テスカになって冥界で魂を導く話   作:ナイ神父

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星野アクア

 

 

 冷たい冬の海。全身を叩きつけるような凄まじい衝撃と、肺を内側から焼くような海水の冷たさがアクアに襲い掛かる。

 暗い水底へと沈んでいく中、自分を道連れに引きずり込まれるカミキヒカルの絶望と恐怖に歪んだ顔を見たのを最後に、星野愛久愛海──アクアの意識は、底なしの暗闇へと溶け落ちていった。

 

(ああ、これで、すべて終わった)

 (アイの無念は晴らされた。俺の人生を狂わせた元凶は消え去り、ルビーも、有馬も、あかねも……これでもう、誰の脅威にも怯えることなく生きていける)

 (俺という、復讐のために黒く濁りきった汚れた存在の幕引きとしては、これ以上ない結末だ──)

 

 満足感と、そしてほんの少しの、彼女たちの未来を見届けられない未練。

 それを胸に抱いて完全に事切れたはずのアクアが次に目を開けたとき、そこは、息が詰まるような冷たい海底ではなかった。

 

「……ッ、げほっ、がはっ……!」

 

 反射的に海水を吐き出そうと咳き込むが、気管から吐き出されたのは生ぬるい空気だけだった。水に濡れそぼっていたはずの衣服は完全に乾いており、崖から叩きつけられた際に全身の骨が砕けたような激痛も、嘘のように消え去っている。

 

「……ここは? 俺は、死んだはずだろ…?」

 

 アクアはゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡す。

 そこは、薄暗い霧に包まれた、果てしなく続く白い大地だった。空はどんよりと重く垂れ込め、遠くの奥底には、原始的な生命力に満ちた鬱蒼とした密林のシルエットが広がっている。

 

 そして何より目を引いたのは、目の前で轟々と燃え盛る焚き火だった。

 乾いた薪が爆ぜる音がパチパチと、不気味なほど静まり返った白い空間に響き渡っている。

 

「よう。目覚めたか、復讐者(アヴェンジャー)。いや……見事にすべてを放り出して自滅した『敗北者』と呼ぶべきか」

 

 焚き火の向こう側、丸太の椅子に腰掛けていた男が口を開いた。

 金髪にサングラス。仕立ての良い黒のスーツをだらしなく着崩し、手には見慣れない無骨な銃──よく見れば先端に斧の刃がついた奇妙な武器を弄りながら、男はゆっくりと葉巻の煙を吐き出した。

 

「お前は……」

「オレはテスカトリポカ。この『ミクトランパ』を統べる神であり、お前さんのようなイカれた戦士の最期を査定する、まあ現世的に言うならビジネスマンだ。まあ、そう警戒するな。立ち話もなんだ、座れよ、死んだばかりで疲れているんだろう?」

 

 テスカトリポカは顎で焚き火の前の空いたスペースを示す。

 アクアは警戒を解かないまま、促されるままに焚き火の前に腰を下ろした。炎の温もりが、冷え切っていた魂を少しだけ解凍していくような感覚があった。

 

「ミクトランパ……。地獄か何かか?」

「戦いに敗れた者、戦士が訪れる冥界だ。お前さんの相打ち覚悟の心中。身を呈して標的を仕留め、目的を完遂したその執念と手際、戦士としては満点だ。現代で此処までの復讐が見られるとはね。オレも嫌いじゃあない」

 

 神はサングラスの奥の目を細め話を続ける。

 

「だがな、ビジネスの観点から見りゃ、お前さんの人生は大赤字の『大敗北』だぜ、アクア」

「……俺が敗北? 冗談を言うな」

 

 アクアは冷たく言い放った。

 

「俺は目的を果たした。カミキヒカルは死んだ。アイの復讐は終わったんだ。俺が泥を被って消えれば、あいつらは──ルビーたちは、元の平穏な生活に戻る。俺の犠牲なんて、そのための安い代償だ」

