テスカになって冥界で魂を導く話   作:ナイ神父

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推しの子編
星野アイ 1


 

 

「ルビー アクア 愛してる」

 

「──ああ、やっと言えた ごめんね、言うのがこんなに遅くなって」

 

「あー、良かったぁ この言葉は絶対嘘じゃ無い」

 

 

──それは、凶刃に倒れ、最後の言葉を吐き出し、刺すような痛みが腹部を貫き、視界が白く明滅した後のことだ。

 

 星野アイは、気がつくと見知らぬ場所に立っていた。

 冷たい床の感触も、血の匂いも、インターホン越しに現れたストーカーの狂気じみた顔も、そして何より、腕の中で泣き叫んでいた愛しい双子――アクアとルビーの温もりも、すべてが幻だったかのように消え去っていた。

 

「……ここ、は──」

 

 そこは、天国ではなく荒涼とした霧に包まれた大地だった。

 白い大地がどこまでも広がり、空には燻ったような独特の暗雲が立ち込めている。風は乾ききっており、遠くには原始的な密林と、硝煙の匂いと、乾いた銃声のような音が響いてくる。だが、どことなく満たされた感情になる不思議な土地であった。

 

「……あれ? 私、死んだんじゃなかったっけ?もしかして夢だった?」

 

 アイは自身の腹部を見下ろすが、刺されたはずの服には血の染みはなく、痛みも完全に消えている。ただ、母親として着ていた日常の衣装だけが、この殺伐とした景色の中でひどく浮いている。

 何処迄も、そこは生命の気配が希薄な、静まり返った世界だった。

 

「死んださ。間違いなくな」

 

 不意に、背後から声が聞こえる。

 振り返ると、轟々と燃え盛る焚き火と丸太の椅子、そこに腰を掛けていたのは場違いなほど現代的な装いをした男だった。金髪にサングラス、黒いスーツをだらしなく着こなし、手には見慣れない無骨な銃、何故か先端が斧に成っている不思議な銃を持っている。男は木に腰掛け、布で銃のバレルを丁寧に磨いていた。

 

「よぉ、目覚めたかいお嬢さん。あるいは、敗北者(ルーザー)と呼ぶべきか」

 

 男はサングラス越しの視線をアイに向け、ニヤリと笑った。鋭い目だと言うのにその笑顔には親しみやすさがあったが、同時に背筋が凍るような、人間とは次元の違う圧倒的な『何か』──捕食者のような威圧感が潜んでいる。

 

「ここは……病院? じゃなさそうだね。天国? それとも地獄かな?」

 

 アイは持ち前の度胸と、どこか現実離れした感覚で首を傾げた。恐怖よりも好奇心が勝っているのは、彼女の天性の気質なのだろう。

 

「残念、どちらも不正解だ。まあいい、立ち話も何だ、座れよ」

「ここはミクトランパ。戦いに敗れ、地に伏した戦士たちが訪れる冥界だ。オレはテスカトリポカ。この冥界の支配者であり、神だ」

 

 男――テスカトリポカは、磨き終えた銃を軽く弄りながら答えた。アイは困惑しながらも言葉を受け取り丸太へと腰を据える。

 

「神様……? えーっと、私、一応アイドルなんですけど。戦士って柄じゃないというか、剣とか持ったことないし?無いよね?」

 

「ハッ、違いない。だが、現代の戦場ってのは何も血と泥に塗れた場所だけじゃないんだろう?大衆の視線という弾丸を浴び、己の虚像と実像を懸けて戦い、頂点を目指す。オレは余り好みじゃないが立派な戦士の振る舞いともとれる筈だ」

「──そしてお前さんは、理不尽な悪意という名の凶弾に撃ち抜かれ、敗北した」

 

 テスカトリポカの言葉に、アイの脳裏に最期の記憶がフラッシュバックする。

 扉越しの凶刃、花束、自分を責める青年の声、そして「愛してる」と、ようやく本当の言葉を伝えられた子供たちの姿。

 

「敗北……そうだね、私、死んじゃったんだもんね」

 

アイは自嘲気味に笑った。

 

「……そっか。私、負けちゃったんだ。せっかく、嘘が本当になったところだったのに……あはは、詰めが甘いっていうか、私らしいっていうか」

 

 ようやく自らの状況を理解したアイは寂しそうに微笑み、視線を落とす。

 

