したい」
エルヴィンが口を開く。
アリーゼ、輝夜、ライラ、リューが一斉に彼を見る。
「撃鉄装置は、単体で価値があるものなのか」
「あるにはある」
ライラが答えた。
「魔石製品を作る工房なら欲しがる。けど、十二基まとめて盗んで即売れるような代物じゃない。足がつく」
「つまり、売却目的ではない可能性が高い」
「だな」
ライラは頷いた。
「普通なら本体ごと盗む。魔石灯でも、加工機でも、完成品の方が高く売れる」
「だが、犯人は心臓部だけを抜いた」
エルヴィンは図面の空白を指した。
「これは、武器を盗んだのではない。武器を起こす手を盗んだ」
食堂の空気が、さらに冷える。
リューが静かに拳を握った。
「なら、急がなければ」
「待て」
輝夜が短く止める。
リューの耳が、ぴくりと動いた。
「また止めるのですか」
「また走る気か」
「被害が出る前に動くべきです」
「それは正しい。だが、正しいだけだ」
輝夜は茶碗を置いた。
「敵の場所も、数も、狙いも不明。貴様が今走れば、正義の旗ではなく、ただの的になる」
「……ですが」
「たわけ」
輝夜の声は低かった。
「救いたいなら、まず考えろ」
リューは唇を結んだ。
いつもの罵倒ではない。
輝夜の言葉には、刃よりも重い制止があった。
ライラが軽く手を叩く。
「はい、そこまで。輝夜が珍しくまともなこと言ってるうちに話を進めるぞ」
「珍しくとは何だ」
「普段の自覚がないのか」
「斬るぞ、小鼠」
「ほら、すぐこれだ」
アリーゼが両手を上げた。
「はいはい! 喧嘩は後! 今は撃鉄装置!」
そして、アリーゼはエルヴィンを見る。
「エルヴィン、あなたならどう動く?」
問いは軽くなかった。
団長が、新入りに意見を求めている。
輝夜の目が少し細くなる。
ライラは面白そうに口元を歪める。
リューは真剣にエルヴィンを見ていた。
エルヴィンは少しだけ沈黙し、答えた。
「まず、犯人はまだ仕掛けを完成させていないと仮定する」
「理由は?」
輝夜が問う。
「使ったなら、すでに被害が出ている。十二基を盗み、沈黙している。準備中か、時刻を待っているか、そのどちらかだ」
「妥当だな」
ライラが頷く。
「次に、撃鉄装置を単独で使うとは考えにくい。必要なのは、それを組み込む本体、魔石、作業場所、そして運搬経路だ」
「つまり、部品だけ追うなってことね」
アリーゼが指を鳴らす。
「部品を使える場所を探す」
「そうだ」
エルヴィンは図面から顔を上げた。
「工場跡だけでは足りない。魔石工房、倉庫街、違法な加工品の流通路。そこに痕跡が残る」
「運搬経路なら、荷車の跡が残っているかもしれません」
ノインが控えめに言った。
「工場周辺には土が柔らかい場所もあります。火事の後でも、車輪跡なら残っている可能性があります」
「いい視点だ」
エルヴィンは短く言った。
ノインは一瞬だけ目を丸くし、少し照れたように視線を落とした。
「匂いなら、私が追える」
ネーゼが腕を組む。
「焼け跡でも、油と魔石粉の匂いは残る。雨が降っていなければな」
「狼人の嗅覚か」
「人間の鼻よりは役に立つよ」
「罠があったら、わたしが前に出るよ」
アスタが小さく手を上げた。
「盾なら、少しは自信あるし」
「少しではないだろう」
輝夜が言った。
「貴様の盾は、うるさいほど頑丈だ」
「褒めてる?」
「事実だ」
「それ、輝夜なりの褒め言葉だよ」
アリーゼが笑う。
「黙れ、赤毛」
「魔石製品の加工なら、廃材も見るべきです」
セルティが丸眼鏡を押し上げた。
「十二基分の撃鉄装置を別の製品に組み込むなら、工具と魔石粉の消費が増えます。隠し工房でも、痕跡は残るはずです」
「セルティ、急に専門家みたいになったな」
ライラが言う。
「知ることは好きです」
「うん、知ってた」
「魔力痕が残っているなら、私が見るわ」
リャーナが報告書を手に取った。
「ただし、エルヴィン。あなたにも文字は覚えてもらう」
