祓魔師は人妖の間に揺れる。   作:悠問追

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1『クスリ』

 

 開きっぱなしの窓から入り込む生ぬるい風。日差しは俺のうなじを親の仇と言わんばかりに焼き付け、少しでも涼しい気分になれれば・・・・・・なんて気持ちで百均で買ってきたはずの風鈴が奏でる甲高い音は、もはや神経を逆立てる要因にしかなっていなかった。

 所々ひび割れ穴が空いた、打ちっぱなしのコンクリートの壁。リサイクルショップで買い揃えた薄汚れた家具。それでも来客者に不快な思いをさせまいと唯一新品で買ったはずのソファですら・・・・・・今は俺の特等席と化しているし、コーヒーやら何やらのシミで元の『白』とは言い難い。

「どうしてこうなった・・・・・・」

 向き合った机の上。『反省文』とミミズが這ったような文字で書かれた────自分でそう自覚しているなら少し綺麗に書けという話だけど────原稿用紙に突っ伏して、思わずぼやく。

 ボロい事務所。オブラートに包むとすれば『味のある』事務所。そんな薄っぺらい可食ナンタラすら突き破るほどボロボロのボロである。俺の思い描いていた『祓魔師』とは似ても似つかない。いやホント、どうしてこうなった。

「どうして、か。そうは言っても全部キミのせいじゃないか、澄人くん」

 気の抜けたぼやきに、デスクチェアの背もたれに体を預け、コチラに視線だけをくれながら応えたのは相方の天野 (あまの) 天音(あまね)。黒い長袖のジャージと、その裾からほんの少し見える黒のショートパンツに黒いハイカット。腰のあたりまで伸ばした黒髪と、全体的に『黒』の印象を抱く女だ。ここまで黒いんなら日焼けサロンにでも行って、その病的なまで白い肌も黒く焼いちまえ・・・・・・と思わないでもないが。何やら日焼けしない体質らしい。

 閑話休題。思考が明後日の方向に飛んでいった。天音はブー垂れる俺にため息をひとつ吐き出し、

「キミねぇ・・・・・・祓魔師育成学校での成績は、卒業後の待遇に影響してくると言われてたろ? 何、寝てた?」

「ん、んなこと言ったらほら・・・・・・天音は座学も実習も、かなり成績良かったろ。俺の成績が悪かったとはいえ、その分幾らか・・・・・・」

「キミのマイナスは私のプラスを掻き消すほどにマイナスなの」

「ぐ、ぐぅ〜!!」

 ぐうの音しか出なかった。

「そもそもおまえ! 何コーヒーとかいう嗜好品飲んでんだよ。ウチは貧乏事務所だぞ!! 節約しろ!!」

「これは私が育成学校時代にバイトで稼いだ金から出したやつだから。互いの貯金に手をつけない、依頼費や支給されたお金だけを使って事務所の運用をする。そう言い出したのは澄人くんだろうに」

「ぐぅ〜!!!!」

 ・・・・・・ぐうの音しか出なかった。

「こ、コーヒー飲んでる暇あったら依頼取ってこいよ・・・・・・猫探しでも良いから・・・・・・相方が今必死に反省文書いてんだぞ・・・・・・」

「キミが今書いている『反省文』は私が取ってきた依頼で、キミがヘマをしたから書かされているモノだよね。澄人くんが最後に依頼を貰ってきたのはいつだったかな?」

「ぐ、ぐぅ・・・・・・」

「あとキミが書くべきなのは『反㗂文』ではなく『反省文』だと思うけど。書き出しから一時間ほど進んでいないけど、そもそもが間違ってるよ。もう学生じゃないんだから」

「ぐぅ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ・・・・・・ぐうの音しか、出なかった。困った。あまりにも強すぎる。勝てない。いや・・・・・・俺が弱すぎるのか。

 どうやらこの場に味方は居ないらしい。上手くいかないモヤモヤと、暑さから来るイライラの吐口は何処にもなかった。とはいえ、どれもこれも自業自得ではある。

 育成学校を卒業した生徒は一人前の証として免許を与えられ・・・・・・チームを組んで活動する。天音の言った通り、あてがわれる事務所は成績に応じて決められるし、初月以降の資金は自分たちで依頼で稼いだモノか自費。それが、人と妖怪が共に暮らす街────極東第壱人妖特区(きょくとうだいいちじんようとっく)花楓町(かえでちょう)』の平和を守る公務員こと、駆け出し祓魔師の実情だ。あまりにも依頼を取れないようなら学校が依頼を斡旋してくれはするけど、ソレすら俺たちは最近なくなった。

 つまりは崖っぷち。見下ろせば、半歩先には波が荒れ狂う海が見える。誰かが背中を押せば真っ逆様に落ちていくだろう。

 電気代やら携帯代すら碌に払えず、辛うじて保ってるライフラインはガスと水道。街の知り合いからなけなしで貰った、おつかい程度の依頼で何とか食い繋いでいる現状。毎日切り詰めて、正直食って生きていくのがやっとだ。そんな俺たちに残された道は、首が回らなくなって事務所を畳むか、祓魔師連合協会(お上)の活動停止命令を待つだけ。二つにひとつ。ヤバいなぁ、とは思ってるんだけど。全部俺が足を引っ張っているせいだ。

