『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』   作:krowknown

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24 私を見つけた人 side ~ENA~

 あの日、絵画教室の前で立っていたのは、自分でも理由が分からなかった。

 

 入るつもりはなかった。もう何週間も、ここへ来ていなかった。それでも、足が向いてしまった。磁石みたいに。嫌いなはずの場所に、身体が勝手に引き寄せられてしまう。

 

 ガラス張りの入口から、中の様子が見えた。子どもたちの絵が、壁いっぱいに飾られている。クレヨンの線。水彩の滲み。どれも、誰かが一生懸命描いた跡だった。

 

 ——昔の私も、ああだったな。

 

 そんなことを思いながら、立っていた。

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 

 気づいたら、踵を返していた。もういい。来たことも、見たことも、全部忘れよう。そう思いながら歩き出した、その瞬間だった。

 

 誰かとぶつかった。

 

 衝撃で、抱えていた画材がいくつか地面へ散らばった。消しゴム。クリアファイル。色鉛筆のケース。慌ててしゃがみ込んで、一つずつ拾っていく。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 頭を下げながら、とにかく早くここを離れたかった。視線を上げることもせず、画材をかき集めた。

 

 その時、少し離れた場所に、スケッチブックが落ちているのが見えた。分かっていた。でも

 

 ——もう、いいか。

 

 そう思った。

 

 スケッチブックごと、ここに置いていけばいい。絵も、教室も、全部。もう関係ない。

 

「あの、すみません。急いでるので」

 

 それだけ言って、歩き出した。スケッチブックを残したまま。

 

 振り返ることはしなかった。

 

 住宅街の路地を抜けた。見慣れた角を曲がった。もうすぐ家だ、というところで。

 

 足が、止まった。

 

 自分でも、何が起きているのか分からなかった。頭は「もういい」と言っていた。なのに、身体が向きを変えていた。来た道を、戻り始めていた。

 

 小走りになっていた。気づいたら、走っていた。

 

 商店街まで戻る。ぶつかった場所を探す。

 

 スケッチブックが、なかった。

 

 心臓が跳ねた。

 

 誰かに持っていかれたのか。踏まれたのか。辺りを見回す。左を見て、右を見て、来た方向を振り返る。息が上がってくる。

 

 ——なんで、こんなに焦ってるんだろう。

 

 自分でも、おかしかった。置いていくつもりだったのに。もういいと思っていたのに。

 

 それでも、足が動く。

 

 少し先に、小さな公園があった。庭園みたいな、石畳の敷かれた場所。そのベンチに、誰かが座っていた。

 

 膝の上に置かれているのは——私のスケッチブックだった。

 

 しかも、開いていた。

 

 真剣な顔で、ページを見つめている。さっきぶつかった、あの人だった。

 

 息を乱したまま、気づいたら大きな声が出ていた。

 

「それ……」

 

 我ながら、声が震えていた。

 

「人のスケッチブック、なんですけど」

 

 恥ずかしさと、焦りと、上手くもない絵を初対面の相手に見られた気恥ずかしさが、一気に押し寄せてくる。頬が熱い。息も整っていない。最悪だった。

 

 本当に、最悪だった。

 

 でも、その後に言われた言葉が、全部をひっくり返した。

 

「すごく綺麗で、感動しました」

 

 一瞬、意味が分からなかった。

 

「特に、商店街の絵。あの光の感じとか、すごい。色の重ね方も、なんか温かくて。あと、河川敷の絵の、土手の草の質感とか。風が見えるみたいだった」

 

 次々に出てくる言葉に、返す言葉が見つからなかった。

 

「夕暮れの空の絵も良かった。雲の輪郭が、ただの線じゃなくて、ちゃんと光を持ってる感じがして」

 

 上手いとか、才能があるとか。そういう評価じゃなかった。ただ、見て、感じたことを、そのまま言っていた。

 

 それが、余計に、困った。

 

 誤魔化しようがなかった。お世辞とも受け取れなかった。

 

「商店街の人たちの温かさを、表現したかったのかなって、俺は感じたんだ」

 

 その瞬間。

 胸の奥の、どこか固まっていたものが、ほどけた気がした。

 

 ——見てくれてた。

 

 ちゃんと、見てくれてた。

 上手いか下手かじゃなく。才能があるかないかじゃなく。私が何を描こうとしていたのかを、ちゃんと感じ取ってくれていた。

 

 欲しかった言葉とは、少し違う。言ってほしかった人からでもない。たけど、

 

 ——私は、まだ絵を描いていいんだ。

 

 なんとなく、そう思えた気がした。

 目が、少し熱くなった。気づかれないように、視線を逸らした。

 

 才能がない、と言われたのは、父親からだった。

 

 あの日の食卓を今でも覚えている。進路の話になって、絵を続けたいと言った瞬間、父親の表情が変わった。怒鳴るわけじゃなかった。ただ、静かに、言った。

 

「絵で食べていける人間と、そうじゃない人間がいる。お前は、後者だ」

 

 それだけだった。それだけで、十分だった。

 