「平穏に暮らすとでも? ハッ、思い上がりも甚だしいな」

 

 テスカトリポカが笑い、パチンと指を鳴らした。

 すると、焚き火の上に立ち上る煙が形を変え、虚空に巨大な黒曜石の鏡が浮かび上がった。

 

「見せてやるよ。お前さんが自己満足の果てに現世に残していった『焼け野原』をな」

 

 鏡面が波打ち、現世の映像が映し出される。

 そこに最初に映ったのは、有馬かなだった。

 彼女は自分の家で、アクアの訃報を伝えるニュースを見つめていた。その目からはとめどなく涙が溢れ、絶望に顔を歪ませていた。

 

 だが──数日が経ち、数週間が経つ映像の中で、彼女は泣きはらした目をこすり、立ち上がった。

 

『あんたが、私の推しの子になってくれるって言ったじゃない……バカ、大っ嫌いよ!!」

『──だけど、あんたが見つけてくれた私を、ここで終わらせるわけにはいかないのよ……!!』

 

 彼女はアクアの死という絶望を強引に飲み込み、それをバネにして凄まじい執念で芝居に打ち込み始めた。やがて彼女は舞台の上で圧倒的な演技を披露し、観客を総立ちにさせるほどの「天才役者」として大成していく姿が映し出された。

 

「……よかった」

 

 アクアは、心の底から安堵の息を吐いた。

 

「有馬は、強い。俺がいなくなっても、彼女なら一人で光り輝ける。俺の判断は間違ってな──」

「安心するのはまだ早いぜ、元・復讐者」

 

 テスカトリポカの無慈悲な声と共に、映像が切り替わった。

 次に映し出されたのは、黒川あかねだった。

 彼女は一見、仕事の現場では以前と変わらぬ完璧な振る舞いを見せていた。だが、映像が彼女の自室を映し出した瞬間、アクアは息を呑んだ。

 部屋の至る所に、不気味な魔法陣や古代文字の羅列、怪しげなオカルトの文献が散乱していた。

 薄暗い部屋の中心で、あかねは焦点の合わない虚ろな目で、古い書物をめくり続けていた。

 

『ダメ……これじゃない。こんな儀式じゃ、魂は定着しない……』

 

 彼女はブツブツと独り言を呟きながら、自分の腕に自傷に近い形で印を刻み込もうとしていた。

 

『私と一緒に地獄に落ちるって、言ったのに。何処までもついて行くって、言ったのに。どうして一人で逝っちゃったの、アクアくん』

『……でも、大丈夫。アクアくんやルビーちゃんが前の記憶を持って「転生」できたんだから、原理はあるはずなの。魂の法則を見つけ出して、絶対にあなたを呼び戻すから』

『──ねえ、アクアくん……私、どんな禁忌に触れても、あなたとなら……』

 

 彼女の優秀すぎるプロファイリング能力と知能は、アクアの喪失というバグを引き金に、完全に狂気の方向へと暴走していた。「彼と一緒に堕ちる」という呪いのような愛が、彼女を這い上がれない深淵へと引きずり込んでいたのだ。

 

「あかね……おい、やめろ、お前がそんなオカルトに頼るなんて……!!」

 

 映像は無情にも次々と切り替わる。

 MEMちょは、自室のパソコンの前で配信の準備をしようとしていた。だが、カメラに向かっていつもの作り笑いを浮かべようとした瞬間、表情が完全に崩れ落ち、机に突っ伏して号泣し始めた。

 

『アクたん……バカだよ……わたしたち、これからどうすればいいの……、アクたんがいないと、ダメじゃんかぁ……っ!』

 

 彼女の明るさが繋ぎ止めていた人間関係は、アクアという中心を失ったことで完全に瓦解していた。

 五反田泰志は、散らかった自室で酒瓶を片手に、幼い頃のアクアの出演映像をただぼんやりと眺めていた。

 

『アクア……俺が、もっと早くお前を止めていれば。俺が、お前を役者の道に縛り付けなければ、お前はあんな怪物と心中なんかしなかったのか……?』

 

