第8話 あんたのままで
第8話 あんたのままで
——前回までのあらすじ。
エルヴィン・スミスは、アストレア・ファミリアに三部隊制を提案した。
第6話で語った「誰一人失いたくない」という願い。
それを、ただの感情で終わらせないために。
エルヴィンは、アストレア・ファミリアが守るべきものを整理した。
市民。
情報。
退路。
負傷者。
拠点。
そして、帰る場所。
彼の提案した第一部隊、第二部隊、第三部隊という無機質な分類に、アリーゼ・ローヴェルは名前を与えた。
正面に立ち、市民へ守る者の存在を示す第一部隊。
スターライト・ファランクス。
見えない場所で先に動き、情報と作戦を支える第二部隊。
ブラックスター・ヴァンガード。
崩れた場所へ向かい、帰る道を支える第三部隊。
アストラ・バスティオン。
その後、ゴジョウノ・輝夜が実戦目線で人員配置を決めた。
アリーゼが名を与え。
輝夜が人を置き。
アストレアが慎重に承認した。
さらに、エルヴィンは部隊ごとの制服案まで用意していた。
本気だった。
青のスターライト・ファランクス。
黒のブラックスター・ヴァンガード。
深緑のアストラ・バスティオン。
そして、青と金のアリーゼ専用団長服。
星屑の庭は、初めて明確な陣形を持った。
まだ未完成。
まだ試験運用。
それでも、エルヴィンがこの家に渡した最初の仕組みは、形になり始めていた。
そして今日。
新体制最初の巡回任務として、スターライト・ファランクスはオラリオの街へ出る。
同行するのは、第二部隊所属の作戦補佐、エルヴィン・スミス。
目的は、三部隊制の習熟訓練。
そして、エルヴィンによるオラリオの構造把握である。
本編
オラリオの朝は、晴れていた。
ただし、明るくはなかった。
太陽は昇っている。
バベルは白く輝き、迷宮都市の石畳には朝の光が落ちている。
それでも、街を歩く人々の顔は暗かった。
足音は重い。
視線は低い。
誰かと目が合えば、すぐに逸らす。
開いている店はある。
だが、以前のように開いているわけではない。
店先には粗末な木柵。
商品棚の前には網。
小さな魔石灯や金具は、客の手が届かない奥へ移されている。
万引き防止の柵だった。
店主は笑顔で客を呼ぶより先に、客の手元を見ていた。
客もまた、自分が疑われていることを分かっている。
だから余計に、会話が少なくなる。
暗黒期のオラリオ。
それは、戦場がダンジョンの中だけではなくなっていく時代だった。
アストレア・ファミリア第一部隊、スターライト・ファランクス。
その試験運用最初の巡回は、そうした街の空気を正面から受け止めるところから始まった。
「うーん」
アリーゼ・ローヴェルは、両手を腰に当てて通りを見渡した。
「やっぱり、元気ないわね!」
「声が大きいです、アリーゼ」
隣を歩くリュー・リオンが、即座に指摘した。
「こういう時こそ元気に行くのよ、リュー!」
「元気と声量は別です」
「でも、声が小さい正義って、ちょっと頼りなくない?」
「正義を声量で測らないでください」
「じゃあ笑顔?」
「笑顔でも測らないでください」
「リュー、今日の採点厳しい!」
「採点ではありません。制止です」
アスタが横でくすりと笑い、ノインは口元を押さえた。
今日の巡回担当は、スターライト・ファランクス。
隊長アリーゼ。
副隊長リュー。
盾役のアスタ。
観察役のノイン。
そして、第二部隊ブラックスター・ヴァンガードからの同行者として、エルヴィン・スミス。
輝夜とライラは、別任務に回っている。
これは単なる見回りではない。
三部隊制の習熟訓練でもあった。
正面に立ち、市民に見える場所で守る者として振る舞う第一部隊。
その動きが、実際の街でどれほど機能するのか。
エルヴィンは、それを見ていた。
道幅。
店の間隔。
避難先に使える建物。
負傷者を運ぶ時に荷車が通れる道。
夜に灯りが落ちれば死角になる路地。
子供が逃げ込みやすい場所。
大人が足を止めやすい場所。
それらを、一つずつ頭の中に置いていく。
地図だけでは分からない都市の形。
人が住み、人が怯え、人が耐えている場所としてのオラリオ。
エルヴィンは、その構造を学んでいた。
「アリーゼ」
「何、エルヴィン?」
「次の角で一度止まる。通りの幅、避難先に使える建物、工房への導線を確認したい」
「了解!」
アリーゼは迷わず頷いた。
「みんな、次の角で一回止まるわよ!」
「はい!」
アスタが明るく返事をする。
ノインは小さく頷き、すでに周囲を見ていた。
エルヴィンは、そのノインの視線を確認する。
「ノイン」
「は、はい」
「右手の店。柵の位置が昨日より前に出ている。気づいたか」
「はい。昨日の巡回時より前です」
「理由を聞く。責める必要はない。相手が何を怖がっているかを知ればいい」
「分かりました」
ノインは緊張しながらも、近くの店主へ歩いていった。
リューはその様子を見て、わずかに目を細める。
「観察役として、育てるつもりですか」
「既に輝夜がその役を置いた」
エルヴィンは答えた。
「私は、その役割を実戦で使える形にするだけだ」
「……相変わらず、物事を役割で見ますね」
「役割がなければ、迷った時に足が止まる」
エルヴィンの視線は通りを見ていた。
「だが、役割だけで人を縛るつもりはない」
リューは返事をしなかった。
前回、アストレアも同じことを言っていた。
役割は、人を縛るためのものではない。
この男は、聞いていないようで、聞いている。
それが少し、不思議だった。
***
巡回先は、東北の工業区である。
魔石製品を生産する工房が並ぶ区域。
本来なら、朝から金属音や工具の音が響き、職人たちの声が飛び交う場所だ。
魔石灯。
暖房器具。
簡易な調理器。
輸送用の魔石部品。
オラリオの生活を支える品々は、ここから多く生まれている。
だが、今日の工業区は静かだった。
壊れた荷台。
割れた魔石灯の覆い。
焦げ跡の残る壁。
まだ片付けきれていない破片。