 事務所に痛い沈黙が流れる。天音が何かを言おうとして止めるような、ため息と唸りが混じったような声が何回か聞こえる。結局コーヒーを啜る音と、カップとソーサーが柔くぶつかる音がして、また沈黙が戻ってきた。

 そんな気まずい雰囲気を断ち切るように、事務所の扉が開く。インターフォンも鳴らさずに────壊れて鳴らないけど────ここに入ってくるような奴は、俺と天音以外にはひとりくらいしか心当たりがない。

「何だよ荒垣(あらがき)センセーかよ・・・・・・」

「何だ、とはなんだ澄人。どんだけオレがオマエに良くしてやってると思って・・・・・・相変わらずボロッちぃなァここは・・・・・・」

 文句を言いながら事務所をキョロキョロと見回しながら入ってくる、半袖の白Tにジャージの巨漢。伸ばしっぱなしの仏頂髭を撫でながらため息を吐くその姿は、何度見ても暑苦しい。体感温度が六度くらい上がった気がする。

「お疲れ様です、荒垣先生」

「おう、お疲れ天音。どーだ、澄人の反省文は。進んでるか?」

「見ての通りです」

 ・・・・・・荒垣センセーの視線が、俺の手元の原稿用紙に突き刺さる。咄嗟に汗ばんだ両腕で隠したが手遅れだった。腕に紙がくっつく感覚が気持ち悪い。

「あのな澄人・・・・・・一応、先生な? お上に頭を下げて、温情に温情と温情を重ねて・・・・・・更に温情を重ねてもらった結果、反省文と依頼報酬から諸々の修理費だとか色んっっっなものをさっ引いて貰って許してもらってんの。そもそも論、オマエらが卒業した時点で先生の仕事は普通終わりなの。わかる? 反省文くらいオマエ・・・・・・学生の時に書かせまくったんだからさ・・・・・・」

「だからこそ出し尽くしたっつーか・・・・・・」

「反省の文言くらいスマホで調べろや・・・・・・」

「先生、我々のスマホ止まってます」

 ・・・・・・今度は頭頂部に不機嫌な視線が突き刺さっている。かなり痛い。どんな顔をしてんのか確認するのが怖くて顔を上げられなかった。今時風に言えば『恥ずかしくて顔がない』だ。いっそ顔無くして『のっぺらぼう!』みたいな一発芸が出来れば場も和むかもしれん。

 ぐしゃぐしゃ、と荒垣センセーが自分の頭を掻きむしる音。そのまま勢いよく俺の目の前のソファに腰を下ろして、何処からか取り出した煙草に火をつけた。

「まぁいいや、そんな話をしに来たわけじゃねェし。一応報告。オマエらが昨日担当した事案、やっぱり例の薬だったわ」

 煙草の匂いと煙に不快そうに顔を歪めていた天音の表情が目に見えて変わる。

擬似妖力生成剤(ぎじようりょくせいせいざい)────でしたっけ。じゃあ結果論ではあるけど、澄人くんのグーパンは正解だったのかもしれないですね」

「にしたってコイツはやりすぎだけどな」

「一応加減はした」

「肋骨二本と右手首の骨折、奥歯三本と永遠の別れは加減の結果か???」

「ぐ、ぐぅ・・・・・・」

 俺たちがつい昨日回してもらった依頼。・・・・・・今こうして、反省文を書くことになったきっかけ。

 何やら町の路地裏で行われている、怪しい薬の取引────その現行犯逮捕。まぁ色々あって結果的に俺が犯人をぶん殴って色々とぶっ壊すハメになって、そんなスマートな依頼解決ではなかったけれど。本当に出回ったらヤベェ薬で、ソレがこれ以上他のやつの手に渡るのが防げたなら万々歳だ。色んな連中から『またおまえか』だのなんだのお叱りを受けた分、俺くらいは俺のことを褒めてやらなくちゃならない。

「で、もうひとつ。どっちかっつーとこっちの方が本題」

 俺へのお咎めは満足したらしい。荒垣センセーは煙草のフィルターに口をつけ、煙を目一杯に吸い込んで。天井目掛けて吐き出しながら、口を開く。

「オマエらご指名で依頼が入ってっから。早めに反省文、終わらせた方がいいぞ。じゃ、しっかりやるように」

 

 ◇◆◇

 

 そうなりゃ話は早い。っつーか入ってきて早々お叱りじゃなくその報告が欲しかった。いやマジで。本当に。

 クソめんどくさい反省文なんて速攻終わらせて提出。俺らご指名の依頼となれば、電気やらスマホが止まってる情けない現状を見せるわけにはいかないし。一旦天音に借金をして、溜まりに溜まった携帯代と電気代の支払いをしておく。

 久々に電波を拾ったスマホの画面に表示される荒垣センセーからの着信履歴とかチャットのログには苦笑いが漏れるが、まー今の健やかな気持ちには勝てないってモンだ。大体が反省文の提出期限に関してのことだった。もう出したもんね。関係ねぇもん。

 俺に尻尾でも生えていたなら、今頃ブンブンと左右に振って、わかりやすく機嫌の良さをアピールしていたに違いない。ソレほどに晴れやかな気分だった。文明の利器、素晴らしい〜!!

