『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
夕焼けの色は、さっきよりも少しだけ濃くなっていた。公園には人影が少なく、ブランコが風に押されて、きい、と小さく鳴っている。
静かだった。
その静けさの中で、目の前にいる暁山瑞希だけが、妙に輪郭を持って浮かび上がって見える。
「ねえ」
軽い声。けれど、視線はまっすぐだった。
「もう一回、歌ってみてよ」
やっぱり来た。
予想はしていたが、普通に嫌だ。
「断る」
即答。
反射レベルでの拒否だった。
「なんで?」
「なんでって……」
少しだけ言葉に詰まる。説明するのも馬鹿らしいが、しないとこの目の前の美少女——暁山瑞希には通じない気がした。
「自分の下手さを再確認する趣味はない」
「あはは、なにそれ」
瑞希はお腹に手を当てて、楽しそうに笑う。
完全に面白がっている顔だった。
「でもさ」
その流れで、ベンチに座ってくる。こんなぐいぐい来るキャラだったか? 一瞬疑問が頭をよぎるが、目の前に憧れの美少女がいるシチュエーションで頭が回るほど俺はできた人間ではない。
「さっきの、ちょっと気になってるんだよね」
「どこが?」
「全部」
「雑すぎるだろ」
思わずツッコミが出る。そのやり取りが妙に自然で、自分でも少し驚く。
初対面のはずなのに、会話が引っかからない。
転がるみたいに進んでいく。これも偏に瑞希のコミュニケーション能力の賜物だろう。
「ほら」
瑞希は首をかしげた。
「一回だけ」
押してくるわけじゃない。
でも、引く気もない。
絶妙に断りづらい距離感。
少しだけ迷ってから、ため息をついた。
「……一回だけだぞ」
「うん」
満足そうに頷く。
その表情が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
軽く息を吸う。
喉が、わずかに乾いている。
――なんでこんなに緊張してるんだ。
さっきも歌ったはずなのに。
「……♪」
音が、外れる。
自分でもはっきりわかる。
狙った場所に届かない。
どれだけ意識しても、どこかがずれる。
まるで、自分自身みたいだと思った。どこか足りなくて、どこか噛み合っていない。それでも、途中で止めるのはやめた。最後まで歌い切る。
――逃げたくなかった。
沈黙。
風が通り過ぎる。
「……ねえ」
瑞希の声が、少しだけ近くなった。
「やっぱり、下手だね」
「知ってる」
またもや即答。
ここはもうダメージを受けるところじゃない。
受け入れた方が楽だ。
……そう思っていたのに。
「でもさ」
その一言で、視線が自然と上がる。
瑞希は、さっきと同じように笑っていた。
でも、少しだけ違う。
「やっぱり君の歌、ボクは好きだなって思ったよ。聞いていると気持ちが温かくなる。普段は初対面の人と僕だってこんな話せないのに、君とならこんなに話せるのはそういうのが理由かもね」
軽く言っているのに、その言葉だけ妙に残る。上手いとか下手とかじゃなくて、もっと曖昧で、でも大事な部分。
そこを見ている。
――この子は、そういうやつなんだと、なんとなくわかった。
「……変わってるな」
「よく言われる」
くすっと笑う。
その表情は自然だった。
――自然、なはずなのに。
(……あれ)
ふと、違和感が走る。
瑞希の周りに、ほんのわずかな“ズレ”が見えた気がした。
笑っている。
でも、その奥に何かがある。
言葉にできない、小さなひびみたいなもの。先ほども一瞬見えていたズレ。
無意識に、意識がそこへ向く。
瞬間、頭の奥が軽く痛み手で押さえる。
「っ……」
「え、ちょっと大丈夫?」
距離が一気に近づく。
心配そうな声。
現実に引き戻される。
「……大丈夫。ありがとう」
短く答える。
今のは、気のせいじゃない。
――これが、能力。
相手の見せたくない“何か――弱点――”を見てしまう力。まだ、はっきりとはわからないけど、そう思った。
「変なやつだね」
瑞希は少しだけ笑った。
けれど、その笑みの奥にあるものを、俺はもう無視できなかった。そんな俺の心の中の葛藤を察してか瑞希が話題を変えてくる。
「ねえ」
ぽつりと、瑞希が言う。
「きみさ」
「ん?」
「暇?」
「急だな」
「いいから」
軽い口調に戻る。
さっきまでの空気が嘘みたいに。
でも、それが“全部同じもの”だということも、なんとなくわかる。
「ボクと遊ばない?」
その一言に、少しだけ心が動いた。
これはただの気まぐれじゃない。
そんな気がする。
「……いいけど」
自然と答えていた。
瑞希は満足そうに頷く。
「じゃあ決まり」
くるりと背を向けて、歩き出す。
その後ろ姿を見ながら、ゆっくりと立ち上がる。
夕焼けの中で、影が長く伸びる。