「必要か」
「必要よ。毎回読み上げ係をするほど暇ではないわ」
「了解した」
「素直でよろしい」
「聞き込みなら、私も行けるわ」
イスカが髪を払った。
「工房の職人って、案外見た目で口が軽くなるのよ」
「その理屈は信用していいのか?」
ライラが疑う。
「美は情報を開く鍵よ」
「なんか腹立つけど、否定しきれない」
「怪我人が出ないのが一番だけど、準備はしておくわね」
マリューが穏やかに言った。
「包帯と薬、それから温かいものも」
「温かいもの?」
エルヴィンが聞く。
「帰ってきた時、冷えた身体には必要でしょう?」
エルヴィンは少しだけ黙った。
「……そうか」
エルヴィンは、無意識に全員の役割を整理していた。
痕跡確認、ノイン。
追跡、ネーゼ。
防御、アスタ。
構造解析、セルティ。
魔力痕調査、リャーナ。
聞き込み、イスカ。
後方支援、マリュー。
情報統合、ライラ。
前衛判断、輝夜。
突撃しかねない正義、リュー。
そして、全体を勢いで動かす団長、アリーゼ。
「……思ったより、完成されている」
「何が?」
アリーゼが首を傾げた。
「部隊としてだ」
「でしょ!」
アリーゼは胸を張った。
「私の人望ね!」
「イラっ⭐️」
数人の顔が同時に歪んだ。
「今の流れで何で!?」
アリーゼが抗議する。
ライラは笑いながら肩をすくめた。
「ま、やることは見えた。工房筋の聞き込み、闇市の値動き、魔石の流通。あとは、ガネーシャがギルドと倉庫街を押さえるなら、こっちは裏を洗える」
「リオン」
アリーゼが呼ぶ。
「はい」
「焦らないこと」
「……はい」
「輝夜」
「分かっておる。現場を見れば、多少は匂いも残っていよう」
「エルヴィン」
「ああ」
「報告書、もう少し一緒に見て。文字が読めないなら、誰かに読ませればいいわ」
「なら、私が読むわ」
リャーナが報告書を軽く掲げた。
「図面と文章を照らし合わせればいいのでしょう?」
「助かる」
エルヴィンは短く礼を言った。
リャーナは少しだけ目を丸くし、それから苦笑した。
「礼を言うのは早いわよ。読めない文字が多すぎて、説明する側が疲れるかもしれない」
「努力する」
「そこは覚えると言いなさい」
ライラが笑った。
「ま、読み書き訓練も追加だな。輝夜の朝稽古、リャーナの文字稽古。人気者だな、エルヴィン」
「歓迎されているのか、拘束されているのか判断に迷う」
「両方よ!」
アリーゼが元気よく言った。
「アストレア・ファミリアに入ったからには、バチコーン鍛えられてもらうわ!」
「バチコーンの意味は不明だが、了解した」
「そこは流して!」
食堂に、小さな笑いが戻る。
だが、報告書の重さは消えない。
***
アリーゼは立ち上がった。
「よし。方針は決まりね」
その声に、食堂の空気が整う。
先ほどまでの笑いは消え、団員たちの背筋が自然に伸びた。
エルヴィンはそれを見ていた。
騒がしい。
軽い。
よく脱線する。
だが、切り替えは早い。
それは戦場に立つ組織の条件だった。
「アストレア・ファミリアは、消えた撃鉄装置を追う」
アリーゼは胸に手を当てる。
「ガネーシャ・ファミリアと協力し、被害が出る前に止める。いいわね?」
「はい!」
ノインが真っ先に返事をした。
「了解」
ネーゼが頷く。
「出番だね」
アスタが盾の紐を確かめる。
「資料も持っていきます」
セルティが早口になる。
「現場で燃やさないようにしてね」
イスカが茶化した。
「燃やしません」
「前に一度焦がしたわ」
「それは事故です」
「二人とも、今はそこじゃないわ」
リャーナがため息をついた。
「まあまあ。帰ってきたら温かいものを用意しておくわね」
マリューが笑う。
アリーゼは満足そうに頷いた。
「それじゃあ、出動前に──」
輝夜が眉をひそめた。
「まさか」
ライラが視線を逸らす。
「来るぞ」
リューだけが、真面目に姿勢を正した。
