Cyberpunk: Edgerunners -far from human- 作:Lemony226
ナイトシティでは、空を見上げる人間は少ない。
理由は単純。見る価値がないからだった。
煤煙と広告投影で濁った空には星ひとつ見えず、代わりに企業ロゴが昼夜を問わず瞬いている。アラサカ、ミリテク、バイオテクニカetc...巨大企業の名前だけが、神の代わりみたいに頭上へ浮かんでいた。
地下鉄の窓へ額を預けながら、ピーター・パーカーはぼんやりとその光を眺めていた。
窓ガラスには自分の顔が薄く映っている。痩せた輪郭。寝不足気味の目元。癖のある茶髪。いかにも冴えない学生、といった顔だった。
ふとした瞬間車両が揺れる。
吊革を掴む腕がぶつかった。
「悪ぃ」
謝罪の声は一応あったが、そこに誠意はなかった。クローム義手の青年が鼻で笑い、そのまま仲間たちと話を続ける。
「マジで昨日のパーティやばかったって」
「親父のコネでコンバットゾーン入ったんだろ?」
「違法BD流してる奴いてさ――」
アラサカ・アカデミーの制服。
ピーターと同じ学校の生徒たちだった。
ただし、住む世界はまるで違う。
彼らの制服は新品同然で、靴には汚れ一つない。高級インプラント用のメンテナンスジェルの匂いが微かに漂ってくる。企業幹部の子供たち。最初から人生の勝者として育てられた側の人間だ。
ピーターは視線を窓へ戻した。
反論しても意味はない。惨めになるだけだ。
昔からそうだった。
目立たず、波風を立てず、静かにしていれば大抵のことはやり過ごせる。
「……朝から騒がしいやつらだ」
低い声が車両の奥から飛んだ。
デイヴィッド・マルティネスが、ドア横の手すりへもたれたままこちらを見ていた。眠そうな目。投げやりな立ち姿。だが、その視線には妙な鋭さがある。
「あ?」
義手の青年が睨み返す。
「なんか文句あんのか」
「別に。ただ、お前らの声デカすぎ」
空気が一瞬だけ張り詰めた。
だが次の停車駅でドアが開くと、青年たちは舌打ちだけ残して降りていった。
静かになった車内で、デイヴィッドは興味を失ったように視線を端末へ落とす。
ピーターは少し迷ってから口を開いた。
「……ありがとう」
「別に助けたわけじゃねぇよ」
デイヴィッドは肩をすくめた。
「アイツらが嫌いなだけ」
ピーターは小さく笑った。
たぶん、それは半分本当で、半分嘘だった。
アラサカ・アカデミーは、学校というより企業ショールームに近かった。
白く磨かれた床。ガラス張りの廊下。空調管理された静かな空気。壁面ディスプレイでは、企業広告と株価情報が絶えず流れている。
『ARASAKA
Your Future, Engineered』
生徒たちは皆、未来を約束された顔をしていた。
ピーターだけが、そこから少し浮いている。
奨学生。
その肩書きは聞こえこそ良いが、要するに「使えそうな貧民を拾い上げる制度」に過ぎない。学費の代わりに成績を要求され、卒業後は企業契約へ組み込まれる。
逃げ道はない。
だが、育ての親___メイおばさんを楽にさせるには、それしか方法がなかった。
「パーカー」
教員ドローンが無機質な声で名前を呼ぶ。
「本日放課後、第七研究棟へ向かえ。研究補助作業へ参加すること」
教室がざわついた。
「研究棟?」
「バイオテクニカ絡みか?」
「なんでアイツが?」
ピーター自身も困惑していた。
「……僕ですか?」
「選出は成績評価に基づく。遅刻は減点対象」
ドローンはそれだけ告げて飛び去る。
教室後方で、デイヴィッドが怪訝そうにこちらを見ていた。
▽△▽
