『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』   作:krowknown

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2 この世界の空は少しだけ遠かった

 夕焼けの色は、さっきよりも少しだけ濃くなっていた。

 オレンジが赤に変わりかけている。その境目が曖昧で、どちらでもない色が空の真ん中をゆっくりと染めていた。公園には人影が少なく、ブランコが風に押されて、きい、と小さく鳴っている。

 静かだった。

 その静けさの中で、目の前にいる暁山瑞希だけが、妙に輪郭を持って浮かび上がって見える。ピンク色の髪。細い肩。夕焼けを正面から受けた横顔が、少しだけ絵画みたいだった。

 

「ねえ」

 

 軽い声。視線はまっすぐだった。

 

「もう一回、歌ってみてよ」

 

 やっぱり来た。

 予想はしていた。普通に嫌だ。

 

「断る」

 

 即答。反射レベルの拒否だった。

 

「なんで?」

「なんでって……」

 

 少しだけ言葉に詰まる。説明するのも馬鹿らしいが、しないとこの目の前の美少女には通じない気がした。

 

「自分の下手さを再確認する趣味はない」

「あはは、なにそれ」

 

 瑞希はお腹に手を当てて、楽しそうに笑う。完全に面白がっている顔だった。

 そのままの流れで、ベンチに腰を下ろしてくる。距離が近い。こんなにぐいぐい来るキャラだったか、と一瞬疑問が頭をよぎるが、目の前に憧れの美少女がいるシチュエーションで冷静でいられるほど、俺はできた人間ではない。

 

「さっきの、ちょっと気になってるんだよね」

「どこが?」

「全部」

「雑すぎるだろ」

 

 思わずツッコミが出る。そのやり取りが妙に自然で、自分でも少し驚く。初対面のはずなのに、会話が引っかからない。転がるみたいに、するする進んでいく。

 

「ほら」

 

 瑞希は首をかしげた。

 

「一回だけ」

 

 押してくるわけじゃない。引く気もない。絶妙に断りづらい距離感。

 少しだけ迷ってから、ため息をついた。

 

「……一回だけだぞ」

「うん」

 

 満足そうに頷く。その表情が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。

 軽く息を吸う。喉が、わずかに乾いている。

 ——なんでこんなに緊張してるんだ。さっきも歌ったはずなのに。

 

「……♪」

 

 音が、外れる。

 自分でもはっきりわかる。狙った場所に届かない。どれだけ意識しても、どこかがずれる。

 まるで、自分自身みたいだと思った。どこか足りなくて、どこか噛み合っていない。途中で止めるのはやめた。最後まで歌い切る。

 ——逃げたくなかった。

 沈黙。風が通り過ぎる。ブランコが、また小さく鳴った。

 

「……ねえ」

 

 瑞希の声が、少しだけ近くなった。

 

「やっぱり、下手だね」

「知ってる」

 

 またもや即答。ここはもうダメージを受けるところじゃない。受け入れた方が楽だ。

 ……そう思っていたのに。

 

「でもさ」

 

 その一言で、視線が自然と上がる。

 瑞希は、さっきと同じように笑っていた。少しだけ違う。さっきより、もう少しだけ内側にある笑い方だった。

 

「やっぱり君の歌、ボクは好きだなって思ったよ」

 

 少し間を置いてから、続ける。

 

「聞いてると、なんか温かくなるんだよね。普段、初対面の人とこんなに話せないのに。君とならこんなに話せるのって、そういうのが理由かもね」

 

 軽く言っているのに、その言葉だけが妙に残った。上手いとか下手とかじゃなくて、もっと曖昧で、大事な部分。そこを、この子は見ている。

 ——この子は、そういうやつなんだと、なんとなくわかった。

 

「……変わってるな」

「よく言われる」

 

 くすっと笑う。その表情は自然だった。

 ——自然、なはずなのに。

 

(……あれ)

 

 ふと、違和感が走る。

 瑞希の周りに、ほんのわずかな"ズレ"が見えた気がした。笑っている。その奥に何かがある。言葉にできない、小さなひびみたいなもの。さっきも一瞬見えた、あのズレだ。

 無意識に、意識がそこへ向く。

 瞬間、頭の奥が軽く痛んだ。思わず手で押さえる。

 