 絵画教室の先生からは、言葉ではなく評価で伝えられた。B、C、C。教室の中で、同い年の子がするするとデッサンを仕上げていく。その横で、私はまだ輪郭すら迷っている。何年やっても、何時間練習しても、その差は縮まらなかった。

 

 全部が敵に見えた。

 

 先生の目も。同級生の上達も。父親の言葉も。教室のガラスに反射した自分の顔さえも。

 

 そして、全部を敵に見ている自分が、一番嫌いだった。

 

 こんな自分を早く諦めたかった。才能のない自分を、どこかに捨ててしまいたかった。

 

 どこかで、まだいけると思っている自分もいた。

 

 その二つが、ずっと胸の中でぶつかっていた。自分というものがあるようで、何もなくて。答えが出ないまま、日々が過ぎていた。

 

 学校にも、行けなくなっていた。

 

 久しぶりに外へ出た日曜日。どこへ行くでもなく歩いていたら、気づいたら絵画教室の前に立っていた。ガラス越しに、子どもたちの絵が見えた。先生の声が、くぐもって聞こえてくる。入れなかった。ただそこに立っていることしかできなかった。

 

 そこに、あいつが通りかかった。

 

 それから、毎日、公園で会った。

 決まった時間に。決まったベンチに。二人で並んで、絵を描いた。

 

 私が絵を教えて、あいつが吸収した。驚くくらい早かった。一日ごとに、線が変わっていく。最初は力の入りすぎたぎこちない線だったものが、三日目には柔らかくなって、五日目には光と影の違いを意識し始めた。

 

 その変化を、隣で見ていた。

 

 嬉しかった。本当に、嬉しかった。

 

 誰かに何かを伝えて、それが届いていくのが、こんなに楽しいと思ったのは、初めてかもしれない。

 

「えななん先輩、ここってどうするんですか」

「だから、えななんって呼ぶな」

「えななん先輩でしょ」

「それも違うから」

「じゃあ絵名先輩で」

「……まあ、それならいいけど」

「えななん先輩」

「聞いてた?」

 

 何度繰り返しただろう。

 

 生意気で、揶揄ってくる。でも、一緒にいると、なぜか落ち着いた。うるさいくせに、空気が静かになる感じがした。しんどい時間の中に、急に風通しの良い場所ができたみたいな感覚。

 

 ——ふふ、おもしろいやつ。

 

 こんなふうに誰かのことを思えたのが、いつぶりか分からなかった。

 

 公園の木陰に差し込む光が、毎日少しずつ角度を変えていった。午前の白い光が、昼過ぎになると柔らかい金色に変わって、夕方には橙色に溶けていく。その変化を、二人並んで見ていた。

 

 気づいたら、絵を描くことが、怖くなくなっていた。

 

 評価されるとか、才能があるとかないとか。そういうことを、この一週間は考えなかった。ただ、目の前の景色を見て、好きだと思ったものを、紙の上に置いていった。それだけだった。

 

 絵と出会った頃を、思い出した。

 

 お父さんとお母さんが、できあがった絵を見て、目を細めてくれた頃。上手いとか下手とか、関係なかった。ただ、描いたことを喜んでくれた。あの頃の私は、絵を描くことが、息をするくらい自然なことだった。

 

 この一週間は、あの頃に似ていた。

 

 いや、あの頃よりも、もっと鮮やかだったかもしれない。

 

 でも、現実は戻ってくる。

 

 お母さんに、学校へ行くよう言われた。内申が、このままじゃまずい。夜間高校に行くにしても、普通高校に行くにしても、それだけは変わらない。

 

 最近、私が少し変わったことに、お母さんは気づいていたんだと思う。心配をたくさんかけてきた。その顔を見たら、頷くしかなかった。

 

 明日から、学校に戻る。

 

 そして、同じタイミングで、あいつも少し来られなくなると言っていた。入院中だという話は前に少し聞いていた。それ以上は聞けなかった。聞いてほしくない空気があったから。

 

 でも、頭の中で、どうしても悪い想像をしてしまう。

 

 短い付き合いだ。たった一週間だ。それでも、あいつに会って、私は確かに救われていた。

 

 恋とか、そういうのじゃない、と思う。たぶん。

 

 ——たぶん、ね。

 

 よく分からない。ただ、この時間が終わることが、思っていたより、ずっと嫌だった。あいつと絵を描く時間が、私にとっての休憩所みたいになっていた。ここにいれば、才能とか、評価とか、全部を一旦置いておける。そういう場所に、なっていた。

 

 それを手放すのが、怖かった。

 

「じゃあ、しばらく会えないわね」

「そうですね」

 

 少しだけ、間が空いた。

 

「なんか、悲しいです」

 

 あいつが、さらりと言った。

 さらりと、言った。

 

 ——え、本当にそう思ってるの?

