『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
「他人を壊してまで、生き延びたいと私は思わないよ」
静かな声だった。怒っているわけじゃない。責めてもいない。ただ、自分の信念を話している声だった。
「そこまでして続ける音楽は、たぶん私の音楽じゃない」
その言葉に対して、何も返せなかった。でも、これこそが古瀧凪なのだ。その姿に、みんなが憧れて、好きになるのだ。
言葉が見つからない。この人は、本気なのだ。怖いくらい真っ直ぐに。
だからこそ。
昨日のライブは、あんなにも人を惹きつけたのかもしれない。命を削ってでも、自分の音楽を貫こうとしている人だったから。
凪さんは窓の外を見る。青空が広がっている。どこまでも夏だった。
「昨日ね」
ぽつりと呟く。
「すごく楽しかったんだ」
その声は、少しだけ遠かった。
「RAD WEEKEND。ああいうライブをするのが夢だったから」
病室の白い壁に、静かな声が溶けていく。
「やり切ったって思えた」
一度言葉を切る。それから。
「……だから、多分」
小さく笑う。
「終わるなら、ああいう日でよかったんだと思う」
その言葉が、胸の奥へ重く沈む。無意識に拳を握った。爪が掌に食い込む。痛み。ゆっくり息を吐く。
胸の奥が熱い。でも同時に、冷えてもいた。
凪さんの言葉は、正しい。たぶん、正しすぎるくらいに。他人を犠牲にしてまで生きたくない。自分の音楽を曲げたくない。その覚悟は、本物だった。
だから苦しい。こういう人ほど、誰かのために、自分を諦めてしまう。
「……なんで、そこまで出来るの」
不意に、凪さんが聞いてきた。さっきまでの拒絶とは、少し違う。純粋な疑問だった。
「まだ、ほとんど知らない相手だよ?」
静かな声。
「昨日、ライブ見て。今日、病院来て。いきなり命削るみたいなことして」
少し困ったように笑う。
「普通じゃないよ」
その言葉に、視線を少しだけ落とした。白い床を見る。自分の靴先が、やけに遠く感じる。
答えは、ずっと胸の中にあった。でも、それを上手く言葉にできる気はしなかった。だから話すことにした。自分でもまだ整理できていない、この思いを。
「……前の世界で」
ぽつりと口を開く。
「兄が、壊れたんです」
凪さんが静かに目を細める。言葉の真意を計りかねているような表情だった。
少しずつ言葉を探しながら、続ける。
前の人生。息の詰まる家。期待。失敗。壊れていった家族。病院の白い天井。毎日のように病院にいる兄のもとへ通ったこと。
五年を費やし、ついにベッドの上で笑った兄。そして——ようやく前を向き始めた時に訪れた、突然の終わり。
「助けられなかった」
小さく呟く。
その瞬間、病室の空気が少しだけ重くなった気がした。
凪さんは何も言わない。でも、目を逸らさなかった。
「だから、かもしれません」
「今度は、間に合うかもしれないって思った」
窓の外で、蝉が鳴いていた。夏の音。うるさいくらい鳴いているのに、病室の中では妙に静かに聞こえる。
「多分私は君の話を全部理解できていないと思う。だけど、君が悩んで、頑張って向き合ってきたのは伝わったよ。だけど、私はあなたに何もしてあげてないよ」
こういった転生物には何か暗黙のルールみたいなのがあるかのように、自分でも思っていた。だけど、正直に話す選択肢を選んだ。前の世界で自分を支えてくれていたこの世界の物語のことを。凪さんのことを知っていた理由。これまでの過程を。凪さんが助かるなら、手を取ってくれるなら、その希望に賭けてみた。
凪さんは、真剣に聞いてくれていたが、最初はやはりどこか話半分に、絵空事のような印象を受けていた。それでも、話した。気味悪がられても、この目の前にいる古瀧凪という存在を救いたかった。
「君の話は、壮大すぎるね」
凪さんはそう言って、息を吐くとベッドに身体を倒してしまった。視線は天井に向けられるが、表情は依然真剣だった。