だけど、胸の奥に僅かなざわつきが残っていた。期待か、不安かはわからない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
――この出会いは、きっと軽くない。
暁山瑞希は、特に行き先を決めるでもなく歩いていた。
軽い足取り。
けれど、その背中にはどこか“慣れ”のようなものがあった。
「どこ行くんだ?」
「んー、特に決めてない」
振り返らずに答える。
「適当だな」
「いいじゃん、そういうの」
くすっと笑う声が返ってくる。そのまま少し歩くと、小さな商店街に出た。人通りはそこそこあって、部活帰りらしい学生や買い物袋を持った人が行き交っている。
不意に、瑞希が立ち止まる。
「これ、どう思う?」
指差した先には、小さな雑貨屋があった。
ショーウィンドウには、可愛らしい小物が並んでいる。リボン、アクセサリー、ぬいぐるみ。どれも色合いが柔らかくて、どちらかといえば“女の子向け”の雰囲気だ。
「似合いそうだけど」
素直に答える。瑞希の雰囲気には、確かに合っている。
「ほんと?」
少しだけ、声が弾んだ気がした。
けれど、その次の瞬間。
店の中から出てきた中学生くらいの男子グループが、こちらを見て小さく笑った。聞こえるか聞こえないかくらいの声で、何かを言う。内容まではわからない。
でも、空気はわかる。
ああいう笑い方は、知っている。
――昔、どこかで見たことがある。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
瑞希の足が止まった。呼吸が、わずかに浅くなる。
それだけ。
次の瞬間には、何事もなかったみたいに視線を外していた。
「……やめとこっか」
軽い口調。
さっきまでと同じ声色。
でも。
(違うな)
何かが、ほんの少しだけずれている。
「いや」
気づけば、言葉が出ていた。
「似合うって言っただろ」
自分でも、少し驚く。思ったよりも強めな声で言葉を返していた。こんなふうに言うつもりはなかった。
でも、口が勝手に動いてしまっていた。
瑞希が、こちらを見る。
その目が、ほんの少しだけ揺れていた。
「……ありがと」
小さく、そう言った。
笑っている。
でも、その奥にあるものを、今度ははっきりと感じた。
さっき公園で見えた“ひび”みたいなもの。今は、もう少しだけ輪郭を持っている。完全には見えない。でも、確実にそこにある。
――これが、秋山瑞希の“弱点”なのだ。
なんだか無性に腹が立ってきた。中学生の男子に対してなのか、瑞希の反応に対してか、無力な自分や、この世界に向けてなのかはわからない。だけど、それらすべてにあらがうように瑞希の手をつかみ、瑞希の先ほど指さしたもの中から赤い可愛らしいリボンをつかみレジに向かう。
周りがはやし立てようとも関係ない。
店を出て、瑞希にリボンを渡すと先ほどまでされるがままのような状態だった瑞希の意識が戻り、片手で前髪を触りながら照れくさそうに受け取ってくれた。
瑞希が、少しだけ距離を詰める。
「きみってさ」
「ん?」
「変なとこで、変なこと言うよね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
くすっと笑う。さっきよりも、ほんの少しだけ自然な笑い方だった。
「でもさ」
少しだけ視線を逸らしてから、また戻す。
「そういうの、嫌いじゃないよ。大切にするね」
「……そりゃどうも」
こっちも少し照れくさくなって、視線を外す。そのまま、また歩き出す。
さっきよりも少しだけ、距離が近いまま。
並んで歩く感覚が、自然になっていた。
気付けば日が沈みきる少し手前の時間だった。
空の色は、オレンジから群青へとゆっくりと移り変わり、境目が曖昧になっている。建物の窓には灯りが点き始めていて、昼と夜のあいだにある、短い“余白”のような時間だった。
商店街を抜けたあと、瑞希は人通りの少ない道を選ぶように歩いていた。
さっきまでの賑やかな通りとは違い、こちらは住宅街に近い。
アスファルトには昼間の熱がわずかに残っていて、歩くたびに靴底からじんわりとした温度が伝わってくる。
どこかの家から、夕飯の匂いが流れてきた。
味噌汁か、煮物か。具体的にはわからないが、妙に落ち着く匂いだった。
遠くでテレビの音。
笑い声。食器の触れ合う音。
――誰かの“普通の生活”。
それが、やけに遠く感じた。
隣を歩く瑞希は、相変わらず軽い足取りのままだった。
街灯がぽつぽつと灯り始め、その光が等間隔に道を区切っていく。
そのたびに、影が伸びたり縮んだりする。
並んでいるはずなのに、影の距離だけが微妙に揺れていた。
「……静かだな」
なんとなく、そんな言葉がこぼれた。
「そうだね」
瑞希は前を見たまま答える。
