『プロセカ世界に転生したのに音痴だった俺が、壊れかけの少女たちを救うまで』 作:krowknown
屋上に残った風は、まだ少しだけ冷たかった。
フェンス越しに見える空は、昼と夕方の境界が曖昧になり始めている。薄い青色の中に、ゆっくりと橙が滲んでいた。
もう朝練の練習は終わる時間だが、まだ遠くから聞こえる運動部の掛け声。
グラウンドを走る音。
吹奏楽部のトランペットが、一音だけ外れて、すぐに止まる。
学校はまだ、ちゃんと“日常”を続けていた。
なのに。
暁山瑞希の心臓だけが、うまく呼吸できていなかった。
「……ほんと、変な人」
ぽつりと呟く。
扉はもう閉まっている。
足音も遠ざかって、聞こえない。
それでも。
さっき向けられた言葉だけが、まだ胸の奥に残っていた。
『俺がいる』
そんなの。
そんな言葉。
簡単に信じられるわけがない。
信じてしまったら、壊れる。
それを、瑞希は知っていた。
フェンスに背中を預ける。
金網越しの空は広くて、どこまでも遠い。
風が吹くたび、制服の裾が揺れた。
屋上って、嫌いじゃなかった。
誰もいない時間なら、特に。
教室みたいに視線がない。
廊下みたいに噂もない。
ただ空だけがあって、
その下に、自分がいるだけ。
だから時々、ここへ逃げてきた。
しんどくなった時。
息が詰まりそうな時。
誰にも見つからない場所で、
“ちゃんと傷ついてる自分”に戻るために。
けれど今日は。
その場所に、誰かが踏み込んできた。
しかも。
無理やりじゃなく。
“隣に立とう”として。
「……ずるい」
もう一度、小さく呟く。
視界が滲む。
涙なんて、さっきかなり流したはずなのに。
まだ残っていた。
空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
夕焼けに染まりきれない白い雲。
中途半端で、
どこにも馴染めなくて。
なんだか、自分みたいだった。
昔から、ずっとそうだ。
好きなものを好きと言うだけで、
少しずつ“普通”から外れていった。
可愛いものが好きだった。
フリル。
リボン。
柔らかい色。
雑貨屋でキラキラ光るアクセサリーを見ているだけで、少しだけ世界が綺麗に見えた。
でも。
それを口にするたび、
周りの空気は変わった。
笑われた。
引かれた。
気味悪がられた。
たったそれだけのことで。
胸の奥に、小さな棘が増えていく。
最初は痛かった。
でも、人間は慣れる。
慣れて、
諦めて、
期待しなくなる。
そうやって、少しずつ“傷つかない形”になっていく。
だから今の瑞希は、上手だった。
笑うのが。
かわすのが。
踏み込ませないのが。
“本当の自分”を隠すのが。
教室でだってそう。
適当に笑って、
軽口を叩いて、
距離感を間違えない。
誰とも深くなりすぎない。
そうしていれば、
少なくとも致命傷にはならないから。
なのに。
――あの
そこを、平気で越えてくる。
思い出す。
雑貨屋の前。
『似合うって言っただろ』
あの言葉。
庇うでもなく、
気を遣うでもなく。
ただ、本当にそう思ったから言ったみたいな顔。
それが、一番困る。
優しさって、もっと計算でできていると思っていた。
空気を読んで。
相手を選んで。
“良い人”に見えるためにやるものだと。
でも、あの人は違う。
たぶん。
本当に自然にやっている。
だから怖い。
そういう人ほど、
信じたくなってしまうから。
フェンスを握る指に、少しだけ力が入る。
冷たい金属の感触が、手のひらに残った。
「……また、期待しそうになるじゃん」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
風が吹く。
髪が揺れる。
涙の跡に、少しだけ冷たい空気が触れた。
期待なんて、しない方が楽だ。
どうせいつか離れる。
人は変わる。
最初は受け入れてくれても、
だんだん周囲に流されて、
最後にはいなくなる。
今までだって、そうだった。
だから。
“最初から信じない”。
それが、一番安全だったはずなのに。
胸の奥が、静かに熱を持っている。
それが何なのか、瑞希はもう気づいていた。
嬉しかったのだ。
どうしようもなく。
苦しくなるくらい。
嬉しかった。
あの教室で。
みんなが“そういう空気”になった時。
あの人だけは、
ちゃんと自分を見てくれていた。
趣味じゃなく。
見た目じゃなく。
噂でもなく。
“暁山瑞希”を。
その事実が、胸の奥をぐちゃぐちゃにする。
今まで欲しかったものを、
急に差し出されたみたいで。
でも、手を伸ばすのが怖い。
もし掴んでしまったら。
今度こそ。
本当に失った時、立ち直れなくなる気がした。
「……僕、ほんと弱いな」
自嘲みたいに笑う。
でも、その声は少しだけ震えていた。
夕焼けが、ゆっくり夜に飲まれていく。
校舎の窓に灯りがつき始めていた。
その光をぼんやり眺めながら、瑞希は目を閉じる。
思い出すのは、
公園で聞いた、ひどく音痴な歌声だった。
上手くはなかった。
本当に。
笑ってしまうくらい下手だった。
でも。
不思議なくらい、
真っ直ぐだった。
取り繕っていなくて、
誤魔化していなくて。
ただ、“気持ち”だけがそこにあった。
だからきっと。
自分は、声をかけてしまったのだ。
あんなふうに、
壊れそうな顔で歌う人を。
放っておけなかった。
そして今。
放っておけなくなっているのは、自分の方だった。
胸の奥で、小さな熱が灯っている。
まだ名前もつけられないくらい、小さな光。
でも。
何度も諦めかけて、
何度も飲み込んできた日々の中で。
その光だけが、やけに眩しく見えた。