『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
転校生が来た日のことを、瑞希はまだ引きずっていた。
教室の扉が開いた瞬間、目が合った。ほんの一瞬だけ。
それだけで十分だった。
あの人だ、と思った。公園で会った、あの人だ。昨日の自分を知っている人が、制服を着た今日の自分を見ている。その事実だけで、胸の奥が一気に冷えた。
昨日の瑞希は、自分が選んだ服を着ていた。好きなものを見て、笑っていた。誰にも見せていない顔で、その人と話していた。
今日の瑞希は、制服を着ている。
——見られた。
慌てて視線を逸らした。窓の外に向けた。頬杖をついて、何でもないふりをした。
自己紹介が始まる。名前を言う声が聞こえる。拍手が起きる。
一度も、そっちを見なかった。見たくなかった。
昨日と今日の自分が、同じ人間だとわかってしまうのが、怖かった。
放課後、知らないふりをした。「誰?」と言った。
あの人は笑わなかった。傷ついた顔もしなかった。ただ——「今から知ってくれればいい」と言った。
その一言が、夜になっても消えなかった。
次の朝。
いつもより少しだけ早く家を出た。理由は、自分でもよくわからなかった。ただ、あの人と廊下でばったり会うのが怖かっただけかもしれない。
学校に着いて、靴を履き替えて、いつもの廊下を歩く。朝の校舎は静かで、どこかの教室からざわめきが漏れてくる。
自分のクラスの扉の前まで来たとき。
声が聞こえた。
教室の中から。扉越しに、少しだけ大きめの声が漏れてきた。
最初は、何の話かわからなかった。
でも。
自分の名前が聞こえた瞬間、足が止まった。
『見た目とか、趣味とか。そういうので"近づかないほうがいい"って決めるの、もったいないと思うけどな』
廊下に立ったまま、動けなかった。
『俺は普通に話すよ。瑞希が好きなものを、一緒に好きって言える人間で俺はいたい』
心臓が、一拍おかしな動き方をした。
——なんで。
なんでそんなことが言えるんだろう。あの空気の中で。あんなに当たり前みたいな声で。
廊下にいる自分まで届くくらいの声で。
踵を返した。走れなかった。でも、早足で階段を上った。屋上の扉を押した。
泣くつもりはなかった。でも、あの教室に入ることができなかった。あの言葉を聞いたまま、何でもないふりをして席に着くことが、できなかった。
屋上の風は、朝だからか少しだけ冷たかった。
フェンスに手をかけて、空を見上げる。青かった。雲が少なくて、どこまでも続いていた。
——なんであんなこと言うんだよ。
心の中で、誰に向けるでもなく呟く。
聞き流せばよかった。いつもみたいに、笑って、かわして、何でもないふりをすれば——それで終わったはずなのに。
でも。
あの言葉が、先にあったせいで。廊下で聞いてしまったせいで。
慣れていたはずの痛さが、今日だけは違う痛さになってしまった。
それが悔しかった。
胸が痛いのも、涙が出そうなのも、全部——あの声のせいだった。
「瑞希」
声がした。
肩がびくっと揺れた。振り返らなかった。
「来ないで」
間髪入れずに言う。声が震えているのが、自分でもわかった。
「……悪い、でもそれは無理だ」
一歩、近づいてくる気配がある。
「来ないでって言ってるでしょ」
「なんで来たの」
「お前が走ってったからだよ」
「だからって普通追いかけて来る?」
振り返ってしまった。
息を切らしている。走ってきたのだとすぐにわかった。それだけのことなのに、なぜかそれが——余計に、困った。
「……さっきの、聞いてたんだろ」
目を逸らした。
「別に。どうでもいいし」
「どうでもいいやつが、あんな顔するかよ」
少しだけ間が空く。風の音だけが、やけに大きくなる。
「……なんで」
気づいたら、声が出ていた。
「なんであんなこと言ったの」
責めているようで、責めきれていない。それが自分でもわかって、余計に腹が立つ。
「優しくしないで」
被せるように言う。
「そういうの、一番困るんだよ」
「どうせさ、今だけでしょ」
笑おうとして、うまくいかなかった。
「ちょっといいこと言って、いいことした気になって、そのうち面倒くさくなって」
言葉が少しずつ荒くなる。止められない。
「周りに流されて、距離置いて、最後は——」
そこで、止まる。
言い切れない。言いたくない。
でも、溢れる。
「……怖いんだよ」
絞り出すような声だった。
