『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
「……知らない天井だ」
声に出してから、その言葉がやけにリアルに響いた。
薄いクリーム色の天井。小さなシミがひとつ。どこにでもありそうで、確実に——"俺のものじゃない"景色だった。
体を起こすと、シーツがわずかに擦れる音がした。静かすぎる部屋の中で、その音だけが妙に生々しかった。
——夢じゃない。
白い空間での出来事も、神を名乗るあの老人も、スロットマシンの間抜けな音も。全部、はっきりと記憶に残っている。
ゆっくりと周囲を見渡す。
六畳ほどの部屋。簡素な勉強机と、背の低いタンス。カーテンは薄いベージュ色で、窓から差し込む光をやわらかく拡散させている。生活感はあるのに、どこか"用意された"ような整い方をしていた。人が暮らした跡があるのに、人の気配がない。その矛盾が、じんわりと違和感として残る。
視線を動かしていると、机の上に一枚の紙が置かれているのが目に入った。
表には、達筆すぎる文字で——
【神より】
「……嫌な予感しかしないな」
誰もいないことを確かめてから、紙を手に取る。指先に伝わる感触が妙にリアルで、これが現実なのだと嫌でも理解させられた。
中身を読み進めるうちに、自然とため息が漏れる。
「……中学生、ね」
視線が低い理由に、ようやく納得した。
鏡はないが、感覚でわかる。体が軽い。重心が違う。声も少し高い。前の世界で積み上げてきた時間が、あっさり巻き戻されていた。
勉強漬けだったあの頃に戻ると思うと、億劫さがないとは言えない。夢も楽しみも見えないまま、ただ"枠"の中を歩いていた日々。またあの空気を吸うのかと思うと、胸が少しだけ重くなる。
同時に、どこかで納得している自分もいた。
——やり直しには、このくらいの年齢がちょうどいいのかもしれない。
ページをめくると、能力の説明が並んでいた。
読み進めながら、ふっと小さく息を吐く。
「……思ったより、ちゃんとしてるな」
あの老人の軽さからは想像できないほど、内容はわかりやすく実用的だった。音痴以外は。
回復術士——簡単に言えば、"肩代わり"だ。相手の傷や病気、ストレスといった"つらさ"を自分へ移すことができる。傷そのものが移るわけじゃない。あくまで「苦しさ」が移る。その分、使い方を間違えれば自分が壊れる。注意書きには、度合いによっては回復に年単位かかる場合もある、とあった。
——使い時を、見誤らないようにしないとな。
紙を机に戻して、部屋を出る。
廊下は短く、すぐにリビングへと繋がっていた。一LDKの小さな部屋だが、生活に必要なものは一通り揃っている。冷蔵庫を開けると、食材がしっかり詰まっていた。棚には日用品。テーブルの上には地図と制服。
「……用意周到すぎるだろ」
通帳の数字を見て、思わず苦笑する。
「神様、妙なところで現実的だな」
独り言が、静かな部屋に溶けていく。
ひと通り確認を終えたところで、胸の奥がざわついた。
理由はわかっている。
——この世界を、早く見たい。
抑えきれなくなった衝動に従って、玄関のドアを開けた。
外の空気が、鼻の奥にすっと入ってくる。
ひんやりとして、どこかに夕方の匂いが混じっていた。土の匂いとも、風の匂いとも違う。街の匂い、とでも言えばいいのか。前の世界と何も変わらないはずなのに、それがなぜか少しだけ新鮮だった。
深呼吸を一つ。
傾き始めた太陽が、街をオレンジ色に染めていた。
アスファルトに光が反射している。電線が空を横切って、その影が地面に細く落ちている。自転車が一台、音もなく通り過ぎていく。
見慣れないはずの景色なのに、不思議と違和感はない。それでも一歩踏み出すたびに、実感がじわじわと押し寄せてくる。
——ここは、"あの世界"なのだ。
しばらく街中を歩いた。
路地を抜けると、小さな公園が現れた。ブランコが、きい、と小さく軋む。誰も乗っていないのに、風だけで揺れていた。その音が、静かな夕方にやけにはっきり聞こえた。
ベンチに腰を下ろして、空を見上げる。
——ここが、プロセカの世界。
実感はまだ薄い。胸の奥だけが、妙に騒がしかった。