「今なら夏の鬱陶しい日差しすら俺を讃えている気がするわ・・・・・・全て許そう。今の俺は寛容だ」

「なぁに気持ちわりーこと言ってんだ・・・・・・偉いご機嫌じゃねぇの、澄人」

 天を仰ぐ俺を避けていく、人と妖怪が疎に混じったヒト込み。さながら海を割ったモーセみたいな光景を広げる俺を呼ぶ声がした。冷静に自分の行動を振り返ると恥ずかしい。いや、今の俺は全てを許すことができる。慈悲深いんだ今の俺は。

 閑話休題。若干頰の熱さを覚えながら咳払いを挟んで、声の主に向き合う。ソイツは薄汚れた暖簾をほっそい手指で持ち上げながら訝し気な視線を俺に向けていた。

「よ、大将。いやそれがさ、めっちゃ良いことあって」

 俺たちの事務所が入った小ビルの一階。ラーメン屋『極潰使(ごくつぶし)』の大将。この町に住まう妖怪のひとり。一旦木綿の────確か名前は式部(しきぶ) 潡兵衛(とんべえ)さんだったか。ラーメンの汁が跳ねまくって元の白さを保てていない辺り、ウチのソファと似通ってて親しみ深い。

「俺らご指名でさ、依頼が入ったんだよ。しかも申請書を見た感じ、結構大きめな! 内容はこれから聞くんだけどさ、やっと俺らも祓魔師らしくなってきたっつーか・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・ほう! そりゃあ良かったじゃねぇの。まだ時間はあんのか? ラーメン一杯奢ってやっから入んな。俺からの祝いだよ」

「まぁじで!? あざっす!!」

 更に尻尾を横に振る。尻尾ないけど。

 準備中、と書かれた立札を横目に暖簾を潜って店内に入る。戸を潜った途端に冷房の冷たい風に乗って、ラーメン屋独特の豚骨の香りが鼻腔を擽った。久々に入ったけど、古き良きラーメン屋って感じの内装も良い。

 昼頃には育成学校の生徒とか、妖怪人間問わずごった返して騒がしいモンだけど、休憩時間兼夜の仕込み時間の今は、テレビから聞こえてくるニュースの音と、俺のクソデカい腹の虫の音しか聞こえない。

「にしても良かったのかよ大将、休憩時間中だろ?」

 ヒラヒラと宙を舞い、厨房に戻っていく大将の背中にそう問いかけると、無言で手を振るだけで返された。ダンディでかっこいいかもしれんが、身体に跳ねた汁の汚れのせいで異様にしまらない。

 すっかり慣れたもんでセルフサービスの水を注いで、コップ片手にカウンター席に腰を下ろす。備え付けのおろしニンニクをどれだけ入れてラーメンを食ってやろうか、とか考えたところで、この後依頼主に会うということを思い出してやめておいた。流石に依頼主と会うのにひっどい口臭させてるわけにはいかんしね。

 久々に顔を見た天気予報師の姉さんが、明日はもっと暑くなる等と話しているのをげんなりしながら眺めつつ。ぼうっと待つこと十分と少し。目の前に器が置かれる音と気配で、意識が現実に戻ってくる。

「はいよ、極潰使ラーメン一丁」

「・・・・・・・・・・・・、・・・・・・」

 目の前に置かれた器を見るなり言葉を失う。山盛りチャーシューに煮卵は五つ。タダで出すには些かやりすぎなトッピングがされた物。

「い、良いのかよコレ、タダで」

「あぁ良いとも。めでたい日くらいはこんくらい。祓魔師のことはあんましよくわかんねーが・・・・・・名指しで依頼されてんのは凄いことなんだろ?」

 確かに凄いことではある。めでたいことではあるけども。

 名指しの依頼。ソレはつまり、『この人たちなら確実に解決してくれる』という信頼の証。普通だったらそれなりに経験と実績を積んで初めてもらえる貴重なもの。俺たちが信頼を勝ち得るようなことをしたのかと聞かれれば答えは微妙だが、嬉しいもんは嬉しい。大将が自分のことのように喜んでくれていることも。

「・・・・・・ありがとう。いただきます」

「あいよ。その代わり澄人たちが何かしらで有名になった時ァ、ウチのことを宣伝してくれや。・・・・・・あ、悪評じゃなく良い方向で有名になるように頼むわ」

 大将の言葉に親指を立てて麺を啜る。久々のマトモな飯に胃袋がビックリしてる。幸せな感覚だ。

 しばらく俺がラーメンに舌鼓を打つだけの時間が続いて。大将がカウンターに肘をつきながら、ボケっとテレビを眺めつつ口を開く。

「腹ァ空かせてたおまえさんに初めてこうやってラーメンを食わせてやったのはいつだったっけか」

「ん? おぁ・・・・・・っ、と。俺が中二くらいの時だったから・・・・・・四年くらい前か?」

「もうそんな経つのか。早いもんだな」

 親父と親戚の世話になるのが嫌になって家を飛び出して────その癖何もわからなくて。あの頃の俺は何かと荒れてた。

 マトモに食えず、マトモに眠れず。あの頃出来た目の下の隈は、今でもうっすらと・・・・・・シミという形で残っている。

「飯食わせてやったのに礼すら言わねぇでよ」

「悪かったって」

「薄汚れてボロボロで、風呂も入らせてやったっけ」

「わ、悪かったって・・・・・・」

「それがこんな、大きくなって」

 大きくなった。なれたんだろうか。あの頃の自分と比べて、今の自分はあまり変わっていないように思える。

 大きくなったのは図体と、祓魔師って称号を得ただけ。内面は何も変わらない。マトモな生活送れてないのは今も同じだ。幸福感で言えば今の方がだいぶマシだけど・・・・・・自業自得ってのもあるし。