先日の被害は、ただの破壊ではなかった。
生産設備だけでなく、住民の心も壊していた。
「アスタ、工房の出入口を確認してくれ」
「分かった!」
「壊された場所だけではなく、壊されなかった場所も見る。犯人が何を避けたのかが分かる」
「なるほど!」
アスタは大きく頷いて走っていく。
アリーゼが感心したように言った。
「エルヴィンって、壊れてない場所も見るのね」
「壊れていないものは、意図を残す」
「意図?」
「犯人が壊せなかったのか、壊さなかったのか。そこに差がある」
アリーゼは少し考えた後、ぱん、と手を叩いた。
「つまり、犯人の性格が分かる!」
「そこまで単純ではない」
「でも、近い?」
「近い」
「よし!」
アリーゼは満足げに頷いた。
「リュー、聞き込み行くわよ!」
「はい」
リューは短く返事をする。
だが、その顔は少し固い。
人付き合いは、今でも得意ではない。
アリーゼはそんなリューの横顔を見て、にやりと笑った。
「大丈夫よ、リュー。困ったら私が喋るから!」
「それが不安です」
「なんで!?」
「あなたは距離を詰めすぎます」
「いいじゃない。距離は詰めるためにあるのよ」
「違います。距離は測るものです」
「リュー、それエルヴィンみたいよ」
「……不本意です」
エルヴィンが振り返る。
「不本意とは?」
「気にしないでください」
「了解した」
「そこで素直なのも、少し困ります」
アリーゼが笑った。
「ほら、二人とも似てきてる!」
「似ていません」
「似ていない」
二人の声が重なった。
アスタがとうとう笑い、ノインも肩を震わせる。
エルヴィンは横で聞きながら、短く言った。
「アリーゼは聞き込みに向いている」
「ほら!」
アリーゼが胸を張る。
「ただし、相手に話させすぎる。リューが横で整理するといい」
「……私が整理役ですか」
「君は相手の嘘や躊躇いに気づく。アリーゼは相手の口を開かせる。組ませれば効率がいい」
リューは一瞬だけ黙った。
「了解しました」
「よし、行くわよ、リュー!」
「走らないでください」
「走ってないわ!」
「歩幅が大きいのです」
アリーゼとリューは、工房主たちへ声をかけていく。
エルヴィンは少し離れて、その様子を見ていた。
アリーゼは、意思疎通の怪物だった。
初対面の者にも、怯えている者にも、怒っている者にも、妙に懐へ入る。
無遠慮ではない。
いや、無遠慮ではある。
だが、そこに悪意がない。
相手の心が閉じていても、彼女は扉の前で声をかけ続ける。
リューは逆だ。
言葉数は少ない。
相手と距離を取る。
だが、視線は鋭い。
嘘をついた時の喉の動き、視線の逸れ、手元の震え。
そういうものを拾う。
組ませれば、確かに強い。
そう判断したのは、エルヴィンだけではない。
アリーゼ自身も、無意識にそれを分かっているのだろう。
「三年前のリューは、もっと偏屈だったけどね!」
「アリーゼ」
リューの声が低くなる。
「おっと、出た」
アリーゼは笑う。
「でも本当でしょ? 私が助けた時なんて、すごかったわよ」
「今、その話は不要です」
「えー、エルヴィンにも聞かせたい」
「聞かせなくていいです」
「人攫いの暴漢に囲まれてたリューを、私が助けたの!」
リューは顔を逸らした。
アリーゼは得意げに続ける。
「それなのに、リューったら、“助けたなら見返りを求めるべきではありません”みたいなこと言ったのよ!」
「……正確ではありません」
「だいたい合ってるでしょ?」
「合っていますが、言い方が」
「ほら!」
アリーゼは嬉しそうに笑う。
「私、リオンの弱みいっぱい握ってるから!」
「それを誇らないでください」
「エルヴィンも聞いたから、弱み共有ね!」
「共有しないでください」
エルヴィンは真面目に頷いた。
「他言はしない」
「そういう問題ではありません」
アリーゼがまた笑った。
エルヴィンは、そのやり取りを聞きながら、リューを見た。
三年前のリュー。
人を遠ざけ、助けられることすら拒絶する少女。
その少女が今、アリーゼの隣を歩き、住民へ頭を下げている。
人は変わる。
だが、変わり方を間違えれば、折れる。
エルヴィンはそう考えた。
***
「アリーゼお姉ちゃん!」
その時、路地の奥から小さな声がした。
少女が走ってくる。
アリーゼはぱっと顔を輝かせた。
「リアちゃん!」
リアと呼ばれた少女は、アリーゼに駆け寄って抱きついた。
その後ろから、母親が慌てて出てくる。
「す、すみません。アリーゼさんを見ると、この子はすぐに……」
「いいんです!」
アリーゼはしゃがみ、リアの頭を撫でる。
「元気なら、それでいいわ!」
リアの母親は、何度も頭を下げた。
「先日は、本当にありがとうございました。あの時、逃げ遅れていたら……」
「もういいんです」
アリーゼは笑った。
「今、こうして会えてるんですから」
アリーゼの声は明るい。
けれど、その奥には確かな重みがあった。
「自分たちが助けた者を、絶望的な状況だからといって忘れてはならないわ」
リューが、アリーゼを見る。
それはアリーゼの言葉だった。
エルヴィンの整理でも、エルヴィンの判断でもない。
アリーゼ・ローヴェルという団長が、これまで街を走り、手を伸ばし、名前を覚えてきたからこそ言える言葉だった。
「救えなかった命を忘れないことも大切よ」
アリーゼはリアの頭を撫でながら言った。
「でも、救えた子の顔まで忘れたら、私たちが何のために走ってるのか、分からなくなるじゃない」
リューは、すぐには返せなかった。
「……はい」
短く、そう答える。
エルヴィンは、その言葉を聞いていた。
自分ではない。
アリーゼが言った。
それが重要だった。
エルヴィンなら、救えた命を次に繋げる必要性を説くだろう。
だが、アリーゼは違う。
忘れたくないから覚える。
また会いたいから名前を呼ぶ。
生きていることを確かめたいから、巡回の途中で声をかける。
それは、組織論ではなかった。