通り過ぎていく人たちを、なんとなく目で追う。整いすぎた顔立ち。自然に洗練された雰囲気。どこを見ても"出来すぎている"。ゲームの画面越しに見ていたはずの景色が、今は空気を持って、音を持って、匂いを持って、そこにある。
「……すごいな」
思わず漏れた声は、風に紛れて消えた。
そのまま、なんとなく口ずさむ。この世界に来る前、何度も繰り返し聴いた曲。プロセカの楽曲。気づけば、少しだけ声に出していた。
「~~♩~~♬♪」
……。
…………。
——ひどいな、これ。
自分でわかる。音程が迷子だ。迷子どころか、完全に遭難している。どこへ向かっているのかすら怪しい。
苦笑して、歌うのをやめた。
そのときだった。
「……ねえ」
後ろから、声が落ちてきた。
やわらかいのに、妙に耳に残る声だった。
振り向くと、逆光の中に、ひとり立っていた。
夕日を背負って、輪郭だけが浮かび上がる。細い肩。風にほどけるスカートの裾。さらりと揺れる髪。
一歩、近づいてくる。
光がずれて、少しずつ顔が見えてくる。
——ピンク色。
柔らかくカールした髪が、夕焼けの色に溶けていた。橙の光の中で、その色だけが少しだけ違う温度を持って見えた。
心臓が、一拍分だけ速くなる。
「今の」
その子は、首をかしげる。
「わざと?」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「音」
あっさりと言われる。
「全部、外してたけど」
——ぐさっ。
思った以上に深く刺さった。
「いや、その……」
言い訳を探すが、見つからない。事実だから仕方ない。
沈黙が落ちる。ブランコの音だけが、きい、と鳴った。
「でもさ」
後ろで手を組んで、くるりとこちらの前に回り込んでくる。不意に、その子は少しだけ笑った。ほんのわずかに、口元がゆるむ。
「なんか、ちょっと良かったな」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出る。今、なんて?
「上手くはないよ?」
「それは知ってる」
「でも」
その子は、まっすぐこっちを見る。試すような、どこか楽しそうな視線。
「ちゃんと"気持ち"はあった」
夕日の光が、その瞳に反射していた。
一瞬だけ、言葉を失った。
——その言い方は、ずるい。
下手だと否定しておいて、全部は否定しない。逃げ道を残してくる。そういう言葉の置き方が、妙に上手かった。
「……変わってるな」
「よく言われる」
くすっと笑う。その仕草が、妙に自然で。やけに"完成されていた"。
「それで?」
その子は、少しだけ距離を詰める。
「きみ、ここで何してたの?」
「……現実逃避」
「正直だね」
「そっちは?」
「たまたま通りかかっただけ」
軽い口調。その視線はどこかこちらを観察しているようだった。品定め、というわけじゃない。もっと静かな、純粋な好奇心みたいなもの。
そのとき。
(……あれ?)
ふと、違和感が走る。
目の前の子に、ほんのわずかな"ズレ"を感じた。
笑っている。自然だ。その奥に——ほんの少しだけ"ひび"みたいなものが見えた気がした。ガラスの表面に走る、細い亀裂。気のせいかもしれない。一度気づいてしまうと、目が離せなくなった。
「どうしたの?」
覗き込まれる。
「さっきから、ちょっと変だよ?」
「……いや」
軽く首を振る。今は、まだいい。
「今日からこの辺に来たばっかりでさ」
話題を変えるように言う。
「転校してきた」
「へえ」
その子は興味深そうに目を細めた。一歩、近づいてくる。距離が、思っていたよりも近い。ふわっと、甘い香りがした。
「ボクは——」
にこり、と笑う。
その笑顔は、画面越しで何度も見たものと同じで。比べ物にならないくらい"リアル"だった。温度があって、息があって、そこに確かに存在している。
「暁山瑞希。よろしくね」
心臓が、一拍遅れて跳ねる。
——やっぱりだ。
(マジで、いるんだな……)
思わず、笑いそうになるのをこらえる。ゲームの中の存在だったはずの人が、目の前で呼吸して、喋っている。その事実が、じわじわと胸の奥へ染みていく。
少しだけ息を吸って。
俺は、答えた。
「……ああ、よろしく」
この出会いが、どこへ繋がるのかはまだわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
——物語は、もう始まっている