Fate/Grand Order -Rewrite Conditions- ~月の先輩、箱庭の僕、そして盾の後輩~   作:りー037

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プロローグ
【1節】 箱庭の観測者、条件式の死角、そして凍てつく星の玉座へ


■ 2015年 5月某日 15:45 JST / 日本・某所 県立高校 中庭

 

 

春の名残と初夏の気配が入り混じる、生温かい風が吹いていた。

 

校舎の陰に設置された木製のベンチに腰を下ろし、僕はぼんやりと空を見上げていた。雲の切れ間から差し込む陽光が、微かな埃を照らし出してキラキラと乱反射している。

 

視界に映る風景は、僕にとって二つの意味を持つ。

 

 

一つは、ただの「のどかな放課後の光景」。

 

 

もう一つは、「無数の条件式が絡み合う演算の出力結果」だ。

 

頬を撫でる風は、ただ空気が動いているのではない。空間における気圧差が流体運動を引き起こすという《条件》が成立した結果に過ぎない。太陽の温もりは、熱力学における熱量増幅の《条件》が満たされた結果だ。世界を「現象」ではなく「構造」として視る。夕月家という魔術師の血脈に生まれた僕にとって、それは呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだった。

 

 

「――碧先輩」

 

 

ふと、その演算の海に、澄んだ鈴のような声が波紋を落とした。

 

視線を下げると、そこには見慣れた女子生徒が立っていた。僕より二つ年下の後輩、角隈さんだ。少し癖のある茶髪を風に揺らしながら、彼女は少しだけ眩しそうに目を細めて僕を見下ろしている。

 

 

「角隈さん。部活はもう終わったの?」

 

「はい。今日は早めに切り上げました。先輩はまた、難しい顔をして空の計算ですか?」

 

 

彼女は悪戯っぽく笑いながら、僕の隣にちょこんと腰を下ろした。少しだけ距離を空けた、けれど互いの体温を感じ取れる絶妙な距離感。彼女から漂う微かな石鹸の香りが、僕の脳内で自動的に走っていた世界に対する《観測》のプロセスを強制的にシャットダウンさせる。

 

「計算なんてしてないよ。ただ、今日の風は少し不規則だな、と思っていただけさ」

 

「ふふっ、それが計算してるって言うんですよ。先輩は本当に、理屈で世界を見てるんですから」

 

 

角隈さんは僕の横顔を見て、くすくすと笑った。

 

彼女は、僕が魔術師であることを知らない。ただの「少し頭が良くて、どこか浮世離れした先輩」として僕に接してくれている。六年前、僕が夕月家の「箱庭」から飛び出し、世間の常識が欠落したままこの外の世界に放り出された時、僕に「色」を与えてくれたのが彼女だった。

 

 

夕月家での十二年間は、教育ではなく「調整」だった。五大元素を並列演算するための《五重螺旋構造》を持つ魔術回路を身体に定着させ、脳の負荷を肩代わりする外部演算器を刻印として刻み込まれる日々。痛みと血の匂いしか知らない僕にとって、彼女が教えてくれた「自動販売機の温かいココアの美味しさ」や「放課後の何気ない雑談の心地よさ」は、どんな高度な魔術理論よりも価値のあるものだった。

 

 

「……先輩?」

 

「ん、ごめん。少し考え事をしていた。どうしたの?」

 

「いえ。最近、先輩がどこか遠くに行っちゃうような気がして。気のせいならいいんですけど」

 

 

彼女の直感は、時に僕の《未来予測》すら凌駕する。僕は内心の驚きを微塵も顔に出さず、いつものように穏やかな笑みを浮かべた。

 

「遠くになんて行かないよ。僕はここが好きだからね」

 

 

それは嘘偽りのない本心だった。僕はこの穏やかな日常を愛している。

 

しばらくの他愛のない会話の後、校舎からチャイムが鳴り響いた。それを合図に、僕たちはベンチから立ち上がった。

 

「それじゃあ先輩、また明日」

 

「うん、また明日。気をつけて帰るんだよ」

 

 

手を振って走り去る彼女の背中を見送りながら、僕はゆっくりと自身の内に意識を沈めた。

 

穏やかな夕月碧から、魔術師・夕月碧への位相変換。

 

