『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
のぞみちゃんが手術をする前日の夜。
病棟は、いつもより静かに感じる。
消灯前の薄暗い廊下には、昼間の賑やかさの残響だけが淡く残っていて、窓の外では遠い街の灯りが、小さな星みたいに瞬いている。その光を横目に見ながら、俺と咲希は並んで歩いていた。
少し前を歩くのは、院長先生——くまちゃん先生。いつもより大きな背中だった。普段は子どもたちに「くまちゃーん!」と抱きつかれて、そのまま押し倒されそうになっているような人なのに、今夜の白衣姿はどこか違う。静かな廊下を進む背中には、不思議なくらい安心感があった。
やがて、一つの病室の前で足が止まる。
ネームプレートには、“夕日 のぞみ”と書かれていた。
その文字を見た瞬間。
隣で、咲希が小さく息を吸う気配がした。
緊張をのぞみちゃんに伝えないように、気持ちを切り替えたのだと分かる。たぶん、それは俺も同じだった。手術をするなんて怖いだろう。その不安な気持ちを少しでも和らげられたら僥倖だろう。
くまちゃん先生が、静かに扉を開ける。
「失礼するよ」
病室の中は、淡いオレンジ色の灯りだけがうっすらと点いていた。
夜の病室特有の静けさ。
少し乾いた空気。
奥にあるベッドの上に、のぞみちゃんはいた。パジャマ姿で、布団を胸元まで引き上げている。
「あっ」
こちらへ気づいた瞬間。
「咲希お姉ちゃん!」
その顔が、ぱっと明るくなる。そのまっすぐな笑顔に安心と同時に胸が熱くなる。不安を感じていないはずはないのに、なんて健気なんだろう。
「こんばんは! のぞみちゃん!」
咲希ものぞみちゃんに負けないぐらいの笑顔で、できるだけいつも通りの声で返事を返す。
「どうだい体調は?今日は、眠れそうかな?」
「……ちょうど今、元気になりました。でも、寝れるかは……んーー、ちょっとわからないです」
のぞみちゃんが苦笑する。その答えが妙にリアルで、胸の奥へ静かに落ちた。
無理に“平気”と言わない。でも、不安に飲まれないように頑張っている。そんな声だった。
そういった後、のぞみちゃんは姿勢を正して、改まってお辞儀をする。
「3人とも、今日は会いに来てくれて、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。
小学生とは思えないほど丁寧だった。きっと、同じ年齢の子よりも、少しだけ早く大人にならなければいけなかったのだろう。
病院という場所で、病気と向き合いながら。たくさんの不安や痛みを経験してきた。だからこそ、こういう時の言葉遣いや気遣いが、自然と身についているのかもしれない。
その姿が少しだけ切なくて。でも、どこか誇らしくも見えた。
「そんなにかしこまらなくていいよー」
咲希が苦笑する。
「私たちものぞみちゃんと楽しくお話ししたかったんだよ!こちらこそありがとう!」
「でも、ちゃんと言いたかったから」
のぞみちゃんは少し照れたように笑った。その笑顔は、どこか大人びて見えた。
ふと視線を動かす。ベッドの横の机には、色とりどりの紙が並んでいた。折り紙の輪飾り。色ペンで描かれたイラスト。来週のイベントで使う飾りたちだ。まだ途中らしく、テープやハサミもそのまま置かれている。
この様子を見ると、今日も頑張って作っていたのだろう。
その一つを手に取る。少し歪んでいる。だけど、不思議と温かかった。
この飾りも、来週の今頃には、みんなの笑顔の中にあるのだろう。
「イベントまで、あと一週間だね」
咲希が柔らかく言った。
すると。
のぞみちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。
「うん」
その返事には、明日、手術を受ける子とは思えないくらいの希望が詰まっていた。