「っ……」

「え、ちょっと大丈夫?」

 

 距離が一気に近づく。心配そうな声。現実に引き戻される。

 

「……大丈夫。ありがとう」

 

 短く答える。

 今のは、気のせいじゃない。

 ——これが、能力なんだろう。

 相手の"見せたくない何か"を、勝手に感知してしまう力。まだはっきりとはわからない。この子の奥にある何かを、指していた。

 

「変なやつだね」

 

 瑞希は少しだけ笑った。その笑みの奥にあるものを、俺はもう無視できなかった。

 

「ねえ」

 

 ぽつりと、瑞希が言う。

 

「きみさ」

「ん?」

「暇?」

「急だな」

「いいから」

 

 軽い口調に戻る。さっきまでの空気が嘘みたいに。それが"全部同じもの"だということも、なんとなくわかる。この子の軽さは、逃げじゃない。これがそのままの暁山瑞希なのだ。

 

「ボクと遊ばない?」

 

 その一言に、少しだけ心が動いた。ただの気まぐれじゃない。そんな気がした。

 

「……いいけど」

 

 自然と答えていた。

 瑞希は満足そうに頷く。

 

「じゃあ決まり」

 

 くるりと背を向けて、歩き出す。その後ろ姿を見ながら、ゆっくりと立ち上がった。夕焼けの中で、影が長く伸びる。

 胸の奥に、わずかなざわつきが残っていた。期待か、不安か。たぶん、両方だ。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 ——この出会いは、きっと軽くない。

 

 暁山瑞希は、特に行き先を決めるでもなく歩いていた。

 軽い足取り。その背中にはどこか"慣れ"のようなものがあった。迷っているんじゃない。あてなく歩くことに慣れている人の歩き方だった。

 

「どこ行くんだ?」

「んー、特に決めてない」

 

 振り返らずに答える。

 

「適当だな」

「いいじゃん、そういうの」

 

 くすっと笑う声が返ってくる。

 そのまま少し歩くと、小さな商店街に出た。人通りはそこそこある。部活帰りらしい学生の集まり。買い物袋を提げた主婦。自転車で走り抜けていく小学生。夕方の商店街特有の、昼でも夜でもない、少しだけざわついた空気。

 どこかの店から、焼き鳥の匂いが漂ってくる。肉屋のコロッケが揚がる音。八百屋のおじさんが、常連客と笑いながら話している。見ているだけで、この街に"生活"があるのを感じた。

 不意に、瑞希が立ち止まる。

 

「これ、どう思う?」

 

 指差した先には、小さな雑貨屋があった。ショーウィンドウに、可愛らしい小物が並んでいる。リボン。アクセサリー。小さなぬいぐるみ。どれも色合いが柔らかくて、夕焼けを受けたガラスがきらきらと光っていた。

 

「似合いそうだけど」

 

 素直に答える。瑞希の雰囲気には、確かに合っている。

 

「ほんと?」

 

 少しだけ、声が弾んだ気がした。その一瞬だけ、瑞希の表情がやわらかくなる。

 ——その瞬間だった。

 店の中から出てきた数人の男子グループが、こちらを見て小さく笑った。

 瑞希が、一瞬で気づいたのがわかった。

 

「あっ……」

 

 小さく声が漏れる。視線が、すっと下に落ちる。

 向こうも気づいたらしかった。

 

「あれ、瑞希じゃね?」

 

 聞こえるか聞こえないかくらいの声。確かに届いた。

 その後の会話は、よく聞こえなかった。チラチラとこちらを見ながら、何かを言い合って笑っている。声のトーンと視線の動きで、全部伝わってくる。知っている。ああいう空気を。誰かをこちら側とあちら側に分ける時の、あの笑い方。

 一瞬だけ。本当に一瞬だけ。

 瑞希の足が止まった。呼吸が、わずかに浅くなる。

 それだけ。次の瞬間には、何事もなかったみたいに視線を外していた。

 

「……やめとこっか」

 

 軽い口調。さっきまでと同じ声色。

 

 (違う)

 

 何かが、ほんの少しだけずれている。声の温度が、さっきより一度だけ低い。

 

「いや」

 