「また信頼してた人から裏切られたら……」
手が震えているのが、自分でもわかる。
「僕は……たぶん、壊れちゃう」
言葉が、全部出てしまった。
長い時間をかけて積み重なってきたものだった。好きなものを好きと言うたびに向けられた引いた顔。気持ち悪い、という言葉。笑われるたびに、少しずつ削られてきた何か。傷つくことに慣れて、期待することをやめて、笑ってかわすことを覚えた。それでやっと、なんとか立っていられた。
なのに今朝、廊下であの言葉を聞いてしまった。
慣れていたはずの痛さが、今日だけは違う形になってしまった。
「ほんとはさ……」
止められない。
「隠したくないんだよ」
ぽろ、と涙が落ちる。
「好きなもの、ちゃんと好きって言いたいし。これが可愛いって、言いたいし」
声が震える。
「でもさ……」
ぐしゃっと顔が歪む。
「周りがさ、世界がさ、それを拒むんだよ。変だって、気持ち悪いって。普通じゃないって」
フェンスを握る手に力が入る。冷たい金属が、手のひらに食い込む。
「僕は、それに抗うほど強くない。押し通せるほど、強くないんだよ」
涙が止まらない。
「だから、隠してるのに。それでやっと、なんとかやってるのに」
呼吸が乱れる。
「なのにさ……」
顔を上げる。ぐちゃぐちゃのまま、こっちを見る。
「そんな僕を、好きにいてくれる人なんていないよ」
言い切った。
長い時間をかけて積み重なってきたものが、全部そこに込められていた。諦めの声だった。傷ついて、傷ついて、それでも期待して、また傷ついて——もう期待するのをやめた人間の声だった。
——だから、余計に。
「いるよ」
気づいたら、言っていた。間髪入れず。
瑞希が、固まる。
「ここにいる。俺がいる」
「……何それ」
弱く笑う。でも、その目は揺れている。
「会ってまだ数日だよ?」
「そうだな。だから信用も信頼も、まだないのもわかってる」
それでも、言う。
「でも俺は、友達は裏切らない。公園で声をかけてくれた時、俺は少しだけ救われた。瑞希は俺にとって、もうそういう人だよ」
言葉を、逃がさない。
「一生、大切にする。何かあったら、一緒に悩む。一人で抱えなくていい」
さらに一歩。もう、すぐそこ。
「可愛いものが好きなら、一緒に集めよう。誰に何言われても、横にいればいいだろ」
声が少しだけ熱を持つ。
「世界に疲れたら、一緒に休めばいい」
風が吹く。ピンクの髪が揺れる。
「瑞希」
名前を呼ぶ。まっすぐに。
「一人で歩くな。俺といっしょに歩いていこう」
静かに、言い切る。
瑞希は、しばらく何も言わなかった。
風の音だけが、間を埋める。
——ずるい。
心の中で、そう思った。
本当に、ずるい。
あんな言葉を、あんな顔で言わないでほしい。計算でもなく、同情でもなく、ただ本当にそう思っているみたいな顔で言われたら——どうしたらいいんだ。
拒絶しようとした。いつもみたいに、笑ってかわそうとした。でも、言葉が出てこなかった。
胸の奥で、何かが静かに溶けていく感じがした。
ずっと張り詰めていた何かが。冷たいままでいようとしていた何かが。
本当は、ずっと欲しかったものだった。笑わなくていい。かわさなくていい。隠さなくていい。ただそのままでいていい——そう言ってくれる人が。
それが今、目の前にいた。
信じたくない。また傷つくのが怖い。この人もいつか離れると思っていた方が、楽だ。
でも。
もう遅かった。
廊下であの声を聞いた瞬間から、もう——届いてしまっていた。
「……ずるいよ」
ぽつりと落ちる。
「そういう言葉」
少しだけ笑う。目は赤いまま。泣き顔のまま笑うのは、我ながら最悪だと思った。
「ここで僕が拒絶したらさ」
視線を逸らす。
「僕が悪者みたいじゃん」
普段の軽口のような声で言っているようで、逃げ場を探している声だった。自分でもわかっている。
「もし瑞希が嫌だったら、無理にとは言わない」
瑞希が、こっちを見る。
「でも、その代わり俺は俺で勝手に話しかけるけどな」
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「それくらいの距離でいこうぜ。楽しくいこう、瑞希」
強引でもなく、引きすぎでもない。
少しだけ沈黙が落ちて。
瑞希が、ふっと息を漏らす。
「……ほんと、変な人」
その言い方は、さっきより柔らかかった。
「今度さ」
「瑞希の好きなもの、教えてくれないか。ちゃんと聞きたい」