時計塔からは相変わらず、僕の《元素式解析》を頼る面倒な依頼状が届いている。ロンドンに拠点を移す気など毛頭ないが、適度に恩を売っておく必要はある。

 

「さて……帰るか」

 

 

僕は鞄を手に取り、夕日に染まる校門をくぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

■ 17:35 JST / 通学路・廃ビル前の裏路地入り口

 

街は夕暮れ特有の喧騒に包まれていた。スーパーの特売に向かう主婦、家路を急ぐサラリーマン、部活帰りの学生たち。僕はその中を、誰の記憶にも残らないように気配を風景に溶け込ませながら歩いていた。

 

 

その「異物」に気づいたのは、自宅のアパートまであと少しという距離に差し掛かった時だった。

 

前方から歩いてくる、この街には不釣り合いな仕立ての良いスーツを着た男。年齢は三十代半ばだろうか。すれ違いざま、男はピタリと立ち止まり、芝居がかった手つきで帽子を取った。

 

 

「夕月碧、とお見受けする。お初にお目にかかるね。私はハリー・茜沢・アンダーソン。少々、君に話があってね」

 

 

 

――その瞬間だった。

 

世界から、一切の色彩と温度が消失したのは。

 

『茜沢』。

 

その名を聞いた瞬間、僕の胸の中心――かつて抉られた心臓部の古傷が、幻肢痛のように激しく脈打った。僕が「当主の代替品」として地獄のような箱庭で作られる原因となった存在。そして四年前、僕に決定的な敗北と死の淵を味わわせた男を連想させる名。

 

僕の表情は、一ミリたりとも変化していないはずだ。口元には穏やかな笑みを浮かべ、目は人畜無害な高校生のそれを取り繕っている。しかし、内側で稼働する《高次魔術演算》(アークキャスト・プロセッサ)は、瞬時に眼前の男を「敵対的異物(排除対象)」としてロックオンしていた。

 

 

「……ハリーさん、ですか。僕に何かご用でしょうか? 時計塔からの使いなら、今は依頼を受ける気はないと返答したはずですが」

 

「いやいや、時計塔などという古臭い組織からの使いではないよ。私は『人理継続保障機関フィニス・カルデア』の使者だ。君のその稀有な素質を見込んで、スカウトに来たのさ」

 

 

カルデア。その名前には聞き覚えがあった。しかし、今はそんなことはどうでもいい。なんにせよ、これ以上この男を僕の日常の領域に踏み込ませるわけにはいかない。

 

「カルデア……ですか。申し訳ありませんが、僕は今の生活を手放す気はありません。他を当たってください」

 

 

丁寧にお辞儀をし、男の横を通り抜けようとした。しかし、男はしつこく僕の肩に手を伸ばしてきた。

 

「待ってくれ。君には人類の未来を背負う義務がある。その力、こんな極東の島国で腐らせるには――」

 

「……すみません。少し、急いでいるので」

 

 

男の手を滑るように躱し、大通りから外れた薄暗い裏路地へと足を踏み入れた。男は諦めきれないのか、苛立たしげな舌打ちと共に僕の背中を追ってくる。

 

狙い通りだ。 

 

 

 

 

 

 

■ 17:42 JST / 裏路地・建設途中の廃ビル脇

 

人目が完全に途絶えた路地の奥。頭上には建設が中断されたままのビルがあり、クレーンには巨大な鉄骨が吊るされたまま放置されている。

 

 

足を止め、ゆっくりと振り返った。

 

「ハリーさん。これ以上ついてこられると、困るのですが」

 

 

「強情な少年だ。だが、君には来てもらわねばならない。最悪、手荒に――」

 

 

男が懐に手を入れた瞬間。

 

体内で、38本の回路が静かに、そして爆発的に起動した。

 

 

(――《アークキャスト・プロセッサ》、演算開始)

 

脳内に莫大な情報が流れ込む。空間の温度、風の向き、鉄骨の重量、留め具の金属疲労度。五大元素を並列処理する僕の回路は、この空間の「すべての条件式」を一瞬で読み取った。

 

 

僕の魔術は、現象を起こすものではない。条件を書き換えるものだ。

 

