『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
商店街を抜けると、人通りが少しずつ落ち着いてくる。
昼過ぎの陽射しは、まだ高い位置にあった。空は晴れていて、風も穏やかだった。古い喫茶店の看板。シャッターを半分下ろした雑貨屋。生活の音が、少しずつ遠ざかっていく通りだった。
その先に、小さな絵画教室があった。
ガラス張りの入口。中の壁には、子どもたちの描いた絵がたくさん飾られている。クレヨンの絵。水彩画。石膏デッサン。どれも、誰かの時間が染み込んでいるみたいだった。
特別、寄るつもりはなかった。なのに、足を止めた。
なぜなら、その教室の前に、誰かが立っていたからだ。
一人の少女だった。
ガラスの向こうを、じっと見つめている。風が吹くたび、肩までの髪がさらりと揺れる。手には、使い古された様子のスケッチブックを抱えていた。表紙の角が、擦り切れている。何度も開いて、何度も持ち歩いて、何度も描いてきたんだろう、と分かるくらいに。
穏やかな昼下がりの中で、その後ろ姿だけが、妙に目を引いた。
そして。
頭の奥が、軽く痛んだ。
——弱点発見
能力が、勝手に反応していた。後ろ姿しか見えていないのに、はっきりと分かる。
その少女の周りに、細かい亀裂が見えた。ガラスの表面に走るような、薄い"ひび"。今まで見てきた誰のものより、深く、広く、その輪郭ぜんたいを覆っていた。
——この子は、今、絶望の中にいる。
そう、確信させられた。
なぜか、目を逸らせなかった。
しばらく動かなかった少女が、やがて。
小さく俯く。
そして、踵を返した。
その瞬間。
少女の髪が、ふわりと揺れる。横顔が見えた。
息が止まる。
綺麗な人だった。派手じゃない。でも、目を引く。絵になる人だった。
ただ。その表情だけが、ひどく硬かった。何かをこらえているみたいに。
肩が、小さく震えている。
俯く。
慌てるように、顔を背ける。
そのまま、早足で歩き出した。
「……?」
違和感を覚えた。なんとなく。見てはいけないものを見てしまった気がした。
少女が、こちらに気づかないまま、こちらに向かって歩いてくる。視線が、足元の少し先にしか向いていない。何も見えていないような歩き方だった。
避けるべきだった。でも、考える間もなく。
「あっ」
ぶつかった。
軽い衝撃と、画材が落ちる音。少女が「ひゃっ」と小さく声を上げて、バランスを崩す。咄嗟に手を伸ばして、その肩を支えた。
顔が、近い。
目が合う。
その瞳の中に、暗さがあった。さっき遠目に感じ取った"ひび"が、今は、間近でもはっきりと分かる。
「……えななん」
思わず、声が漏れた。いや、漏れてしまった。だけど、小さすぎて、聞こえてはいなかった。
少女——絵名は、それに気づかないまま、慌てて体勢を立て直す。
「ご、ごめんなさい」
小さく、頭を下げる。
俺の知っている、原作に出てくる東雲絵名とは、随分違う印象だった。
プロセカの東雲絵名は、本当はもっと勝気で、強気な人だ。負けず嫌いで、はっきり物を言う。少しわがままなところもある。でも、誰よりも仲間思いで、面倒見がよくて、困っている人を放っておけない。そういう子だったはずだ。
なのに、今、目の前で頭を下げている彼女には、その輪郭の影さえ見えなかった。
声には、申し訳なさだけが詰まっていた。誰かに迷惑をかけたことへの、純粋な反省。それだけ。
——なんでだろう。
地面には、ぶつかった時の衝撃で落ちた画材が散らばっていた。色鉛筆が何本か。消しゴム。クリアファイル。絵名は、それを慌てて拾い集めている。
手伝うべきだと思った。
「悪い、俺が」
しゃがみ込んで、色鉛筆を拾う。
「……すみません」
また、謝る。今度は、もっと小さい声だった。
画材を全部拾い終わって、絵名へ差し出す。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、受け取る。視線は合わなかった。
「あの、すみません。急いでるので」
それだけ言って、足早に去っていく。
その背中を、しばらく見ていた。
絵名の歩き方には、迷いがなかった。どこかへ向かっているわけじゃない。ただ、その場から、できるだけ早く離れたいだけのような歩き方だった。