「そうだ。だが、オレは戦う奴が好きでね。一度負けたからといって、すべてが終わるわけじゃない。神は公平だ。戦士には、次を選ぶ権利を与えられなければならない」

「実のところあの終わり方だけは……戦士の最期としては、これ以上なく『無惨』で『美しい』、オレ好みだったぜ?」

「……神様にしては、随分物騒な言い方をするんだね」

「事実だからな、まあ前座はこの辺りにしておくとするか」

 

 テスカトリポカは立ち上がり、宙に向かってパチンと指を鳴らした。

 すると、虚空に巨大な黒曜石の鏡が浮かび上がる。鏡面が波打ち、やがて鮮明な映像を映し出す。

 

「まずは現状確認といこうか。これがお前さんが『退場』した後の世界だ」

 

 鏡に映し出されたのは、血だまりの中で息絶えたアイの肉体と、それにすがりついて泣き叫ぶルビー、そして、焦点の合わない虚ろな瞳でアイの血に染まった手を見つめるアクアの姿だった。

 

「あ……」

 

 アイの息が止まる。

 映像は切り替わる。アイの死を伝えるニュースキャスターの沈痛な声。放心し抜け殻の様になった所属事務所の社長と、崩れ落ちるミヤコ。SNSで爆発的に拡散される憶測、同情、そして心無い中傷の数々。

世間は「天才アイドル星野アイの悲劇の死」という一大エンターテインメントを消費し、熱狂し、そして──残酷なほど早く、新しい話題へと移り変わっていく予兆を見せていた。

 

 だが、何よりもアイの心を抉ったのは、遺された子供たちの姿に他ならない。

 泣き疲れて眠るルビーの顔には深い絶望が刻まれ、アクアの瞳には、子供が到底持つべきではない、暗く冷たい『復讐』の炎が宿り始めているのが、アイには直感的に分かった。

 

 映像は加速する。

 数年後、アイドルとして活動を始めるルビーだが、その瞳には常に欠落した母の影がある。そしてアクアは俳優を目指す傍ら、アイを死に追いやった「真犯人」への復讐のために、自らの人生をすべて投げ打ってしまった。

 

「待って……そんな、あの子たちが、どうして……」

 

 アイの声が震える。

 次に鏡に映ったのは、さらにその先の未来。

 アクアはついに、真犯人である「父親」に辿り着く。だが、彼が選んだ結末は、刺し違える形での心中だ。

 深い崖の下、冷たい波に飲み込まれていくアクアの遺体。

 唯一の拠り所だった最愛の兄を失い、精神が崩壊し、暗い瞳でステージに立ち続けるルビー。

 

「──これが、お前さんの残した愛の成れの果てだ」

 

 茫然自失で現実を受け容れられないアイに対するテスカトリポカの声は、どこまでも残酷に辺りに響く。

 

「戦士の死は、往々にして後に呪いを残す。お前さんは立派に戦ったが、その死によって、ガキ共の未来という戦場まで焼き払った、これがその結末だ」

「良いな、実に戦士的で好意が持てる。このアクアはいずれ此処にやって来る筈だ、その時は盛大に祝わないとな?」

「嫌……、そんなの、嫌だよ……!!」

 

 アイは鏡に縋り付いた。

 

「アクア! ルビー! 嘘でしょ、こんなの……!!私、あの子たちに幸せになってほしくて……!!」

 

 アイの瞳から、大粒の涙が溢れる。

 彼女が守りたかったものが。嘘を本当にしてまで掴み取ろうとした未来が、ようやく知れた本当の愛が、音を立てて崩れ去っていく。

 

「そうだ。お前さんが残した『愛』の残骸だ。愛は美しいが、その分ひどく脆く歪でちょっとしたことで狂い始める」

「ギリシャ、日本、中国、etc…どこの国の伝説や歴史においても全てが狂う切っ掛けとなるのは愛に間違い無い。」

 

 無慈悲な宣告、だが涙を流し続けるアイの耳には届く事は無い。

 

「さて、ここからが本題(ビジネス)だ。オレはビジネスマンでね、お前さんに三つの選択肢を用意してやる」

 

 テスカトリポカは三本の指を立てる。

 