 

『────こんな世の中を変えたい。絶対間違ってる。それに気づいてんのは俺だけなんだ。だから、俺がどうにかしなくちゃ』

 

 ボロボロで右も左もわからなかった俺の言葉。色んなヤツに馬鹿にされた言葉。それを初めて肯定して、祓魔師って道を示してくれたのもこの人だった。

 視界が潤む。少し涙腺にキた。だから目一杯に残りのラーメンを胃袋に押し込んで、勢いよく両手を合わせて、

「ごっそさん。ちゃんとやる。解決してくる。そしたらまた、天音連れて報酬でラーメン食いにくるわ」

「おう、待ってるわ。天音ちゃんによろしくな」

 満腹感とやる気に背中を押されて店を出る。ほんの少し出そうになった涙は力強く拭って。事務所の扉に繋がる外階段を駆け上がった。

 

 ◇◆◇

 

「文明の利器、素晴らし〜・・・・・・」

 事務所の中が涼しいってこんなに快適だったか。久々に窓が閉まってんのを見た気がするし、空気清浄機が動いてるのなんていつぶりだろうか。いつもホコリ臭い事務所内の空気が何倍にも澄んでいるように感じる。

「意外だね、澄人くん。もっと落ち着きなくなるモノだと思っていたけど」

 いつもの定位置────お気に入りのデスクチェア────ではなく、俺の隣に座って書類を眺めている天音が呟く。その言葉に嘘はないようで、横目に向けられた表情には幾らかの驚きが入り混じっているように見えた。

「え? ああ、まぁ。余計にヘマできない理由ができたからな」

「へぇ・・・・・・こんなにも健気にキミに寄り添う相方を置いて、ひとりだけ美味しいご飯を食べてきた甲斐はあったってわけだ」

「悪かったって・・・・・・今日の夕飯は俺が作るから・・・・・・」

 ・・・・・・チクチクと刺してくる。事務所に帰ってきてからずっとこうだ。ラーメンを食べてきたことに匂いで即気づきやがって、ずっとチクチク言葉で刺してくる。

 とはいえ。緊張をほぐすために俺の分までカフェオレを淹れてくれる辺り、気は使ってくれているらしい。甘くて美味い。

 あんなに燦々と照りつけていた日差しが沈んで、空が茜色に染まり始めた頃。落ち着かなくて磨きすぎた机の上に置かれたスマホが鳴り響く。・・・・・・アラーム。そろそろ時間だ。

 けたたましい電子音を止めて、机の上に置き直したのとほぼ同時。コンコン、と事務所に乾いたノックの音が響く。

「どーぞ、開いてるんで。入ってください」

 ・・・・・・返す言葉がほんの少し上擦った。天音がニヤけながら肘で小突いて来やがる。ええいやめろ。

 扉を開いて事務所に入ってきたのは、ペールオレンジのエプロンを下げた女性。歳は多分、二十代中盤かそこら。胸元には紅葉の葉型の名札が付けられていて、『めぐみ』と丸っこい文字が書かれているのが見える。

 後ろで結い上げたポニーテールも込みで、何処となく『幼稚園、保育園の先生』って感じの女性だけど、それにしては雰囲気が暗い。あのテの人はもっと明活な印象だけど・・・・・・まあ、祓魔師(俺たち)を頼るような人だから無理もないか。

 向いのソファに座るように掌で促す。座ったのを確認するや否や、天音が口を開いた。

「コーヒーと紅茶、どっちが良いですか?」

「え、ああ・・・・・・じゃあ、コーヒー・・・・・・甘いやつで、お願いします」

「承りました」

 他所行きの笑顔を浮かべて天音が席を立つ。・・・・・・いやまぁ、名目上俺がリーダーってことになっているから話を進めるのは当然なんだけど。如何にもこうにも、緊張する。

「あー・・・・・・と、『祓魔師連合協会』極東第壱支部・実働部隊十六班、葦屋(よしや) 澄人です。一応、リーダーってことになってます。ハイ」

「・・・・・・もみじ園から来ました。一ノ瀬(いちのせ) (めぐみ)です」

 もみじ園。何処かで聞いたことがあるような気がする。記憶の引き出しを開けては閉めて、何処で聞いたのか思い出そうとしていると、

「同じく実働部隊十六班の天野 天音です。・・・・・・もみじ園というと、西地区にある保育施設ですよね? 戦争孤児や・・・・・・幼稚園、保育園で預かってもらえない妖怪や半妖の子を預かったりしていると・・・・・・話には何度か」

 お盆にカップを乗せて戻ってきた天音が答えを出してくれた。ああそうだ、ネット記事だったか広告だったかで見たんだ。こんな施設も出来たんだなぁ、と思った記憶が引き出しの奥底に眠ってた。

 一ノ瀬さんの目の前にカップを置くと俺の隣に座り直し、天音は続ける。

「私たち祓魔師としても、もみじ園の存在は有り難く思っています。最近では、普通のご家庭────人間のご家族も、幼稚園として利用し始めたんでしょう? 花楓町の人と妖怪の間にはまだ溝があります・・・・・・幼い頃から妖怪と人間が触れ合うことで、幾らソレもマシになるでしょうから」

