『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
夕焼けの色が、街をゆっくり染めていた。
オレンジ色に溶ける空。長く伸びる影。風に揺れるブランコ。
暁山瑞希は、公園の入口で足を止めた。
今日は日曜日だった。
学校のある日は制服を着て、適当に笑って、適当に距離を取って——"そこにいるだけ"をこなす。それがいつものことだった。今日だけは、自分が選んだ服を着ていい日だ。
淡い色のトップス。柔らかいシルエットのスカート。髪はいつもより丁寧に整えて、鏡の前で少しだけ時間をかけた。
誰かに見せるためじゃない。ただ、こういう自分でいたいから。それだけの理由で外に出てきた。
誰にも気を遣わなくていい時間。誰にも"見られない"時間。
——そのはずだった。
商店街を抜けて、住宅街を歩いて、気づいたらここに来ていた。
公園。
誰もいない。ブランコだけが、風に押されてきい、と鳴っている。
ベンチに腰を下ろして、空を見上げた。
オレンジ色が、少しずつ赤に変わっていく。境目が曖昧で、どちらでもない色が空の真ん中に広がっていた。
——消えたいな。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
死にたい、とは違う。ただ、今の自分のままでいることに、少し疲れてしまっただけだ。
可愛いものが好き。それだけのことが、こんなにも重い。
笑われた。引かれた。気味悪がられた。最初は痛かった。今は痛くない。痛くないのが、むしろ怖い。いつの間にか、傷つくことにすら慣れてしまっていた。
だから今は、上手くやっている。笑って、かわして、深く踏み込ませない。
それでいい。
そう思っていた。
——そのときだった。
「~~♩~~♬♪」
公園の奥の方から、微かに歌声が聞こえた。
……いや。
正確には"歌"なのか、一瞬わからなかった。
音程が、ひどい。びっくりするくらいひどい。外れているとか、そういうレベルじゃない。迷ってる。完全に遭難してる。地図も持たずに、方角すら確かめずに、それでも歩き続けているみたいな音だった。
普通なら、立ち上がってその場を離れる。
なのに。
(……なにこれ)
瑞希は、その場から動けなかった。
ベンチに座る、自分と同じくらいの年齢に見える男の子。見覚えはなかった。けれど、その背中が妙に目についた。
——危なっかしかった。
空っぽとは違う。むしろ逆だ。色々と抱え込みすぎて、それをどう処理していいかわからないまま、無理やり蓋をしているみたいな。そんな雰囲気。見ていて、少し不安になるくらい。
(……なんでボク、気になってるんだろ)
普段なら、自分から声なんてかけない。期待されるのも、距離を詰められるのも、"知ろうとされる"のも嫌だった。結局、人は勝手に期待して、勝手に失望する。
昔みたいに。
脳裏に、小さな記憶がよぎる。
『え、お前そういうの好きなの?』
引いた顔。気持ち悪いものを見るみたいな目。
あの瞬間から、"好き"を隠すのが当たり前になった。可愛いものが好き。そういう自分。それを見せるたび、少しずつ何かを削られていく気がした。
それなのに。
この変な歌声は、どうしてか無視できなかった。
下手だった。本当に下手だった。
(……ちゃんと"気持ち"はある)
音は外れているのに、不思議なくらい真っ直ぐだった。上手く見せようとしていない。取り繕っていない。ただ、そこに"本音"だけがある。そんな歌だった。
——ああ。
そういう人が、いるんだ。
隠さない人が。誤魔化さない人が。下手でも、ぶかっこうでも、それでも歌い続ける人が。
胸の奥が、静かにざわついた。消えたい、と思っていた場所が、少しだけ温度を持った気がした。
気づけば、口が動いていた。
「……ねえ」
男の子が振り返る。少し驚いた顔。
その顔を見た瞬間。
(あ)
と、思った。
この人。たぶん、優しい人だ。根拠なんてない。でも、なんとなくわかった。誰かに優しくしすぎて、そのまま自分を後回しにしてきた人の顔だった。
