『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
人の一生を振り返るとき、そこに並ぶのが幸せか不幸かは、案外どうでもいいのかもしれない。
ただ一つ、確かに言えることがある。
——俺の人生は、ひどく"つまらなかった"。
裕福な家庭だった。金に困ったことはない。家は広く、食卓にはいつも温かい料理が並んでいた。将来の進路に悩む必要も、なかった。
その代わりに与えられていたのは、見えない"枠"だった。
両親は医者。兄も優秀。だから俺も、そうあるべきだった。
子どもながらにそれを理解していた俺は、疑うことなくその枠の中で生きた。テストの点は落とさない。内申も完璧に整える。生徒会長を務めたのも、やるべきことの一つに過ぎなかった。
友人にも恵まれていたし、笑うことだってあった。
それでも——どこかでずっと、息が浅かった気がする。
空気は吸えているのに、肺の奥まで届いていない。そんな感覚が、ずっとあった。その違和感の正体に気づいたのは、少し後のことだ。
歯車が狂い始めたのは、兄の受験失敗だった。
ほんの数点。
だがその数点は、家の空気を変えるには十分すぎた。
それまで静かに張り詰めていたものが、音もなくひび割れていく。両親の視線は、兄から"期待"を失い、代わりに測るような冷たさを帯びた。家族の会話は減り、食卓には重たい沈黙が落ちるようになった。温かい料理だけが、変わらずそこにあった。
——ああ、これが本当の姿だったのか。
そんなふうに思った。
兄はその後も挑み続けた。四度の春を見送り、それでも届かず——限界を迎えた。
あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
白い天井。消毒液の匂い。規則的に鳴る機械音。そして、かろうじて繋がれた命。
運が良かったのか、悪かったのか。兄は、生き延びた。
だがそれは、何かが元に戻ったことを意味しなかった。
家族は壊れたままだった。
俺は、その場所から静かに離れた。大学には進まず、就職し、家を出た。反抗と呼ぶにはあまりにも弱い、ただの逃避だった。
それから五年。
兄は少しずつ、ほんの少しずつだが、前を向き始めていた。言葉が増え、表情が戻り、未来の話をすることもあった。
「これからだな」
そう言って笑った兄の顔を、俺はきっと忘れない。
あの笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。ようやく、人生が動き出すのだと。長かった時間が、やっと報われるのだと。
その矢先だった。
兄と会った帰り道。暗い道路に、光が見えた。
遠くから近づいてくるトラックのライト。どんどん大きくなる。音が聞こえる。でも、身体が動かない。思考だけが、異様な速さで回っていた。
——まさか、このタイミングで。
こんなにも、あっけなく。
光が、視界を埋め尽くす。
「ここは、どこだ……?」
声は、白い空間に静かに溶けた。
視界のすべてが、白だった。地面も、空も、境界さえ曖昧で、遠近感すら狂っている。
だが、不思議と恐怖はなかった。
温度も、風も、音もない。ただ、世界から切り離されたような静寂だけがそこにあった。
——現実感が、薄い。
そう思った瞬間だった。
「ほっほっほ」
不意に響いた笑い声が、その静寂にひびを入れた。
「……誰だ」
振り返る。
そこには、先ほどまで存在していなかったはずの老人が立っていた。白い髭。ゆったりとした衣。どこか場違いなほど穏やかな表情。その姿は、あまりにも"それらしく"て——逆に、現実味がなかった。
「ここもまた、一つの世界じゃ」
老人は、当たり前のことのように言った。声は落ち着いていて、不思議と耳に残る。
「……一つの世界?」
「そう。お主のいた世界も、物語の中の世界も、すべては並び立つ"現実"じゃ」
荒唐無稽な話のはずだった。でも、この場所の異様さが、それを否定させてくれない。むしろ、妙に納得してしまう自分がいた。
「……それで、俺はどうしてここにいる」
問いかけると、老人は満足げに頷いた。
「良い問いじゃな。では単刀直入に聞こう」
ほんのわずかに、間を置いて。
「———別の世界に、興味はないかの?」
心が、わずかに揺れた。
別の世界。現実から切り離された場所。新しい人生。別の可能性。
——そして、ふと頭に浮かんだのは。
しんどい夜に、何度も支えられたゲームだった。
「……プロジェクトセカイが」