 大粒の涙を流し、後悔に苛まれながらアルコールに逃げる恩人の姿。

 

 ────そして。

 

「あ……あぁ……」

 

 アクアの喉から、ひゅっ、と引きつったような音が漏れた。

 最後に映し出されたのは、ルビーだった。

 ルビーの自室。そこは、ルビーがアイやアクアのグッズを大切に飾っていた「祭壇」のような場所だった。

 だが、ルビーは狂乱したようにそのグッズを叩き落とし、ポスターを破り捨て、大切なCDやペンライトを踏み躙っていた。

 

『嘘つき!!ママも、お兄ちゃんも、せんせも!!みんな、みんな嘘つき!!私を置いていく嘘つき!!』

 

 暴れ狂うルビーを、泣きながら必死に背後から抱きとめているのはミヤコだった。

 

『やめて、ルビー! お願いだから、やめて!!私が……私が悪かったから!!あなたたちを、ちゃんと見てあげられなかった私が……!!』

『離してよ! どうせ社長もいなくなるんでしょ!?愛してるって言って、最後は絶対私を一人にするんだ!!』

 

 映像は暗転し、次の場面へ。

 水の音が響くバスルーム。服を着たまま浴槽の中に座り込むルビー。

 その手にはカミソリが握られており、水はすでに、彼女の手首から流れた夥しい血によって真っ赤に染まっていた。

 

『せんせぇ……おにいちゃん……いま、いくね……』

 

 虚ろな瞳で笑うルビー。そこに、血相を変えたミヤコがドアを蹴破って飛び込んでくる。

 

『ルビー!!いやあああっ!!ルビー、お願い、死なないで!! アイ!!アクア!!これ以上私から奪わないでええっ!!』

 

 泣き叫びながらルビーの腕をタオルで縛り上げ、救急車を呼ぶミヤコ。その絶叫が、アクアの鼓膜を容赦なく破壊していく。

 そして、その凄惨な自殺未遂の後。

 鏡に映ったのは、ステージの上で踊るルビーの姿だった。

 一見すれば、それはかつての星野アイと見紛うほどの、完璧で圧倒的なアイドルの姿だった。観客は熱狂し、彼女の笑顔に魅了されている。

 

 だが、アクアにはわかった。

 

 彼女の瞳には、かつてあった天真爛漫な光など微塵も残っていない。魂の死んだ虚ろな目で、ただ機械のように完璧な「嘘」を振りまいているだけ。

 彼女は、アクアという唯一の心の支えを失った苦痛から逃れるため、個人の感情を完全に押し殺し、ただの「アイドルの偶像」という空っぽの器に成り果てていたのだ。

 

「──これが、お前さんの死がもたらした結果だ」

 

 焚き火のパチパチという音だけが響く中、テスカトリポカの声が冷たく落ちた。

 

「お前さんは『自分一人が泥を被ればいい』と思い上がっていた。だが、戦士の死ってのはな、生き残った者たちの心に一生消えない呪いと傷を刻み込むんだよ」

「お前さんは、カミキを殺すついでに、あの女たちの未来まで見事に殺してのけたわけだ。見事なまでに美しい敗北(バッドエンド)だ、オレは良いと思うぜ?好みだ」

「復讐と言うのは戦士の戦いであるのと同時に、全てを焼き尽くす恩讐の炎だ。あの黒炎の復讐者が囚われた様にな?」

 

「……あ、あぁ……」

 

 アクアは白い大地に両手をつき、嘔吐するように息を乱した。

 

 (俺は、何をやった? 復讐のためにすべてを投げ打ち、ようやくアイを安らかに眠らせ、皆を守ったと思っていたのに)

 (俺が死んだせいで、あかねが禁忌に走り、ミヤコさんの心を壊し、そして──俺の唯一の光だったルビーに、すべてを諦めさせてしまった)

 

 ──アクアの存在そのものが、彼女たちの人生を狂わせ不幸にする猛毒だったのだ。

 