「今の」
瑞希は首を傾げる。
「わざと?」
相手の顔が面白いように固まる。その反応が面白くて、少しだけ口元が緩んだ。
「音、全部外してたけど」
「……ぐっ」
わかりやすくダメージを受けている。一つ一つの反応が、なんだか妙に素直だった。普通なら誤魔化したり、ムキになったりするのに。それを隠しきれていない。
(変な人)
嫌じゃなかった。むしろ、少し安心した。
完璧じゃない人。無理に取り繕わない人。そういう人を見ると、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「でもさ」
気づけば、自然と笑っていた。
「なんか、ちょっと良かった」
男の子が間の抜けた顔をする。その反応に、また少し笑いそうになる。
「上手くはないよ?」
「それは知ってる」
「あはは」
即答だった。それがなんだか無性に面白くて笑ってしまった。人前でこんなに笑うのは、最近なかった気がする。その不器用さが妙にこの人らしくて。だから、少しだけ本音を混ぜた。
「ちゃんと"気持ち"はあった」
その瞬間。
男の子が、少しだけ息を止めたのがわかった。
……そんな顔、するんだ。
ほんの少しだけ、胸の奥が揺れる。言葉を真っ直ぐ受け取られることに、瑞希はあまり慣れていなかった。普段は冗談で流される。曖昧に笑われる。適当に受け止められる。でもそれは、自分がその空気を望むようにレールを敷いていたからでもあった。
この人は違った。ちゃんと、届いてしまっている。
だから少しだけ、怖かった。
「……変わってるな」
「よく言われる」
笑う。いつものように。
そのときだった。男の子の視線が、ふっと変わる。空気が止まる。
見られた。
そんな感覚が、一瞬だけ走った。表面じゃなくて、もっと奥。自分でも触れたくない場所を、覗き込まれたみたいな感覚。
「……どうしたの?」
思わず聞く。男の子は少しだけ頭を押さえて、すぐに誤魔化した。
(今の、なに……?)
胸の奥がざわつく。怖い。
……のに。
逃げたいとは、思わなかった。むしろ、もっと知りたいと、少しだけ思ってしまった。
そんな自分に、瑞希は少しだけ戸惑っていた。
「ボクと遊ばない?」
口にした瞬間、自分でも少しだけ驚いていた。
普段なら、こんなこと言わない。誰かを誘うなんて、面倒だ。距離が近くなるほど、人は勝手に期待する。そうやって近づいてきて、最後には勝手に線を引く。だから最初から深く関わらない方が楽だった。
なのに。
この男の子は、どうしてか放っておけなかった。
思えば声をかけようと思った瞬間から、もういつもの自分じゃなかったのかもしれない。
夕焼けの光が、公園の砂を赤く染めている。風が吹くたび、ブランコの鎖がきい、と小さく鳴った。その音を背中で聞きながら、瑞希は歩き出す。
「どこ行くんだ?」
「んー、特に決めてない」
振り返らずに答えた。本当に決めていなかった。ただ、もう少しだけ一緒にいたかっただけなのだから。
「適当だな」
「いいじゃん、そういうの」
くすっと笑う。
夕方の商店街は、昼とも夜ともつかない空気をしていた。部活帰りらしい学生。買い物袋を提げた主婦。自転車で走り抜けていく小学生。人の流れの中に紛れて歩きながら、瑞希はちらりと隣を見る。
男の子は、きょろきょろと周囲を見渡していた。まるで見慣れない街を確かめるみたいに。目が、どこか落ち着かない。
居場所を探している人の目だった。
(……やっぱり、変な人)
そう思ったときだった。
雑貨屋のショーウィンドウが目に入る。ガラス越しに並ぶ、小さなアクセサリー。リボン。ぬいぐるみ。淡い色のヘアピン。夕焼けを反射したガラスが、きらきら光っていた。
気づけば、足が止まっていた。
「これ、どう思う?」
指差す。またやってる、と思った。聞くつもりなんてなかったのに、口が勝手に動いていた。ただ、隣にこの人がいたから。それだけだった。
「似合いそうだけど」
返事は、あまりにも自然だった。迷いも、変な含みもなく。まるで本当に、"似合う"と思っただけみたいに。
