『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』   作:krowknown

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6 side--暁山瑞希の希望

 転校生が来た日のことを、瑞希はまだ引きずっていた。

 教室の扉が開いた瞬間、目が合った。ほんの一瞬だけ。

 それだけで十分だった。

 あの人だ、と思った。公園で会った、あの人だ。昨日の自分を知っている人が、制服を着た今日の自分を見ている。その事実だけで、胸の奥が一気に冷えた。

 昨日の瑞希は、自分が選んだ服を着ていた。好きなものを見て、笑っていた。誰にも見せていない顔で、その人と話していた。

 今日の瑞希は、制服を着ている。

 

 ——見られた。

 

 慌てて視線を逸らした。窓の外に向けた。頬杖をついて、何でもないふりをした。

 自己紹介が始まる。名前を言う声が聞こえる。拍手が起きる。

 一度も、そっちを見なかった。見たくなかった。

 昨日と今日の自分が、同じ人間だとわかってしまうのが、怖かった。

 放課後、知らないふりをした。「誰?」と言った。

 あの人は笑わなかった。傷ついた顔もしなかった。ただ——「今から知ってくれればいい」と言った。

 その一言が、夜になっても消えなかった。

 

 次の朝。

 いつもより少しだけ早く家を出た。理由は、自分でもよくわからなかった。ただ、あの人と廊下でばったり会うのが怖かっただけかもしれない。

 学校に着いて、靴を履き替えて、いつもの廊下を歩く。朝の校舎は静かで、どこかの教室からざわめきが漏れてくる。

 自分のクラスの扉の前まで来たとき。

 声が聞こえた。

 教室の中から。扉越しに、少しだけ大きめの声が漏れてきた。

 最初は、何の話かわからなかった。

 でも。

 自分の名前が聞こえた瞬間、足が止まった。

 

『見た目とか、趣味とか。そういうので"近づかないほうがいい"って決めるの、もったいないと思うけどな』

 

 廊下に立ったまま、動けなかった。

 

『俺は普通に話すよ。瑞希が好きなものを、一緒に好きって言える人間で俺はいたい』

 

 心臓が、一拍おかしな動き方をした。

 

 ——なんで。

 

 なんでそんなことが言えるんだろう。あの空気の中で。あんなに当たり前みたいな声で。

 廊下にいる自分まで届くくらいの声で。

 踵を返した。走れなかった。でも、早足で階段を上った。屋上の扉を押した。

 泣くつもりはなかった。でも、あの教室に入ることができなかった。あの言葉を聞いたまま、何でもないふりをして席に着くことが、できなかった。

 

 屋上の風は、朝だからか少しだけ冷たかった。

 フェンスに手をかけて、空を見上げる。青かった。雲が少なくて、どこまでも続いていた。

 

 ——なんであんなこと言うんだよ。

 

 心の中で、誰に向けるでもなく呟く。

 聞き流せばよかった。いつもみたいに、笑って、かわして、何でもないふりをすれば——それで終わったはずなのに。

 でも。

 あの言葉が、先にあったせいで。廊下で聞いてしまったせいで。

 慣れていたはずの痛さが、今日だけは違う痛さになってしまった。

 それが悔しかった。

 胸が痛いのも、涙が出そうなのも、全部——あの声のせいだった。

 

「瑞希」

 

 声がした。

 肩がびくっと揺れた。振り返らなかった。

 

「来ないで」

 

 間髪入れずに言う。声が震えているのが、自分でもわかった。

 

「……悪い、でもそれは無理だ」

 

 一歩、近づいてくる気配がある。

 

「来ないでって言ってるでしょ」

「なんで来たの」

「お前が走ってったからだよ」

「だからって普通追いかけて来る?」

 

 振り返ってしまった。

 息を切らしている。走ってきたのだとすぐにわかった。それだけのことなのに、なぜかそれが——余計に、困った。

 

「……さっきの、聞いてたんだろ」

 

 目を逸らした。

 

「別に。どうでもいいし」

「どうでもいいやつが、あんな顔するかよ」

 少しだけ間が空く。風の音だけが、やけに大きくなる。

 

「……なんで」

 

 気づいたら、声が出ていた。

 

「なんであんなこと言ったの」

 

 責めているようで、責めきれていない。それが自分でもわかって、余計に腹が立つ。

 

「優しくしないで」

 

 被せるように言う。

 

「そういうの、一番困るんだよ」

「どうせさ、今だけでしょ」

 

 笑おうとして、うまくいかなかった。

「ちょっといいこと言って、いいことした気になって、そのうち面倒くさくなって」

 言葉が少しずつ荒くなる。止められない。

 

「周りに流されて、距離置いて、最後は——」

 

 そこで、止まる。

 言い切れない。言いたくない。

 でも、溢れる。

 

「……怖いんだよ」

 

 絞り出すような声だった。

 

「また信頼してた人から裏切られたら……」

 

 手が震えているのが、自分でもわかる。

 

「僕は……たぶん、壊れちゃう」

 