微かに指先を動かし、地属性の基礎式である《質量定義式》(ジオ・マトリクス)を起動する。

 

 

対象は、頭上のクレーンを固定している太いボルト。

 

物理的な破壊ではない。ボルトの持つ「硬度」と「構造」の条件式に魔力を流し込み、その耐荷重性を一時的に【自然界ではあり得ない脆さ】へと書き換えたのだ。

 

 

 

ギィンッ、と金属が悲鳴を上げる音が響く。

 

しかし、男が頭上を見上げるよりも早く、僕は風属性の基礎式《圧力差演算式》(エアロ・デルタ)を併用した。男の足元の気圧を急激に下げ、彼の身体を数歩分、強制的に「前へとつまずかせる」。

 

 

「なっ……!?」

 

 

バランスを崩した男の真上。

 

条件式を書き換えられ、自重に耐えきれなくなった留め具が完全に崩壊し――数トンの鉄骨が、重力に従って無音のまま落下した。

 

 

轟音。

 

土煙が舞い上がり、足元のコンクリートが砕け散る。

 

僕が使った魔力は、ほんのわずか。魔術の痕跡すらほとんど残らない。男は「運悪く老朽化したクレーンから落下した鉄骨の下敷きになった」という、ただの不幸な事故だ。

 

土煙が晴れた後、そこには鉄骨の下敷きになり、完全に意識を失っている、再起不能なほどの重傷を負った男の姿があった。

 

 

「……人類の未来、か。そんな不確定な情報層の因果より、眼前の物理法則(条件式)に気を配るべきだったね」

 

 

僕は冷ややかに見下ろし、服についた埃を軽く手で払った。

 

胸の奥で燻っていた殺意は、完全に冷却されている。これ以上の追撃は無意味だ。日常に、血の匂いを持ち帰るわけにはいかない。

 

「さて、今日の夕飯は何にしようか」

 

僕は鉄骨の山に背を向け、いつもの穏やかな足取りで、夕日に染まる街へと歩き出した。

 

まるで、今夜の特売品のことだけを悩む、ごく普通の高校生のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

■ 2015年 5月某日 19:15 JST / 日本・某所 夕月碧の自宅アパート

 

 

換気扇の低く鈍い回転音が、誰もいないワンルームの空間に等間隔の振動を落としている。

 

僕はまな板の上に等間隔に並べた白ネギを、包丁で小気味よいリズムを刻みながら切り落としていた。トントン、トントンという規則的な音が、アパートの静寂を少しだけ和らげる。鍋の中では出汁が沸騰し、醤油とみりんの甘辛い香りが水蒸気と共に部屋の空気を満たしていく。

 

 

料理は、魔術に似ている。

 

物質の構造を物理的に切断し、熱量という条件を与え、化学変化を促すことで「食材」を「食事」へと《位相転移》(フェイズシフト)させる行為。

 

コンロの青白い炎を見つめながら、僕は数時間前の路地裏での出来事を俯瞰していた。

 

 

 

――ハリー・茜沢・アンダーソン。

 

 

あの男の口から『茜沢』という単語が出た瞬間、僕の奥底で泥のように沈殿していた殺意が、明確な温度を持って沸騰した。

 

右手を自身の胸の中心に当てる。心臓部。四年前、実の兄によって抉られた古傷が、幻肢痛となって熱を帯びている。ドクン、ドクンと嫌なリズムで脈打つ痛みを、僕は冷徹な理性で観察した。

 

 

 

怒りに呑まれるのは三流の魔術師だ。

 

僕はあの瞬間、脳の負荷を肩代わりする外部演算器――魔術刻印である《高次魔術演算》の第一機能、《超加速思考》(Cognitive Acceleration)を起動した。主観時間を極限まで引き延ばし、湧き上がる感情を「不純物」として切り離し、ただひたすらに「眼前の異物をどう排除するか」という最適解だけを演算した。

 

結果として選択したのは、地属性の《質量定義式》(ジオ・マトリクス)と風属性の《圧力差演算式》(エアロ・デルタ)の併用。消費魔力は極小。魔術の痕跡も残さず、ただの物理法則のバグとして男を瓦礫の下敷きにした。

 

 

極めて合理的。極めて無慈悲。

 