「一つ目。お前さんはここで終わる。このミクトランパは敗者のための場所だが、同時に安らぎの場所でもある。お前さんはすべての重圧、嘘、そして後悔から解放され、ここにある快適なスパリゾートで安らかに眠る。現世との決別だ。休んだ後は新たな戦い、現世に行くが、それはもう「星野アイ」じゃ無い。現世のガキ共がどうなろうと、もうお前さんが心を痛める必要は無くなる」

 

「二つ目。現世への帰還(コンティニュー)だ。時間を少し巻き戻し、あの凶刃からお前さんを救い出してやる。そのままの姿で生き返り、再びあの戦場に戻る道だ」

 

「三つ目。一からの『リセット』だ。魂の形はそのままに、別の人間として、別の人生を一からやり直す。過去の因縁は断ち切られ、真っさらな状態で生きることができる。陰からガキ共を見守ることもできるだろうな、ある意味奴らと同じ境遇に成るのは運命かもな?」

 

 その言葉に目を見開き、直ぐ様アイは顔を上げ、テスカトリポカを見つめる。

 

「蘇る……そんなこと、本当にできるの?」

 

「オレを誰だと思ってる、全能神だぞ? もちろん、タダとは言えないがね。一つ目を選ぶなら代償は要らん。それこそこの冥界の正しい進むべき道なんでね」

「──だが、二つ目か三つ目を選ぶなら、それ相応の『代償』を支払ってもらう」

「さて、どうする? このままここで眠れば、こんな悲劇も見なくて済むが……正直なところ、オレはお前さんが平穏な生活に戻るのは、あまり感心しない。戦士は常に、火花散る戦場にいてこそ輝くからな。だが――」

 

 テスカトリポカはアイの顔を覗き込んだ。その黒曜石の瞳が星の輝きを宿す瞳を見つめる。

 

「お前さんのその、折れない瞳。絶望を見せつけられてなお、内側で燃え盛るその意志。それは悪くない。……(オレ)としても、投資のしがいはある」

「……どうすれば、戻れるの? 何を払えば、あの子たちのところへ帰れる?」

「お金とか? あいにく、私あんまり貯金ないんだけど…あ、死んじゃったから現金持ってない!!」

 

アイは顔を上げた。その瞳には、もはやアイドルとしての完璧な微笑みはない。剥き出しの、一人の母親としての、そして運命に抗う戦士としての凄絶な覚悟が宿っていた。

 

「通貨なんてチンケなものを要求すると思うか?オレが欲しいのは『武器』だ。神への供物(クアウシカッリ)は、その戦士の魂を形作るものでなくてはならない」

 

テスカトリポカはアイの顔を真っ直ぐに指差した。

 

「お前さんにとっての最大の『武器』……それは、お前さんのその『両眼の星(ウソ)』だ」

 

アイがハッと息を呑む。

テスカトリポカの言う通りだった。彼女の両眼に宿る星のような輝き。それは単なる身体的特徴ではない。人を惹きつけ、狂わせ、どんな嘘をも「真実」であると信じ込ませる、天性のアイドルとしての絶大なカリスマと才能の具現化であった。

 

「その両眼に宿る『星』。人々を惹きつけ、魅了し、どんな嘘も真実に変えてしまう、天才の証明。それをオレに差し出せ。それが蘇生のための、あるいは再起のための『対価』だ」

 

テスカトリポカの声が、冷たく、そして重く響く。

 

「……つまり、私が生き返るかやり直すためには、その『才能』を失うってこと?」

「そうだ。お前さんからアイドルの才能は完全に消え失せる。視線を集める引力も、嘘を完璧に塗り固める話術も、すべてだ。蘇ったとしても、お前さんはもう『天才アイドル星野アイ』じゃなくなる。ただの、どこにでもいる平凡な女、一人の凡人になる。それがどういう結果をもたらすか、お前さんなら分かるだろう?」

 

 アイは沈黙した。もし、才能を失って生き返ったらどうなるか。

 世間は、輝きを失った星野アイに急速に興味を失うだろう。「嘘」を完璧に演じきれなくなった彼女は、たちまちバッシングの的にされるかもしれない。アイドルとしての生命は絶たれ、所属事務所にも多大な迷惑をかける。

 何より、彼女は不安だったのだ。

 天才的なアイドルの才能という「嘘の鎧」を剥ぎ取られた、空っぽで凡庸な素の自分が、果たしてアクアとルビーに「愛してる」と胸を張って言えるのか。

 彼女にとっての「アイドル」とは、他者を愛するための、そして他者から愛されるための唯一の手段だったのだから。

 