人を守る者の感覚だった。
リアは、エルヴィンを見上げた。
「ねえ」
小さな声だった。
「あなたも、アリーゼお姉ちゃんの仲間?」
エルヴィンは、一拍だけ返答を置いた。
子供の目線に合わせるべきだ。
そう判断し、彼は膝を折った。
リアの母親が驚いたように口元へ手を当てる。
リューも、少し目を見開いた。
エルヴィンはリアと同じ高さまで視線を下げる。
その目は、普段の鋭さを少しだけ和らげていた。
「ああ。私は、アストレア・ファミリアのエルヴィン・スミスだ」
「エルヴィン?」
「そうだ」
「強いの?」
アリーゼが笑いかける。
「強いわよ!」
エルヴィンは、すぐに訂正した。
「戦う力だけなら、アリーゼやリューの方が強い」
「え?」
リアが首を傾げる。
エルヴィンは、少しだけ言葉を探した。
大人へ説明する時とは違う。
短く。
分かりやすく。
怖がらせないように。
「私は、みんなが帰る道を考える」
「帰る道?」
「ああ」
エルヴィンは、リアの手に握られている小さな布人形を見た。
「たとえば、君が怖い場所に一人でいたら、どこを通ればお母さんのところへ戻れるかを考える」
リアは布人形をぎゅっと抱いた。
「お母さんのところ?」
「そうだ。転んだ人がいれば、どう運べば痛くないかを考える。迷った人がいれば、どう声をかければ戻れるかを考える」
エルヴィンの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「私は、みんなが帰ってこられるようにする係だ」
リアは目を瞬かせた。
「じゃあ、道の人?」
「……道の人」
アリーゼが吹き出した。
「いいわね! エルヴィン、今日から道の人!」
「正式な役職ではない」
「でも分かりやすいわ!」
リアは真剣だった。
「道の人は、いい人?」
母親が慌てる。
「リア、失礼ですよ」
だが、エルヴィンは気にしなかった。
「いい人かどうかは、君が決めることだ」
「私が?」
「そうだ」
エルヴィンは少しだけ目を細めた。
笑顔と呼ぶには小さい。
けれど、普段よりずっと温かい表情だった。
「次に会った時、怖くなければ、それでいい」
リアはじっとエルヴィンを見た。
そして、小さく頷いた。
「じゃあ、まだ分からない」
「正しい判断だ」
「正しいの?」
「ああ。知らない相手を、すぐ信じる必要はない」
その場が少し静かになった。
アリーゼが、にっと笑う。
「エルヴィン、子供にも真面目ね!」
「子供だからこそだ」
エルヴィンは言った。
「子供は、大人が思うより多く見ている。だから、分かりやすく話した方がいい」
リューは、その言葉を聞いていた。
冷たいようで、違う。
エルヴィンはリアに優しい嘘をつかなかった。
自分をすぐ信じろとも言わなかった。
けれど、子供の言葉を軽く扱わなかった。
それどころか、普段よりもずっと丁寧に、言葉を選んでいた。
母親が深く頭を下げる。
「ありがとうございます。あの、この子はあの日から少し怖がりになっていて……でも、アリーゼさんたちを見ると安心するようで」
「怖くなるのは、悪いことではありません」
エルヴィンは答えた。
「怖いと思えるなら、危ない場所から離れられる。大事なのは、怖さを一人で抱えないことです」
母親は、少しだけ目を伏せる。
「一人で、抱えない……」
「はい」
エルヴィンはリアを見る。
「リア」
「なあに?」
「怖い時は、怖いと言っていい」
「言っていいの?」
「言っていい」
「泣いても?」
「泣いてもいい」
「泣いたら、弱い?」
「弱くない」
エルヴィンは、すぐに答えた。
「泣いている間は、誰かが君の手を引く。君が歩けない時は、誰かが道を作る」
リアは、じっとエルヴィンを見た。
「アリーゼお姉ちゃんも?」
アリーゼはすぐに胸を張った。
「もちろん!」
「リューお姉ちゃんも?」
リューが少しだけ固まった。
「……必要であれば」
「必要じゃなくても?」
「……」
リューは助けを求めるようにアリーゼを見た。
アリーゼはにこにこしているだけだった。
エルヴィンが真面目に言う。
「泣くのに、許可はいらない」
「エルヴィン」
リューが低く言う。
「今、私は真面目に助言した」
「分かっています。だから困っています」
リアは少し笑った。
その笑いは、小さかった。
けれど、確かにそこにあった。
エルヴィンはその笑いを見て、ほんのわずかに表情を緩めた。
「よく笑えた」
リアは目を丸くした。
「笑ったら、えらいの?」
「えらい」
エルヴィンは頷いた。
「怖いことがあった後に笑うのは、簡単ではない」
リアは、布人形を抱きしめたまま少し頬を緩めた。
「じゃあ、ちょっとえらい?」
「ああ。かなりえらい」
アリーゼが口元を押さえた。
「エルヴィン、子供相手だとちょっと甘いわね」
「甘いのではない。事実を述べた」
「かなりえらい、は事実なの?」
「事実だ」
リューは、思わずエルヴィンを見た。
普段なら、もっと硬い言い方をする人だと思っていた。
けれど今のエルヴィンは、リアに分かる言葉を選んでいる。
怖さを否定せず。
泣くことを恥じさせず。
笑えたことを、きちんと褒めた。
それは、冷たい指揮官の言葉ではなかった。
帰る場所を守ろうとする、大人の言葉だった。
リアはしばらくエルヴィンを見ていた。
そして、アリーゼの袖を少し引いた。
「エルヴィン、ちょっと怖いけど、いい道の人だね」
アリーゼが吹き出した。
「最高の評価ね!」
「怖いのか」
エルヴィンが問う。
リアは真剣に頷く。
「顔がむずかしい」
「改善しよう」
「笑ってみて」
「今か」
「うん」
エルヴィンは、少しだけ口角を上げた。
リアは沈黙した。
アスタも沈黙した。
ノインも沈黙した。
リューも沈黙した。
アリーゼだけが腹を抱えた。
「ちょっと待って! それ、笑顔!? 作戦会議で勝利条件を確認してる顔じゃなくて!?」
「改善途中だ」
「途中なら仕方ないわね!」