「でも、君が生まれていない時代の私たちのこと、すごく詳しくわかってるわけじゃないけど、当たってた。あと、君の言葉がちゃんと私の胸に響いてきた」
「君の世界では、この私たちがいる世界は空想のものだったんだよね」
静かに頷く。
「それに君は救われていた。そしてそのお話には私も登場していた。だから、君が今日私の前に現れたわけだ」
もう一度頷く。
「バカみたいな話だけど、君の話を信じてる自分がいることにびっくりしてるよ」
考えている。言葉を選んでいる。そんな沈黙だった。
凪さんは、しばらく黙って天井を見ていた。何かを整理するみたいに。あるいは、自分の中へ落とし込もうとしているみたいに。何も言わない。ここで言葉を重ねれば、逆に壊れてしまう気がした。
やがて。凪さんは、小さく息を吐いた。
「……そっか」
それだけだった。けれど、その二文字には妙な重みがあった。
「君、本当に」
少しだけ笑う。
「変な子だね」
冗談みたいな言い方。でも、声には真剣さと温かさがあった。
その言葉に苦笑する。
「よく言われます」
「だろうねえ」
凪さんは喉で笑う。けれど、そのあとまた静かになる。
病室の空調が低く唸っていた。
「……嬉しかったよ」
不意に、凪さんが言った。
「そんなふうに、必死になってくれる人がいたんだって」
目を閉じる。長い睫毛が影を落とした。
「君、たぶんずっと怖かったんだよね」
静かな声だった。
「また助けられないんじゃないかって」
喉が、少し詰まる。凪さんは、こちらを見ない。なのに、不思議なくらい見透かされていた。
「……だから、ありがとう」
その言葉は真っ直ぐだった。病室の空気が少しだけ揺れる。何か言おうとして、言葉を失う。
凪さんはゆっくり視線を向けてきた。その目は穏やかだった。でも、どこか、決意を抱えた人の目だった。
「でもね」
自分の胸が、嫌な音を立てる。凪さんは続ける。
「私の答えは、変わらないよ」
窓の外で、蝉が鳴いている。夏が、うるさいくらい生きていた。
「君の力は、すごいと思う。本当に、奇跡みたいだよ」
凪さんは、自分の額を触る。さっきまで残っていた傷は、もう綺麗に消えていた。そこには何もない。ただ白い肌だけが残っている。
「でも」
細い指が、シーツをぎゅっと掴む。
「君が背負う痛みは、消えない」
「それを知っちゃったから」
凪さんは少しだけ困ったように笑う。
「もう、頷けないよ」
その声は弱くなかった。むしろ優しかった。優しいからこそ、残酷だった。
「君はきっと、自分が壊れるまでやる」
「そんな顔してる」
反射的に否定しようとして、できなかった。図星だった。凪さんは、その反応を見て小さく息を漏らす。
「ほらね」
夕日の色が、病室を赤く染め始めていた。昼の白い光とは違う。何もかもを終わりへ近づける色だった。
窓の外では、夕暮れが始まろうとしていた。橙色の光が、カーテンの隙間からゆっくり差し込んで、白いシーツの上に細い筋を作っている。その光が、少しずつ部屋の温度を変えていくみたいだった。
「私はさ」
凪さんは窓の方を見る。遠くの空は、少しずつ藍色を混ぜ始めている。
「最後くらい、ちゃんと終わりたいんだ」
その横顔は静かだった。泣いていない。取り乱してもいない。ただ、自分で選ぼうとしていた。
「音楽やって」
「笑って」
「みんなに、またねって言って」
そこで少しだけ口元が緩む。
「かっこつけたまま終わりたい」
何か言わなければいけない気がした。言葉が見つからなかった。
凪さんは、そんな様子を見て少しだけ目を細める。
「……だから、この話はおしまい」
突き放すというより、そっと蓋を閉じるみたいな声音だった。
「大事なこと話してくれてありがと」
「嬉しかった」
短い沈黙。そのあとで。
「今日はもう帰りな」
何も返せなかった。言葉にしてしまった瞬間、本当に終わってしまう気がしたからだ。
凪さんは、そんな様子を見て小さく笑う。
