『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
その日も、いつもと同じだった。
約束の時間に公園へ向かうと、絵名はもうベンチにいた。画材を広げて、スケッチブックを開いて、こちらを見るなり「遅い」と言った。
「時間通りですよ」
「気持ちの問題」
相変わらずだった。でも、その言葉の棘が、最初の頃よりずっと柔らかくなっているのを感じる。一週間で、絵名は変わった。いや、正確には——元に戻ってきた、という感じがした。
最初に絵画教室の前で見た、あの光のない目。あの"ひび"は、まだ完全には消えていない。でも、この一週間で、少しずつ、その輪郭が薄くなっていた。
ツッコミが上手くなった。笑うタイミングが増えた。絵を描いている時の表情が、柔らかくなった。絵名と話していると、時々、本当に楽しそうな顔をする。その顔を見るたびに、最初に感じていた心配が、少しずつ薄れていくのを感じていた。
——よかった。
素直に、そう思う。
この一週間、公園での時間は、俺にとっても特別なものになっていた。
最初は、絵名のことが心配で来ていた。あの深い"ひび"を、このまま見過ごすことができなかっただけだった。
でも、いつからか、それだけじゃなくなっていた。
絵名と並んで、鉛筆を動かす時間。くだらない言い合いをしながら、でもお互いちゃんと絵に向き合っている時間。木陰に落ちる光が変わっていく様子を、二人で眺めている時間。
それが、楽しかった。
純粋に、楽しかった。
気づいたら、この公園のベンチが、自分の居場所みたいになっていた。
絵を描き終わったのは、いつもより少し遅い時間だった。
夕暮れが、もう始まりかけている。空の端が、薄いオレンジ色に滲んでいた。
スケッチブックを閉じながら、言いづらいことを、ゆっくり口にした。
「明日から、少し来られなくなりそうで」
「……検査?」
「はい」
絵名は、少しだけ黙った。
短い返事だった。それ以上、聞いてこなかった。聞いてほしくない空気を、ちゃんと読んでくれた。
「えななん先輩は?」
「私も、明日から学校に戻ることになった」
「そっか」
なんだか、対称的だった。お互い、同じタイミングで、この時間が変わる。示し合わせたわけじゃないのに。
「なんか、悲しいですね」
思ったことが、そのまま口から出ていた。
絵名が、こちらを見る。
「本当にそう思ってるの?」
「思ってますよ」
嘘じゃなかった。
「この一週間、絵を描くの苦手だったのに、こんなに楽しくなるとは思ってなかった」
「……まあね」
「えななん先輩のおかげです。ありがとう」
絵名が、少しだけ目を細める。
「……どういたしまして」
「えななん先輩こそ」
「何よ」
「俺がいなくても大丈夫ですか?ちゃんとご飯食べられます?朝、起きられます?」
「あんた、誰目線なの」
「心配してるんですよ」
「年下のくせに」
「年齢は関係ないでしょ」
絵名が、呆れたような、でも少しおかしそうな顔をする。
「大丈夫よ。あんたに心配されるほど落ちぶれてないから」
「それならよかった」
少し、間が空く。
夕暮れの光が、石畳の上を橙色に染めている。木の葉が揺れて、その影が静かに揺れた。遠くで、夕飯の準備をしている匂いが、風に乗って漂ってくる。
「また、描きましょう」
立ち上がりながら、そう言った。お別れとは言いたくなかった。終わりとも言いたくなかった。
また、描こう。それだけで、十分だった。
「……そうね」
絵名も、立ち上がる。
「次は、もっと上手くなっといてよね」
「努力します、えななん先輩」
「えななんって言うな」
「わかりました! えななん先輩」
「聞いてた?」
歩き出す。石畳を踏む音が、少しだけ響く。
——絵名も、少しでも同じ気持ちだったらいいな。
そんなことを、ふと思った。
その直後だった。
「————まって!!」
後ろから、大きな声が聞こえた。
振り返る。
絵名が、そこに立っていた。
さっきまでの様子が、嘘みたいだった。元気よくツッコミを入れていた絵名じゃない。軽口を叩いていた絵名じゃない。小さな子どもが、泣くのを必死にこらえているみたいな顔をしていた。唇を、きゅっと結んでいる。目が、少し赤い。肩が、わずかに震えていた。
何も言えなかった。ただ、その場に立ったまま、絵名を見ていた。
絵名は、走って来た。そのまま、俺の服の袖を、両手でつかんだ。
