『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
あの日、絵画教室の前で立っていたのは、自分でも理由が分からなかった。
入るつもりはなかった。もう何週間も、ここへ来ていなかった。それでも、足が向いてしまった。磁石みたいに。嫌いなはずの場所に、身体が勝手に引き寄せられてしまう。
ガラス張りの入口から、中の様子が見えた。子どもたちの絵が、壁いっぱいに飾られている。クレヨンの線。水彩の滲み。どれも、誰かが一生懸命描いた跡だった。
——昔の私も、ああだったな。
そんなことを思いながら、立っていた。
どれくらい、そうしていただろう。
気づいたら、踵を返していた。もういい。来たことも、見たことも、全部忘れよう。そう思いながら歩き出した、その瞬間だった。
誰かとぶつかった。
衝撃で、抱えていた画材がいくつか地面へ散らばった。消しゴム。クリアファイル。色鉛筆のケース。慌ててしゃがみ込んで、一つずつ拾っていく。
「ご、ごめんなさい」
頭を下げながら、とにかく早くここを離れたかった。視線を上げることもせず、画材をかき集めた。
その時、少し離れた場所に、スケッチブックが落ちているのが見えた。分かっていた。でも
——もう、いいか。
そう思った。
スケッチブックごと、ここに置いていけばいい。絵も、教室も、全部。もう関係ない。
「あの、すみません。急いでるので」
それだけ言って、歩き出した。スケッチブックを残したまま。
振り返ることはしなかった。
住宅街の路地を抜けた。見慣れた角を曲がった。もうすぐ家だ、というところで。
足が、止まった。
自分でも、何が起きているのか分からなかった。頭は「もういい」と言っていた。なのに、身体が向きを変えていた。来た道を、戻り始めていた。
小走りになっていた。気づいたら、走っていた。
商店街まで戻る。ぶつかった場所を探す。
スケッチブックが、なかった。
心臓が跳ねた。
誰かに持っていかれたのか。踏まれたのか。辺りを見回す。左を見て、右を見て、来た方向を振り返る。息が上がってくる。
——なんで、こんなに焦ってるんだろう。
自分でも、おかしかった。置いていくつもりだったのに。もういいと思っていたのに。
それでも、足が動く。
少し先に、小さな公園があった。庭園みたいな、石畳の敷かれた場所。そのベンチに、誰かが座っていた。
膝の上に置かれているのは——私のスケッチブックだった。
しかも、開いていた。
真剣な顔で、ページを見つめている。さっきぶつかった、あの人だった。
息を乱したまま、気づいたら大きな声が出ていた。
「それ……」
我ながら、声が震えていた。
「人のスケッチブック、なんですけど」
恥ずかしさと、焦りと、上手くもない絵を初対面の相手に見られた気恥ずかしさが、一気に押し寄せてくる。頬が熱い。息も整っていない。最悪だった。
本当に、最悪だった。
でも、その後に言われた言葉が、全部をひっくり返した。
「すごく綺麗で、感動しました」
一瞬、意味が分からなかった。
「特に、商店街の絵。あの光の感じとか、すごい。色の重ね方も、なんか温かくて。あと、河川敷の絵の、土手の草の質感とか。風が見えるみたいだった」
次々に出てくる言葉に、返す言葉が見つからなかった。
「夕暮れの空の絵も良かった。雲の輪郭が、ただの線じゃなくて、ちゃんと光を持ってる感じがして」
上手いとか、才能があるとか。そういう評価じゃなかった。ただ、見て、感じたことを、そのまま言っていた。
それが、余計に、困った。
誤魔化しようがなかった。お世辞とも受け取れなかった。
「商店街の人たちの温かさを、表現したかったのかなって、俺は感じたんだ」
その瞬間。
胸の奥の、どこか固まっていたものが、ほどけた気がした。
——見てくれてた。
ちゃんと、見てくれてた。
上手いか下手かじゃなく。才能があるかないかじゃなく。私が何を描こうとしていたのかを、ちゃんと感じ取ってくれていた。
欲しかった言葉とは、少し違う。言ってほしかった人からでもない。たけど、
——私は、まだ絵を描いていいんだ。
なんとなく、そう思えた気がした。
目が、少し熱くなった。気づかれないように、視線を逸らした。
才能がない、と言われたのは、父親からだった。
あの日の食卓を今でも覚えている。進路の話になって、絵を続けたいと言った瞬間、父親の表情が変わった。怒鳴るわけじゃなかった。ただ、静かに、言った。