「……僕の精神構造は、やはりどこか欠落しているのだろうか」

 

 

誰に言うでもなく呟きながら、火を止める。

 

角隈さんと一緒にいる時の僕は、確実に「人間」だ。温かさを知り、冗談で笑い合うことができる。だが、あの路地裏にいた僕は、ただの冷たい自動演算装置に過ぎなかった。

 

落差。乖離。その二面性を自覚しながらも、僕は完成した肉うどんをテーブルに運び、一人きりの夕食を静かに口に運んだ。出汁の温かさが胃の腑に落ちていく感覚だけが、今ここにある確かな現実だった。

 

 

 

 

 

 

 

■ それから数日後 16:30 JST / 夕月碧の自宅アパート

 

 

日常の終りは、ひどくあっさりと訪れた。

 

学校から帰宅し、郵便受けを開けた時のことだ。チラシの束に紛れて、一通の分厚い封筒が入っていた。差出人の名前はない。しかし、手にした瞬間に指先から伝わる微弱なエーテルの反応が、それが「こちら側」からの手紙であることを告げていた。

 

 

自室に戻り、封を切る。

 

中には、上質な羊皮紙ではなく、現代的なコピー用紙にプリントされた数枚の書類が同封されていた。

 

 

『先日の一件は、我が機関の使者が独断で行った非礼であり、深く謝罪する』

 

 

文面は極めて事務的だったが、続く内容が僕の目を釘付けにした。

 

そこには、「人理継続保障機関フィニス・カルデア」の目的――人類史の存続を保証するための観測と、それを支える異常なシステム群の概要が記されていた。

 

 

僕は息を呑み、紙面上の文字を目で追う。

 

事象を記録し、情報として観測する『事象記録電脳魔・ラプラス』。

 

地球の魂を模造し、百年の未来をシミュレートする『擬似地球環境モデル・カルデアス』。

 

 

そして――事象の予測、演算、レイシフトを統括する超巨大な霊子演算装置『トリスメギストス』。

 

 

「……なんだ、これは」

 

 

震える声が漏れた。

 

恐怖ではない。歓喜だ。夕月家の魔術師としての、純粋にして狂気的なまでの知的好奇心。

 

夕月家の魔術は「世界を書き換え可能な条件式」として捉える。そして僕の刻印《アークキャスト・プロセッサ》は、その条件式を処理するための外部CPUだ。

 

しかし、手紙に記された『トリスメギストス』という演算器は、僕の刻印など次元が違うスケールで「世界そのもの」を演算・観測している。

 

人理がどうなろうと知ったことではない。人類の未来など、僕の管轄外の情報層の因果だ。

 

 

 

だが――あの極致の演算システムを、この目で視てみたい。そのアーキテクチャに触れれば、夕月家が目指す到達点、「世界の全条件式の逆コンパイル(根源への到達)」への道筋が見えるかもしれない。

 

左腕の奥深くで、《五重螺旋構造》(ペンタスパイラル・サーキット)へ変質とした回路が、主の意思に呼応するように熱く脈打っていた。

 

 

僕は書類をデスクに置き、静かに決断を下した。

 

 

 

 

 

 

 

 

■ 翌日 17:00 JST / 県立高校 屋上

 

空は燃えるような茜色に染まり、遠くから吹奏楽部のチューニングの音が風に乗って微かに聞こえてくる。

 

僕は屋上のフェンスに寄りかかり、目の前に立つ少女――角隈さんを見つめていた。

 

「……急ですね。明日から、休学するなんて」

 

 

彼女の声は、微かに震えていた。

 

いつもは明るく朗らかな彼女の瞳が、今は不安と寂しさに揺れている。オレンジ色の夕陽が彼女の髪を透かし、柔らかな輪郭を縁取っていた。

 

「ごめん。急遽、海外の……少し遠くの研究所に呼ばれてね。しばらくの間、戻れなくなる」

 

 

嘘だ。僕が向かうのは研究所などではなく、人類の存亡を賭けた戦場だ。

 

だが、その真実を彼女の条件式に組み込むわけにはいかない。彼女は、この穏やかな箱庭の象徴であり続けるべきだ。

 

「先輩のことだから、きっとすごい研究なんでしょうね……」

 

 