エルヴィンはその反応を観察する。
明らかに、何かが始まる。
「正義の誓いよ!」
アリーゼが拳を掲げた。
数人が、分かりやすく目を逸らした。
「……毎回やる必要ある?」
イスカが小声で呟く。
「あるわ!」
アリーゼは即答した。
「正義は声に出してこそ正義! 胸に秘めるのも大事だけど、たまにはバチコーン叫ばないと!」
「バチコーンは関係あるのか」
エルヴィンが聞く。
「ある!」
「具体的には」
「勢い!」
「なるほど」
「納得するな、エルヴィン」
輝夜が低く言った。
ライラが肩を震わせている。
「やめろ、笑うと始まる前に負けた気がする」
「何に負けるのだ」
「アリーゼの勢い」
「それは全員が負けておる」
「聞こえてるわよ!」
アリーゼは咳払いを一つした。
そして、まっすぐに声を張る。
「使命を果たせ! 天秤を正せ! いつか星となるその日まで!」
食堂に、彼女の声が響いた。
「天空を駆けるがごとく、この大地に星の足跡を綴る!」
ライラが小声で呟く。
「長い」
「ライラ!」
「魂は込めた」
「込めてない!」
アリーゼは拳を掲げた。
「正義の剣と翼に誓って!」
リューは真面目に。
ノインは少し緊張しながら。
アスタは恥ずかしそうに。
ネーゼは堂々と。
リャーナは苦笑しながら。
セルティは興味深そうに。
イスカは半分照れながら。
マリューは穏やかに。
ライラは片手をひらひらさせて。
輝夜は渋々。
声が重なる。
「正義の剣と翼に誓って!!」
その直後だった。
「正義の剣と翼に誓って!!」
低く、よく通る声が食堂を震わせた。
エルヴィンだった。
背筋を伸ばし、視線を前に据え、まるで兵団を出陣させる指揮官のように、腹から声を出している。
食堂が静まり返った。
「……貴公」
輝夜が露骨に顔をしかめた。
「なぜ、そんなに乗り気なのだ」
「有効な儀式だ」
エルヴィンは真顔で答えた。
「任務前に共通の言葉を唱えることで、部隊の意識を同一方向へ向ける。羞恥を伴うなら、なお強固な共有体験になる」
「羞恥を戦術資源にするな」
ライラが額を押さえた。
「分かってるわね、エルヴィン!」
アリーゼだけが、ぱっと顔を輝かせた。
「あなた、正義の誓い適性があるわ!」
「そんな適性を作るな」
輝夜が吐き捨てる。
「決めたわ! エルヴィン、あなたを正義の誓い隊長に任命する!」
「任命権限は団長にあるのか」
「あるわ!」
「なら受けよう」
「受けるのかよ」
ライラが素で突っ込んだ。
リューは、少しだけ困ったようにエルヴィンを見た。
「馬鹿にしないのですね」
「なぜ馬鹿にする」
エルヴィンは即答した。
「命を賭ける前に、何のために動くのかを確認する。必要なことだ」
リューは一瞬だけ言葉を失った。
輝夜は舌打ちした。
「……腹立たしいほど正論だ」
ライラは遠い目をした。
「まずいな」
「何が?」
アリーゼが首を傾げる。
「アリーゼの勢いに、エルヴィンの合理性が乗った」
「それは良いことでは?」
「最悪の化学反応だ」
エルヴィンは少し考えた。
「次回は、唱和の終わりを揃えるべきだ。声量にも差がある」
「改善案まで出したぞ」
ライラが完全に引いた顔で言った。
「こいつ、本気だ」
「よし、次回から練習ね!」
「やめろ、赤毛」
輝夜の声は本気だった。
***
その夜。
エルヴィンが割り当てられた部屋で、撃鉄装置の図面を思い返している頃。
星屑の庭の休憩室では、別の意味で騒がしい会議が開かれていた。
湯上がりの団員たちが、髪を乾かしながら集まっている。
中心にいるのは、当然のようにアリーゼだった。
「いやー、今日も正義だったわね!」
「意味が分からん」
輝夜が即座に斬った。
「今日もみんな、私の正しさにひれ伏したわね! フフンっ、さっすが私!!」
「イラっ⭐️」
複数の声が、見事に重なった。
「何よ、その反応!」
「毎回それを聞かされる身にもなれ」