「あああああぁぁぁっ……!!」

 

 霧に包まれたミクトランパに、アクアの慟哭が響き渡った。

 己の傲慢さと、愚かさに対する底なしの絶望。己を八つ裂きにしたいほどの激しい後悔が、彼を苛み続ける。

 

「さて、査定と現状確認は終わりだ。ここからは取引(ディール)の時間だ」

 

 テスカトリポカは丸太から立ち上がり、三本の指を立てた。

 

「一つ目。お前さんはここで終わる。このミクトランパの第一層で、心地よい忘却と共に永遠の眠りにつく。罪悪感からも解放され、現世の惨状から完全に目を背けることができる」

「二つ目。現世への帰還だ。代償を払い、あの冷たい海から這い上がり、再び泥沼の人生を歩む」

「三つ目。魂の形だけを保ち、記憶を持ったまま別の人間として転生し、一からやり直す」

 

 テスカトリポカは銃を腰に戻し、アクアを見下ろした。

 

「さあ、どうする。お前さんがどの道を選ぶかで、あのガキ共の未来は変わるかもしれねえぞ?」

「……俺、俺は……」

 

 アクアは震える身体を抱きしめたまま、ギリッと歯を食いしばった。

 

 ──戻りたい。

 

 今すぐあの海から這い上がって、ルビーを抱きしめたい。死なないでと、俺が傍にいると叫びたい。あかねの手を引いて止めたい。ミヤコさんに土下座して謝りたい。

 

(でも……俺に、そんな資格があるのか?)

 

 アクアの脳裏に、自分が今まで犯してきた罪がよぎる。

 他人の感情を利用し、踏みにじり、最後には血を分けた父親を殺した。自分の手は、もう真っ黒に汚れている。こんな人殺しの手で、ルビーに触れることなんてできない。

 自分が戻れば、また彼女たちを危険に巻き込み、結局は傷つけるだけだ。アクアのような破綻した人間は、これ以上彼女たちの人生に関わるべきではない。

 かなのように、時間が経てば、ルビーたちもいつか立ち直れるかもしれない。アクア(雨宮吾郎)という呪いが完全に消え去れば。

 

「……俺は」

 

 絞り出すように、アクアは口を開いた。

 

 (ルビーたちには申し訳ないが、俺はここで、永遠に罪を抱えて消えるべきだ。それが、人殺しに相応しい末路だ)

 

「俺は……一つ目の、このまま此処で──」

『ちょっと待ったぁぁぁっ!!』

 

 アクアが決定的な選択を口にしようとしたその瞬間。

 白い霧を切り裂くように、どこまでも明るく、そして魂に刻み込まれた声が響いた。

 

「え?」

 

 アクアが顔を上げると、鬱蒼とした密林の奥から、一人の女性が飛び出してきた。

 

 アメジストの様に紫がかった髪。星の輝きを宿した両目。ミクトランパのリゾート地仕様なのか、少しラフなワンピース姿だが、その圧倒的な存在感は紛れもなく──

 

「アイ……!?」

 

 信じられないものを見る目で、アクアは硬直した。この時空において、アイはすでに完全に死を迎え、このミクトランパに辿り着いていたのだ。

 

「もう!!テスカんの鏡で一緒に見てたら、我が息子のあまりのウジウジっぷりに見てられなくて出てきちゃったよ! 全く、誰に似たんだか!!」

 

 アイはスタスタとアクアに歩み寄ると、その頬を両手でバシッと挟み込んだ。

 

「あ、痛っ……アイ、本当に、本物……?」

「本物に決まってるでしょ?自分が人殺しだから戻れない? 資格がない? 呪いだから消える? バカじゃないの!?」

 

 アイの瞳が、怒りと、それ以上の深い悲しみに揺れていた。

 アクアにとっても見たことが無い、怒っているアイの姿がそこにはあった。

 