「仕方あると思います」
リューが静かに言った。
リアは真剣な顔でエルヴィンを見上げる。
「エルヴィン、普通の顔でいいよ」
「そうか」
「うん。そっちの方が怖くない」
「参考にする」
母親は、笑っていいのか迷いながらも、少しだけ表情を緩めた。
そのことに、リューは気づいた。
街の空気が、ほんの少しだけ軽くなっていた。
***
「──へぇ」
その時、路地の影から、声がした。
妙に軽い声だった。
助けを求める者の声ではない。
怯えている者の声でもない。
まるで、芝居の幕が上がるのを待っていた観客のような声だった。
「子供にまで真面目なんだね。正義の家は」
一人の青年が、壁にもたれて立っていた。
薄い外套を羽織り、どこにでもいるような旅人めいた姿をしている。
だが、その存在感だけは、どうにも街に馴染まなかった。
若い。
青年と言っていい年頃に見える。
しかし、目の奥にあるものは、若者のそれではない。
人間の時間では測れないものが、そこに沈んでいる。
リューは、すぐに分かった。
神だ。
下界に降りた男神。
だが、名は知らない。
知っているはずの神格でもない。
アリーゼも、同じようにそれを察したらしい。
彼女は明るさを少しだけ抑え、神に対する礼を失わない声で尋ねた。
「あなたは?」
青年は、少し芝居がかった仕草で片手を胸に当てた。
「エレン」
そう名乗った。
ただ、それだけだった。
本当の神名かどうかは、誰にも分からない。
少なくとも、この時点で彼はそれ以上を明かさなかった。
「エレン様、でよろしいですか?」
アリーゼが問う。
「好きに呼ぶといいよ。様をつけても、つけなくても。神ってやつは、呼び方で中身が変わるわけでもないからね」
胡散臭い。
リューは、第一印象でそう思った。
神々には奇妙な者が多い。
それは知っている。
だが、この青年の言葉には、遊びだけではないものが混じっていた。
人を見ている。
しかも、人の善意や怒りや迷いを、外側から眺めて楽しむような目だった。
「それで、エレン様」
アリーゼが尋ねる。
「この工業区に何かご用ですか?」
「用ならある」
エレンは大きく息を吸った。
そして、唐突に両手を広げた。
「聞いてくれ、正義の子たち!」
通りの人々が、思わず振り向いた。
エレンは空の革袋を高々と掲げる。
「この僕が! この僕の! 由緒正しく、清らかで、慎ましやかな財布から! なんと四百四十四ヴァリスを奪われた!」
アスタが目を丸くする。
ノインがびくりと肩を揺らす。
リューは眉をひそめた。
エルヴィンは表情を変えない。
エレンは、さらに芝居がかった声で続ける。
「四百四十四だぞ? 四百でもない! 四百五十でもない! 四百四十四! この半端で、不吉で、覚えやすくて、忘れにくい数字を、よりにもよって僕から奪うとは!」
「……大袈裟ですね」
リューが冷たく言う。
「大袈裟?」
エレンは胸に手を当てて、悲劇の役者のように目を伏せた。
「大袈裟と言ったかい、リオン?」
「まだ名乗っていませんが」
「呼ばれていただろう?」
エレンは笑った。
「まあいい。大袈裟ではない。これは事件だ。いや、悲劇だ。いや、喜劇かもしれない。神か人か、男か盗人か、財布か正義か。四百四十四ヴァリスを巡る壮大な──」
「状況を簡潔に」
エルヴィンが遮った。
エレンは、ぴたりと止まった。
そして、愉快そうにエルヴィンを見る。
「君は、芝居を最後まで見ないタイプだね」
「必要な情報を優先する」
「必要な情報か」
エレンは革袋をひらひらと揺らした。
「薄い茶色の外套。片足を少し引きずっていた。右手に包帯。僕にぶつかって、袋を抜いた。逃げた先は南の路地」
「よく見ていますね」
「見たいものは見るんだ」
「なぜ自分で捕まえない」
「それでは面白くない」
空気が冷えた。
エレンは、今度は声を少し落とした。
「正義の眷族が、神の小銭をどう扱うのか。被害者が胡散臭くても、手を伸ばすのか。見てみたかった」
リューが一歩前に出る。
「あなたは、私たちを試しているのですか」
「試すなんて偉そうなことは言わないよ」
エレンは穏やかに答えた。
「ただ、見たいだけだ」
「何を」
「正義の使者が、何を見て、何を捨てて、何を守るのか」
リューは、強く睨んだ。
エレンはその視線を楽しむように受け止める。
「いい目だ。君は本当に綺麗に怒る」
アリーゼの声が低くなる。
「エレン様」
「怖いな、アリーゼ」
「この子を遊び道具みたいに言わないでください」
「遊び道具じゃないよ」
エレンは微笑んだ。
「観察対象だ」
リューの手が、剣の柄に触れた。
エルヴィンが静かに言う。
「リュー」
その一言で、リューは止まった。
エルヴィンはエレンを見る。
「被害が事実なら対処します。ですが、あなたの言動は別に見ます」
「別に見る?」
「困っている者の目ではない。あなたは、我々の反応を見ている」
エレンは一瞬、黙った。
そして、嬉しそうに笑った。
「いいね。君はつまらなそうで、案外面白い」
「アリーゼ」
エルヴィンは視線を外さずに言った。
「金は取り返す。ただし、この件は通常の盗難とは分けて扱うべきだ」
「うん。分かってる」
アリーゼは頷いた。
「スターライト・ファランクス、動くわ」
その時、通りの奥から明るい声が響いた。
「じゃじゃーん!」
全員が振り向く。
少女が一人、男の腕を捻り上げながら現れた。
「品行方正で人懐こくて、シャクティお姉ちゃんの妹分! そしてリオンたちと同じレベル三のアーディ・ヴォルマだよ! じゃじゃーん!」
「アーディ……」
リューが額に手を当てる。
「その挨拶は毎回必要なのですか」
「必要だよ、リオン。初対面の人にも分かりやすいでしょ?」
「情報量が多すぎます」
「でも覚えやすいでしょ?」
「覚える前に疲れます」
アーディはにこにこしながら、捕まえた男を地面に座らせた。
「この人、走り方が怪しかったから捕まえたよ。袋も持ってた」