 

「本当にそう思ってるの?」

「思ってるよ」

 

 あいつは、特に照れる様子もなく答える。

 

「絵を描くの苦手だったから、この一週間でこんなに上手くなるなんて思ってなかったし」

 

 少し笑う。

 

「えななん先輩のおかげです。ありがとう」

 

 ありがとう、か。

 そんなに素直に言えるやつが、いるんだな、と思った。

 私なら絶対、もっとごまかす。冗談っぽくするか、話を変えるか。

 

「……どういたしまして」

 

 なんとか、それだけ返した。

 

「えななん先輩こそ・・・・・・」

 

 あいつが、こっちを向く。

 

「俺がいなくても大丈夫ですか?」

「は?」

「ちゃんとご飯食べられます? 朝、起きられます?」

 

 思わず、脱力した。

 

「はぁ〜あんた、誰目線なの」

「心配してるんですよ」

「年下のくせに」

「年齢は関係ないでしょ」

 

 むっとしながらも、なんだかおかしくなってきた。こういうやつなのだ。真顔で、こういうことを言う。

 

「大丈夫よ」

 

 ため息をつきながら、でも自然と口角が上がっていた。

 

「あんたに心配されるほど、落ちぶれてないから」

「そうですか」

 

 あいつは、そう言って優しく少しだけ目を細める。

 

「なら、よかった」

 

 その顔が、なんだか、まっすぐすぎて。

 視線を逸らした。

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

 夕暮れの光が、公園の石畳を橙色に染めている。木の葉が風に揺れて、その影がゆらゆらと揺れた。どこかで鳥が鳴いた。遠くに、夕飯の匂いが漂ってくる。

 

 日常が、ゆっくりと戻ってくる音がした。

 

「絵。また、教えてくださいね」

 

 あいつが、立ち上がりながら言った。

 お別れ、とは言わなかった。終わり、とも言わなかった。

 また、描こう。それだけだった。

 その言葉が、不思議なくらい、胸に残った。

 

「……そうね」

 

 私も、立ち上がる。スケッチブックを抱える。

 

「次は、もっと上手くなっといてよね」

「努力します、えななん先輩」

「えななんって言うな」

「えななん先輩」

「聞いてた?」

 

 いつもと同じくだり。あいつが笑う。私も、笑っていた。

 夕焼けの中で、その笑顔が、やけに眩しく見えた。

 あいつが歩き出す。その背中が、少しずつ遠くなっていく。

 

 いつも通りみたいに。

 

 何でもないみたいに。

 

 手を振って。

 

 笑って。

 

 その背中が、少しずつ遠くなっていく。

 

 私は、その姿を見ていた。

 

 ただ見ていた。

 

 呼び止める理由なんてない。

 

 また会えるかもしれない。

 

 学校も始まる。

 

 私も前に進まなきゃいけない。

 

 ちゃんと分かっている。

 

 分かっているのに。視線だけが、あの背中を追いかける。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 遠くなる。

 

 胸の奥が、妙にざわついた。

 

 嫌な感覚だった。

 

 何か大事なものが離れていく時の感覚に似ていた。違う、そんな大袈裟な話じゃない。

 

 たった一週間だ。たった一週間、一緒に絵を描いただけ。

 

 なのに。

 

 なのに。

 

 どうして。

 

 こんなに苦しいんだろう。

 

 手の中のスケッチブックへ力が入る。

 

 呼吸が浅くなる。

 

 喉の奥が熱い。

 

 気づいた時には。

 

 身体が動いていた。

 

「待って!!」

 

 声が出た。

 

 自分でも驚くくらい大きな声だった。

 

 あいつが振り返って驚いたような、心配するようなそんな顔をする。

 

 あいつのそんな顔を見た瞬間に、堰を切ったみたいに感情が溢れた。

 

 ――嫌だ。

 

 ——行ってほしくない。

 

 ――終わってほしくない。

 

 また会えるとか。

 

 そんなことじゃない。

 

 今

 

 今行ってしまうのが嫌だった。

 

 私は走った。

 

 みっともなく。

 

 子どもみたいに。

 

 人目なんて気にならなかった。

 

 気づけば、その手を掴んでいた。

 

「え、絵名先輩?」

 

 息が上がる。

 

 言葉が出ない。

 

 胸だけが苦しい。

 

 離したくない。

 

 ただそれだけだった。

 

「……嫌」

 

 かすれた声が漏れる。

 

「え?」

 

「嫌……」

 

 涙が滲む。

 

 視界が歪む。

 

 自分でも何を言っているのか分からない。

 

 でも止まれなかった。

 

「行かないで……」

 

 ぽろり、と涙が落ちる。

 

「嫌なの……」

 

 情けなかった。

 

 格好悪かった。

 

 こんなの東雲絵名じゃない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに。

 

 手を離せなかった。

 

「もう少し……」

 

 震える声。

 

「もう少しだけでいいから……」

 

 服を掴む。

 

 必死に。

 

 縋るみたいに。

 

「一緒にいて……」

 

 夕焼けの光が滲む。

 

 桜が揺れる。

 

 胸の奥から溢れてくる感情の名前は、最後まで分からなかった。

 

 恋なのか。

 

 依存なのか。

 

 寂しさなのか。

 

 ただ一つだけ分かる。

 

 今、私の目の前にいる、私を見つけてくれた人と離れるのが――

 

――どうしようもなく嫌だった。

 

 




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