 気づけば、言葉が出ていた。

 

「似合うって言っただろ」

 

 自分でも少し驚く。思ったより強めな声だった。こんなふうに言うつもりはなかった。口が勝手に動いていた。

 瑞希が、こちらを見る。

 その目が、ほんの少しだけ揺れていた。

 

「……ありがと」

 

 小さく、そう言った。

 笑っている。その奥にあるものを、今度ははっきりと感じた。さっき公園で見えた"ひび"みたいなもの。今は、もう少しだけ輪郭を持っている。完全には見えない。確実にそこにある。

 ——これが、暁山瑞希の"弱点"なのだ。

 

 なんだか無性に腹が立ってきた。あの男子グループに対してなのか、傷ついた瑞希の反応に対してか、何もできない自分に対してか。たぶん全部に対してだ。

 気づいたら、瑞希の手を掴んでいた。そのままショーウィンドウの中へ引っ張り込んで、迷わず赤いリボンを掴んでレジへ向かう。周りが何を言おうと関係ない。

 店を出て、瑞希に差し出す。

 さっきまで呆然としていた瑞希が、ようやく意識を取り戻したように瞬きをした。片手で前髪を触りながら、照れくさそうにそっと受け取る。

 

「きみってさ」

「ん?」

「変なとこで、変なことするよね」

「褒めてる?」

「半分くらい」

 

 くすっと笑う。さっきよりも、ほんの少しだけ自然な笑い方だった。

 

「そういうの、嫌いじゃないよ。大切にするね」

「……そりゃどうも」

 

 こっちも少し照れくさくなって、視線を外した。そのまま、また歩き出す。さっきよりも少しだけ、距離が近いまま。並んで歩く感覚が、いつの間にか自然になっていた。

 

 気づけば日が沈みきる少し手前の時間だった。

 空の色は、オレンジから群青へとゆっくり移り変わっていた。その境目が曖昧で、どちらでもない色がそのまま空に溶けている。建物の窓に灯りがひとつ、またひとつと点き始めて、昼と夜のあいだにある短い"余白"のような時間が、静かに流れていた。

 商店街を抜けたあと、瑞希は人通りの少ない道を選ぶように歩いていた。アスファルトには昼間の熱がわずかに残っていて、歩くたびに靴底からじんわりとした温度が伝わってくる。

 どこかの家から、夕飯の匂いが流れてきた。味噌汁か、煮物か。具体的にはわからないが、妙に落ち着く匂いだった。遠くでテレビの音。笑い声。食器の触れ合う音。

 ——誰かの"普通の生活"。

 それが、やけに遠く感じた。自分には、まだそういう場所がない。この街に来たばかりで、帰る家はあるのに、帰る"日常"がない。そんな感覚が、じんわりと胸に残る。

 街灯がぽつぽつと灯り始め、その光が等間隔に道を区切っていく。そのたびに、影が伸びたり縮んだりした。並んでいるはずなのに、影の距離だけが微妙に揺れていた。

 

「……静かだな」

 

 なんとなく、そんな言葉がこぼれた。

 

「そうだね」

 

 瑞希は前を見たまま答える。

 

「ボクはこういう時間、好きだな」

 

 風が吹く。昼間よりも少しだけ冷たくなった空気が、髪を揺らした。街灯の光を受けて、ピンク色がやわらかく浮かび上がる。この薄暗い時間帯の街の中で、その色だけが少しだけ違う温度を持って見えた。

 

「ねえ」

 

 瑞希が、ふと立ち止まる。視線の先には、先ほどとは違う小さな公園があった。人気はない。滑り台とブランコが、暗がりの中にぼんやりと浮かんでいる。

 

「ちょっと座っていかない?」

「さっきも公園じゃなかったか」

「いいじゃん」

 

 軽く笑う。

 

「公園、好きなんだよね」

 

 その言い方に、ほんの少しだけ引っかかりを覚えた。好き、という言葉の奥に、もう少し別の何かがある気がした。足は自然とそちらへ向かっていた。

 ベンチに腰を下ろす。昼間の熱はもうほとんど残っておらず、木の表面は少しだけ冷えていた。

 少しの沈黙。街灯の明かりと、遠くの生活音だけが、静かに流れている。

 