「一つ目を選べば、お前さんは今の美しい嘘のまま、伝説のアイドルとして永遠になれる。ガキ共の心にも、永遠の星として残り続けるだろうさ。だが蘇れば、泥に塗れ、凡人として這いつくばって生きることになる。さあ、どうする?」

 

 テスカトリポカは銃を肩に担ぎ、彼女の決断を待った。

 黒曜石の鏡の向こうでは、死体のアイに抱き着き泣きじゃくるアクアとルビーが絶望の中で身を寄せ合っている。

 アイは、その光景から目を逸らさなかった。

 

(──私の愛は、嘘から始まった。でも、最後にやっと本当になったんだよね)

 

 アイは自分の胸に手を当てる。心臓の鼓動は感じない。けれど、あの瞬間に感じた、溢れ出すような愛おしさの記憶は、確かにそこにあった。

 

「ねえ、神様」

 

 アイは顔を上げ、テスカトリポカに向かって、かつて見せたことのない、しかし誰よりも美しい、素の笑顔を向けた。

 

「私、欲張りなんだ。昔からずっと」

「ほう?」

「アイドルとしての私。完璧な星野アイ。それはね、本当に大切だった。私の全部だった。でもね……」

 

 アイは鏡に映る子供たちにそっと手を伸ばすように、虚空に触れる。

 

「あの子たちを置いて、私だけ綺麗なまま終わるなんて、そんなの母親として許されないでしょ?」

「……二つ目を選ぶってことか。凡人になり、輝きを失ってでも現世に戻ると?」

「うん。私の武器、持っていっていいよ。嘘を本当っぽく見せる魔法なんて、もういらない。だって……私はもう、本当の『愛』を見つけちゃったんだから!!」

 

 アイの両眼に宿っていた、煌めくような星の光。それが、ふっと揺らぐ。

 

「アイドルとしての才能がなくなっても、誰も私のことを見なくなっても、いい。ただの『お母さん』として、あの子たちのご飯を作って、一緒に笑って、怒って、抱きしめてあげたい。あんな顔、させたくないよ」

 

 アイは、力強く言い切った。

 

「輝きなんてなくても、嘘がつけなくなってもいい。私は、アクアをあんなに苦しませたくない。ルビーを独りにさせたくない……。私の命も、私の才能も、全部あげる。だから、あの子たちを助けさせて!!」

 

 テスカトリポカは、愉快そうに口角を上げた。

 

「ハッ、良い覚悟だ。見事な戦士の顔だ。自分の最強の武器を手放し、素手で泥沼に飛び込もうってんだからな」

「交渉成立だ。お前さんの『最強の武器』、確かに買い取ったぜ」

 

 彼が指を鳴らした瞬間、アイの瞳から物理的な光が吸い出され、テスカトリポカの手のひらへと集まっていく。

 瞬間、アイの両目から物理的な痛みを伴わずに、何か決定的なものが抜け落ちる感覚があった。

 彼女の瞳から、あの象徴的な星の輝きが完全に消え失せた。それはもはや、人を狂わせる魔性の瞳ではなく、どこにでもいる普通の少女の、澄んだ、けれどありふれた瞳になっていた。

 

「さあ、帰りな。お前さんの新しい戦場へ」

 

 テスカトリポカがそう告げた瞬間、足元の大地が崩れ落ちる。

 

「っ……!!ありがとうね!!神様!!」

 

 強い引力に引っ張られるように、アイの身体が落下していく。

 彼女が最後に見たのは、サングラス越しの目を細め、どこか満足げに嗤う冥界の神の姿だった。

 

「ああ、そうだ。おまけだ、星野アイ」

 

 遠のく意識の中で、テスカトリポカの声が響く。

 

「お前さんの武器は、蘇生の値段にしちゃあ、少しばかり上等すぎた。差額分だ。一度きりのチャンスをやる」

「せいぜい足掻けよ、元・天才アイドル。ただの人間になったお前さんが、どうやって運命を覆すか、冥界から見物させてもらうぜ」

 

――その声が遠ざかるのと同時に、アイの意識は再び深い闇へと沈んでいった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「……アイ、アイ!!しっかりして!!」

 

