『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
見慣れない街。見慣れない道。制服の感触すら、まだ身体に馴染まない。俺は部屋に置いてあった地図を確かめながら、学校までの道を歩いていた。
「……こっちで合ってるよな」
小さく呟く。
転生してから、まだ2日目。生活の土台すら曖昧なまま、俺はもう"学生"としてこの世界に立っている。通学路には、同じ制服の生徒たちが増え始めていた。笑い声。自転車のブレーキ音。上履き袋を引きずりながら慌てて走る男子生徒。
どこにでもある、日本の学生の朝。なのに、その当たり前の景色の中に、自分だけがまだ馴染めていない気がした。
「……はぁ」
緊張しているのかもしれない。転校なんて、前の人生でも経験はなかった。まして今回は、"この世界を知っている"というおまけ付きだ。
校門が見えてくる。胸の奥が、少しだけざわついた。
——もしかしたら、プロセカの登場人物がこの学校にもいるんだよな。
昨日、公園で会った暁山瑞希が証明してくれた。この街には、俺の大好きだったキャラクターたちが、ちゃんと生きている。
校舎へ入る。朝特有のざわめきが耳に流れ込んできた。上履きに履き替え、担任に案内されながら教室へ向かう。
途中、何人もの視線がこちらを向いた。転校生なんて、それだけでイベントみたいなものだ。クラス替えのあった春先、まだみんなが新しいクラスに慣れていないタイミングでもある。
「緊張してる?」
担任が軽い調子で聞いてくる。
「少しだけ」
正直に答えると、先生は笑った。
「大丈夫大丈夫」
そのまま教室の扉を開く。
空気が廊下に流れ込んできた。騒がしい声。机を引く音。朝の教室独特の熱。視線が、一斉にこちらへ向く。
「はい、席つけー」
担任の声で、ざわめきが少し静まる。その中で、俺は自然と、周りを見渡していた。
そして——見つける。
教室の後ろ。窓際。
昨日会った暁山瑞希だった。
昨日とは、印象が違った。腰まであったピンクの髪はない。今は短く肩あたりで整えられた髪。男子の制服。
髪色だけは変わらなかった。淡いピンク色。光を受けると、桜みたいに柔らかく見える色。
瑞希の目が、こちらを捉えた。
「——っ」
ほんの一瞬だけ、表情が固まる。目が見開かれた。
昨日、偶然会っただけの相手。"学校の自分"を見せていない相手。そんな相手が、突然教室の前に立っている。驚かない方がおかしい。
その動揺は、すぐに消えた。何事もなかったように。昨日なんて存在しなかったみたいに。瑞希は静かに視線を逸らす。頬杖をついて、窓の外を見る横顔。その仕草は妙に慣れていた。距離を取ることに。線を引くことに。
「じゃあ、自己紹介よろしく」
担任に促され、前を向く。簡単に名前を言う。拍手が起きる。何人かが興味深そうにこちらを見る。
その中で、瑞希だけは一度もこっちを見なかった。
——いや。正確には違う。
時々、視線は感じた。教室の端から。窓際から。ちら、と。本当に短い一瞬だけ。目が合いそうになるたび、すぐ逸らされる。
まるで——"昨日のことには触れないで。昨日の自分と今日の自分に気づかないで"——そう言われているみたいだった。
だから昼休みも、無理に話しかけたりはしなかった。踏み込むには、まだ早い気がしたからだ。
放課後。帰り支度を終えて、ふと窓際を見る。瑞希の姿はなかった。
少し遅れて教室を出る。夕方の廊下は静かだった。遠くから運動部の声だけが聞こえる。昇降口を抜け、坂道を下る。
少し先に、見覚えのあるピンク色が見えた。制服の裾を揺らしながら、一人で歩いている。
「——瑞希」
呼びかける。その背中が、ぴたりと止まった。数秒の沈黙。それから、ゆっくり振り返る。
「……誰?」
くると思った。知らないふり。昨日と今日を切り離すための言葉。
「昨日、公園で会っただろ」
少しだけ踏み込む。
ほんの一瞬だけ、目が揺れた。やっぱり気づいてしまったんだね、と悲しく訴えるような瞳。
「知らない」
きっぱりと言い切られる。
夕焼けが、その横顔を赤く染めていた。
拒絶。
——いや、違う。これはたぶん、防御だ。
「じゃあ」
少しだけ笑う。
「今から知ってくれればいい」
空気が、少し止まった。瑞希は黙ったまま、じっとこちらを見る。その目の奥で、何かが揺れていた。やがて——ふっと、小さく笑う。