エレンが今度は大げさに拍手した。
「おお! 早い! 早すぎる! 僕の四百四十四ヴァリス奪還劇は、たった今、第二幕へ突入した!」
「何幕まであるのですか」
リューが冷たく言う。
「君次第かな」
「……」
「冗談だよ」
エレンは笑う。
アーディはエレンを見て、笑顔のまま首を傾げた。
「あれ、神様?」
「そう見える?」
「うん。なんとなく!」
「いい勘だね」
「ありがとう!」
「褒められていい場面でしょうか」
リューが呟く。
「いいんじゃない?」
アーディは軽く答えた。
「神様っぽい人を神様っぽいって言っただけだし」
「その判断基準は危険です」
「でも当たってたよ?」
「当たればいいというものではありません」
エルヴィンはアーディから袋を受け取り、中身を確認する。
「四百四十四ヴァリス。申告と一致する」
エレンが芝居がかった動きで手を伸ばす。
「返したまえ、僕の涙と汗と物語の結晶を!」
「用途は」
「用途?」
「何に使うつもりだった金ですか」
エレンは、少しだけ愉快そうに眉を上げた。
「神にそれを聞くのかい?」
「聞きます」
「僕が遊興に使うつもりだったら?」
「緊急度は低い」
「僕が誰かに食料を買うつもりだったら?」
「緊急度は高い」
「僕が嘘をついたら?」
「別の形で判断する」
エレンは笑った。
「いいね。君は本当に、神相手でも同じように扱う」
「被害の処理に、相手の神格は関係ありません」
「それは正義かな?」
「手順です」
「手順」
エレンは楽しそうに呟いた。
「正義より怖い言葉だ」
エルヴィンは袋を渡した。
「受け取ってください」
エレンは袋を受け取る。
「ありがとう、正義の作戦補佐くん。君のおかげで、僕の四百四十四ヴァリスは無事に帰還した。実にめでたい」
「礼は不要です」
「本当に不要そうな顔だ」
「必要なら受け取る」
「じゃあ言おう。ありがとう」
「受領した」
「領収書みたいだね」
「必要なら作成する」
「いらない」
アリーゼが小さく笑った。
「エルヴィン、神様相手でもいつも通りね」
「相手によって手順を変える理由がない」
「そこがすごいのよ」
「そうか」
「褒めてるの!」
「評価として受け取ろう」
「ほんと輝夜みたいになってきたわね」
捕まった男は震えていた。
「す、すみません……もうしません。二度としません。どうか、どうか……」
通りに沈黙が落ちる。
今のオラリオでは、こういうことは珍しくない。
飢え、恐怖、職を失った者、家族を守りたい者。
悪意だけで罪を犯す者もいれば、追い詰められて手を伸ばす者もいる。
男の顔には、確かに怯えがあった。
リューが一歩前に出る。
「見逃すべきではありません」
その声は硬かった。
「盗みは盗みです。許せば、同じことが繰り返されます」
アーディはリューを見る。
「リオンの言うことも分かるよ」
「ならば」
「でも、罰するだけじゃ前に進めない時もあると思う」
リューの表情が険しくなる。
「罪を軽く扱うべきではありません」
「軽くは見てないよ」
アーディは首を振る。
「お金は返した。謝らせる。次にやったら止める。でも、ここで全部を終わらせるだけが、街を守る方法なのかなって思うんだ」
「被害者のために、裁きは必要です」
「うん。だから、被害者を置いていかない。加害者も放っておかない。どっちも見ないと、また同じことが起きる気がする」
リューは言葉を詰まらせた。
エレンは、そのやり取りを見ていた。
被害者の顔ではない。
見物する神の顔だった。
「いいね」
エレンが呟いた。
「正義の使者同士で、正義が違う」
リューがエレンを睨む。
「茶化さないでください」
「茶化してない。感心してるんだ」
「感心?」
「そう。綺麗な言葉が割れる瞬間って、見ていて飽きない」
空気が張り詰める。
アリーゼが、リューの前に半歩立った。
「エレン様」
「何かな」
「私たちの正義は、見世物ではありません」
「そうだね」
エレンは穏やかに笑う。
「でも、見える場所に立っている」
アリーゼは言葉を返さなかった。
エルヴィンが口を開く。
「条件を決めます」
全員がエルヴィンを見る。
「男はこの場で被害者へ謝罪する。盗品は全額返還済み。さらに、工業区の破損片の片付けを三日間手伝わせる。監督はアーディ、管理はアストレア・ファミリアで行う」
アーディが目を丸くした。
「おお、現実的」
リューは眉を寄せる。
「それで十分だと?」
「十分ではない」
エルヴィンは即答した。
「だが、今この場で投獄や過剰な制裁を求めても、盗みの原因は残る」
「原因?」
「飢え、恐怖、失業、治安の崩壊」
エルヴィンは男を見た。
「罪を消すわけではない。だが、二度目を防ぐためには、罰だけでは足りない」
リューは何も言えなかった。
アーディはにこっと笑う。
「うん。そういうこと。やり直せるところまで連れていくのも、私たちの仕事だと思う」
エルヴィンは頷く。
「これは結論ではなく、暫定処置だ」
リューが顔を上げる。
「暫定……」
「赦すか裁くかの答えを、私が決めるべきではない」
エルヴィンは言った。
「ただ、今この場で再犯を防ぎ、被害者を放置せず、加害者を消耗品として捨てない手順を提示しているだけだ」
アーディは、少しだけ真面目な顔で頷いた。
リューは何も言えなかった。
男は震えながら何度も頭を下げた。
そして、エレンへ向かって謝罪した。
エレンは、黙って聞いていた。
やがて、小さく笑った。
「いいよ。今回は幕を下ろそう」
リューが驚いたように見る。
エレンは、わざと優しい声で言った。
「やり直せるところまで連れていく。そういう正義もあるんだろ?」
アーディの言葉を、形だけなぞる声。
だが、そこに温度はない。
リューの胸に、ざらついたものが残った。
エレンはリューを見た。
「なあ、リオンって呼ばれていたね」
「……それが何か」
「君は、まだ納得していない顔をしている」
「当然です」
「でも、周りは先へ進もうとしている」