「いい? 私は2人に、自由に、幸せに生きてほしかったの!!私の復讐なんてしてほしくなかった!!それなのに、勝手に私のために人生全部投げ打って、勝手に死んで、挙句の果てにルビーたちをあんなにして……!」

 

 アイは、アクアの首に腕を回し、きつく、きつく抱きしめた。

 かつて、血まみれになりながら彼を抱きしめたあの日のように。だが今は、温かい体温がそこにあった。

 

「アクア。……私の、可愛い息子。生きて。どんなに泥まみれになっても、どんなに罪を背負っても、生きて、あの子たちの傍にいてあげて」

 

 アイの声が震え、アクアの肩に温かい涙が落ちた。

 

「私を愛してくれて、ありがとう。でも、もう私に縛られないで。あなたは、あなたの人生を、あなたを愛してくれる人たちのために使ってね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、アクアの中で、長年張り詰めていた「復讐者」としての氷の鎧が、音を立てて砕け散った。

 ゴローとしての理屈も、アクアとしての計算も、自分は汚れているという言い訳も、すべてが吹き飛んだ。

 ただの、母親の温もりを求める一人の子供に戻っていた。

 

「……っ、アイ……アイ……っ!!」

 

 アクアはアイの背中に腕を回し、子供のように声を上げて泣き崩れた。

 死の恐怖も、罪悪感も、すべてを涙に乗せて吐き出すように。

 

「生きたい……っ!!俺、生きたいよ……!!ルビーの傍にいたい……あかねを止めたい……みんなと一緒に、生きていたい……っ!!」

 

 慟哭と共に吐き出された、それが彼の、魂からの本当の願いだった。

 

「……ハッ、いいだろう」

 

 その様子を見ていたテスカトリポカが、銃を再び取り上げて獰猛に笑った。

 

「戦士の涙ってのは、いつ見ても極上だ。お前さんのその『生への執着』確かに買い取ってやる。だがな、アクア。一度投げ捨てた命を買い戻すんだ。それ相応の『代償』は払ってもらうぜ」

 

 アクアはアイの胸から顔を上げ、涙に濡れた目で神を睨み据えた。

 

「何でも払う。俺の命以外なら、何でも」

「お前さんの最大の『武器』だ」

 

 テスカトリポカは、アクアの頭を指差した。

 

「前世の医者としての知識。復讐のために培ってきた狡猾な計算能力。そして……お前さんを形作ってきた『過去と今のすべての記憶』だ」

 

 アクアの息が止まった。

 

「雨宮吾郎としての記憶も、星野アクアとしての記憶も、星野アイ(母親)への執着も、仲間への感情も、すべてオレに差し出せ。それが蘇生の対価だ。お前さんは、完全に空っぽの『星野アクアという肉体』として現世に戻る。……どうだ? 愛する女たちの顔も名前も忘れて、ただの無力なガキに戻る覚悟はあるか?」

 

 記憶を失う。

 それは、今まで自分が積み上げてきたすべてが消滅することを意味する。ゴローとしてさりなと過ごした病室の記憶も、有馬かなとのキャッチボールも、黒川あかねとの舞台も、ルビーとの誓いも。

 

 ──すべてが、消える。

 

 アクアは隣のアイを見た。アイは、ただ優しく微笑んで頷いた。

 

『大丈夫。記憶がなくなっても、アクアがあの子たちを愛した事実と、絆は絶対に消えないよ』

 

 アクアは立ち上がり、テスカトリポカの正面に立った。

 迷いはなかった。自分がすべてを忘れようと、ただ「星野アクアが生きている」という事実さえあれば、彼女たちは救われるのだから。

 

「……持っていけ。俺の記憶なんて、血生臭くてロクなもんじゃない。そんな対価で、あいつらが笑ってくれるなら……安いもんだ」

交渉成立(ディール)だ。見事な決断だぜ、元・復讐者」

 