角隈さんは無理に笑顔を作ろうとして、俯いた。彼女の足元に伸びる長い影が、僕の影と少しだけ重なっている。

 

 

僕は彼女の頭に、そっと手を乗せた。

 

「……っ」

 

「泣かないで。必ず帰ってくるよ。僕にとって、帰るべき場所はここしかないからね」

 

 

僕の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙が滲んでいたが、しっかりと僕を見据えていた。

 

「約束、ですよ。……碧先輩がいないと、空の計算をしてくれる人がいなくなっちゃいますから」

 

「ああ。約束する」

 

 

彼女の温もり、彼女の匂い、夕暮れの風の温度。

 

僕はそれらすべての感覚情報を、深層の領域に深く、深く刻み込んだ。

 

過酷な極地へ向かう僕にとって、彼女が与えてくれた「人間の色」だけが、冷たい演算装置に成り果てるのを防ぐ唯一の錨(アンカー)だった。

 

 

 

 

 

 

 

■ 数日後 時刻不明 / 標高6000メートル 雪山の吹雪の中

 

 

世界は、白一色に塗り潰されていた。

 

窓の外で荒れ狂う猛吹雪は、ただの自然現象ではない。外界と隔絶するための結界に近い、狂気的なまでの低温と吹雪。

 

 

僕は分厚い防寒着に身を包み、高度を下げていくヘリコプターの座席で静かに目を閉じていた。

 

機内には僕以外にも数人の若者が乗っている。一般公募から選ばれたマスター候補生たちらしい。彼らは恐怖と寒さで歯の根を鳴らしているが、僕は基礎魔術《元素式強化》(エレメンタル・リインフォース)の火属性モード《熱量増幅式》(サーモ・アセンション)を自身の体内に薄く展開し、体温低下の条件式を強制的にブロックしていた。

 

 

『まもなく、カルデア・ヘリポートに到着する』

 

 

パイロットの無機質なアナウンスと共に、機体が大きく揺れ、雪を巻き上げながら着陸した。

 

ヘリから降り立った瞬間、肺を刺すような極寒の空気が入り込んでくる。

 

目の前にそびえ立つのは、雪山を穿つように建造された巨大な金属の扉。人類の存続を観測する砦、「カルデア」。

 

重厚なゲートが開き、僕は一歩、また一歩と無機質な通路へと足を踏み入れた。

 

照明の仄暗い通路。空調の微かな稼働音。ここには、僕の愛した「日常」の条件式は一つも存在しない。あるのは、冷徹な生存競争と、膨大な演算の果ての未来だけだ。

 

 

 

通路の角を曲がろうとした時。

 

ふと、前方から歩いてくる人影とすれ違った。

 

薄紫色の短い髪。大きな丸眼鏡。そして、どこか虚ろで、しかし芯の強さを感じさせる瞳をした少女。

 

彼女の足元には、見たこともない白いリスのような小動物が付き従っていた。

 

「フォウ、フォーウ」

 

 

小動物が、僕を見て鳴き声を上げた。

 

少女が立ち止まり、振り返る。

 

「……あ。申し訳ありません。新しく到着された、マスター候補生の方ですか?」

 

 

澄んだ、けれどどこか人工的な響きを持つ声。

 

その瞬間、僕の《元素式解析》(エレメンタル・アナライズ)が警告領域で自動起動した。

 

視界に映る彼女の「生命の条件式」――それは、普通の人間のものではなかった。寿命、魔力回路、存在の在り方。何もかもがいびつで、にもかかわらず強固に補強(リインフォース)されている。まるで、何かを宿すための器のような……。

 

「……ええ。今日からお世話になる、夕月碧です。君は?」

 

 

僕は解析を瞬時に打ち切り、いつもの穏やかな、人畜無害な笑顔を浮かべた。

 

「私は、マシュ・キリエライト。カルデアのスタッフです。……よろしくお願いします、夕月先輩」

 

 

マシュ・キリエライト。

 

その名が、これからの僕の演算式において最も重要な変数(パラメーター)になることを、この時の僕はまだ完全には理解していなかった。

 

 

 

 

さあ、始めよう。

 

世界の条件式を読み解き、書き換える、果てなき演算(戦い)を。

 

 

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