無意識にこぼれたその名前に、老人は——にやりと笑った。
「――その世界じゃよ」
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
「お主が思い浮かべたその世界。お主に行ってもらいたいのは、そこじゃ」
静かな声だった。でも、その内容はあまりにも現実離れしている。
「……冗談だろ」
「できるとも」
次の瞬間、老人の体がふわりと宙に浮いた。重力を無視したその光景に、思わず息を呑む。
「なぜなら、わしは――神じゃからな」
得意げなその顔に、思わず言葉が漏れた。
「……はぁー。無駄に説得力があるのが腹立つな」
記憶の最後にあるトラックのライト。この白い空間。宙に浮く老人。これはもう、疑う段階は終わっているのだと、頭のどこかで理解していた。
「さて」
神はゆっくりとこちらを見据えた。
「行くかの。あの世界へ」
問いかけは穏やかだった。でも、その奥にあるものは、決して軽くはない。
それでも俺は、迷わなかった。
「行きます」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。久しく感じていなかった感覚だった。
「よかろう」
神は頷き、指を鳴らす。
すると、背後から静かな空間に不釣り合いな機械音が響いた。振り返ると——どう見てもスロットマシンが出現していた。
「……嫌な予感しかしないんだが」
「力を与える儀式じゃ」
「もっと神っぽいやつなかった?」
軽口を叩きながらも、視線は自然と回転するリールに引き寄せられる。カラカラと鳴る音が、妙に現実的だった。友人に付き合いで覗いたことはあったが、自分には合わないと思っていた代物だ。この神聖であるべき空間とのミスマッチが、なんだか少しおかしかった。
「何を望む?」
問われて、迷いはない。
「音楽の才能を」
あの世界に行くなら、それしかない。プロセカの世界で生きるなら、音楽は"言葉"みたいなものだから。
神は満足げに笑い、ボタンを指差した。
「では、引くがよい」
嫌な予感しかしない。それでも、手を伸ばした。指先が赤いボタンに触れる。わずかに柔らかい感触。そして——押した。
ガシャン、と音が響く。
リールが止まり、静寂が戻る。
神は結果を見て、一拍置いた。そして、にやりと笑う。
「お主の才能は――」
その笑みを見た瞬間、確信した。
あ、これダメなやつだ。
「音痴、弱点発見、回復術士じゃ」
「終わったわ!!!!」
音楽才能どこいった!?むしろ真逆来てるんだけど!?どうしてマイナス要素の才能を装備しているんだこのスロットは!!!
「音痴はそのまま音痴じゃ」
「説明雑すぎるだろ!!」
「弱点発見は戦闘で役立つぞい」
「戦闘ない世界なんだが!?」
「回復術士はパーティーに一人は欲しい存在じゃな」
「だからパーティーとか必要ない世界なんだって!!」
神、絶対楽しんでるだろこれ。
「もう一回!」
「だめじゃ」
「課金させて!?」
「ないのう」
「クソガチャだ!!!!」
俺はその場に崩れ落ちた。終わった。俺の異世界ライフ、開幕前に終わった。
「冗談はさておき」
神の声色が変わった。
さっきまでの軽さが、すっと消える。
「遊びではない。救ってほしいと言ったじゃろ」
空気が、少しだけ重くなる。
「このままでは、あの世界は——バッドエンドに向かう」
「……そんなにか」
「人の心は、繊細じゃ。ほんの少しのズレで、壊れる。お主の世界で見えていた世界は、何百、何千とある分岐点から成り得た、比較的ハッピーエンドな世界に過ぎんのじゃ」
俺は思い出す。ゲームの中の、あの子たちの苦しさを。そして——兄のことを。
「……わかった。でも、俺が救おうとしている世界もその中の一つなら、あまり意味はないんじゃないか」
「確かに。そうなのじゃが——因果というものは収束するものじゃ。その世界は放っておくと、許容できないほどのズレが生じて、取り返しのつかない悲しみのエンドへと向かってしまう。少しでもあの子たちに幸せになってほしい。それだけの、神の気まぐれじゃよ」
神の言うことを、全部は理解できなかった。人間には考えも及ばないスケールの話だ。だから深く考えなかった。
でも、言葉は自然と出た。
「なんとかしてみるよ」
神は、少しだけ優しく笑った。
「頼んだぞ」
その言葉を最後に、視界が暗くなる。
意識が、遠くなる。
——次に目を開けたとき。
俺は"音痴のまま"、誰かの世界を救うことになる。