 言葉が、全部出てしまった。

 長い時間をかけて積み重なってきたものだった。好きなものを好きと言うたびに向けられた引いた顔。気持ち悪い、という言葉。笑われるたびに、少しずつ削られてきた何か。傷つくことに慣れて、期待することをやめて、笑ってかわすことを覚えた。それでやっと、なんとか立っていられた。

 なのに今朝、廊下であの言葉を聞いてしまった。

 慣れていたはずの痛さが、今日だけは違う形になってしまった。

 

「ほんとはさ……」

 

 止められない。

 

「隠したくないんだよ」

 

 ぽろ、と涙が落ちる。

 

「好きなもの、ちゃんと好きって言いたいし。これが可愛いって、言いたいし」

 

 声が震える。

 

「でもさ……」

 

 ぐしゃっと顔が歪む。

 

「周りがさ、世界がさ、それを拒むんだよ。変だって、気持ち悪いって。普通じゃないって」

 

 フェンスを握る手に力が入る。冷たい金属が、手のひらに食い込む。

 

「僕は、それに抗うほど強くない。押し通せるほど、強くないんだよ」

 

 涙が止まらない。

 

「だから、隠してるのに。それでやっと、なんとかやってるのに」

 

 呼吸が乱れる。

 

「なのにさ……」

 

 顔を上げる。ぐちゃぐちゃのまま、こっちを見る。

 

「そんな僕を、好きにいてくれる人なんていないよ」

 

 言い切った。

 長い時間をかけて積み重なってきたものが、全部そこに込められていた。諦めの声だった。傷ついて、傷ついて、それでも期待して、また傷ついて——もう期待するのをやめた人間の声だった。

 

 ——だから、余計に。

 

「いるよ」

 

 気づいたら、言っていた。間髪入れず。

 瑞希が、固まる。

 

「ここにいる。俺がいる」

「……何それ」

 

 弱く笑う。でも、その目は揺れている。

 

「会ってまだ数日だよ?」

「そうだな。だから信用も信頼も、まだないのもわかってる」

 

 それでも、言う。

 

「でも俺は、友達は裏切らない。公園で声をかけてくれた時、俺は少しだけ救われた。瑞希は俺にとって、もうそういう人だよ」

 

 言葉を、逃がさない。

 

「一生、大切にする。何かあったら、一緒に悩む。一人で抱えなくていい」

 

 さらに一歩。もう、すぐそこ。

 

「可愛いものが好きなら、一緒に集めよう。誰に何言われても、横にいればいいだろ」

 

 声が少しだけ熱を持つ。

 

「世界に疲れたら、一緒に休めばいい」

 

 風が吹く。ピンクの髪が揺れる。

 

「瑞希」

 

 名前を呼ぶ。まっすぐに。

 

「一人で歩くな。俺といっしょに歩いていこう」

 

 静かに、言い切る。

 

 瑞希は、しばらく何も言わなかった。

 風の音だけが、間を埋める。

 

 ——ずるい。

 

 心の中で、そう思った。

 本当に、ずるい。

 あんな言葉を、あんな顔で言わないでほしい。計算でもなく、同情でもなく、ただ本当にそう思っているみたいな顔で言われたら——どうしたらいいんだ。

 拒絶しようとした。いつもみたいに、笑ってかわそうとした。でも、言葉が出てこなかった。

 胸の奥で、何かが静かに溶けていく感じがした。

 ずっと張り詰めていた何かが。冷たいままでいようとしていた何かが。

 本当は、ずっと欲しかったものだった。笑わなくていい。かわさなくていい。隠さなくていい。ただそのままでいていい——そう言ってくれる人が。

 それが今、目の前にいた。

 信じたくない。また傷つくのが怖い。この人もいつか離れると思っていた方が、楽だ。

 でも。

 もう遅かった。

 廊下であの声を聞いた瞬間から、もう——届いてしまっていた。

 

「……ずるいよ」

 

 ぽつりと落ちる。

 

「そういう言葉」

 

 少しだけ笑う。目は赤いまま。泣き顔のまま笑うのは、我ながら最悪だと思った。

 

「ここで僕が拒絶したらさ」

 

 視線を逸らす。

 

「僕が悪者みたいじゃん」

 

 普段の軽口のような声で言っているようで、逃げ場を探している声だった。自分でもわかっている。

 

「もし瑞希が嫌だったら、無理にとは言わない」

 

 瑞希が、こっちを見る。

 

「でも、その代わり俺は俺で勝手に話しかけるけどな」

 

 ほんの少しだけ、口元を緩める。

 

「それくらいの距離でいこうぜ。楽しくいこう、瑞希」

 

 強引でもなく、引きすぎでもない。

 少しだけ沈黙が落ちて。

 瑞希が、ふっと息を漏らす。

 

「……ほんと、変な人」

 

 その言い方は、さっきより柔らかかった。

 

「今度さ」

「瑞希の好きなもの、教えてくれないか。ちゃんと聞きたい」

 