 なるほど、確かにそう聞くと理想的な施設だ。そこで預かっている子供達の背景を考えると素直に喜べないけれど、少しでも人と妖怪────双方の間から、差別意識やその類を取り払うには良い環境だと思う。

 けれどそんな言葉に対しても、一ノ瀬さんは「ええ・・・・・・」なんて短く返すだけ。そして、事務所に沈黙が流れる。

 気まずさのあまりカップの中のカフェオレを眺めること数分。何やら意を決したらしい一ノ瀬さんはエプロンのポケットからスマホを取り出す。

「依頼の、内容・・・・・・ですが。私の・・・・・・私の、弟を」

 言葉が途切れる。息を呑むような間。一ノ瀬さんの視線は俺と天音を交互に見つめた後。握りしめたスマホを見つめ、躊躇うような手つきでロックを解除した。

「私の弟を────殺して欲しいんです」

「────、────」

 思わず耳を疑う。今この人は、自分の身内を・・・・・・弟を殺してくれと、そう言ったのか。

 再び俺たちを見つめる視線に揶揄いや戯言の気配はない。むしろその瞳の奥には決心と懇願の意すら見える。茶化しているわけでは決してない・・・・・・とは思う。

 とは言え・・・・・・とは言え、だ。

「い、いやいや待ってくれ一ノ瀬さん。俺たちは祓魔師だぞ? 殺し屋でも何でも無い。魔を祓って、この町の人を守るのが仕事だ。だってのに人を殺してくれなんて────」

「これを見てくれれば解ります」

 言いながら、一ノ瀬さんはスマホの画面を操作する。俺たちに向けられた画面に表示されていたのは、あるひとつの動画。

 防犯カメラか何かの映像だろうか。砂場に座り込んだ園の先生と子供────恐らく、『猫又』の子供だろう。特徴的な二股に別れた尾がゆらゆらと揺れているのが見える。

 楽しそうに二人が砂の山を作る映像が数秒流れて。ほんの少し、園の先生が目を離した隙に。

 

 ────異形の影が横切り、猫又の子供の姿が消えた。

 

「こうやって・・・・・・先週からウチの、妖怪の子供ばかりを攫って行っていて。映像、少し戻しますね」

 一ノ瀬さんの手によって映像が少し巻き戻されて、停止される。きっと何度もそうして来たのだろう。何度もこの姿を見たのだろう。そう思わせるほどに、手つきは慣れきっていて。初めて見る俺たちでも、そこに何が映っているのか分かり易い、一番のタイミングで動画が止まっている。

 画面の中央には、猫又の子供を抱える異形の影────背中から掌によく似た異様な翼を生やした、恐らく人間と思われる何か。最近の防犯カメラってのはよく映るモンで、捲れ上がった服の下には無数の鱗と、赤く変色した瞳孔が見える。

 その赤く変色した瞳孔は、

「・・・・・・擬似妖力生成剤か。俺ら、この薬とヤケに縁があるな」

 花楓町で今出回っている、出どころ不明のヤバい薬。その服用者に出る特徴だ。

「私・・・・・・聞いたんです。荒垣さんに。この薬を使った人は、大体助からない・・・・・・と」

「────、────」

 思わず押し黙る。隣に座った天音も同じように口を噤んでいる辺り、俺の知識に間違いは無いようだった。

「・・・・・・それに、許されないことをした。沢山のヒトを・・・・・・せっかく『もみじ園』を信頼して預けてくれている親御さんを、これから輝かしい未来が待っているはずの子供達を、不安な気持ちにさせた。だから────」

 一ノ瀬さんの表情は俯いて見えない。聞こえてくる声音は、酷く震えていた。そこに含まれる感情は怒りか悲しみか。それは、理解できないけれど。

「────だから。私の弟を。克己(かつき)を、殺してください」

 最初に放った時と同じく。その言葉には、確かな感情が込められていた。

 浮き足だった気持ちが冷めていく。これが祓魔師の現場だ、と。俯瞰した自分が冷めた目で見下ろしているような。

 人間と妖怪の平和を守る。それは即ち、ソレを害する〝何か〟を処すということ。時には何かの命を奪うことだって必要だ。育成学校の頃に、授業で近い言葉を聞いたことを思い出した。

 天音の視線が俺に刺さる。どうするんだ、と。俺の言葉を待っている。

「わかりました。その依頼、俺たちが受けましょう」

 

 ◇◆◇

 

 私たちがいくら迷えど、いくら一ノ瀬さんの気持ちを想像しようと、朝は変わらずやってくる。一ノ瀬さんが事務所にやってきた次の日。私たちは、件のもみじ園まで来ていた。

 視線の先。広い中庭の中心で、澄人くんは人間と妖怪の子供に追いかけ回され、何やらギャンギャン叫びながら走り回っているのが見える。今の年齢になって、あそこまで子供と同じテンションで遊べるのを見ると・・・・・・何というか。彼はまだまだガキなんだな、と思わせられる。

「ごめんなさい、子供の相手をさせてしまって・・・・・・天音さんも疲れたでしょう」

「ああいえ、良いんです。大丈夫です。・・・・・・それに、彼はアレくらい走り回って元気を発散しておかないと、また私たちが素寒貧になってしまいますから」

 チラリと横目に視線をやれば、私と同じように遠くの澄人くんを眺める一ノ瀬さんが映り込んだ。

 メイクで誤魔化されてはいるけれど、目が少し腫れている。泣き疲れているのか、遠くを眺める目は霞んでいて。気を抜けばまた涙を流しそうな危うさを感じた。

「・・・・・・にしても、良いところですね。噂以上に」

 だから意図的に話を逸らす。

 言葉の通り。噂以上に良い場所だ。妖怪と人間が何のしがらみもなく手を取り合って遊んで、走り回って、そして笑い合う。ここだけじゃなく、町全体がこうなれば良いのに・・・・・・と。思ってしまうほどに。