のぞみちゃんが頷く。
「絶対行くからね!咲希お姉ちゃん!」
その声には、ちゃんと力があった。
「だって、咲希お姉ちゃんと、同じ髪型する約束したし」
そう言って、のぞみちゃんは両手を頭の横へ持っていく。ぴょこん、と髪を結ぶ真似。まだ咲希と比べると短い髪を無理やり引っ張りながら。
「こんな感じ!」
ぎこちないツインテール。全然結べていない。でも本人は得意げだった。
その姿が可愛くて、咲希は思わず吹き出した。
「絶対やるからね」
「うん」
咲希が頷く。
「絶対似合うよ」
「ほんと?」
「ほんと」
のぞみちゃんが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、咲希は一瞬だけ言葉を止めた。
ほんの少し。
本当にほんの少しだけ。
だけど、俺はその横顔を知っていた。
検査の前。
結果を待つ時。
手術室へ向かう誰かを見送る時。
咲希が時々見せる顔。それはすぐに消える。太陽みたいな笑顔で隠してしまうから。
「イベントの日」
咲希が言う。
まるで自分自身へ言い聞かせるみたいに。
「絶対かわいくなろうね」
「うん!」
のぞみちゃんが大きく頷いた。
まるで、“その日が来る”ことを信じるように。
その顔を見ていると、胸の奥が静かに痛くなった。
怖くないわけがない。
まだ小学生だ。
明日、自分が手術を受ける意味だって、きっとちゃんと分かっている。
それでも、こうして未来の話をしている。
イベントの日の話をしている。
だから
――――願わずにはいられなかった。俺は、ゆっくりとのぞみちゃんへ近づく。
「……のぞみちゃん」
「ん?」
小さな目が、まっすぐこちらを見る。
俺は、そっと右手を差し出した。
「がんばってね」
一瞬、よくわかっていなくキョトンとした顔をするが、握手を求められていることに気付いて笑顔になる。
「うん」
小さな手が、俺の手を握る。
細い。
少し冷たい。
まだ子どもの手だった。
その瞬間。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
だけど、凪さんの時みたいに、何かが起きるわけじゃない。
そんな都合よく奇跡なんて起きない。
分かっている。
きっと、これは無意味だ。
それでも。
願うことだけは、やめられなかった。
どうか。
悪いものが、少しでも消えますように。
のぞみちゃんが、また笑えますように。
そんな祈りみたいな願いだけが、静かに胸の奥へ広がっていく。その後は、4人で思い出話やイベントでの楽しみなことを笑いながら話した。
「じゃあ、またね!」
咲希が手を振る。
「明日、終わったらいっぱい褒めるから!」
「えへへ」
のぞみちゃんが、照れたみたいに笑う。
「がんばる」
その言葉を最後に。
俺たちは病室を後にした。
静かに扉が閉まる。
廊下へ出ると、少しだけ空気が冷たかった。
咲希は何も言わない。しかし横顔は、少し強張って見えた。
すると、前を歩いていた院長先生が、ゆっくり振り返る。
「……大丈夫」
穏やかな声だった。そこには医者としての覚悟が、ちゃんと宿っている気がした。。
「明日は、私たちが全力で頑張るよ」
その言葉は、不思議なくらい真っ直ぐだった。
何度も不安な夜を見てきた人の声だった。
咲希が、小さく頭を下げる。
「……お願いします」
院長先生は、優しく頷く。
白い廊下の灯りの中で。
その背中は、今夜やけに大きく見えた。
次の日の午後。
今日の午後からのぞみちゃんの手術がはじまる。咲希は連日の頑張りと心労からか体調を崩してしまったようだ。看護師さんが朝そう伝えてくれた。
プレイルームの扉を開けた瞬間。いつもなら真っ先に聞こえてくる声が、今日はなかった。
『はいそこー! 暴れないの!』
『もー! なんでドラゴン増えてるの!?』
『みんなちゃんと座るー!』