 テスカトリポカがパチンと指を鳴らした瞬間。

 アクアの脳内から、凄まじい勢いで「何か」が抜け落ちていく感覚があった。

 雨宮吾郎としての生い立ち。さりなとの約束。アイの笑顔。刺された日の絶望。有馬かなのピーマン体操。黒川あかねのプロファイリング。MEMちょの笑い声。ミヤコの怒った顔。ルビーの輝く笑顔。

 

(ああ……)

 

 大切な思い出が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。

 だが、恐怖はなかった。代わりに、胸の中には温かい光だけが残っていた。

 

「行け。ここからは、戦士じゃない、ただの人間の生き様を現世で見せつけな」

 

 テスカトリポカの声と共に、足元の白い大地が崩落し、アクアの意識は再び深い闇へと吸い込まれていった。

 最後に見たのは、泣き笑いの顔で手を振るアイの姿と、煙草の煙を燻らせて笑う神の姿だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 ──ザザァァン……

 

 冷たい波の音が、鼓膜を揺らした。

 海鳥の鳴き声。顔に当たる冷たい飛沫と、生臭い潮の匂い。

 

「……おい、あんた! しっかりしろ!!」

「ひでえ傷だ……生きてるのか!?おい、誰か救急車を!!」

 

 彼が薄く目を開けると、日焼けした見知らぬ老漁師が、必死の形相で彼を抱き起こそうとしていた。

 自分がなぜこんな海岸に倒れているのか、全く理解できなかった。全身が凍りつくように冷たく、激しい痛みが身体中を駆け巡る。

 

 (──ここはどこだ? 俺は、誰だ?)

 

 疑問を口にする力すら残っておらず、彼は再び深い意識の底へと沈んでいった。

 

 ピーッ、ピーッ、ピーッと、規則的な電子音が響く。

 次に目を覚ました時、彼は真っ白な病院のベッドの上にいた。

 口元には酸素マスク、腕には無数の点滴。

 

「……ん」

 

 微かなうめき声を漏らした瞬間。

 

「っ……! お、お兄ちゃん……!?」

 

 すぐ傍から、悲鳴のような声が上がった。

 視線を向けると、そこには信じられないほど美しい金色の髪をした少女が、目を見開き、わななく唇を押さえて立っていた。

 彼女の声に弾かれるように、病室のドアが乱暴に開き、次々と人が雪崩れ込んできた。

 

「アクアっ!!」

 

 赤いボブカットの少女が、泣き顔で飛び込んでくる。その後ろから、青みがかった髪の少女、金髪にメッシュを入れた少女、そして美しい大人の女性が、皆一様に信じられないものを見るような、そして歓喜に満ちた涙を流しながらベッドを囲んだ。

 

「嘘……嘘でしょ、本当に……っ!!」

「アクアくん、アクアくん……っ!!」

「バカ、あんたって奴は……どれだけ私たちを……うわああぁぁんっ!!」

 

 ボブカットの少女がベッドのシーツに顔を埋めて号泣し、青髪の少女が彼の手を両手で包み込んで涙をこぼす。大人の女性──ミヤコは、その場にへたり込んで嗚咽を漏らしていた。

 そして、ピンクの髪の少女──ルビーは、恐る恐る手を伸ばし、彼の頬に触れた。

 

「お兄ちゃん……生きて、戻ってきてくれたんだね。私、また、一人ぼっちになるかと……っ!!」

 

 温かい涙が、彼の頬に落ちる。

 彼は、自分を取り囲んで泣き崩れる彼女たちを見つめ、酸素マスクをゆっくりと外した。

 そして、酷く掠れた声で、率直な疑問を口にした。

 

「……ごめんなさい。貴方たちは、誰ですか?」

 

 ピタリ、と。

 病室の時が止まった。

 彼女たちは息を呑み、絶句した。

 彼の瞳には、かつてのような暗い復讐の炎も、計算高い光もない。ただ、生まれたての赤子のように純粋で、空っぽの瞳がそこにあった。

 

「……お兄、ちゃん……? 私だよ、ルビーだよ……?」

 

 ルビーが震える声で呟く。

 自分が誰なのか。そして、目の前で泣いているこの人たちが誰なのか、彼には全くわからなかった。記憶というキャンバスは、完全に白紙になっていた。

 

 ──だが。

 

 どういうわけか、彼の目からは、後から後からとめどなく涙が溢れ出してきた。

 

(どうして……俺は、泣いてるんだ……?)