 飾らずに言う。

 瑞希は少しだけ考えて——視線を逸らしたまま、小さく頷いた。

 

「……気が向いたらね」

 

 それで十分だった。

 主人公はそれ以上踏み込まずに、踵を返す。

 

「先、戻ってるわ」

 

 扉に手をかけて、一度だけ振り返る。

 瑞希は、出会ってから一番自然に笑っていた。

 

「……ありがと」

 

 聞こえるかどうかくらいの声が、背中に届く。何も返さず、そのまま屋上を出た。

 扉が閉まって、静けさが戻る。

 

 扉の音を、しばらく聞いていた。

 屋上には、また静けさが戻っている。

 でも、さっきまでとは違う静けさだった。

 さっきまでは、重かった。ひとりで抱えていた重さが、空気にまで滲んでいた。

 今は。

 なんだか、少しだけ軽い。

 

「……もういいよ」

 

 ぼそっと呟く。

 

「いるんでしょ」

 

 少し間があって。

 

「神代類」

 

 その直後、影からひょいと人影が現れる。

 

「やあ」

 

 いつもの調子で、軽く手を上げる。

 

「見つかってしまったか」

「最初からバレてるっての」

 

 ジト目で睨む。涙の跡が残ったままなのに、その表情だけはいつも通りに戻そうとしている。

 類は、それを見て、少しだけ目を細めた。

 

「なるほど。今日はずいぶんと、良い風が吹いているらしい」

「そういうのいいから。どこまで聞いてたの」

「さて、どこまでだろうね」

 

 わざとらしく考えるふりをする。

 

「少なくとも、"ずるい"あたりからは」

「最悪」

 

 瑞希は顔をしかめる。でも、完全に追い払う気はない。それが、この二人の距離だった。

 少しの沈黙。風が抜ける。

 類が、ぽつりと口を開く。

 

「——悪くない選択だと思うよ」

 

 瑞希は何も返さない。でも、耳はちゃんと向いている。

 

「踏み込みすぎず、離れすぎず。君が一番、壊れにくい距離だ」

「……壊れる前提で話すのやめてくれる?」

 

 少しだけ拗ねた声。類は、くすっと笑う。

 

「おや、失礼」

 

 すぐに真面目なトーンに戻る。

 

「ただ、あの彼は。珍しいタイプだね」

「……どうせ、すぐいなくなるよ」

 

 反射みたいに出た言葉。でも瑞希自身、自分の言葉を微塵も信じていない。ただの照れ隠しだとわかっている。

 類は、それを否定しない。ただ、静かに言う。

 

「そう思っていた方が、楽かい?」

 

 瑞希は答えない。代わりに、フェンスに背を預ける。空を見上げる。

 

「……楽ではある」

 

 正直な声。

 

「なら、今はそれでいい。無理に期待する必要はない」

 

 一拍。

 

「ただ」

 

 ほんの少しだけ、優しくなる。

 

「もし期待してしまったとしても」

 

 瑞希の視線が、わずかに揺れる。

 

「それを"間違い"だと決めつける必要もない」

 

 風が、また吹く。長い付き合いだからこその、余白のある言葉。

 瑞希は、しばらく何も言わなかった。

 それから、小さく呟く。

 

「……ほんと、嫌なやつ」

 

 でもその声は、少しだけ軽くなっていた。

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

「はあ……」

 

 瑞希は、もう一度空を見上げる。

 青い空だった。

 さっきも同じ空を見ていたはずなのに、今は少しだけ違う色に見えた。

 重かったものが、まだ全部消えたわけじゃない。怖いのも、まだある。信じることへの恐怖も、消えていない。

 それでも。

 さっきまで感じていたあの重さの中に、小さな光が一つ、灯っていた。

 名前のつけられないくらい、小さな光。消えそうで、消えない。

 朝の教室の前で、あの声を聞いた瞬間から——もう、灯っていたのかもしれない。

 

「……もう少し、ここにいる」

「そうするといい」

 

 類はそれ以上何も言わない。ただ、同じように空を見上げる。

 それだけで成立する時間だった。

 風が、やわらかく吹いていた。

 朝の光が、フェンスの金網を透かして、瑞希の足元に細かい網目の影を落としている。光と影が交差して、まるで誰かが指で編んだみたいな模様になっていた。

 

 ——きれいだな。

 

 そう思った瞬間、少しだけおかしくなった。

 このフェンスには、何度も背中を預けてきた。何度も同じ風に吹かれて、何度も同じ空を見上げてきたはずなのに。今日まで、一度も気づかなかった。

 光が、こんなに優しい形をしているなんて。

 誰かの言葉が、まだ胸の奥に残っている。溶けかけた氷みたいに、輪郭はまだあるけれど、確かに何かが変わり始めていた。

 怖いのは、変わらない。信じることへの不安も、まだそこにある。

 それでも。

 世界は、今日も同じ形をしているはずなのに。

 

 ——なんだか、少しだけ色が違って見える朝だった。

 

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