場の真ん中で転がるみたいな明るい声。太陽みたいに、自然とみんなを笑わせる声。それがないだけで、同じプレイルームなのに、少しだけ静かに感じる。
もちろん、準備自体は進んでいた。
輪飾りを繋げている子。
折り紙を折っている子。
類が作っている機械を「すげぇ……」と遠巻きに眺めている子。
凪さんのギターに合わせて、小さい子たちが歌っている。
賑やかだ。ちゃんと楽しい雰囲気はある。
でもどこか、一色足りない。そんな感じだった。
「あれ?」
一人の男の子が、辺りを見回す。
「咲希お姉ちゃんは?」
その声で、何人かの子どもたちが顔を上げた。
「ほんとだ」
「今日いないの?」
「どこ行ったの?」
少しだけ言葉に詰まる。別に隠すことじゃない。
でも、“今日は来られない”という事実を口にすると、本当に咲希がここにいないのだと改めて実感してしまう感じでなんとなく嫌だった。俺の中で、この場に咲希がいることが不通になっていたのだ。
「今日は休みだよ」
なるべく軽く言う。
「ちょっと体調がよくないんだって」
その瞬間。
空気が、少しだけ静かになった。
「熱!?」
「大丈夫なの!?」
「無理しすぎなんだよ~!」
口々に飛んでくる声。
本当に、みんな咲希のことが好きなのだ。
「ちゃんと休んでるから大丈夫だよ。明日には復活すって言ってた。みんなパワー送ってあげてな」
少しの嘘を交えて、冗談交じりのセリフを言い、安心させるように言う。
「……咲希お姉ちゃんってさ」
折り紙を折っていた女の子が、ぽつりと呟いた。その声に、自然とみんなの手が止まる。
「いつも笑ってるよね」
「うん」
「めっちゃ元気」
「あと声でかい」
「たまにうるさい」
「それはそう」
小さな笑いが広がる。
その女の子は、少しだけ俯いたまま続けた。
「でもね」
折り紙を、ぎゅっと握る。
「検査の時とか」
「注射の時とか」
「時々、すっごくつらそうな顔してるの」
プレイルームが静かになる。
「この前ね」
女の子は、小さな声で言った。
「廊下で一人の時、ちょっと泣きそうになってた」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
みんな。知っていたのだ。咲希とも長い付き合いなのだろう。当然といえば当然だった。
咲希が、ただ明るいだけじゃないことを。
笑顔の裏で、ちゃんと苦しんでいることを。
それでも、自分たちの前では笑おうとしていることを。
女の子が、少しだけ笑う。
「私たちの前だと、“だいじょーぶ!”って笑うの」
その咲希の真似が妙に似ていて、少しだけ空気が和らぐ。
「……優しいんだよね」
ぽつりと零れる。
「咲希お姉ちゃん」
「うん」
今度は、男の子が頷く。
「ぼく……咲希おねえちゃん好き!」
「いっぱい話聞いてくれるし!」
「ゲーム弱いけど!」
「それは言わなくていいだろ」
咲希の話題はみんなが声を出せる。一人一人に関わりやエピソードがあるのが伝わってくる。
別の女の子が、ふと顔を上げる。
「ねえ、咲希お姉ちゃん……今さみしいかな」
その一言が、プレイルームの中を波紋のように広がっていく。
病室で、一人休んでいる咲希。
いつもみたいに、ここで笑えていない咲希。
その姿を想像した瞬間。
みんなの表情が、少しだけ沈む。
そして―――
「じゃあさ!」
いつも元気な男の子が、ぱっと立ち上がった。
「咲希お姉ちゃん元気になるやつ作ろうよ!」
「元気になるやつ?」
「うん!」
少し考えてから、大きな声で言う。
「星!!」
一瞬、静かになる。
次の瞬間。
「あっ、いいじゃん!」
「いっぱい作ろ!」
「病室の前につけようよ!」
「夜になったら絶対きれい!!」
一気に空気が動き始めた。折り紙を集める子。テープを探す子。
「金色ほしい!」
「青も!」
その騒がしさを眺めながら。
ふと、胸の奥がざわつく。
