『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
廊下は静かだった。さっきまでの笑い声が、扉一枚隔てただけで遠くなる。
少し歩く。そして、病棟の端。自販機が置かれているだけの、小さな休憩スペースの前で。
咲希を見つけた。背中を向けている。肩が、小さく震えていた。
声は出していない。でも、泣いているのは、すぐ分かった。俺は何も言わず、少しだけ離れた場所へ座る。すぐ隣には行かなかった。咲希は、心配をかけるのが苦手だ。無理に踏み込まれると、たぶんまた笑ってしまう。
だから。しばらく、何も言わなかった。
自販機のモーター音だけが、ぶうん、と低く静かに響いている。遠くで、ナースコールの音が鳴った。窓の外、夕焼けが少しずつ濃くなっていく。オレンジから、深い赤へ。その色が、白い廊下の床にまで長く伸びていた。
やがて。
「……ごめんね」
咲希が、こちらを向いて小さく言った。
「なんか、変なとこ見せちゃったね」
「別に変じゃないだろ」
静かに返す。咲希は、小さく鼻をすすった。隣の自販機の隙間から、缶が落ちる小さな音がどこか遠くで聞こえた。
「……あの子の気持ち、すごいよく分かるんだ」
ぽつり。
「怖いよね」
言葉が、ゆっくり落ちる。
「大丈夫って言われても。周りの顔見たら、ほんとは違うんじゃないかって思っちゃうの」
細い指が、自分の腕をぎゅっと掴む。
「昨日まで出来たことが、出来なくなっていくのも。みんなは普通に進んでるのに、自分だけ止まってる感じも」
そこで、少しだけ声が揺れた。
「……分かるんだ」
咲希は、ずっと笑っていた。修学旅行へ行けないって泣いた日も。イベントをやろうって決めた日も。みんなの前では、ちゃんと前を向いていた。
でも。まだ中学生なのだ。本当は怖くないわけがない。身体が悪くなっていく感覚も。先が見えないことも。"また置いていかれるかもしれない"って不安も。全部。まだ、咲希の中から消えていない。
「私ね」
咲希が、震える声で笑った。
「最近、すごく楽しかったの」
その言葉が、やけに痛かった。
「みんなで準備して。笑って。バカみたいな話して。ドラゴンがどうとか盛り上がって」
少しだけ笑う。でも、その笑い声は弱い。
「楽しくて。幸せで。だから余計に怖くなっちゃった」
夕焼けが、咲希の横顔を赤く染めていた。窓の桟の影が、その頬に細く落ちている。
「もしまた、急に悪くなったらどうしようって。もし、イベントの日に出られなかったらって。もし、またみんなと同じ時間を過ごせなくなったらって」
そこで。咲希は、ぎゅっと目を閉じた。
「……怖いんだ」
その声は、か細かった。たぶん。今まで誰にも、ちゃんと言えなかった言葉だ。
俺は、すぐには返事をしなかった。ただ、静かに立ち上がって。咲希の隣へ座る。それだけだった。
肩が少し触れる。咲希は、驚いたみたいにこちらを見た。でも、何も言わなかった。その代わり、少しだけ身体の力を抜いた。
しばらく、二人とも何も話さなかった。病院の廊下は静かで、遠くから微かにプレイルームの笑い声だけが聞こえてくる。
さっきまで、あんなに賑やかな場所にいたはずなのに。
咲希は俯いたまま、自分の袖をぎゅっと握っている。泣き止もうとしているのが分かった。上手く呼吸が整わないのか、時々小さく肩が揺れる。
まだ子どもなのだ。明るくて。元気で。周りを笑顔にするのが上手くて。でも、本当は……不安がなくなるわけじゃない。
「……咲希」
名前を呼ぶ。咲希が少しだけこちらを見る。涙で滲んだ目だった。でも、ちゃんとこっちを見てくれた。
「怖いの、当たり前だろ」
静かに言う。
「だって、咲希はずっと頑張ってきたんだから」
その言葉に、咲希の睫毛が小さく震える。
「頑張ってるやつほど、怖いんだよ。失いたくないって思うから」
咲希は、何も言わない。ただ、じっと聞いている。
「でもさ」
少しだけ笑う。
「咲希は、ちゃんと今を掴めてるじゃん」
病棟の方を見る。あっちには、今もみんながいる。歌声。笑い声。ドラゴンがどうとか騒いでる子どもたち。変な流れ星装置を作ってる類。たぶん今頃、瑞希は誰かへリボンを乗せて「かわいい~!」って騒いでる。凪さんは笑いながらギターを弾いているだろう。
その全部の真ん中に、咲希がいた。
「みんな、咲希と一緒だから笑ってる。咲希がいたから、あの空気になった」