輝夜が呆れたように言う。
「でも、アリーゼ団長らしいですよ」
ノインが苦笑した。
「そうそう。あれがないと、逆に調子狂うよね」
アスタも頷く。
「調子が狂う以前に、耳が疲れるわ」
リャーナが淡々と言った。
「リャーナまでひどい!」
「事実よ」
「うう、みんな冷たい……リオン、慰めて!」
「なぜ私に来るのですか」
リューが一歩引く。
「だってリオンは抱き心地がいいから!」
「またそれですか」
「昨日は寝たじゃない」
「寝たのではありません。気づいたら拘束されていただけです」
「言い方!」
ライラが腹を抱えた。
「団長、とうとう拘束扱いか」
「違うわ! 愛情よ!」
「愛情と拘束は紙一重だな」
輝夜が言った。
「輝夜が言うと説得力がありすぎます」
「何だ、青二才」
「その呼び方はやめてください」
「寝具妖精の方が良いか」
「両方です」
「はいはい、そこまで」
ライラが手を叩いた。
「休憩室でまで戦うな。マリューの茶が冷める」
「そうよ。喧嘩するなら、せめて飲んでからにしてね」
マリューが柔らかく笑いながら茶を配った。
少しだけ笑いが起きる。
星屑の庭には、夜の穏やかさが戻っていた。
だが、ライラの目は笑いきっていなかった。
「で、どう思う?」
彼女は茶を一口飲み、声を落とした。
「エルヴィンのことか」
輝夜が答える。
「使える。だが、危うい」
「輝夜が褒めた」
アリーゼが笑う。
「褒めておらん。事実を述べただけだ」
「それを褒めるって言うのよ」
「言わん」
「エルヴィンって、何考えてるか分かりにくいよね」
アスタが茶菓子をつまみながら言った。
「でも、稽古の後にちゃんと礼を言ってたよ。悪い人じゃないと思う」
「判断基準が素直だな」
ライラが言う。
「礼を言う人は大体いい人だよ」
「それで何度騙された?」
「……三回くらい」
「学べ」
ネーゼが腕を組んだ。
「でも、妙な男だね。身体は新人なのに、目だけが古い」
「目だけが古い、ですか」
セルティが興味深そうに呟いた。
「年齢と経験値が一致していません。観察対象としては、とても興味深いです」
「セルティ、その言い方はだいぶ怖い」
イスカが引いた。
「解剖はしません」
「普通はその発想が出ないのよ」
イスカは咳払いして、表情を整えた。
「それはそれとして、服装は改善した方がいいわ」
「またそれか」
ライラが呆れる。
「あの人、見た目が“事情のある未亡人の護衛”みたいなのよ」
「具体的すぎる」
「もっとこう、正義の眷族らしい清潔感と、少しの威圧感が必要ね」
「イスカ、楽しんでるでしょ」
「もちろん」
「報告書を読めるようにする前に、服装改善なのかしら」
リャーナが呟く。
「両方やればいいのよ」
イスカは自信満々だった。
「忙しい新入りだな」
ライラが笑う。
マリューが柔らかく笑った。
「でも、食事を残さない人は信用できるわ」
「マリュー、それ毎回言うな」
「大事よ。ちゃんと食べる人は、生きる気があるもの」
その一言に、少しだけ空気が静まった。
リューは湯気の残るカップを見つめていた。
「冷たい人だとは、思いません」
「へぇ」
ライラが目を細める。
「リオンにしては珍しいな」
「冷静ではあります。けれど、軽く扱ってはいない」
「命を?」
「はい」
リューは静かに頷いた。
「あの人は、命を数にできる人です。でも、数にした命の重さを忘れる人ではないと思います」
ライラは少しだけ黙った。
「冷酷だけど、冷徹じゃない、か」
「何だ、それは」
輝夜が聞く。
「そのまんまだ。必要なら切れる。でも、切ったことを忘れない」
「……厄介な男だな」
輝夜は小さく呟いた。
アリーゼは、静かに笑った。
「なら、大丈夫よ」
「根拠は?」
「私がそう思うから!」
「イラっ⭐️」
また声が重なった。
リューは少しだけ困った顔をして、けれど否定はしなかった。
***
星屑の庭の灯りが、夜の中に浮かんでいた。