咲希の体調や、のぞみちゃんの手術。今までがうまくいきすぎていただけで、油断はできない。
「……ねえ!」
急に袖を引っ張られる。
先ほど中心にいた女の子がいた。
「お兄ちゃんも折って!」
「あ、ああ」
女の子の笑顔に、暗い雰囲気を慌てて振り払い、少し遅れて返事をする。
「どうしたの?」
凪さんが、小さくこちらを見る。
「いや……」
上手く返事を返せない俺を見て、凪さんは少しだけ目を細めると、静かに言った。
「———大丈夫だよ」
その声は、自分へ言い聞かせるみたいでもあった。
俺は、小さく頷く。
そして。
子どもたちと一緒に、折り紙を手に取った。
作り慣れていない周りの星よりも不格好な星が、一つ増えた。
今日は咲希はいないのに、みんなの中心には咲希がいた。
まだイベントは始まっていない。
でも、咲希が作ろうとしていた“思い出”は、もうここに生まれているのだ。
夜。
病室の時計は、もう消灯時間を過ぎていた。
ベッドの隣にある棚から体温計をとり、測ってみると昼間より熱は少し下がった。
でも、身体はまだ重い。
ベッドへ身体を預けながら、天馬咲希はぼんやり天井を見上げていた。
今日の午後から始まったであろう、のぞみちゃんの手術。
長い手術になると聞いていた。
だから、待っていた。
終わったら。きっと、くまちゃん先生が来てくれる。
『無事終わったよ』
そう笑って言いに来てくれる。
そう思っていた。
だけど、まだ、来ない。
廊下の足音が聞こえるたび、少しだけ身体が強張る。違ったと分かるたびに、安堵なのか落胆なのか力が抜ける。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
小さく呟く。自分へ言い聞かせるみたいに。でもその声は少しだけ弱かった。
胸の奥が、ずっと落ち着かない。布団を握る指へ、自然と力が入る。
昨日、のぞみちゃんは笑っていた。
『イベント行くからね』
そう言っていた。咲希と同じ髪型にするんだって、嬉しそうに笑っていた。
だからこそ。
怖かった。
病気は時々、そういう未来を、簡単に壊してしまう。
約束した明日を。
楽しみにしていた時間を。
当たり前みたいに奪っていく。
咲希は、それを知っている。
だから。
待つことが怖い。
結果を聞くまでの時間が、苦しい。
もう咲希は限界だった。じっとしていられなかった。咲希は、ゆっくりとベッドから足を下ろす。
少しふらつく身体を支えながら、静かに病室の扉へ向かった。
廊下へ出る。
夜の病棟は静かだった。昼間の賑やかさが嘘みたいに、白い廊下だけがどこまでも続いている……はずだった。
自分の病室の前へ視線を向けた瞬間。
「……え」
思わず、足が止まる。天井から。
たくさんの星が吊るされていた。
折り紙の星だった。
小さな星。
大きな星。
金色。
青色。
銀色。
淡い黄色。子どもたちが選んだのだろう、少しちぐはぐな色たちが、夜の白い廊下へ優しく浮かんでいる。それは、咲希にとってただの飾りなんかじゃなかった。
廊下そのものが、夜空へ変わっていた。
空調の風に揺れるたび、星たちが小さく踊る。
天井の灯りを受けて、折り紙の角がきらりと光る。
少し歪な形。
折り目がズレているもの。
角が潰れているもの。
テープが曲がって貼られているもの。
きっと、小さな子たちが何度も折り直して、一生懸命作った星。
一つ一つが不器用で。
一つ一つが愛しかった。
そして、その全部に、“自分のことを笑顔にしたい”という気持ちが詰まっていることが感じられた。
咲希は、しばらく動けなかった。胸の奥が、だんだんとじんわり熱くなる。
視界が、少しだけ滲む。
そっと、一つの星へ触れる。
紙の感触が、指先へ柔らかく伝わった。揺れる星たちの隙間に、小さな紙が見える。
『咲希、おねえちゃん大好き』
丸っこい文字。
その瞬間。
咲希は、思わず笑ってしまった。
「ふふ……」