その言葉に、咲希が小さく首を横へ振る。
「そんなこと……」
「ある」
今度は即答した。
「少なくとも、俺はそう思ってる」
咲希が少しだけ目を見開く。
咲希は、自分が"誰かを支えてる側"だって、まだあまり自覚していないのだ。ずっと、"置いていかれる側"だと思っていたから。
「それに」
少しだけ肩を竦める。
「大切なものが増える分怖くなる時もあるけど、咲希が言っていたじゃん。"楽しかった思い出"って、背中を押してくれるって。誰かの希望にも絶対なるんだよ。今、咲希はすごいことをしているんだよ。これからもやっていこう」
咲希の瞳が揺れる。
「イベントの日だけじゃなくてさ。くだらないことで笑って。みんなで騒いで。またドラゴンで揉めて」
「絶対揉めるんだ……」
咲希が、小さく吹き出す。その笑い方が、少しだけいつもの咲希に戻っていて、安心する。
「そういうの、これからもいっぱい作ればいい。咲希が笑ってた今日みたいに」
夕焼けが、静かに色を濃くしていく。窓から差し込む赤い光が、咲希の涙の跡を柔らかく照らしていた。
咲希はしばらく黙っていた。何かを飲み込むみたいに。胸の奥へ落とし込むみたいに。
それから。
「……君はさ」
ぽつりと呟く。
「なんでそんな、私が欲しい言葉ばっか言えるんだろう。キラキラ輝いてて、本当にお兄ちゃんみたいだよ」
「俺からすれば咲希の方がキラキラしてるけどね」
「そんなことないよ。君は私の太陽みたい。同い年なのに……」
少しだけ頬を膨らませる。その顔が、いつもの咲希っぽくて、思わず笑ってしまった。
「でも」
咲希が、小さく息を吐く。それから、ゆっくり空を見上げた。窓の外は、夕焼けから夜へ変わり始めている。橙の中に、薄い藍色が少しずつ混ざっていく。
「……イベント、絶対成功させたい」
その声には、ちゃんと力が戻っていた。
「みんなで笑いたい。今日、不安そうだったあの子も。病室にいる子たちも。先生たちも」
そこで、少しだけ笑う。
「もちろん、君も」
その言葉が、不思議なくらいまっすぐ胸へ入ってくる。咲希は、目元をぐしぐし擦ってから立ち上がった。
「よしっ!」
ぱんっと自分の頬を叩く。
「戻ろ! 泣き顔見られたら、みんな心配しちゃうし!」
「もう結構赤いけどな」
「うわぁぁぁ!! 言わないでよ!!」
慌てて髪を整え始める。その姿が、なんだか少しだけ愛おしかった。
そして。そんな咲希を見ながら思う。この子は強い。だけど誰かの小さな痛みにも大きな痛みにも敏感に気づいてしまうくらい、優しいから。時折弱ってしまう。
だからこそ——誰かを笑顔にできるのだろう。
プレイルームへ戻る途中。咲希は何度も、「目赤くない!?」「ほんとに泣いたって分からない!?」と騒いでいた。
「大丈夫だって」
「絶対うそ!」
「そんな大泣きしてないだろ」
「したもん!」
言った瞬間、自分で「あっ」と口を押さえる。その反応があまりにも咲希らしくて、思わず吹き出しそうになる。
「もー!」
咲希が恥ずかしそうに肩をぶつけてきた。
「今のなし!」
「無理あるだろ」
「無理でもなしなの!」
さっきまで泣いていたとは思えないくらい、もう声はいつもの調子に戻っていた。
完全に大丈夫になったわけじゃない。不安も。怖さも。きっと、まだ咲希の中にある。それでも。この子はまた前を向こうとしている。笑おうとしている。誰かの背中を押したいと思っている。
それが、やはり天馬咲希という人間なのだと思った。
プレイルームの扉へ近づく。中からは、相変わらず騒がしい声が聞こえていた。
「だからここで流れ星を回転させるんだよ!」
「えええええ!!」
「類くんすげーー!!」
「ふふ、もっと褒めてもいいんだよ?」
「調子のんなー!」
いつものカオスだった。咲希が、小さく笑う。
「……なんかさ」
ぽつりと呟く。
「最近、この病院前よりもちょっと明るくなった気がする」
その言葉に、俺は少しだけ目を細める。
実際、そうなのだ。病気が治ったわけじゃない。みんなの検査結果が急によくなったわけでもない。けれど、病棟の空気が少し変わった。看護師さんたちも時々話している。
『最近みんな、前よりレクの時間まで頑張ろうって言うんですよ』
『夜も少し表情明るい子増えましたよね』
って。イベントそのものじゃない。"楽しみが待っている"ことが、みんなの背中を押しているのだ。文化祭前とか。遠足前とか。ああいう、"未来を待つ力"。今、この病院にはそれがあった。