「……ほんと?」
思ったより、声が軽くなる。胸の奥が、ほんの少しだけ浮いた。
——その瞬間だった。
店の中から、数人の男子グループが出てきた。一瞬で、わかった。知っている顔だった。同じ学校の、同じ学年の子たちだった。
「あっ……」
小さく声が漏れる。視線が、すっと下に落ちた。
向こうも気づいたらしかった。
「あれ、瑞希じゃね?」
聞こえるか聞こえないかくらいの声。確かに届いた。
その後の会話は、よく聞こえなかった。チラチラとこちらを見ながら、何かを言い合って笑っている。声のトーンと視線の動きで、全部伝わってくる。
知っている。ああいう空気を。
昔の記憶が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
『男なのに?』
『気持ち悪』
小さな言葉。その頃の瑞希には十分すぎるほど鋭かった。胸の奥が、きゅっと縮む。呼吸が浅くなる。
今日も、か。
自分の好きな格好をしているだけなのに。それだけのことが、こんなにも重い。
——消えたいな。
またその言葉が、頭をよぎった。
死にたいとは違う。ただ、この重さごと、どこかに置いてきたかっただけだ。
慣れてる。こんなの、何回もあった。だから。
「……やめとこっか」
いつも通りの声で笑う。何でもないみたいに。自分から離れる。それで終わるはずだった。
「いや」
隣から、声が落ちた。
「似合うって言っただろ」
思わず、顔を上げる。
男の子は、まっすぐショーウィンドウを見ていた。周囲なんて気にしていないみたいに。チラチラと向けられる笑いも、嫌な空気も——何も届いていないみたいな顔で、ただそこに立っていた。
(……なんで)
そんなふうにいられるんだろう。普通は、少しくらい空気を読む。周りの視線とか、変な雰囲気とか。そういうのを察して、曖昧に笑う。それが"普通"のはずなのに。
この人は違った。庇うわけでもなく。同情するわけでもなく。ただ、本当にそう思ったから言った。そんな顔をしていた。
だから余計に、困る。
胸の奥が、変に熱くなる。
「……ありがと」
小さく呟く。それだけで終わるつもりだったのに。
「え、ちょ——」
急に手を掴まれた。驚く間もなく、店の中へ引っ張られる。蛍光灯の光。甘い香り。棚いっぱいの雑貨。男の子は迷いなく赤いリボンを掴むと、そのままレジへ向かった。
「ちょ、待っ——」
止める暇もない。
店員さんが、わたしたちの雰囲気に小さく笑っている。後ろで、さっきのグループがまだ何か言っている気配がした。この人は一度も振り返らなかった。本当に、何も気にしていないみたいに。
——こんな人が、いるんだ。
眩しかった。うまく説明できない。ただ、少しだけ眩しかった。
店を出る。夕焼けはもう薄れていて、空の端が群青色に変わり始めていた。差し出されたリボンを、瑞希はすぐには受け取れなかった。街灯の灯りを受けて、赤色だけがやけに鮮やかに見える。
ほんの数秒、視線が揺れる。
それから、ようやくそっと受け取った。
「……ありがと」
前髪を触る。照れ隠しみたいな、いつもの癖。指先が少しだけ熱かった。
「きみってさ」
「ん?」
「変なとこで、変なことするよね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
くすっと笑う。さっきより、少しだけ自然に笑えた気がした。
並んで歩き出す。街灯が、一つずつ灯っていく。その光の間を抜けるたび、二人の影が伸びたり縮んだりした。隣を歩く距離が、さっきより少し近い。
不思議と、嫌じゃなかった。
——なんか、あたたかい。
そのことに気づいて、少しだけ戸惑う。さっきまで消えたいと思っていた場所が、今は少しだけ違う温度を持っていた。
同時に、胸の奥で小さなものが疼いていた。この人は今日、あの空気を気にしなかった。今日だけの話かもしれない。これから何度も一緒にいたら、きっとわかってくる。ボクの周りにはいつもあういう空気がついてくるって。そうしたら——