でも。
笑った途端、涙が頬を伝った。
―――怖かった。
のぞみちゃんのことも。
自分のことも。
また、大切な未来が消えてしまうんじゃないかって。ずっと怖かったのだ。
こんなふうに誰かが、自分を想ってくれている。
笑ってほしいって。
元気になってほしいって。
そう願ってくれている。
その温かさが、冷え切っていた胸の奥へ、ゆっくり灯りをともしていく。
まるで。
本当に自分の体が星空の中へ立っているみたいな感覚だった。
昔。
幼馴染と見上げた夜空を、ふと思い出す。
みんなで並んで見た星。
笑いながら話した時間。
遠いと思っていた景色が。
今、ここへ繋がっている気がした。
「……ありがとう」
ぽつりと零れる。
それから。
咲希は、ゆっくり顔を上げた。
揺れる星たちを見つめながら、小さく息を吸う。
「……のぞみちゃん」
静かな廊下へ声が溶ける。
「大丈夫だよ」
願うようにに。
祈るように。
「大丈夫」
もう一度呟く。
「きっと、大丈夫」
そうして。
咲希は、静かに廊下を歩き出した。揺れる星たちの下を、一歩ずつ。
満天の星空の中を歩いていく。
◇
手術室前の廊下は、ひどく静かだった。
白い壁。
閉ざされた扉。
無機質なランプの光。
時間だけが、やけに遅く流れている気がする。
少し離れた椅子には、のぞみちゃんの両親が座っていた。お母さんは、ぎゅっと両手を握り締めている。お父さんは俯いたまま、何度も時計を見ていた。
俺は、その少し離れたベンチへ座っていた。
白い手術室のランプを見つめながら。
ただ、祈ることしかできなかった。
何もできない自分が、ひどく無力に思えた。
その時だった。
隣へ、誰かが静かに座る気配がした。
横を見る。
「……咲希」
そこにいたのは、咲希だった。
少し青い顔。いつもは結んである髪が、今日は下ろされている。
病衣姿。
でも、その目だけはまっすぐ手術室を見ていた。目の周りが赤い。またこの子は誰もいないところで泣いていたのだろう。
「起きてて大丈夫なのか」
「……じっとしてられなかったの」
咲希が、小さく笑う。
「ありがとう。星」
少し間を置いて。
「とっても嬉しかったよ」
「みんながさ、どうしてもやりたいって聞かなくてさ」
俺も前を向いたまま答える。
「本当はイベントの日にやろうと思ってたんだけど、咲希を元気にしたいんだって」
「そっか」
咲希が顔を上げる。病院の天井しかないはずなのに、咲希の視界にはさっきまで見ていた星空が、まだそこに残っているようだった。
「うん。ちゃんと伝わったよ」
静かな声。
「……みんなの気持ちも」
少しだけ息を吸う。
「君の気持ちもね」
その横顔は笑っていた。
でも、咲希の膝の上へ置かれた手は、ぎゅっと握られていた。指先が少し白くなるくらいに。
気づけば、俺はその手へ、自分の手を重ねていた。
少し冷たい。
咲希の肩が、ぴくりと揺れる。
「……え?」
小さな声。
驚いたみたいにこちらを見る。
今さら手を引くのも変だった。
だから俺は、そのまま少しだけ力を込める。
大丈夫だ。
そう伝えるみたいに。
すると、咲希の表情が、ゆっくりとほどけていった。
泣きそうな顔でも。
笑顔でもない。
その間にあるような顔。
そして、咲希もまた、そっと握り返してくる。
弱々しく。———でも確かに。
その温もりだけで十分だった。言葉なんてなくても。
今、同じ願いを抱いていることが分かったから。
静かな手術室前。
白い灯りの下。
閉じられた扉の向こうには、まだ誰にも分からない明日があった。俺たちは何も話さない。
ただ、離れないようにと握った温もりだけが、ここにいる理由を教えてくれていた。
夜は静かだった。
けれど、その静けさの中で。
確かに二人分の願いが息づいていた。
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