昼下がりの光が、その小さな背中をやわらかく照らしていく。やがて、人混みの向こうへ消えていった。
その背中が見えなくなって、しばらく経ってから気づいた。
地面に、何かが落ちている。
近づいて見ると、小さなスケッチブックだった。
さっき絵名が抱えていた、あの擦り切れた表紙のものだ。きっと、ぶつかった時に落としたのだろう。それきり、誰も気づかなかった。
拾い上げる。
表紙には、特に何も書かれていない。ただ、何度も同じ手で持たれてきたことだけが分かる、柔らかくなった角。手に取ると、ただの紙の束のはずなのに、不思議と重みを感じた。
「東雲絵名」
小さく名前を呟く。
返さなければと思った。彼女が去っていった方向を見る。でも、もう姿は見えなかった。商店街の人混みに、すでに紛れてしまっている。
追いかけても、もう間に合わない。
——しょうがない。次に会ったら、返そう。
それまでは、大事に持っておこう。そう決めた。
商店街を抜けて、少し歩くと、町の中にある小さな公園に着いた。
手入れの行き届いた木々と、丁寧に組まれた石畳。庭園みたいな雰囲気のある場所だった。ベンチに腰を下ろすと、午後の風が、ゆっくり頬を撫でていく。
手に持ったままのスケッチブックを、じっと見る。
——見てもいいんだろうか。
頭の中で、何度か自問した。良くないことだとは分かっている。でも、さっき見た絵名の——あの深い"ひび"が、頭から離れなかった。
その理由が、もしかしたら、このスケッチブックの中にあるんじゃないか。そんな気がした。
「……ごめん」
誰にも聞かれていないのに、つい一言謝ってから、表紙を開く。
その時、ぱさり、と何かが膝の上に落ちた。
挟まっていた一枚の紙だった。長い髪が一本、その紙の端にくっついている。落とした時のはずみで、ページの間から滑り出てきたんだろう。
拾い上げて、何だろうと目を落とす。
——成績表だった。
学校名と名前の欄。その下に、評価の項目が三つ並んでいる。
美術、実技、表現力。
評価は、B、C、C。
数字や文字だけを見れば、特別悪いわけじゃない。でも、その並びを見ているうちに、胸の奥が、少しだけざわついた。
あの絵を見た後だったからだ。あれだけ丁寧に、何度も描き直した跡のある絵を持っている人間が、この評価で——どう感じるだろう。
頭の中で、原作の知識が、自然と繋がっていく。
東雲絵名は、今、進路に悩んでいる時期のはずだ。絵画教室では、自分より明らかに才能のある同級生を、何度も目の当たりにしてきた。先生からの評価も、決して悪くはないが、特別良くもない。父親には、絵を続けることに否定的なことを言われている。
その全部が、少しずつ積み重なって、今のあの目になったのかもしれない。
救いがなかったわけじゃないはずだ。あの時期、確かに絵名のそばには、桃井愛莉と、その弟の彰人がいたはずだ。愛莉は、芸能界で揶揄されるようなことがあった時、絵名に守られたことがある。その恩を、ずっと覚えていた。だから、絵名が一番つらい時期に、様子をうかがいに来た。
彰人にも、姉から「見守ってほしい」と頼んだはずだった。
でも——彰人の方は、姉とうまく噛み合わない時期だったらしい。一度、距離を置こうかと思っていたところに、愛莉と会い近くから見守る約束をする、というところまでは知っている。
その先が、具体的にどんな話があったのかは、知らない。まだ二人が動き出していないのか。もう動き出していて、それでも今の絵名がこの状態なのか。
分からない。
ただ、絵画教室の前で見たあの目は、想像していたよりも、ずっと深い場所にあるように見えた。
——もしかしたら。
神様が言っていたことを、思い出す。
『お主の世界で見えていた世界は、何百、何千とある分岐点から成り得た、比較的ハッピーエンドな世界に過ぎんのじゃ』
あの言葉が、今、急に重みを持って戻ってくる。
原作で知っているプロセカの世界線は、最終的には希望のある場所へ繋がっていた。だから、絵名もいつか、立ち上がれたはずだった。
でも。この世界は——少しだけ、ズレているのかもしれない。
俺の知っている話の通りに、何もかもが進むとは限らない。
胸の奥が、少しだけ冷たくなった。
もし、この世界の絵名が、原作よりも深い場所にいるのなら。