「それは、何も考えていないという意味ではありません」
「そうかな」
エレンは薄く笑う。
「君がどう染まるのか、興味がある」
「私を試しているのですか」
「試すなんて偉そうなことは言わないよ」
エレンは戻った革袋を指で弾いた。
「ただ、見たいだけだ。正義の使者が、何を見て、何を捨てて、何を守るのか」
エルヴィンが静かに言った。
「エレン様」
「何だい、道の人」
アリーゼが小さく吹き出した。
エルヴィンは表情を変えない。
「あなたの視線は危うい」
「神に警告するのかい?」
「必要なら」
エレンは一瞬、黙った。
そして笑った。
「いいね。君は本当に、神にも遠慮がない」
「敬意と警戒は両立します」
「アストレアの眷族らしい」
そう言って、エレンは路地の奥へ歩き出した。
去り際、彼はリューへ視線だけを残す。
「また会おう、リオン。君はきっと、面白い」
リューは、その背が消えるまで動かなかった。
アリーゼも、すぐには喋らなかった。
エルヴィンは静かに言った。
「警戒対象を改める」
「何に?」
アリーゼが聞く。
「危険な観察者」
エルヴィンは、エレンが消えた路地を見ていた。
「男神である以上、ただの住民として扱えない。だが、放置もできない」
リューは黙っていた。
エレンの声が、頭の奥に残っている。
どう染まるのか。
それは、ただの挑発のはずだった。
なのに、なぜか胸に刺さっていた。
***
場面は変わる。
ダンジョン十八階層。
地上とは異なる緑の光に満ちたこの階層は、本来なら冒険者たちにとって一息つける場所だった。
だが、その日、アストレア・ファミリアが見たものは、休息とはほど遠かった。
草地に倒れた冒険者。
割れた武器。
血を吸った土。
そして、襲撃の痕跡。
「冒険者狩り……」
リューが呟く。
スターライト巡回を終えた後、別任務から戻った輝夜とライラが合流し、アストレア・ファミリアは十八階層へ入っていた。
フィン・ディムナからもたらされた予測。
十八階層で冒険者狩りが出る可能性。
その読みは、当たっていた。
ライラが舌打ちする。
「勇者様の予想、合致かよ。さすが私の未来の旦那候補」
「今その話をするな」
輝夜が低く言う。
「場を和ませようとしたんだよ」
「和まん」
「じゃあ、士気向上」
「さらに和まん」
エルヴィンは周囲を確認していた。
「生存者確認。アスタ、左の木陰。ノイン、倒れている者の呼吸確認。アリーゼ、中央を押さえてくれ」
「分かった!」
「リュー、前へ出すぎるな。輝夜、右側の茂みを警戒」
「貴公、いつの間に仕切っている」
輝夜が言った。
「必要だからだ」
「……今は従う」
そこに、男がいた。
ヴィトー。
命が壊れる瞬間に興味を持つ、歪んだ男。
「命が折れる時、人はよく見える」
ヴィトーは笑った。
「黙りなさい」
リューの顔が強張る。
「リュー、乗るな」
エルヴィンが言った。
「挑発だ」
ヴィトーはエルヴィンを見た。
「君は冷たい目をしているね」
「お前よりは温かい」
ライラが横から言った。
「珍しくいい返しだな」
「事実だ」
「その返しがまた面白くないんだよな」
戦闘は短く、激しかった。
アリーゼが正面を受ける。
リューが鋭く踏み込む。
輝夜が右側から斬り込む。
ライラが退路を読み、アスタが負傷者への接近を防ぎ、ノインが生存確認を続ける。
エルヴィンは、戦場を見ていた。
ヴィトーは強い。
だが、勝ちに来ていない。
観察し、削り、混乱させ、引くつもりだ。
「退路を塞ぐな」
エルヴィンが言った。
リューが振り返る。
「なぜですか!」
「塞げば奴は負傷者側へ抜ける」
ヴィトーが笑う。
「よく見ている」
次の瞬間、ヴィトーは森の奥へ引いた。
「今日はここまでにしよう。次はもっと良い場面を見せてくれ」
リューが追おうとする。
輝夜も踏み出しかけた。
「止まれ」
エルヴィンの声が飛んだ。
「追撃しない」
「なぜですか!」
リューの声が鋭い。
「あの男を逃がせば、また犠牲が出ます!」
「今追えば、ここでまだ助かる者が死ぬ」
「ですが!」
「選べ、リュー」
エルヴィンは真正面から言った。
「今、目の前の生存者を救うか。逃げる敵を追うか」
リューは息を呑んだ。
輝夜が低く言う。
「貴公は、救う命を諦めるのが早い」
「違う」
エルヴィンの声は冷たくはなかった。
「諦める命を減らすために、今救える命を選ぶ」
「それでも、全員は救えない」
「そうだ」
その肯定が、リューの胸を刺した。
「全員は救えない。だから、救える者から救う」
リューは、拳を握った。
認めたくない。
だが、目の前で血を流す冒険者の呼吸は浅い。
今、処置が遅れれば死ぬ。
「……分かりました」
リューは絞り出すように言った。
その声は、悔しさで震えていた。
アリーゼがリューの横に立つ。
「リュー。今は助ける」
「はい」
救助は静かに、急速に進んだ。
全員は救えなかった。
それでも、何人かは息を繋いだ。
***
その後、一行は十八階層の大森林の開けた一角へ移動した。
そこは、アストレア・ファミリアのお気に入りの場所だった。
木々の隙間から光が落ちる。
風が柔らかく流れる。
地上の暗さも、先ほどの血の匂いも、少しだけ遠く感じる場所。
「ここ、好きなのよね」
アリーゼが草の上に腰を下ろした。
「楽園みたいでしょ?」
ライラが寝転がる。
「あー、死んだらここに埋めてくれって感じ」
「ライラ」
リューがぎょっとした顔をする。
「冗談だよ」
輝夜も、腕を組みながら言った。
「悪くない場所だ。私もここなら構わぬ」
「輝夜まで!」
リューの声が上ずった。
「そんな日は来てほしくありません!」
その声が、思ったより大きく響いた。
空気が少しだけ止まる。
ライラがにやりと笑った。
「おやおや、リューちゃんが可愛いこと言ってる」
「茶化さないでください」
輝夜も口元を緩める。
「真に受けすぎだ」
「当然です!」
リューは、本気で怒っていた。
死。
失うこと。