 

 彼女たちの顔を見ているだけで、胸の奥が締め付けられるように苦しくて、同時に、言葉にできないほどの温かさと愛おしさが全身を満たしていく。

 誰一人名前も思い出せないのに、彼女たちが生きていること、ここで泣いてくれていることが、何よりも嬉しかった。

 

 記憶喪失。その残酷な現実に、彼女たちは一瞬絶望しかけた。

 

 だが、彼が流す涙を見て、彼女たちは理解した。

 魂に刻まれた絆は、決して消えてはいないのだと。

 

「……バカ。名前くらい、何度でも教えてあげるわよ」

 

 有馬かなが、涙を拭って力強く笑った。

 

「あなたがどれだけ私たちを振り回したか、最初から全部叩き込んでやるんだから!」

「そうね……ゆっくりでいいよ、アクアくん」

 

 あかねが、彼の手をさらに強く握りしめた。彼女の目からは、あのオカルトの狂気は完全に消え去り、ただ彼を愛する少女の光が戻っていた。

 

「私たちが、全部サポートする。これからは、あなたのための人生を生きましょう?」

「アクたん……おかえりぃ……っ」

 

 MEMちょも、ミヤコも、ただひたすらに頷いて泣き続けている。

 

「……うん、うんっ!!」

 

 ルビーは彼の胸に顔を埋め、声の限りに泣きじゃくった。空っぽの偶像ではない、生身の感情を持った、本物のルビーの涙だった。

 

「生きててくれたら、それでいい! 何も覚えてなくても、私が、絶対にお兄ちゃんを幸せにするから!!」

 

 彼は、自分にすがりつく彼女たちの温もりを感じながら、ただ静かに涙を流した。

 

 頭は空っぽだった。

 

 けれど、心の中には、確かな言葉が響いていた。

 

(……ありがとう)

 

 誰に向けたものなのかはわからない。

 

 あの白い霧の冥界の神へか、それとも星の瞳を持つ母親へか。

 

 彼が見せたのは、計算でも演技でもない、心の底からの不器用で、純粋な笑顔だった。

 

 復讐者としての『星野アクア』は、冥界にすべてを置いて死んだ。

 

 だが、ここから始まるのは、彼女たちの深い愛に支えられながら一から歩む、彼自身の「本当の人生」だ。

 

 病室の窓の外。雲の切れ間から、一筋の明るい陽光が差し込んでいた。




【恐らくその後】
アクア
元の記憶が無くなった以上、どの様に過ごそうと。彼女達がどれだけ献身的に世話をしようと。記憶が戻ることは二度と無い。が、全てのしがらみから解放された彼の人生は、これから新しく始まるのだろう。前話と同じく多分ギャルゲ主人公。

あかね
ただ一人、本当の意味で彼が海にいた真実を知っているため、今までとは比べものにならない程に過保護になっている。多分本編ほどでは無いが、アクアの為にこちらでも魔術やヤバイモノに手は出す。

ルビー
アクアが死亡した世界の描写では、原作描写の一コマを膨らませたらなんかすっごい病んでた子。アイを失った光景がフラッシュバックして、生きていた時には心の底から滅茶苦茶喜んだ。多分コチラも物凄く過保護。「私がアイドルで稼ぐからお兄ちゃんは家から出ないでね!!」とか普通に言う。

かな
もしかしたらアクア死亡ルートの方が、ある意味では幸福だったかもしれない子。アクアが生きていた以上、アクアのことを割り切れない。そのため原作以上に自らの感情に歯止めが効かない。2人に比べたら思考がまともな為多分胃痛枠。
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