誰かが手を伸ばさなければ、原作のような救いは、自然には訪れないのかもしれない。
成績表を、もう一度、丁寧に折り直す。挟んでいた髪を、そっと紙の隙間に戻した。
——これは、見てはいけないものだった。
今さら思っても遅い。でも、見てしまった以上、知らなかったことにはできない。
一枚目に戻る。
夕暮れの商店街の絵だった。
画面いっぱいに広がる橙色の光。傾いた日が、古いアーケードを染めて、煤けたシャッターにも、剥げかけた看板にも、等しく金色を注いでいる。行き交う人々のシルエットが長く伸びて、石畳の上を滑るように流れていた。
写真じゃない。鉛筆と、淡い色鉛筆で描かれた絵だ。
なのに、光が見えた。温度が伝わってくるようだった。
次のページ。河川敷の絵。土手に咲く小さな花。風に揺れる草。誰かが置き忘れたみたいな自転車が、一台。
その次。夕暮れの空。雲の輪郭が、ただの線じゃなく、ちゃんと光をまとっていた。
一枚一枚、見ていくたびに、息を呑む瞬間があった。
素人の俺には、構図の正しさとか、色彩の理論とか、そんなことは何一つ分からない。それでも。
——この人は、この景色が好きだったんだろうな。
そう思った。理屈じゃなく、ただ、伝わってくるものがあった。
「すごいな」
自然と、声が漏れた。
誰の評価でもない。才能があるとか、ないとか。そんな話じゃない。ただ、純粋に、いいと思った。
でも。
同時に、頭の中で、さっき見た成績表の三文字が浮かぶ。B、C、C。
こんなに綺麗な絵を描ける人が。なぜ、あの評価で、あんな顔をしていたんだろう。
次に会えたら、たくさん伝えよう。
精一杯、このスケッチブックの絵を見た時の、この感動を。
評価でも、慰めでもなく。ただ、ちゃんと、伝えたいと思った。
「あっ」
不意に、声がした。
顔を上げる。
目の前に、さっきの少女——絵名が立っていた。息を切らしている。
「それ!!」
視線が、膝の上のスケッチブックに刺さる。
「人のスケッチブック、なんですけど」
声には、咎める色があった。でも、本気で怒っているわけじゃないことも、すぐに分かった。だって、わざわざ戻ってきたのだ。落とし物を、わざわざ探しに。
「ごめん」
まずは謝る。
「勝手に見ちゃって、すみません」
頭を下げてから、スケッチブックを両手で差し出した。絵名は、それを受け取りながらも、まだどこか落ち着かない様子だった。
「でも」
言葉が、自然と続く。
「すごく綺麗で。感動しました」
絵名の手が、スケッチブックを受け取ったところで、ぴたりと止まった。
「……は?」
「いや、本当に。びっくりした」
止まらなかった。一度口にしたら、もっと言いたいことが次々に出てくる。
「特に、商店街の絵。あの光の感じとか、すごい。色の重ね方も、なんか温かくて。あと、河川敷の絵の、土手の草の質感とか。風が見えるみたいだった」
「あ、あの」
「夕暮れの空の絵も良かった。雲の輪郭が、ただの線じゃなくて、ちゃんと光を持ってる感じがして」
「ちょっ、待って」
絵名が、思わず声を上げる。
その顔が、見る間に赤くなっていく。
「な、なんですか、それ。べた褒めじゃないですか、なんか怖いんですけど……」
言葉とは裏腹に、表情を見る限りは悪い反応じゃない。
「いや、本当にそう思ったから」
「そんなに見たんですか」
「全部見た」
「ぜ、全部」
絵名の声が、裏返る。
怒っているのか、恥ずかしいのか、よく分からない反応だった。視線が、何度も逸れる。スケッチブックを抱えた手に、少し力が入っているのが分かった。
「……変な人」
ぽつりと、そう呟く。
その声を最後に、絵名は、何も言えなくなったみたいだった。
顔を伏せる。長い前髪の隙間から見えた目が、少しだけ、潤んでいた。
——あ。
しまった、と思った。
褒めすぎたかもしれない。それか、何か思い出させてしまったかもしれない。あの成績表のことを、まだ知らないふりをしていたつもりだったのに。
慌てて、話題を変える。
「あの、商店街の絵」
絵名が、わずかに顔を上げる。
「あれ、見てて思ったんだけど」
「……何ですか」
「商店街の人たちの温かさを、表現したかったのかなって、俺は感じたんだ」
絵名が、目を丸くする。