それを冗談にされるのが、嫌だった。
エルヴィンは、草地の端に立ったまま周囲を見ていた。
木々の配置。
開けた空間。
退路。
水場までの距離。
もし負傷者をここへ運ぶなら、どこに寝かせるべきか。
もし敵に見つかったなら、どこを盾にするべきか。
そう考えていた彼は、ライラと輝夜の冗談に、少し遅れて口を開いた。
「埋葬地としては、悪くない」
リューが固まった。
アリーゼも、目を丸くした。
ライラが噴き出した。
「お前まで乗るのかよ!」
「乗ったつもりはない」
エルヴィンは真顔で言った。
「土は柔らかい。水場が近すぎず、木の根も浅い。景観も悪くない。静かだ」
「エルヴィン!」
リューの声が、今度こそ本気で尖った。
「冗談でも、そういうことを言わないでください」
「冗談ではなく、地形評価だ」
「なお悪いです!」
アリーゼが腹を抱えて笑い出した。
「リュー、顔! すごい顔してる!」
「笑い事ではありません!」
「いや、でもエルヴィンが真剣に埋葬地評価してるの、ちょっと面白いわよ!」
「面白くありません!」
ライラが涙を拭う。
「だめだ。こいつ、死んだ後の住み心地まで考えそうだ」
「住むことはできない」
「そういう意味じゃねえよ!」
エルヴィンはリューを見て、少し考えた。
「では訂正しよう」
「お願いします」
「私はここに埋められるより、全員がここで休息できる場所として使い続ける方が良いと思う」
リューは、少しだけ息を呑んだ。
エルヴィンは続ける。
「死者の場所にするより、生者が戻る場所にした方がいい」
風が吹いた。
草が揺れる。
リューの表情から、怒りが少しずつ抜けていった。
「……最初から、そう言ってください」
「順序を誤った」
「大いに誤っています」
ライラが笑いながら言った。
「エルヴィン、リューをからかう才能あるな」
「からかったつもりはない」
「だから余計に面白いんだよ」
輝夜は腕を組みながら、少しだけ口元を緩めた。
「生者が戻る場所、か。悪くない言い直しだ」
「評価として受け取ろう」
「今のは褒めた」
「そうか」
リューは、まだ少し眉を寄せていた。
けれど、その怒りは先ほどとは違っていた。
怒っているというより、何かをこらえている顔だった。
「私は……」
リューは小さく呟いた。
「そんな日は、来てほしくありません」
誰も茶化さなかった。
リューは続けた。
「誰かがここに埋められる日など、来てほしくありません。誰にも、死んでほしくありません。そんなこと、甘いと分かっています。全員を救えないことも、分かっています。でも……それでも、嫌なのです」
言い切ってから、リューは少し唇を噛んだ。
自分でも、幼い願いだと思った。
先ほどエルヴィンに言われたばかりだ。
全員は救えない。
だから、救える者から救う。
その現実を突きつけられたばかりなのに。
それでも、誰にも死んでほしくないと言ってしまった。
また、正論で返される。
そう思った。
だが。
「それでいい」
エルヴィンは、即答した。
リューは顔を上げた。
「……え?」
「その願いを捨てるな、リュー」
エルヴィンの声は静かだった。
だが、迷いがなかった。
「全員を救えないという事実と、全員を救いたいという願いは矛盾しない」
リューは、目を見開いた。
エルヴィンは続ける。
「全員を救えないからといって、最初から願いを下げれば、救える数はさらに減る。願いは現実を否定するためのものではない。現実を変えるための起点だ」
風が止まったように感じた。
「誰にも死んでほしくない。そう願う者がいなければ、我々は犠牲に慣れる。損害、代償、必要な犠牲。そういう言葉で、命を数え始める」
その言葉は、重かった。
リューには分かった。
この人は、知っているのだ。
そうやって命を数えなければならなかった戦場を。
そうやって自分を削ってきた夜を。
だからこそ、言っている。
「だが、願うだけでは足りない」
エルヴィンは言った。
「願いは形に変えなければならない。退路に。救護の順番に。配置に。撤退の合図に。君がその願いを捨てないなら、私はそれを作戦に変える」
「……私の、願いを」
「そうだ」
エルヴィンは、まっすぐリューを見る。
「君の願いは、甘さではない。この家に必要な基準だ」
リューは、息を呑んだ。
胸の奥が、不意に熱くなる。
叱られると思っていた。
諭されると思っていた。
現実を見ろと、また冷静に切り返されると思っていた。
なのに。
彼は、自分の願いを正面から肯定した。
全面的に。
逃げ道も、但し書きもなく。
「あ……」
リューは言葉を探した。
しかし、うまく出てこない。
エルヴィンは、さらに静かに言った。
「忘れるな、リュー」
「……忘れるな?」
「君が今、誰にも死んでほしくないと言ったことをだ。忘れなければ、次の判断は変わる。次の配置も変わる。次に救える命も変わる」
リューの胸が、強く鳴った。
これは何だ。
怒りではない。
悔しさでもない。
胸を射抜かれたような感覚。
視界の中心に、エルヴィンだけが残る。
冷たい人だと思っていた。
正しいが、遠い人だと思っていた。
けれど違った。
この人は、願いを笑わない。
叶わないかもしれない願いを、戦うための基準に変える人なのだ。
アリーゼがにやりと笑った。
「リュー?」
「な、何ですか」
「顔、赤いわよ?」
「赤くありません」
「赤いよ」
アスタが言った。
「赤いです」
ノインも小さく頷いた。
「おやおや」
ライラが寝転がったまま笑う。
「これはこれは」
「ライラ」
リューの声が危険な低さになる。
輝夜が静かに言った。
「今のは、エルヴィンが悪い」
「私か」
「全面的に貴公が悪い」
「理由を聞きたい」
「聞かぬ方がいい」
アリーゼは笑いをこらえながら、リューの肩に手を置いた。
「でも、エルヴィンの言う通りよ」
その声は、優しかった。
「あんたは、あんたのままでいなきゃダメよ」
リューは眉を寄せる。
「私のまま?」