「あはは。なにそれ、ナンパ?」
空気が少しだけ軽くなる。昨日の瑞希の雰囲気に戻った。
「転校初日から積極的だねー」
軽い声。無理をしているのは、わかっている。
瑞希は一歩、後ろへ下がる。昨日の距離を、元に戻すみたいに。
「……そういうのは、もっと普通の子にしなよ」
風が吹く。ピンク色の髪が、ふわりと揺れた。
「僕、そういうキャラじゃないからさ」
その言葉だけが、妙に胸に残った。冗談みたいに笑っているのに。その奥にあるものだけは、笑っていなかった。
「じゃあね、転校生くん」
ひらりと手を振る。背を向けて歩き出す。
呼び止めることはできた。なぜだか今は違う気がした。
夕焼けの中、ピンク色だけがやけに目立って見えた。その背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった。
すぐに瑞希の背中は、見えなくなった。
追えば、まだ間に合う距離だ。足は動かなかった。
「……追わないのかい?」
突然後ろから声をかけられた。
振り返らずに答える。
「やめとく」
即答じゃなかった。ちゃんと考えてからの言葉だった。
「瑞希とはまだ出会ってから二日目だし。踏み込んでほしくないことくらい、あるだろ」
さっきのやり取りを思い出す。軽くて、ふざけていて——あれはたぶん、瑞希なりの線引きだった。なら、無理に越える必要はない。
「……でも」
少しだけ息を吐く。
「距離は取らないけどな。向こうがどう思っていても、俺は普通に話すし、関わる」
「ただ——」
言葉を選ぶ。
「ちゃんと知りたいだけだよ。瑞希のことも、俺のことも」
自分でも驚くくらい、素直に出た言葉だった。
言い切ってから、後ろを振り向く。
声をかけてきた人物と、目が合った。
——神代類。
前の世界で何度も目にしてきた名前。ワンダーランズ×ショウタイムに属する彼は、天才的な発想と演出家としての才能を持つ一方で、誰よりも人の心の機微を読む人間でもあった。道化を演じながら、誰よりも深くものを見ている。そういう人だと、ゲームの画面越しに知っていた。
目の前にいる類は、その通りだった。
柔らかい笑みの奥に、こちらをすでに測り終えたような静けさがある。
「……なるほど」
わずかに空気が柔らかくなる。
「単なるはぐらかしではなさそうだね」
見透かされている感じは相変わらずだ。さっきより嫌じゃない。むしろ少しだけ——認められた気がした。
「失礼。まだ名乗っていなかったね」
軽く一礼するような仕草。
「僕は、神代類。君より一つ上の学年の先輩だよ」
少しだけ視線を遠くにやる。
「さっきの瑞希くんとは、少し縁があってね」
その声に、温度があった。普段の掴みどころのない雰囲気とは、少しだけ違う。
「とても純粋な子なんだ」
純粋、という言葉を類が使う時、それは褒め言葉以上の意味を持つ気がした。傷つきやすいほど真っ直ぐで、だからこそ今まで何度も削られてきた——そういう意味が、その一言に静かに込められていた。
「だからこそ、傷つきやすい」
間を置く。
「君が来てくれて、正直少し安心しているよ」
思ってもみなかった言葉だった。
「もし——」
類は、いつもの調子に戻るみたいに、少しだけ笑う。
「君が彼に寄り添ってくれるのなら」
その目は、まっすぐだった。
「僕は、とても嬉しい」
軽く手を振る。それだけで、もう会話は終わりらしい。
「では、また学校で」
背を向けて歩き出す。引き止める理由は、なかった。
ただ一人、取り残された帰り道で、さっきまでの会話をゆっくりと噛みしめる。
——寄り添う、か。
簡単じゃないのは、もうわかってる。
気持ちをもう一度引き締めて、歩き出す。明日も、瑞希に話しかける。それでいい。それくらいが、今はちょうどいい。
ただ——教室で瑞希を見つけた瞬間のことを、もう一度思い出す。
あの一瞬だけ固まった表情。見開かれた目。
昨日、公園で笑っていた子と、同じ人間とは思えないくらい、別の顔だった。
あれは驚きだけじゃない。
——見られた、という顔だった。
隠していたものを、知られてしまったという顔。
昨日の瑞希は、自分が選んだ服を着ていた。好きなものに囲まれていた。笑い方が、少しだけ自由だった。
今日の瑞希は、制服を着ていた。窓の外を見ていた。笑わなかった。
同じ人間が、こんなにも違う。
そのことが、胸の奥にじんわりと残っていた。