俯いていて、顔が見えない。でも、その手の震えが、ちゃんと伝わってきた。
「……嫌」
かすれた声が聞こえた。
「え?」
「嫌……」
「行かないで……」
服を握る手に力がより入ったのが分かる。
「嫌なの……」
「もう少し……もう少しだけでいいから……」
「一緒にいて……」
声は小さいが、いつもの明るさも力もないが、それは絵名の心の叫びだった。
「……どうしたんですか」
できるだけ、静かに言った。
「何かあるなら、聞きたいです」
絵名は、黙っていた。
風が、二人の間を通り過ぎる。公園の木々が、さわさわと鳴った。
やがて、絵名が、ぽつりと話し始めた。
「絵が……絵が、描けないの」
掠れた声だった。
「一人で、家で描こうとすると、手が震えちゃって」
「なんでか、分からない。評価されることが怖いのか、精神的なものなのか、自分が弱いのかも分からない」
絵名の指が、俺の袖をきつく握る。
「でも、あんたといる時は、描ける」
「あんたの絵なら、手が動く」
少しだけ、間が空く。
「こんなこと、初めてで」
「こんな感情も、初めてで」
絵名が、顔を上げた。目が、赤かった。涙は、まだ零れていない。でも、ぎりぎりのところでこらえているのが分かった。
「もしかしたら、私」
息を吸う。
「絵を描くよりも、あんたといることが―――好きなのかもしれない」
その言葉が、夕暮れの空気の中に、静かに落ちた。急な告白に一瞬フリーズをする。でも、今の絵名の表情を見ていると喜びの感情が素直に出てこなかった。
「さっきまで、私自身気づかなかったけど。いま、あんたと明日から会えなくなるって考えたら急に怖くなったの」
絵名は、また少し俯く。でも、今度は顔を隠すためじゃなかった。自分の気持ちを、ちゃんと確かめているみたいだった。
「私、あんたのことが好きなの」
「……離れたくない」
声が、少し震えていた。
「ねぇ……私のそばにいて」
俺は、すぐには答えられなかった。絵名の言葉を、ちゃんと受け取りたかったから。軽く流したくなかったから。でも、それと同時に、正直に思うことがある。
——絵名の気持ちの正体が、本当のところまだ分からない。
恋なのか。依存なのか。救われたいだけなのか。
絵名自身も、その言葉通り、今分かっていない状況なのだ。
「絵名先輩」
静かに呼ぶ。今はまっすぐ語り掛ける。
「一週間、俺に絵を教えてくれて、どうでした」
絵名が、きょとんとした顔をする。
「……え? なんで今そんなこと聞くの」
「聞きたいんです」
「……楽しかった」
少し間を置いてから、絵名は答えた。
「あんたが、すごく吸収するから。教えてて、面白くて」
「なんで、そんなに上手く教えられたと思います?」
「それは……」
「絵名先輩が、それだけ悩んで、悩んで、絵と向き合ってきたから分かる目線があるから、だと思うんです」
「……」
「俺が一週間で絵を好きになれたのは、絵名先輩の見方があったから。どこが分からないか、どこで躓くか。それが分かったのは、絵名先輩が誰よりも絵と真剣に向き合ってきたからだと思う」
絵名は、黙っている。
「絵名先輩のこと、俺は本当にすごいと思ってる」
絵名の手が、少しだけ揺れた。
「だからこそ」
少し間を置く。
「絵名先輩の気持ちの正体、まだ分からなくていいと思います」
「……どういうこと」
「絵名先輩も、本当のところは自分の気持ちがまだわからないんですよね」
絵名が、視線を下にして自分の心に確かめる。
「……分かんない。でも、だからこそ、確かめたいの。あんたに正直に伝えたかったの」
頷く。
「俺も、分からないんです」
「え?」
「絵名先輩のことが、好きなのかもしれない。でも一週間じゃ、俺には決められない」
絵名が、少しだけ目を見開く。
「だから、今は答えを出さなくていいと思うんです。絵名先輩も、俺も」
「……それって」
絵名の声が、少し揺れる。
「遠回しに、断ってるってこと?」
「違います」
はっきり言う。
「俺は絵名先輩の絵が、本当に好きだ。えな先輩のことも、大切に思ってる」
「じゃあなんで」
「絵名先輩には、まず絵と向き合ってほしいから」
絵名が、黙る。
「家で一人では描けない。手が震える。それって、絵との間に、まだ片付けられてないものがあるってことだと思う」
「……」
「俺といる時だけ描けるって言ってくれたのは嬉しい。でも、俺がいないと描けない、になってほしくない」
「絵名先輩の絵は、えな先輩のものだから」
絵名は、しばらく何も言わなかった。