扉を開ける。
「あっ!」
一番最初にこちらへ気づいたのは、さっきの女の子——のぞみちゃんだった。
小学校高学年くらいの女の子。少し前まで不安そうな顔をしていたその子は、今は瑞希に髪をいじられていた。
「咲希お姉ちゃん!」
ぱっと顔が明るくなる。
「見て!」
のぞみちゃんが、少し照れながらスマホの画面を見せてくる。そこには、笑顔の咲希の写真が映っていた。
「……これ?」
「うん!」
のぞみちゃんが大きく頷く。
「私ね、イベントの日これやりたいの!」
「これ?」
「咲希お姉ちゃんと同じ髪型!」
一瞬。咲希の表情が止まった。周りの空気が、少しだけ静かになる。瑞希が、ふっと優しく目を細めた。
「なるほどねぇ」
のぞみちゃんの髪へそっと触れる。咲希のツインテールと同じ高さに髪をもっていく。
「絶対似合う」
「ほんと!?」
瑞希の声に満面の笑みを浮かべる。
「うん。めちゃくちゃかわいくなるよ」
その言葉に、のぞみちゃんの顔がさらに明るくなった。
「手術終わったら、髪もちゃんと整えてもらうんだ」
嬉しそうに笑う。
「それでイベント出るの!」
その笑顔が。その"未来の話"が、咲希の胸へ、真っ直ぐ届いてしまった。
自分の姿が誰かの"頑張る理由"になっている。
その事実が、たぶん。嬉しくて。苦しくて。あたたかくて。いろんな感情を、一気に連れてきた。
「……っ」
咲希が慌てて顔を斜め上に逸らす。でも、間に合わなかった。さっきまで止まっていたのに、ぽろっと涙が零れる。
「あっ!」
周りで見ていた子たちが目を丸くする。そして元気な男の子が言った。
「咲希お姉ちゃんが泣いた!」
一瞬静まって。次の瞬間。
「ほんとだー!!」
「泣いてるー!」
「えぇぇぇ!? ち、違っ……!」
子どもたちが一斉に騒ぎ始める。咲希が真っ赤になる。
「ちがうの! これは、その……!」
「感動したんだねぇ」
瑞希が、完全に面白がっている顔で追撃した。
「かわいい~」
「みずきちゃぁぁん!!」
咲希が半泣きで抗議する。その空気は、すごくあたたかかった。みんな、嬉しそうだった。
「……えへへ」
のぞみちゃんが、小さく笑う。
「私、咲希お姉ちゃんみたいになりたい」
その言葉に。咲希は、また少しだけ泣きそうな顔をした。でも今度は、ちゃんと笑った。
「……うん」
涙を拭きながら頷く。
「じゃあ、イベントの日、一緒に最高にかわいくなろうね」
「うん!!」
大きな返事が返ってくる。
その声を聞きながら。
ふと、思った。
まだイベントは、始まっていない。飾り付けも、半分しか終わっていない。歌だって、まだまともに合わせられていない。流れ星の機構も、試作品のままだ。
なのに。
もう、誰かの背中を、確かに押し始めている。
のぞみちゃんの目に映っていたのは、ただの"楽しいイベント"じゃなかった。手術を終えた自分が、ちゃんと笑って、ちゃんと前を向いて、もう一度ここに立つ未来——その景色を、咲希という存在が、先に見せてくれていたのだ。
咲希は、自分が誰かに与えられることばかり数えて生きてきた。
でも、本当はずっと、与える側でもあったのだ。
誰かの"頑張りたい理由"に。
誰かの"怖くても前を向ける理由"に。
そのことに、咲希自身がようやく気づき始めている。
窓の外、夕焼けはもう完全に夜へ溶けていた。プレイルームの蛍光灯の光が、そのぶん余計に温かく見える。
子どもたちの笑い声。
類の自慢げな声。
瑞希の「もっと褒めてもいいんだよ?」という得意げな声。
凪さんのギターが、誰かのリクエストでもう一度鳴る。
その全部の真ん中で、咲希が笑っていた。
まだ泣いた跡の残る目で。
それでも、誰よりも眩しく。
——咲希が作ろうとしている"思い出"は。
まだ、誰にも壊せないくらい、確かなものになっていく。
この先、何が起きるか分からない。体調が悪くなる日も来るかもしれない。不安な夜も、まだ何度もあるだろう。
それでも。
今、ここにある景色は、本物だった。
誰かが用意したものじゃない。
咲希自身が、自分の手で、ちゃんと掴み取った景色だった。
読んでいただきありがとうございます!
何とか土日に頑張っています。皆様の応援のおかげです。読んでいただいているだけでも、とても嬉しいです。
お気に入り、感想ありがとうございます!!嬉しいです!
咲希編終わって、後少ししたら高校編になります。