「ボクはこういう時間、好きだな」
風が吹く。
昼間よりも少しだけ冷たくなった空気が、髪を揺らした。街灯の光を受けて、ピンク色がやわらかく浮かび上がる。その色が、この時間帯の街の中で、少しだけ異質に見えた。
「ねえ」
瑞希が、ふと立ち止まる。
視線の先には、先ほどとは違う小さな公園があった。
昼間とは違って、人気はない。
滑り台とブランコが、暗がりの中にぼんやりと浮かんでいる。
「ちょっと座っていかない?」
「さっきも公園じゃなかったか」
「いいじゃん」
軽く笑う。
「公園、好きなんだよね」
その言い方に、ほんの少しだけ引っかかりを覚えた。でも、深く考える前に、足は自然とそちらへ向かっていた。
ベンチに腰を下ろす。昼間の熱はもうほとんど残っておらず、表面は少しだけ冷えていた。
少しの沈黙。
街灯の明かりと、遠くの生活音だけが、静かに流れている。
「……さっきさ」
瑞希が、ぽつりと口を開いた。
「変なこと言ってたよね、きみ」
「どれだ」
「“似合う”ってやつ」
ああ、と小さく息をつく。
確かに言った。
「本当にそう思ったからな」
特に深い意味はない。
ただ、そう見えただけだ。
「……そっか。どう? 似合う?」
先ほど俺からもらったまだ値札のついている赤いリボンを自分の頭に近づけ、恥ずかしさと緊張を合わせたような表情でそう聞いてくる。
「うん。やっぱり似合ってる。瑞希はもとがいいから何でも似合うよ」
「……ストレートすぎでしょ」
瑞希はリボンを袋にしまい、少し黙ってしまった。しかしその沈黙は重くはなかった。
むしろ、どこか心地よい。
瑞希は、前を向いたまま膝に手を置いている。さっきまでの軽い調子とは違って、少しだけ静かな表情だった。街灯の光が横から当たって、顔の半分に影が落ちる。
その影のせいか、表情の奥が読み取りにくい。
「……ねえ」
少し時間を置いて、また声が落ちる。
「きみってさ」
「ん?」
「なんで、ああいうの平気なの?」
「……ああいうの?」
「さっきの、視線とか」
リボンを買った雑貨屋さんで会った中学生のことだろう。瑞希はまだあのことを少し引きずっていたのだ。
言葉の調子は軽くきこえる。けれど、その選び方が少しだけ慎重だった。
直接は言わない。
でも、避けてもいない。
そんな距離。
少しだけ考える。
答えは、すぐには出てこなかった。
「……慣れてる、のかもな」
ようやく出てきた言葉は、それだった。正確かどうかはわからない。
でも、嘘ではない気がした。
「へえ」
瑞希が、小さく相槌を打つ。
「ボクも、慣れてるよ」
その言い方は、軽かった。
でも。
(違うな)
さっきよりもはっきりとわかる。その言葉の奥にあるもの。
瑞希の慣れているは、少し違う気がした。
慣れさせられてきた。そうしないと壊れてしまうから。
そんな響きだった。
無意識に、視線がそちらへ向く。
――見える。
うっすらと。
昼間よりも、はっきりと。
瑞希の周りに、細い“ひび”のようなものが浮かんでいた。ガラスの表面に入る、目立たない亀裂みたいな。触れれば壊れそうで、でも普段は誰も気づかない。
そんな脆さ。
その奥に、何かがある。
けれど、まだ届かない。
見えるのは表面だけだ。
「……なんか、すごく見てくるね」
不意に言われて、意識が戻る。
「ああ、悪い」
視線を逸らす。
「癖みたいなもんだ」
「変な癖だね」
くすっと笑う。
その笑い方は、いつも通りに戻っていた。でも、さっき見えた“ひび”は消えていない。ただ、見えにくくなっただけだ。
しばらく、何も話さずに座っていた。
言葉がなくても、時間は流れる。
虫の声が、どこかで鳴き始めていた。
夜が、ゆっくりと街に広がっていく。
「……そろそろ帰る?」
瑞希が立ち上がる。
軽くスカートの裾を払う仕草が、やけに自然だった。
「そうだな」
続いて立ち上がる。
ベンチの冷たさが、少しだけ名残惜しい。
「またね」
あっさりとした言葉。けれど、その一言にほんの少しだけ“余白”があった。
終わりきっていない感じ。
続きがある前提の言い方。
「ああ、またな」
そう返す。それだけで、十分だった。
瑞希は軽く手を振って、暗がりの中へと歩いていく。街灯の明かりを一つ、また一つと通り過ぎるたびに、姿が小さくなっていく。やがて、見えなくなった。
静けさだけが残る。
夜の空気が、少しだけ肌に触れた。
(……なんなんだろうな)
胸の奥に、引っかかりが残っている。
はっきりとした形はない。
でも、確実に何かがある。
放っておけないもの。
目を逸らしたくないもの。
理由はわからない。
小さく息を吐く。
夜空を見上げると、いくつかの星が見えていた。
この世界の空は、思っていたよりもずっと静かで。
そして、少しだけ遠かった。