夕暮れの光が、二人の間に長く落ちている。風が吹くたびに、木の葉の影が揺れる。どこかで鳥が一声鳴いて、静かになった。
「……絵名先輩はそんなに弱くない」
静かに言う。
「絵が好きで、ずっと向き合ってきた人だから。俺は、それを知ってる」
その瞬間。
「やめて」
絵名の声が、震えた。
「やめてよ、そういうこと言うの」
「絵名先輩——「やめて!」」
「今、拒絶されたら……たぶん立ち直れない。本当に、立ち直れないと思うの」
その言葉の重さが、ちゃんと伝わってきた。
軽くない言葉だった。だから、軽く流すわけにはいかなかった。
「拒絶してるんじゃないよ」
ゆっくり、はっきり言う。でも、丁寧な言葉が少し崩れてしまう。
「俺は、絵名先輩の気持ち、ちゃんと受け取った」
「じゃあ——」
「でも」
絵名の言葉を、少し止める。
「絵と向き合って、それでもまだ俺のことを好きでいてくれるなら、その時は——」
言葉を、そこで止めた。
「———————」
絵名は、しばらく黙っていた。袖を掴んでいた手が、少しずつ力を失っていく。でも、離さなかった。
「……ほんと?」
小さな声だった。
「信じていい?」
「信じていい」
迷わず答えた。
「また悩んだら、いつでも相談してきていいです。俺にできることは少ないですけど、話を聞いてちょっとわがままで甘えん坊な先輩のことを慰めてあげます」
少し砕けてみたが、本心でもあった。いつでも頼ってほしい。一人で抱えないでほしいと本気で思っている。
長い沈黙が落ちた。
風が、二人の間を通り過ぎる。夕焼けが、空の端でまだ燃えていた。
やがて。絵名が、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
掠れた声だった。
「今は、分からなくていい、んでしょ」
「うん」
「絵と……絵ともう一度、向き合ってみる」
その言葉は、決意とも諦めとも違った。もっと曖昧で、でも確かな何かを含んでいた。答えを見つけた声じゃない。答えを探し始める声だった。
「……ちゃんと待っててよね」
絵名が、ぼそっと言う。
「待ってます」
「えななん先輩って言わないで待ってよね」
「ちょっとよくわからないですけど、わかりました。 えななん先輩として待ってます」
「聞いてた?」
絵名が、涙の跡の残る目で、ちょっとだけ笑った。
それから、スカートのポケットから、スマホを取り出す。指先が、まだ少し震えていた。
「……あんたさ……携帯、持ってる?」
照れくさそうに、少し視線を逸らしながら言う。
「今まで交換しなかったの、なんか不思議よね」
「そうですね」
思わず笑ってしまった。
「じゃあ、繋がっておこうか」
「……うん」
連絡先を交換する間、二人とも何も話さなかった。
ただ、それで良かった。
言葉にしてしまったら、今この瞬間の温度が、少し変わってしまう気がしたから。
交換が終わって、絵名がスマホをポケットに戻す。
それから、スケッチブックを抱え直して、少しだけこちらを見た。
何かを言おうとして、やめた。
その代わりに。
「また、一緒に描きましょ」
ぼそっと、言った。
さっき俺が言った言葉を、そのまま返してきた。でも、同じ言葉じゃなかった。
さっきまで泣きそうだった声が、少しだけ、前を向いていた。全部が解決したわけじゃない。絵のことも。自分の気持ちのことも。何一つ、片付いていない。それでも。
また、描こう、と言えた。
その事実だけが、夕暮れの空気の中に、静かに残った。
「もちろんです。また絵を教えてください」
それだけ返した。それ以上は、要らなかった。
絵名は、踵を返す。
夕焼けが、その背中を深い橙色に染めていく。長い影が、石畳の上を、ゆっくりと伸びていく。
振り返らなかった。
でも、歩き方が、来た時とは違った。どこへ向かっているか、ちゃんと分かっている人の歩き方だった。
その背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
公園に、静けさが戻ってくる。
風が吹いて、木の葉がさわさわと鳴った。
石畳の上に、一つだけ、影が残っていた。
夕焼けが、ゆっくりと、夜へ変わっていく。
——また、描こう。
その言葉だけが、胸の奥で、静かに灯っていた。
絵名と並んで絵をかける世界線。。。
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