「そんな顔しないでよ」
どこか困ったみたいな声だった。
「君のおかげで、ちゃんと嬉しかったんだから」
その言葉だけが、胸の奥へ静かに残る。
ゆっくり立ち上がった。病室の扉へ向かう。けれど、手をかけたところで足が止まった。
——まだだ。
根拠なんてなかった。それでも。このまま終わらせたくないと、胸の奥だけが叫んでいた。
——助けたい。
その気持ちは、まだ消えていない。でも今は、
「……また来ます」
小さくそう言うと、凪さんは少しだけ目を丸くした。それから、困ったみたいに笑う。
「懲りないねえ」
その声を背中で聞きながら、病室をあとにした。
扉が静かに閉まる。廊下には、夜の匂いが流れ始めていた。
扉が閉まった、その向こう側で。
古瀧凪は、しばらく天井を見上げていた。
窓の外、夕暮れの色がさらに深くなっていく。橙から、紫へ。紫から、藍へ。空が静かに色を変えていく様子を、ただ眺めていた。
さっきまで、まっすぐ前を見て話していたはずだった。決意を持って、はっきりと答えを伝えたはずだった。
でも。
一人になった病室で、その決意の裏側にあるものが、ゆっくりと顔を出してくる。
——怖い。
誰にも言ったことのない言葉だった。お兄ちゃんにも、謙さんにも、誰にも。今日この部屋に来た、変な男の子にも。
本当は、怖い。
死にたくない。
まだ歌いたい。まだ笑いたい。まだ、みんなと過ごす時間が欲しい。
その気持ちは、消えていない。消えるはずがなかった。誰だって、本当は——終わりたくない。
布団の中で、右手が小さく震えているのに気づいた。
いつからだろう。最近、こうなることが増えた。気づかれないように、シーツの中にそっと隠す。もう片方の手で、その震えをぎゅっと押さえつける。
誰にも見せたくなかった。
お兄ちゃんが来た時も。謙さんが来た時も。さっきの男の子の前でも。ずっと、笑っていた。笑っていれば、誰も気づかない。笑っていれば、自分自身も、忘れられる気がした。
——馬鹿だな、私。
あんなに偉そうなことを言ったのに。「かっこつけたまま終わりたい」なんて。
本当は、こんなに震えているくせに。
窓の外を見る。夏の空が、もう半分以上、夜の色に染まっていた。一番星が、ぽつんと光っている。
あの光だって、本当はもう何年も前に消えてしまった星の光なのかもしれない。そんなことを、ふと思った。届く頃には、もう存在していないかもしれない光。
——でも、今は見えている。
今、ここに、ちゃんと光っている。
それでいいじゃないか、と思った。
今日、確かに私は笑った。昨日、確かに私は歌った。あの子たちの前で、確かに私は——生きていた。
今この瞬間、呼吸ができている。鼓動が、確かに動いている。窓から入る風が、頬を撫でている。
それは、当たり前のことじゃない。
もう、当たり前だなんて、思えなくなっていた。
一日が、こんなにも重くて、こんなにも尊いものだったなんて。健康だった頃は、考えたこともなかった。明日が来ることを、疑ったこともなかった。
今は違う。
今日という日が、もしかしたら最後かもしれない。そう思うと、朝の光の眩しさも、誰かの何気ない一言も、全部が——奇跡みたいに思えてしまう。
怖いのに。
怖いのに、同時に、こんなにも今日という日が、愛おしい。
矛盾している。自分でもわかっている。死にたくないと思っているのに、今日一日を、ちゃんと美しいと思える自分がいる。
その両方が、同時に、自分の中にあった。
震える手を、もう一度シーツの中で握り直す。
大丈夫。大丈夫。
誰に向けた言葉でもなく、自分自身に、そう言い聞かせる。
——もう少しだけ、頑張れる。
もう少しだけ、笑っていられる。
窓の外、藍色に染まった空に、星がもう一つ増えていた。
その光を見つめながら、凪は静かに、目を閉じた。
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