 ──現実。冷たい玄関の床。斉藤社長の叫び声が響く。

 救急隊員が到着したとき、現場は絶望に包まれていた。

 アイの胸に刺さったナイフ。心肺停止。瞳孔散大。医学的に見て、彼女の死は決定的なものだ。

 

「心停止確認! 救命措置を開始します!」

 

 救急隊員の一人が、絶望的な状況下で心臓マッサージを開始しようとした、その時。

 

「……っ、げほっ……!!」

 

 信じられないことが起きた。

 完全に機能を停止していたはずの星野アイの肺が、大きく空気を吸い込んだのだ。

 

「え……?」

 

 救急隊員の動きが止まる。

 心電図のモニターは平坦な線を描いていたはずなのに、次の瞬間、力強い波形が刻まれ始めた。

 

「脈拍確認! 戻った……!?バカな、完全に止まっていたはずなのに!」

「 出血も止まってます! 傷口が……塞がってはいませんが、出血が急激に弱まって……!!」

「と、とにかく救急車に!!早く病院に!!」

 

 現場は騒然となった。奇跡。そう呼ぶ他ない現象だった。

 だが、その騒乱の中で、アイは静かに目を開けた。

 

(……戻って、これた)

「あ……く、あ……る、び……」

 

掠れた声で名前を呼ぶと、血まみれの彼女の手を、小さな手が必死に握りしめてくる。

 

「アイ!!生きてる、アイが生きてる!!」

 

 アクアの涙声だった。その目には、先ほどの鏡で見たような暗い復讐の炎はなく、ただ母親の命を乞う子供の純粋な涙が溢れていた。ルビーもまた、声を上げて泣きながらアイの服の裾を握りしめている。

 救急隊員が駆け込んでくる足音が聞こえる。

 アイは薄れゆく意識の中で、自分の瞳から「星」が消えたことを理解していた。

 もう、嘘で世界を騙すことはできない。天才的なカリスマは失われた。これからの彼女を待っているのは、ただの「星野アイ」としての、泥臭く、困難な人生だろう。

それでも──

 

(アクア。ルビー。お母さんね、もう嘘はつかないよ。……ううん、最高の嘘をつくために、今度は本当のことを守るよ)

 

 彼女の脳裏には、一人の男の顔が浮かんでいた。

 

カミキヒカル

 

 自らを殺そうとし、子供たちの未来を奪おうとした、真の黒幕。

 

(殺させない。アクアにも、あなたにも。……あいつは、私がこの手で終わらせる)

(たとえあなたを壊してしまったのがわたしだったとしても、この子達の未来の為にも)

(ああ、よかった……)

 

 アイは、血で汚れた手で、不器用に二人の子供の頭を撫でた。

魔法の力を失った彼女の顔には、かつてメディアを熱狂させた完璧な作り笑いはない。

 ただ、心からの、不格好で愛に溢れた母親の微笑みがそこにあった。

 

「──()()()()()。これは、絶対……嘘じゃないからね」

 

 冥界の神との取引で失ったものは計り知れない。

 しかし、彼女が得たのは「未来」だった。戦士としての矜持を捨て、母親としての道を選んだ一人の女性の、新しい戦いがここから始まることを意味している。

 

 ───その時、アイは気付いた。

 彼女の右手の甲。血に塗れ隠れたその場所に、三つの赤い痣のような紋様が刻まれていることを。

それは、テスカトリポカが「差額」として与えた、神の権能を一時的に行使する『令呪』。

 

「……あはは。ありがとう、神様。これで頑張ってみるね──」

 

 病院へ運ばれる救急車の中で、アイはぽつりと呟いた。

 その声は震えていたが、不思議と晴れやかだった。

 武器を失い、凡人となった星野アイ。

 だが、彼女はかつてよりもずっと恐ろしい『戦士』へと変貌していた。

 愛する子供たちを守るため、そして地獄の底から引きずり出してくれた神への礼として、彼女は新しい戦場に立つ。

 冥界の王は、その様子を黒曜石の鏡越しに眺め、煙草に火をつける。

 

「さて……。輝きを失った星が、どうやって暗黒の太陽を撃ち落とすか。楽しませてもらうぜ、お嬢さん」

 

テスカトリポカの嗤い声が、静寂に満ち、誰もいなくなった後の荒野に、只々響き渡った。

 

 

 




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