「……さっきさ」

 

 瑞希が、ぽつりと口を開いた。

 

「変なこと言ってたよね、きみ」

「どれだ」

「"似合う"ってやつ」

「本当にそう思ったからな」

 

 迷いのない答えだった。考えてから言ったんじゃない。当たり前みたいに。

 

「……そっか」

 

 少し間を置いてから、先ほどもらったリボンを自分の頭の横にそっと近づける。恥ずかしさと緊張を半分ずつ混ぜたような表情で聞いてくる。

 

「どう? 似合う?」

「うん。やっぱり似合ってる。瑞希はもとがいいから、何でも似合うよ」

「……ストレートすぎでしょ」

 

 リボンを袋にしまって、少し黙った。その沈黙は重くなかった。むしろ、どこか心地よい。

 瑞希は前を向いたまま、膝の上に手を置いている。さっきまでの軽い調子とは違って、少しだけ静かな表情だった。街灯の光が横から当たって、顔の半分に影が落ちる。その影のせいか、表情の奥が読み取りにくい。

 

「……ねえ」

 

 少し時間を置いて、また声が落ちる。

 

「きみってさ」

「ん?」

「なんで、ああいうの平気なの?」

「……ああいうの?」

「さっきの、視線とか」

 

 雑貨屋の前。あの空気。言葉の調子は軽く聞こえる。その選び方が少しだけ慎重だった。直接は言わない。避けてもいない。そんな距離。

 

「……慣れてる、のかもな」

 

 ようやく出てきた言葉は、それだった。正確かどうかはわからない。嘘ではない気がした。

 

「へえ」

 

 瑞希が、小さく相槌を打つ。

 

「ボクも、慣れてるよ」

 

 その言い方は、軽かった。

 

 (違うな)

 

 さっきよりもはっきりとわかる。その言葉の奥にあるもの。瑞希の"慣れてる"は、少し違う気がした。慣れさせられてきた。そうしないと壊れてしまうから。そんな響きだった。

 無意識に、視線がそちらへ向く。

 ——見える。

 

 うっすらと。昼間よりも、はっきりと。

 瑞希の周りに、細い"ひび"のようなものが浮かんでいた。ガラスの表面に入る、目立たない亀裂みたいなもの。触れれば壊れそうで、普段は誰も気づかない。そんな脆さ。その奥に、何かがある。まだ届かない。見えるのは表面だけだ。

 

「……なんか、すごく見てくるね」

 

 不意に言われて、意識が戻る。

 

「ああ、悪い。癖みたいなもんだ」

「変な癖だね」

 

 くすっと笑う。その笑い方は、いつも通りに戻っていた。さっき見えた"ひび"は消えていない。ただ、見えにくくなっただけだ。

 しばらく、何も話さずに座っていた。言葉がなくても、時間は流れる。虫の声が、どこかで鳴き始めていた。夜が、ゆっくりと街に広がっていく。

 

「……そろそろ帰る?」

 

 瑞希が立ち上がる。軽くスカートの裾を払う仕草が、やけに自然だった。

 

「そうだな」

 

 続いて立ち上がる。ベンチの冷たさが、少しだけ名残惜しい。

 

「またね」

 

 あっさりとした言葉。その一言にほんの少しだけ"余白"があった。終わりきっていない感じ。続きがある前提の言い方。

 

「ああ、またな」

 

 そう返す。それだけで、十分だった。

 瑞希は軽く手を振って、暗がりの中へと歩いていく。街灯の明かりをひとつ、またひとつと通り過ぎるたびに、ピンク色が遠くなっていく。やがて、見えなくなった。

 静けさだけが残る。

 夜の空気が、少しだけ肌に触れた。

 

(……なんなんだろうな)

 

 胸の奥に、引っかかりが残っている。はっきりとした形はない。確実に何かがある。

 放っておけないもの。目を逸らしたくないもの。理由はわからない。

 小さく息を吐く。

 夜空を見上げると、いくつかの星が見えていた。街の灯りに負けながらも、それでもちゃんとそこにあった。

 

 この世界の空は、思っていたよりもずっと静かで。

 そして、少しだけ遠かった。

 ——嫌いじゃない、と思った。

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