「そう」
アリーゼは空を見上げた。
「全部を救いたいって怒るところ。許せないものを許せないって言うところ。誰かが死ぬなんて嫌だって、本気で言えるところ」
風が草を揺らす。
「そういうあんたのままでいて」
リューは、何も言えなかった。
エレンの言葉が蘇る。
どう染まるのか。
ヴィトーの言葉が蘇る。
命が折れる時、人はよく見える。
エルヴィンの言葉が蘇る。
その願いを捨てるな。
君の願いは、この家に必要な基準だ。
リューは、胸元を軽く押さえた。
心臓の音が、速い。
これは怒りだ。
そう思おうとした。
だが、違う。
尊敬。
驚き。
救われたような感覚。
そして、それだけではない。
もっと熱くて、もっと厄介で、名前をつけた瞬間に自分が変わってしまいそうなもの。
リューは、それを認めたくなかった。
けれど、否定もできなかった。
たぶん。
自分は今、この人に惹かれ始めている。
ほんの少しではない。
もっと、はっきりと。
自覚してしまえば戻れないほどに。
「……私は」
リューは小さく言った。
「まだ、分かりません」
「いいのよ」
アリーゼは笑った。
「分からないまま、考え続ければいいの。ひとりで抱えなければ、それでいい」
エルヴィンも静かに頷いた。
「分からないなら、忘れるな。考え続けるために」
「……あなたは、本当にそういうところが」
リューは言いかけて、止まった。
「そういうところが?」
エルヴィンが尋ねる。
「……何でもありません」
「そうか」
「聞き返さないでください」
「今、聞き返した」
「分かっています!」
アリーゼの笑みが深くなる。
「へぇ」
「アリーゼ」
「何も言ってないわよ?」
「顔が言っています」
「私の顔は正直なの」
「困ります」
エルヴィンは少し首を傾げた。
「何の話だ」
「分からなくていい」
リューとアリーゼの声が重なった。
ライラがまた笑った。
「似てきてんじゃん」
「似ていません!」
今度はリューだけが叫んだ。
森に笑い声が広がった。
ほんの少しだけ。
血の匂いが遠ざかった気がした。
アリーゼは満足そうに立ち上がった。
「よし! 帰りましょう。アストレア様が待ってるわ!」
誰かが笑った。
誰かが息を吐いた。
森は静かだった。
この場所が、いつか別の意味を持つことを、まだ誰も知らない。
冗談のように言われた言葉が、いつか胸を刺す皮肉になることも。
ただ、この時だけは。
アリーゼが笑っていた。
リューが隣にいた。
輝夜とライラが茶化していた。
スターライトの仲間たちが帰る準備をしていた。
そしてエルヴィンが、その光景を胸に刻んでいた。
死者の場所ではなく。
生者が戻る場所として。
誰にも死んでほしくないという願いを、甘さではなく基準として。
星屑の庭の正義は、まだ折れていない。
第8話 あんたのままで 完
あとがき
エルヴィン・スミス
第8話では、スターライト・ファランクスの巡回にブラックスター・ヴァンガード所属の作戦補佐として同行。
今回は、エルヴィンの「真面目すぎて周囲を振り回す」部分を多めに描いています。
リアとの会話では、普段よりかなり言葉を噛み砕いています。
子供には難しい理屈ではなく、「帰る道」「怖い時は怖いと言っていい」「泣くのに許可はいらない」といった、分かりやすく温かい言葉で接しました。
エルヴィンは冷たい人物ではありません。
ただし、大人相手には言葉が硬く、判断が早すぎるだけです。
子供相手には、意識して目線を下げ、温度のある言葉を選ぶ人物として描いています。
リュー・リオン
今回の重要人物。
リューは、エルヴィンに本格的に惹かれ始めます。
きっかけは、十八階層での会話。
リューは「誰にも死んでほしくない」という願いを、甘いと否定されると思っていました。
しかしエルヴィンは、その願いを全面的に擁護します。
そして、その願いを作戦に変えると言い切りました。
リューにとってこれはかなり大きな衝撃です。
冷たいと思っていた人が、自分の一番青くて捨てられない願いを、真正面から必要だと言ってくれた。
この瞬間から、リューの中でエルヴィンへの感情が大きく変わります。
アリーゼ・ローヴェル
スターライト・ファランクス隊長。
今回も、住民と自然に距離を詰める団長として描いています。
「自分たちが助けた者を、絶望的な状況だからといって忘れてはならない」はアリーゼの台詞です。
アリーゼは人を前へ進ませる旗であり、人を折らない言葉を知っている存在です。
ラストの「あんたは、あんたのままでいなきゃダメよ」は、リューの核を守る言葉になっています。
エレン
この時点では「エレン」と名乗る青年の男神。
真の神名は明かしていません。
444ヴァリスを奪われたことを大袈裟に騒ぎ立てていますが、単なる被害者ではありません。
アストレア・ファミリアの正義を観察し、特にリューの反応に強い興味を示しています。
エルヴィンは彼を「危険な観察者」として警戒対象にしました。
アーディ・ヴォルマ
ガネーシャ・ファミリア所属。
今回は、罰するだけでは街の問題は前に進まないという考えを示しました。
原作的な印象に寄せすぎず、『星海前進』独自の言葉として、
・被害者を置いていかない
・加害者も放っておかない
・やり直せるところまで連れていく
という表現にしています。
第2章「暗黒期の戦場」について
第8話から第2章が本格始動。
今後の作風は、最終決定としてコメディ6割・シリアス4割。
暗黒期の重さは残しつつ、星屑の庭の日常、仲間同士の掛け合い、エルヴィンの天然真面目ボケ、アリーゼの明るさ、リューの不器用な反応を多めにしていきます。
笑える日常があるからこそ、守りたいものが増える。
その方針で進めます。
次回
次回は、エレンという名を名乗る男神がアストレア・ファミリアの周囲にどう影を落としていくのか。
そして、ブラックスター・ヴァンガードやアストラ・バスティオン側の動きも少しずつ見えていきます。