脳裏に、昔の記憶がちらつく。拒絶。沈黙。気まずそうな顔。
胸の奥が、少しだけ冷える。だから本当は、これ以上近づかない方がいい。頭ではわかっている。
なのに。
街灯の下で、ふとこっちを向いて笑う横顔を見ると。
なんでこの人は、こんなふうにいられるんだろう、とまた思ってしまう。
答えは出ない。ただ漠然と。
もう少しだけ、この時間が続けばいいのに、と思った。
ベンチに並んで座っていた。二つ目の公園。静かな場所。虫の声が、どこかで鳴き始めていた。
「……さっきさ」
気づいたら、口を開いていた。
「変なこと言ってたよね、きみ」
「どれだ」
「"似合う"ってやつ」
「本当にそう思ったからな」
迷いのない答えだった。考えてから言ったんじゃない。当たり前みたいに。
「……そっか」
少し間を置いてから、先ほどもらったリボンを自分の頭の横にそっと近づける。恥ずかしさと緊張を半分ずつ混ぜたような表情で聞いてくる。
「どう? 似合う?」
「うん。やっぱり似合ってる。瑞希はもとがいいから、何でも似合うよ」
「……ストレートすぎでしょ」
リボンを袋にしまって、少し黙った。その沈黙は重くなかった。むしろ、どこか心地よい。
今日、初めて会った人だ。名前も、どこに住んでいるかも、何も知らない。なのに、なぜかこの空気が自然だった。
——なんで、だろう。
街灯の光が横から当たって、隣の横顔に影が落ちる。
今まで隣にいた人たちとは、何かが違う。うまく言葉にできない。この人は笑わなかった。変だとも言わなかった。ただ、さっきも今も、同じ顔で同じように話している。
——それだけのことなのに。
さっき消えたいと思っていた。本当に、ほんの少し前のことだ。なのに今は、もう少しだけここにいたいと思っている。
その変化が、自分でも不思議だった。
「……ねえ」
ぽつりと口を開く。
「きみってさ」
「ん?」
「なんで、ああいうの平気なの?」
「……ああいうの?」
「さっきの、視線とか」
言葉にするのが少しだけ怖くて、遠回しに聞いた。
「……慣れてる、のかもな」
「へえ」
間を置いてから、自然と言葉が出た。
「ボクも、慣れてるよ」
軽く言ったつもりだった。言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。慣れてる、という言葉の重さを、自分が一番知っているから。
男の子は何も言わなかった。視線だけがこちらへ向いた。またあの感覚が走る。見られている。表面じゃなくて、もっと奥を。
「……なんか、すごく見てくるね」
「ああ、悪い。癖みたいなもんだ」
「変な癖だね」
くすっと笑う。
しばらく、何も話さずに座っていた。言葉がなくても、時間は流れる。虫の声が続いている。夜が、ゆっくりと街に広がっていく。
——この人と話していると、なんか、違う気がする。
息がしやすい。自然でいられる。そういう言葉が浮かぶけれど、どれもしっくりこない。ただ、なんか、あたたかかった。それだけだった。
「……そろそろ帰る?」
立ち上がりながら言う。スカートの裾を軽く払う。
「そうだな」
男の子も続いて立ち上がる。
「またね」
口から出た言葉は、思ったよりも自然だった。またね、なんて、最近誰かに言っただろうか。
「ああ、またな」
その返事に、胸の奥が少しだけ弾んだ。
手を振って、歩き出す。街灯をひとつ、またひとつと通り過ぎながら、少しだけ自分の気持ちを確かめるみたいに考える。
——危ない。本当に、危ない。
こういう気持ちを持ち始めたら、終わった時が怖い。期待して、信じて、最後に壊れる。そのパターンを、瑞希はもう知っていた。
そのはずなのに。
今日みたいな格好で、好きな場所を歩いて、隣で誰かが笑っていた。それだけのことが——
消えたいと思っていた午後が、いつの間にか、もう少しだけ続いてほしい夕方に変わっていた。
その事実だけが、静かに胸の奥に残っていた。
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