 未だに妖怪と人間の間にある溝は深い。歩み寄りの姿勢は見せてはいるが、どうにも最後の一歩が踏み出せないというか。向いている方向が微妙に違うというか。

「ふふ・・・・・・天音さんが気に入ってくれて良かったです。私も・・・・・・私も、大好きな場所なんです。この子達が大人になった頃には、こんな光景が街中に広がっているんだろうなって・・・・・・何のしがらみも無く、お互いを憎むことも無く。歩み寄って、寄り添って、手を取って歩んでいく。そんな未来が」

 私たちの世代・・・・・・今日明日には、そうはならない。多分一ノ瀬さんにも、そう思うところがあるのだろう。

 言葉の裏に含まれている意は弟さんのことか。この街実態を客観視してのことかもしれない。

「それに、ほら。西楓(せいふう)がこんなにも近い。ご利益ありそうじゃないですか?」

 そんな暗い思考を感じ取ったのか、一ノ瀬さんが声を弾ませながら、私の目の前に躍り出る。

 笑顔で指を向けたその先にあるのは、まだ夏だというのに赤々と紅葉した巨大な花楓の木・・・・・・この町のシンボル。最近では観光名所にしようと町の色んなヒトが躍起になっている御神木の一本。西楓だ。

 花楓町の四方には、それぞれ方角を名に冠した花楓の巨木が立っている。それらには連合協会の会長が編んだ結界の術式が刻まれていて、四本揃って初めて結界の核になる・・・・・・とは、授業で聞いた話。外界からの悪意を持った攻撃は全て防ぎ、中に住む妖怪に対する認知を増幅させ、妖怪の存在を安定させる大切な結界。何でも普通の祓魔師がこの術式を再現しようとすれば、一世代かけても難しい・・・・・・とか言っていたっけ。

 町の何処にいても空を見上げれば必ずどれか一本が視界に映り、守られている安心感をくれる。この町では欠かせない存在だ。

「そうですね。何でも、西楓の根元にある神社には健康の神様が崇められているんだとか。立地的にもぴったりかもしれないです」

「そうなんですか!? へぇー・・・・・・天音さんは物知りなんですね。初めて聞いたかも」

「・・・・・・う、嘘は言ってないです。町の復興だとか、観光客の収集のために作られた話だったかもしれませんが・・・・・・」

「ふふ。だとしても良い場所なんですね。今度お参り、行ってきます」

 信じるものは救われる。何より、誰かが信じたり『そうである』と思いこみ、認知を受けて初めてご利益は発生するものだ。魔術だってそうなわけだし。ウン。

 気まずさに負けて思わず目を逸らす。と、ともあれ、一ノ瀬さんに笑顔が戻って良かった。

 そんな気まずい私を他所に。一ノ瀬さんは何かを思い出したかのように両手を打って、

「ああそう、そうでした。私、これを天音さんに渡しに来たんだった」

 四つ折りにした紙をエプロンのポケットから取り出すと差し出してきた。・・・・・・ああそうか、そういえば澄人くんがここに来てすぐに何か頼んでいたっけ。

「これで全員だと思います。・・・・・・でも被害者リストなんて、育成学校に言えば貰えるのでは? 何でわざわざ園の名簿から・・・・・・」

「案外彼、色々考えているので。多分今回も何か考えがあってのことだとは思いますけど・・・・・・」

 いやまぁ、彼の場合は学校からもらえることを失念している可能性もあるけれど。

 紙を広げ、ざっと目を通す。思っていたより多い被害者にため息が漏れたが、成程────何となく、澄人くんが〝園から直接〟こういう書類を貰った理由がわかった気がした。

 名前、特徴だけではなく、その子がどういう子で、何ができないか、何ができるかまで事細かく書いてある。その全てから愛を感じるのと同時に、子供たちを毎日見ているからこその言葉が沢山。多分、学校が作成して私たちに送ってくる資料じゃこうはいかないだろう。

「あま・・・・・・ごほ、おぇ・・・・・・天音、っは・・・・・・アレ、貰えた?」

 そんな感心する気持ちも束の間。いつの間にやら私の目の前から一ノ瀬さんは居なくなっていて、代わりに膝に手をついて何やら苦しそうな澄人くんが居た。背中には未だに、ひとりだけ子供を背負っていて。「ねー、まだ遊ぼうよ。遊べる?」とか言われている。随分と懐かれたな。

「落ち着いてから話しなよ・・・・・・ほら」

 広げたままの件の紙と一緒に、ジャージのポケットからハンカチを取り出して渡してやる。額どころか顔中汗でグッショグショだ。見るに耐えない。

 ひと通り汗を拭いたハンカチを受け取って、入れ替わりで紙を渡す。器用に子供をぶら下げたまま姿勢を直して、背中の子供に生返事を返しながら。澄人くんが書類を読み耽るだけの時間が続いた。