その後も授業は変わらず続けられ、気づいた頃には放課後になっていた。
第七研究棟は、本校舎から少し離れた場所に建っている。
ガラスと白色樹脂で構成された無機質な建築で、入口では武装警備員が巡回している。空気には薬品とオゾンの臭いが混じっていた。
受付を済ませると、研究員らしい女性がピーターを案内する。
「器材運搬だけでいい。余計なものには触らないで」
「はい」
通路の両脇には実験室が並んでいた。
ガラス越しに見えるのは、生体培養槽、遺伝子解析装置、解剖テーブル。中には動物実験らしい光景も見える。
ピーターは視線を逸らした。
あまり見たいものではない。
「そこのケース、こっちへ」
研究員が顎で示す。
透明ケースの中には、何匹もの蜘蛛がいた。
赤と青の斑模様。腹部に微かな燐光。普通の蜘蛛とは明らかに違う。
「遺伝子改変種ですか?」
「質問しないで」
冷たい声だった。
ピーターは「すみません」とだけ返し、ケースへ手を伸ばす。
その時だった。
一匹の蜘蛛が、自分の右腕に乗っかていた。
「え――」
判断する間なんてなかった。
次の瞬間、その蜘蛛は平然と、差も当然かのように跳ねた。
黒い影が視界を横切る。
鋭い痛み。
「ッ……!」
首筋に焼けるような熱が走った。
蜘蛛は床へ落ち、排水溝の隙間へ消えていく。
「なにか問題でも?」
研究員が怪訝そうな顔でピーターを見る。
「いえ、特に何も――」
言いかけた瞬間、視界が揺らぐ。
耳鳴り。
全身を駆け巡る熱。
まるで身体の内側へ異物を流し込まれているみたいだった。
「……大丈夫?」
「いや、その……ちょっと……」
立っていられない。
壁へ手をつく。
妙に感覚が鋭い。
遠くで回転する換気ファンの音が聞こえる。研究員の呼吸音まで分かる。視界の輪郭が異様にはっきりしていた。
「顔色悪いわね」
「……少し休めば、多分」
ピーターはそう言ったが、自分でも声が震えているのが分かった。
帰宅した頃には、夜になっていた。
アパートの廊下では、隣人同士が怒鳴り合っている。どこかの部屋から安っぽいシンセ音楽が漏れ、壁の向こうで赤ん坊が泣いていた。
なんてことはない、いつもの夜だ。
ナイトシティでは、誰も他人に興味を持たない。
「ピーター? 帰った?」
部屋の奥からメイおばさんの声が聞こえる。
「うん。ただいま」
「ご飯温める?」
「……あとで食べるよ」
声がうまく出なかった。
熱がある。
頭痛が酷い。
全身の骨が軋んでいるみたいだった。
自室へ入り、ベッドへ倒れ込む。
天井が回る。
「……何なんだよ、これ……」
身体が熱い。
筋肉が勝手に痙攣している。皮膚の感覚が異様に敏感だった。隣室のテレビ音。外のサイレン。廊下を歩く足音。全部が近すぎる。
ピーターはふらつきながら洗面台へ向かった。
鏡を見る。
瞳孔が開いている。
顔色も悪い。
まるで別人だった。
その時、不意に指先へ違和感が走る。
鏡から手が離れない。
「……え?」
掌が吸い付いていた。接着剤みたいにだ。
ピーターは慌てて身体を引くが。次の瞬間洗面台が砕けた。
轟音。
視界が反転する。
気づけば、彼は天井へ張り付いていた。
呼吸が止まる。
床が遠い。
指先がコンクリートへ食い込んでいる。
「……は?」
窓の外では、ナイトシティのネオンが脈動していた。
巨大企業の広告が夜空を埋め尽くし、パトカーのサイレンが遠くを走り抜けていく。
都市はいつも通りだった。
変わってしまったのは、自分だけだった。
創作意欲と書き溜めがあるのでとりあえず完結させたい(日常番外編パートをたくさん書きたい)