食堂には笑い声が残り、中庭には木刀の跡が残り、休憩室にはまだ、茶の香りと喧騒の名残があった。
エルヴィンは窓辺に立ち、夜のオラリオを見ていた。
ここは戦場ではない。
少なくとも、今は。
だが、燃えた工場跡。
消えた十二の撃鉄装置。
目的ではなく、準備。
紙の上の火種は、すでに街のどこかで息をしている。
「……暗いな」
彼は呟いた。
夜ではない。
街の奥だ。
その頃、オラリオの片隅で、一人の男神が安っぽい財布を指先で弄んでいた。
黒い髪。
灰色の瞳。
どこか頼りなく、どこか芝居がかった佇まい。
財布の中身は、わずかなヴァリスだけ。
男神はそれを覗き込み、困ったように笑った。
「四百四十四ヴァリス」
ひどく情けない額だった。
しかし、彼はその額を気に入っているようだった。
「全財産にしては、ちょうどいい」
指先で財布を回す。
「盗まれるには、ね」
男神は夜の路地へ視線を向けた。
星屑の庭の灯りは、ここからでは見えない。
けれど、その方角だけは分かる。
「正義の子供たちは、今日もよく光っている」
情けない声だった。
けれど、その奥で何かが笑っていた。
「なら、少しだけ影を落とそう」
彼は財布を懐にしまった。
「そろそろ、かな」
男神はゆっくりと歩き出す。
その足取りは頼りなく、今にも誰かにぶつかりそうだった。
だが、路地の闇だけが知っていた。
その背中が、決して迷っていないことを。
「……エレン。うん、今はそれでいい」
夜風が吹いた。
星屑の庭の灯りは、まだ遠い。
そして暗黒期の戦場は、静かにその足音を近づけていた。
第5話 正義の誓い 完
あとがき
エルヴィン・スミス
撃鉄装置消失の件から、敵がまだ準備段階にあると判断。文字は読めないが、報告書の図面と状況から戦場を読む力は健在。アストレア・ファミリアの「正義の誓い」を、軍規ではなく家を一つにする儀式として理解する。予想外に乗り気だったため、周囲を引かせた。
アリーゼ・ローヴェル
今日も元気。任務前儀礼「正義の誓い」を全力で唱える。リューを「リオン」と呼び、抱き枕扱いする距離感も継続。エルヴィンに正義の誓い適性を見出し、勝手に隊長へ任命した。
ゴジョウノ・輝夜
毒舌は健在だが、今回はリューを煽るというより、焦って動こうとする彼女を止める役回り。エルヴィンについては「使える。だが、危うい」と評価。正義の誓いに乗り気なエルヴィンを見て、非常に嫌そうな顔をした。
リュー・リオン
撃鉄装置の件で即行動しようとするが、輝夜とライラに止められる。エルヴィンについては「命を数にできるが、数にした命の重さを忘れない人」と感じ始める。正義の誓いを馬鹿にしないエルヴィンに、少しだけ意外そうな反応を見せた。
ライラ
今回も調整役。撃鉄装置の流通、工房筋、闇市など情報面での動きを担当することに。アリーゼの勢いにエルヴィンの合理性が乗ったことを「最悪の化学反応」と評する。
アストレア・ファミリアの団員たち
ノイン、ネーゼ、アスタ、リャーナ、セルティ、イスカ、マリューも少しずつ発言。第1章の終盤として、星屑の庭が一つの「家」であることを見せる回でした。エルヴィンの文字稽古、服装改善、食生活など、次回以降の日常ネタも増えました。
正義の誓い
アストレア・ファミリアの任務前儀礼。アリーゼは全力、団員の多くは恥ずかしがりながらも唱える。エルヴィンはそれを、兵を同じ方向へ向かせる儀式として受け止め、予想外に腹から声を出した。
エレン
章末に登場した謎の男神。安っぽい財布を手に、情けない神を演じる準備をしている様子。今回はまだ、彼が動き出す気配だけを描写。第2章へ繋がる、暗黒期の火種。
次回について
第1章「星屑の庭」はまだ続きます。
第6話、第7話(投稿するかは未定)はオリジナル回として、エルヴィンが星屑の庭という家にさらに馴染んでいく過程や、アストレア・ファミリアの内側を描く予定です。