「ああ、うん。これだと・・・・・・じゃあ間違いは無さそうだな・・・・・・」

 ・・・・・・こんな真剣な様子は久々に見た気がする。普段はちゃらんぽらんで、抜けている所しかなくて。何度言っても配膳は手伝ってくれないし、皿は水につけてくれないし。やっとく、と言ったことに夜になっても手をつけず、私に言われるまで忘れていたりする仕方のない人。

 けれど、この人は。誰かに対して向ける感情は強く、重く。そして誰かを思った時の集中力は凄まじい。ことソレに関しては、多分育成学校の中で────いや、この町で勝てる人は居ないと思わせる程に。

 そんな澄人くんが『間違いない』と言ったんだから。『そう』なのだろう。

「何か考えがあるのかな。言ってくれれば、私はキミに従うけど」

「考え・・・・・・は、ある。けど悪い天音。俺行くとこできた」

「え? ちょっと、何処に・・・・・・」

 思わぬ言葉が返ってくる。澄人くんは背中の子供を下ろすと、「このおねーちゃんに遊んでもらいな」なんて勝手に説き伏せて、私の言葉も聞かずに走り出す。

「す、澄人く────」

「夕方までには戻るから」

 戸惑いがちの私にそう返す澄人くんの背中は、何故か酷く怒っているように見えて。

 湧き上がった無数の言葉を、飲み込むしかなかった。

 

 ◇◆◇

 

 腹の底から湧き上がってくる感情は怒りに近い何かだった。

「ぁ、は、ッ────は」

 その感情を表現する言葉を知らなくて。発散する方法がわからないから、ひたすらに足を回す。回す。

 走っても走ってもその感情が湧き出して。頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回して、思考が落ち着かない。

 奥歯を噛み締める。足を回す。周りの景色が流れてく。

「ッ、は、ふ・・・・・・」

 西地区から中央区へ。朝来た道を、行きの倍の速度で戻って行く。

 ・・・・・・落ち着かなくちゃいけない。落ち着けなくちゃいけない。別に、俺は今から喧嘩をしにいくわけじゃないんだ。怒鳴りにいくわけじゃあない。

 じゃあ俺は何をしに? ・・・・・・わかんない。わかんないけど、胸の中でひたすらに燻るこの感情をどうにかこうにか吐き出さないとおかしくなってしまいそうだった。

 気づいた時には目的地の目の前に。汗だくで、頭を掻きむしって感情を整理しようとしている俺を、道ゆく連中が不審な目で見ている。

 それが耐えられなかったわけではないが。呼吸を程々に落ち着けて。営業中と書かれている看板を無視して、今日もまた、戸を開いた。

 汗ばんだ身体にエアコンの冷風が寒い。『極潰使』の店内は、幸い他に客は居ないらしかった。

 昨日の光景の焼き増しのように。カウンターに肘をついて、大将はぼうっとテレビを眺めている。

「おーいらっしゃ・・・・・・ンだよ、澄人かよ」

「悪い、水もらう」

 いつもの調子でヘラヘラ笑う大将に短く返して、冷水機へと足を進めていく。

 氷の設定は無し。熱った思考と体をすぐに冷やしたくて仕方なくて、待ちきれなくて。コップ半分まで水を注いだところで。身体の中へと一気に流し込む。

「昨日張り切って出てったっつーのに、随分早いお帰りじゃねーの。何だ、また依頼でヘマしたか? 焼豚丼くらいなら奢って────」

「良いから。そういうの。何と無く俺が言いたいこと、察してんだろ」

 大将は何も返さない。いつもの人の良い笑顔のまま、俺を見つめるだけだった。

「アンタの差金だろ。今回の依頼」

「・・・・・・、・・・・・・・・・・・・」

「大将が一ノ瀬さんに、俺たちに頼むように言った。違うか?」

 沈黙が流れる。ニュースキャスターの声がやかましい。まとまらない思考に指を突っ込んで、いらない情報が頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回すような錯覚。

 余計な音も、情報も、何も入れたくない。だから、今は大将の目をまっすぐに見つめることにした。

「・・・・・・ああ、そうだよ。俺が恵先生に、おまえさんたちに頼むように言った。この町で一番信頼してる祓魔師だからな」

「だったら!!」

 コップを振りかぶったところで我に帰る。それは、それはいけない。だって、この場で一番、

 

「だったらなんで・・・・・・昨日、息子さんのこと相談してくんなかった・・・・・・?」

 

 この場で一番、怒り狂って、暴れたいのは。この人だろうから。

 一ノ瀬さんから貰った被害者リスト。その中には、大将の息子さんの名前があった。

 おかしいと思ってた。出来過ぎだと思ってた。突如俺たちにやってくる、デカい指名依頼────色んなトコで、鼻つまみ者にされている俺たちに、だ。

「一昨日だろ、息子さん攫われたの。近々(きんきん)じゃねぇかよ。だったら昨日、俺に、ここで! 相談してくれりゃ、俺は・・・・・・」

 息子さんの救出。その依頼に俺たちを選んでくれた喜びと、自分の子供のことなんだから、もっとちゃんとしたところに頼めという怒り。

 そして。昨日平気な顔をして俺に笑顔を向けてくれていた悲しみ。どれが表層に出ている感情なのかわかんなくて、頭が、ぐちゃぐちゃになる。

 信頼してくれてるのか、してくれてないのか。俺には本心で話せないのか? 辛いとか、悲しいとか。真っ直ぐにぶつけてくれないことに腹が立つ。情けなくて涙が出そうで。自分で意味がわからない。