飾らずに言う。
瑞希は少しだけ考えて——視線を逸らしたまま、小さく頷いた。
「……気が向いたらね」
それで十分だった。
主人公はそれ以上踏み込まずに、踵を返す。
「先、戻ってるわ」
扉に手をかけて、一度だけ振り返る。
瑞希は、出会ってから一番自然に笑っていた。
「……ありがと」
聞こえるかどうかくらいの声が、背中に届く。何も返さず、そのまま屋上を出た。
扉が閉まって、静けさが戻る。
扉の音を、しばらく聞いていた。
屋上には、また静けさが戻っている。
でも、さっきまでとは違う静けさだった。
さっきまでは、重かった。ひとりで抱えていた重さが、空気にまで滲んでいた。
今は。
なんだか、少しだけ軽い。
「……もういいよ」
ぼそっと呟く。
「いるんでしょ」
少し間があって。
「神代類」
その直後、影からひょいと人影が現れる。
「やあ」
いつもの調子で、軽く手を上げる。
「見つかってしまったか」
「最初からバレてるっての」
ジト目で睨む。涙の跡が残ったままなのに、その表情だけはいつも通りに戻そうとしている。
類は、それを見て、少しだけ目を細めた。
「なるほど。今日はずいぶんと、良い風が吹いているらしい」
「そういうのいいから。どこまで聞いてたの」
「さて、どこまでだろうね」
わざとらしく考えるふりをする。
「少なくとも、"ずるい"あたりからは」
「最悪」
瑞希は顔をしかめる。でも、完全に追い払う気はない。それが、この二人の距離だった。
少しの沈黙。風が抜ける。
類が、ぽつりと口を開く。
「——悪くない選択だと思うよ」
瑞希は何も返さない。でも、耳はちゃんと向いている。
「踏み込みすぎず、離れすぎず。君が一番、壊れにくい距離だ」
「……壊れる前提で話すのやめてくれる?」
少しだけ拗ねた声。類は、くすっと笑う。
「おや、失礼」
すぐに真面目なトーンに戻る。
「ただ、あの彼は。珍しいタイプだね」
「……どうせ、すぐいなくなるよ」
反射みたいに出た言葉。でも瑞希自身、自分の言葉を微塵も信じていない。ただの照れ隠しだとわかっている。
類は、それを否定しない。ただ、静かに言う。
「そう思っていた方が、楽かい?」
瑞希は答えない。代わりに、フェンスに背を預ける。空を見上げる。
「……楽ではある」
正直な声。
「なら、今はそれでいい。無理に期待する必要はない」
一拍。
「ただ」
ほんの少しだけ、優しくなる。
「もし期待してしまったとしても」
瑞希の視線が、わずかに揺れる。
「それを"間違い"だと決めつける必要もない」
風が、また吹く。長い付き合いだからこその、余白のある言葉。
瑞希は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく呟く。
「……ほんと、嫌なやつ」
でもその声は、少しだけ軽くなっていた。
「褒め言葉として受け取っておこう」
「はあ……」
瑞希は、もう一度空を見上げる。
青い空だった。
さっきも同じ空を見ていたはずなのに、今は少しだけ違う色に見えた。
重かったものが、まだ全部消えたわけじゃない。怖いのも、まだある。信じることへの恐怖も、消えていない。
それでも。
さっきまで感じていたあの重さの中に、小さな光が一つ、灯っていた。
名前のつけられないくらい、小さな光。消えそうで、消えない。
朝の教室の前で、あの声を聞いた瞬間から——もう、灯っていたのかもしれない。
「……もう少し、ここにいる」
「そうするといい」
類はそれ以上何も言わない。ただ、同じように空を見上げる。
それだけで成立する時間だった。
風が、やわらかく吹いていた。
朝の光が、フェンスの金網を透かして、瑞希の足元に細かい網目の影を落としている。光と影が交差して、まるで誰かが指で編んだみたいな模様になっていた。
——きれいだな。
そう思った瞬間、少しだけおかしくなった。
このフェンスには、何度も背中を預けてきた。何度も同じ風に吹かれて、何度も同じ空を見上げてきたはずなのに。今日まで、一度も気づかなかった。
光が、こんなに優しい形をしているなんて。
誰かの言葉が、まだ胸の奥に残っている。溶けかけた氷みたいに、輪郭はまだあるけれど、確かに何かが変わり始めていた。
怖いのは、変わらない。信じることへの不安も、まだそこにある。
それでも。
世界は、今日も同じ形をしているはずなのに。
——なんだか、少しだけ色が違って見える朝だった。