「シャッターとか、看板とか、別に綺麗なものじゃないのに、全部に同じ光が当たってて。優しい感じがして」
「……」
「それって、その場所が好きだから、そう見えてるんじゃないかって思った」
絵名は、しばらく黙っていた。
それから。
「……分かるんですか」
小さな声だった。
「いや、分かるとかじゃなくて。ただ、そう見えたってだけ」
「でも」
絵名が、スケッチブックをそっと開く。商店街の絵のページを、もう一度見つめる。
「そこまで言われたの、初めてです」
その声には、戸惑いと、少しの驚きが混ざっていた。
「上手いねとかは、学校の友達からも言われることはあります。でも、何を描こうとしてたかとか、そんなふうに見てくれる人、あんまりいなくて」
絵名は、ページをじっと見つめたまま、続けた。
「商店街、毎日通るんです。学校帰りに。シャッター下りてる店も多いし、特別綺麗な場所じゃないけど。なんか、いいなって思って」
「分かる」
「分かるんですか」
「分かるよ」
「ふふっ、本当ですか?」
絵名が、少しだけ笑った。今日初めて見る、ちゃんとした笑顔だった。
夕暮れの光が、その横顔を、橙色に染めていた。
しばらく、二人で絵の話をした。
どの絵が、どこで描かれたものか。どんな時間に描いたのか。絵名は、最初は短い答えだけだったけれど、話すうちに、少しずつ言葉が増えていった。
「これ、夕方の五時くらいに描いたの」
「これは、雨上がりの日」
「これは、学校帰りに、急いで描いた。だから、ちょっと荒いんです」
その一つ一つに、確かに、誰かの時間が染み込んでいた。
話が一区切りついたところで、絵名がスケッチブックを閉じる。
「……ありがとうございます」
ぽつりと、言う。
「何が?」
「ちゃんと見てくれて」
その声は、さっきより、ずっと自然だった。
夕暮れが、少しずつ濃くなっていく。空の色が、橙から、深い赤へ変わり始めていた。
「こんな風に絵が描けたら、気持ちいいんだろうな」
思わず、呟いた。
「もしよかったら、絵を教えてよ」
「もし私で良ければ、教えてもいいですよ」
声が、重なった。
一瞬、お互い黙る。
絵名が、目を丸くした。
「……今、同じこと考えてました?」
「いや、たぶん」
なんだか、おかしかった。気まずさよりも先に、笑いがこぼれる。
「じゃあ」
絵名が、少しだけ表情を緩めた。今日初めて見る、柔らかい顔だった。
「よろしくお願いします」
「……うん。よろしく、えななん……あっ」
言ってから、気づいた。
本人を目の前にして、はっきりとした声で。
——「えななん」と、呼んでしまったことに。
時が、止まった。
絵名の表情が、固まる。瞬き一つしない。
夕暮れの公園に、二人分の沈黙が落ちる。風だけが、変わらず吹いていた。
数秒後。
「……今、なんて呼びました?」
絵名の声が、地の底から響いてくるみたいに低かった。
「いや、えっと」
「えな、なん?」
「……えな、なん」
もう一度、繰り返してしまった。逃げ場がなかった。
「だれがえななんよ」
今までの他人行儀な丁寧語が消えて、ぴしゃりと言われた。さっきまでの柔らかい空気が、一瞬で吹き飛ぶ。
でも、その口調には、もう硬さがなかった。さっきまでの「すみません」「ありがとうございます」とは、明らかに違う響き方をしていた。
夕暮れの光が、絵名の頬を赤く染めている。怒っているのか、ただ照れているだけなのか、その境目が、よく分からなかった。
しばらく見つめ合ったまま、二人とも何も言わなかった。
やがて、絵名がふっと視線を逸らして、小さく息を吐く。何かを諦めたような、それでいて、少しおかしそうな顔だった。
風が吹いて、絵名の髪を揺らす。スケッチブックを抱えた腕に、もう力は入っていなかった。
——明日も、俺たちはここに来るのかもしれない。
誰にも言われていないのに、なぜかそう思った。今日の言葉のやり取りが、まだ全部終わっていない気がしたから。
夕焼けの最後の色が、公園の木々の向こうへ沈んでいく。
その光の中で、絵名の表情は、最初に見た時よりは、少しだけだが違うものになっている気がした。
夏へと季節が変わってきました。
夏ってどうしてこう、昔を思いだすのでしょうか。
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