「辛いはずだろ。腹立つだろ。何で普通にしてんだよ!? 意味わかんねぇ、意味わかんねぇよ!! 辛いって言えよ。悲しいって言えよ。信頼してんなら、俺に相談してくれよ・・・・・・」

 このヒトにとっての一番頼れる祓魔師でありたかった。

 何もかもわからない俺を助けてくれたのはこのヒトだった。

 たかが一食の恩。そう言うヤツもいるかもしれない。

 けど、俺にとって。あの時食ったラーメンが、人生で一番美味かったから。あの時くれた笑顔が、暖かかったから。

「何で────、何でアンタが!! 我慢しなきゃならない!?」

 このヒトが我慢しなきゃならないと言う事実が許せなかった。笑顔の裏で、悲しんでいるかもしれないことが、憤っているかもしれないことが。どうしようもなく許せなかった。

 大将の顔から笑顔が消えていく。いつもの調子で、大きなため息を吐き出して。ふよふよとカウンターを越え、俺の所にやってくる。

「正直な話、息子があんな目に遭って・・・・・・俺も憤りは感じてるよ。ハラワタが煮え繰り返りそうな程に。なんなら今すぐこの店なんてほっぽり出して、恵先生の弟を殺しに行きたいくらいには」

「だったら俺に頼めば良い。アンタと違って、俺ならこれ以上落ちる評価も、失うものも何もない。殺してやれる。今すぐに」

「それじゃダメだ。ダメなんだよ、澄人」

 布みたいに柔らかいのに、意思のある────強い両掌が、俺の頰に添えられた。

 こっちを見ろ。目を逸らすな、と言わんばかりに。

「同時に俺は・・・・・・恵先生の気持ちもわかるんだよ。奥さんと結婚して、子供が産まれて・・・・・・奥さんが死んで。息子がたったひとりの身内になって。俺も随分と丸くなった。じゃなきゃ、おまえさんのことをあの日助けたりはしなかったろうな」

「・・・・・・・・・・・・、・・・・・・」

「自分の────自分の、家族ってモンが出来てよ。ソレが誤った道に進んだとしたらどんな気持ちか。ソレが、俺自身が道を正せねぇってなったら・・・・・・きっと、胸が張り裂けるくれェに・・・・・・痛くて痛くてたまらねェだろうよ」

 俺には想像できない気持ちだった。でも、何も言葉を返せないのは、大将の言葉が、目が、泣きそうで、苦しそうで。何より、真剣だったから。

「それに・・・・・・それに。おまえさんをただの人殺しにしたくなかった。おまえさんはお人好しだからなぁ・・・・・・きっと、全部聞いたらおまえさんの目が曇っちまう。正しいものも、見えなくなっちまう」

 視界が開けていく。視界を覆った暗闇が消えていく。

 ・・・・・・確かに、怒りで何も見えなくなっていた。祓魔師は殺し屋でも何でもない。一ノ瀬さんにそう言ったのは、他ならぬ俺自身だってのに。

「確かに、弟さんのやったことは悪いことだ。殺意がないと言えば嘘になる。・・・・・・悪いことをしたからこそ、しっかりと裁かれるべきだと思う。でも・・・・・・仕方ないんだよ。それだけ俺たちは憎まれることをした。(おそれ)られることをした。それに、俺たち妖怪が生きるために必要なのは、認知────かつてはソレを、人間に畏れられることで補っていた。妖怪(俺たち)は、そういう生物なんだ」

 妖怪は人の認知が無いと生きていけない。そこに在る、そこに居ると認識されて、初めて存在できる。

 だから戦争前は人間たちを脅かして、畏れられて生きてきた。今はその必要はない。数多くの人間が妖怪って存在を認知して。きっと、世界からその存在が消えることはない。

 けど。けれど。戦争のことも相まって────今では、余計に人間から畏れられている。

 こんなにも優しくて。こんなにも暖かくて。こんなにも、家族思いなのに。思いやりがあるのに。

 

「おまえさんたちには人間だ妖怪だの差別とか、その間で生まれる諍いとか・・・・・・暗い感情を抱いて生きて欲しくない。そんなのは俺たちの世代で終わらせるべきなんだ」

『こんなことを澄人に頼むのは間違っているかもしれない。それは私が一番わかっているけれど・・・・・・貴方が、架け橋になって欲しい。貴方は、私の最後の希望』

 

 昔俺に言い聞かせた母さんの姿と、大将の姿が重なる。

 

「やったことは悪いこと。だから裁く。ソレで終わりでいいじゃねぇか。妖怪の子供を攫った、妖怪反対派の人間の仕業じゃなく・・・・・・〝ヒトんちの子〟を攫った〝人〟の間違い。それでいい」

 だから、やることは────やるべきことは。もっと簡単で、単純だったんだ。

「・・・・・・・・・・・・、・・・・・・わかった」

 短くそう応えて、自分の両の頰を引っ叩く。

 

 気合いを入れ直す。今度はちゃんと、全部見える。

 

 ズボンのポケットからスマホを取り出して。天音の連絡先を呼び出して、汗ばんだ指先で発信ボタンを押した。

 ワンコールで天音が電話に出る。天音が何かを言う前に、俺が先に口を開いた。

 

「今から戻る。作戦伝えるから、準備してくれ」




次の更新は来週のどっかで。
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