「絵で食べていける人間と、そうじゃない人間がいる。お前は、後者だ」
それだけだった。それだけで、十分だった。
絵画教室の先生からは、言葉ではなく評価で伝えられた。B、C、C。教室の中で、同い年の子がするするとデッサンを仕上げていく。その横で、私はまだ輪郭すら迷っている。何年やっても、何時間練習しても、その差は縮まらなかった。
全部が敵に見えた。
先生の目も。同級生の上達も。父親の言葉も。教室のガラスに反射した自分の顔さえも。
そして、全部を敵に見ている自分が、一番嫌いだった。
こんな自分を早く諦めたかった。才能のない自分を、どこかに捨ててしまいたかった。
どこかで、まだいけると思っている自分もいた。
その二つが、ずっと胸の中でぶつかっていた。自分というものがあるようで、何もなくて。答えが出ないまま、日々が過ぎていた。
学校にも、行けなくなっていた。
久しぶりに外へ出た日曜日。どこへ行くでもなく歩いていたら、気づいたら絵画教室の前に立っていた。ガラス越しに、子どもたちの絵が見えた。先生の声が、くぐもって聞こえてくる。入れなかった。ただそこに立っていることしかできなかった。
そこに、あいつが通りかかった。
それから、毎日、公園で会った。
決まった時間に。決まったベンチに。二人で並んで、絵を描いた。
私が絵を教えて、あいつが吸収した。驚くくらい早かった。一日ごとに、線が変わっていく。最初は力の入りすぎたぎこちない線だったものが、三日目には柔らかくなって、五日目には光と影の違いを意識し始めた。
その変化を、隣で見ていた。
嬉しかった。本当に、嬉しかった。
誰かに何かを伝えて、それが届いていくのが、こんなに楽しいと思ったのは、初めてかもしれない。
「えななん先輩、ここってどうするんですか」
「だから、えななんって呼ぶな」
「えななん先輩でしょ」
「それも違うから」
「じゃあ絵名先輩で」
「……まあ、それならいいけど」
「えななん先輩」
「聞いてた?」
何度繰り返しただろう。
生意気で、揶揄ってくる。でも、一緒にいると、なぜか落ち着いた。うるさいくせに、空気が静かになる感じがした。しんどい時間の中に、急に風通しの良い場所ができたみたいな感覚。
——ふふ、おもしろいやつ。
こんなふうに誰かのことを思えたのが、いつぶりか分からなかった。
公園の木陰に差し込む光が、毎日少しずつ角度を変えていった。午前の白い光が、昼過ぎになると柔らかい金色に変わって、夕方には橙色に溶けていく。その変化を、二人並んで見ていた。
気づいたら、絵を描くことが、怖くなくなっていた。
評価されるとか、才能があるとかないとか。そういうことを、この一週間は考えなかった。ただ、目の前の景色を見て、好きだと思ったものを、紙の上に置いていった。それだけだった。
絵と出会った頃を、思い出した。
お父さんとお母さんが、できあがった絵を見て、目を細めてくれた頃。上手いとか下手とか、関係なかった。ただ、描いたことを喜んでくれた。あの頃の私は、絵を描くことが、息をするくらい自然なことだった。
この一週間は、あの頃に似ていた。
いや、あの頃よりも、もっと鮮やかだったかもしれない。
でも、現実は戻ってくる。
お母さんに、学校へ行くよう言われた。内申が、このままじゃまずい。夜間高校に行くにしても、普通高校に行くにしても、それだけは変わらない。
最近、私が少し変わったことに、お母さんは気づいていたんだと思う。心配をたくさんかけてきた。その顔を見たら、頷くしかなかった。
明日から、学校に戻る。
そして、同じタイミングで、あいつも少し来られなくなると言っていた。入院中だという話は前に少し聞いていた。それ以上は聞けなかった。聞いてほしくない空気があったから。
でも、頭の中で、どうしても悪い想像をしてしまう。
短い付き合いだ。たった一週間だ。それでも、あいつに会って、私は確かに救われていた。
恋とか、そういうのじゃない、と思う。たぶん。
——たぶん、ね。
よく分からない。ただ、この時間が終わることが、思っていたより、ずっと嫌だった。あいつと絵を描く時間が、私にとっての休憩所みたいになっていた。ここにいれば、才能とか、評価とか、全部を一旦置いておける。そういう場所に、なっていた。
それを手放すのが、怖かった。
「じゃあ、しばらく会えないわね」
「そうですね」
少しだけ、間が空いた。
「なんか、悲しいです」
あいつが、さらりと言った。
さらりと、言った。
——え、本当にそう思ってるの?
「本当にそう思ってるの?」
「思ってるよ」
あいつは、特に照れる様子もなく答える。
「絵を描くの苦手だったから、この一週間でこんなに上手くなるなんて思ってなかったし」
少し笑う。
「えななん先輩のおかげです。ありがとう」
ありがとう、か。
そんなに素直に言えるやつが、いるんだな、と思った。
私なら絶対、もっとごまかす。冗談っぽくするか、話を変えるか。
「……どういたしまして」
なんとか、それだけ返した。
「えななん先輩こそ・・・・・・」
あいつが、こっちを向く。
「俺がいなくても大丈夫ですか?」
「は?」
「ちゃんとご飯食べられます? 朝、起きられます?」
思わず、脱力した。
「はぁ〜あんた、誰目線なの」
「心配してるんですよ」
「年下のくせに」
「年齢は関係ないでしょ」
むっとしながらも、なんだかおかしくなってきた。こういうやつなのだ。真顔で、こういうことを言う。
「大丈夫よ」
ため息をつきながら、でも自然と口角が上がっていた。
「あんたに心配されるほど、落ちぶれてないから」
「そうですか」
あいつは、そう言って優しく少しだけ目を細める。
「なら、よかった」
その顔が、なんだか、まっすぐすぎて。
視線を逸らした。
しばらく、二人とも黙っていた。
夕暮れの光が、公園の石畳を橙色に染めている。木の葉が風に揺れて、その影がゆらゆらと揺れた。どこかで鳥が鳴いた。遠くに、夕飯の匂いが漂ってくる。
日常が、ゆっくりと戻ってくる音がした。
「絵。また、教えてくださいね」
あいつが、立ち上がりながら言った。
お別れ、とは言わなかった。終わり、とも言わなかった。
また、描こう。それだけだった。
その言葉が、不思議なくらい、胸に残った。
「……そうね」
私も、立ち上がる。スケッチブックを抱える。
「次は、もっと上手くなっといてよね」
「努力します、えななん先輩」
「えななんって言うな」
「えななん先輩」
「聞いてた?」
いつもと同じくだり。あいつが笑う。私も、笑っていた。
夕焼けの中で、その笑顔が、やけに眩しく見えた。
あいつが歩き出す。その背中が、少しずつ遠くなっていく。
いつも通りみたいに。
何でもないみたいに。
手を振って。
笑って。
その背中が、少しずつ遠くなっていく。
私は、その姿を見ていた。
ただ見ていた。
呼び止める理由なんてない。
また会えるかもしれない。
学校も始まる。
私も前に進まなきゃいけない。
ちゃんと分かっている。
分かっているのに。視線だけが、あの背中を追いかける。
一歩。
また一歩。
遠くなる。
胸の奥が、妙にざわついた。
嫌な感覚だった。
何か大事なものが離れていく時の感覚に似ていた。違う、そんな大袈裟な話じゃない。
たった一週間だ。たった一週間、一緒に絵を描いただけ。
なのに。
なのに。
どうして。
こんなに苦しいんだろう。
手の中のスケッチブックへ力が入る。
呼吸が浅くなる。
喉の奥が熱い。
気づいた時には。
身体が動いていた。
「待って!!」
声が出た。
自分でも驚くくらい大きな声だった。
あいつが振り返って驚いたような、心配するようなそんな顔をする。
あいつのそんな顔を見た瞬間に、堰を切ったみたいに感情が溢れた。
――嫌だ。
——行ってほしくない。
――終わってほしくない。
また会えるとか。
そんなことじゃない。
今
今行ってしまうのが嫌だった。
私は走った。
みっともなく。
子どもみたいに。
人目なんて気にならなかった。
気づけば、その手を掴んでいた。
「え、絵名先輩?」
息が上がる。
言葉が出ない。
胸だけが苦しい。
離したくない。
ただそれだけだった。
「……嫌」
かすれた声が漏れる。
「え?」
「嫌……」
涙が滲む。
視界が歪む。
自分でも何を言っているのか分からない。
でも止まれなかった。
「行かないで……」
ぽろり、と涙が落ちる。
「嫌なの……」
情けなかった。
格好悪かった。
こんなの東雲絵名じゃない。
分かっている。
分かっているのに。
手を離せなかった。
「もう少し……」
震える声。
「もう少しだけでいいから……」
服を掴む。
必死に。
縋るみたいに。
「一緒にいて……」
夕焼けの光が滲む。
桜が揺れる。
胸の奥から溢れてくる感情の名前は、最後まで分からなかった。
恋なのか。
依存なのか。
寂しさなのか。
ただ一つだけ分かる。
今、私の目の前にいる、私を見つけてくれた人と離れるのが――
――どうしようもなく嫌だった。
お読みいただき…・ありがとう・・ございます!