Fate/Grand Order -Rewrite Conditions- ~月の先輩、箱庭の僕、そして盾の後輩~ 作:りー037
■ 2015年 7月某日 / 標高6000メートル 人理継続保障機関カルデア・正面ゲート
外界は、生命の生存を許さない絶対零度の白魔に支配されていた。
しかし、分厚い隔壁を一枚隔てたカルデアの内部は、徹底的に管理された無機質な適温が保たれている。漂白されたような白い通路の先、荘厳な装飾が施された巨大なメインゲートの前に、夕月碧は一人静かに立っていた。
凍てつく雪山を越えてきたにもかかわらず、彼の呼吸に乱れはない。基礎魔術である《元素式強化》(エレメンタル・リインフォース)の火属性モードによって、体温と心拍数の「条件式」を平時に固定し続けていたからだ。彼はゆっくりと魔力供給を切り、極小の熱量変化と共に生身の感覚を取り戻していく。
ゲートの前に立つ碧の全身を、目に見えない幾重ものスキャンライトが舐めるように通過した。
『――塩基配列、ヒトゲノムと確認』
天井のどこかから、感情の一切を排除した冷たい機械音声が響き渡る。
『霊基属性、混沌・中立と確認』
『ようこそ、人類の未来を語る資料館へ。ここは人理継続保障機関、カルデア』
『指紋認証、声紋認証、遺伝子認証、クリア。魔術回路の測定…………完了しました』
網膜の毛細血管から、骨格の形状、さらには魂の在り方までをも数値化して暴き立てる徹底した走査。碧はわずかに目を細め、体内で稼働する《高次魔術演算》を用いて、自分をスキャンしているカルデアの防衛システム群の「逆コンパイル」を無意識に試みていた。
(なるほど。物理的な生体認証と、霊子レベルでの魔力波形認証の二重構造か。しかもこの精度……やはり、時計塔の旧時代的な結界とはアーキテクチャが違う)
『登録名と一致します。貴方を霊長類の一員であることを認めます。どうぞ、善き日をお過ごしください』
重厚なロックが解除される音が鳴るかと思いきや、機械音声はわずかな間を置いて、ひどく事務的にこう告げた。
『…………申し訳ございません。入館手続きの完了まで、あと180秒必要です』
『その間、模擬戦闘をお楽しみください』
『レギュレーション:ミドル。契約サーヴァント、なし。スコアの記録はいたしません。どうぞ気の向くまま、自由にお楽しみください』
『――カルデア式シミュレーション、開始。180秒の間、マスターとして善い経験が出来ますよう』
アナウンスが終わると同時、碧の視界を覆っていた無機質な白亜の空間が、万華鏡のようにノイズを走らせて崩壊した。
空間の位相が強制的に書き換えられていく。極彩色のポリゴンが弾け、次の瞬間、碧の足裏は硬い金属の床から、柔らかな土と草の感触へと変化していた。
■ シミュレーション・フィールド(仮想草原)
「……仮想空間の物理構築か。匂いまで再現するとは恐れ入る」
碧は一人ごちて、頬を撫でる人工的な風の温度を確かめた。青い空、どこまでも続く緑豊かな草原。しかし、夕月家の魔術師である彼の目には、これが「自然現象」ではなく「計算されたコードの羅列」であることがはっきりと視えていた。
空気を切り裂くような甲高い咆哮が、仮想の空から降ってくる。
上空には、巨大な皮膜の翼を羽ばたかせる数体のワイバーン。さらに地鳴りを響かせながら、前方の草むらから土塊で構成された無骨なゴーレムたちが数体、碧を「敵性存在」と認識して重い足取りで迫ってきていた。
碧の表情は、図書館で本を読んでいる時と何一つ変わらない。極めて穏やかで、静謐だ。
しかし、彼の左腕に刻まれた刻印は、すでに致死の演算を完了していた。
(――解析開始。ワイバーンの揚力係数、ゴーレムの分子結合強度、および疑似魔力動脈のフローを算出)
碧にとって、魔術とは炎を放ち、氷を撃ち出すような野蛮な行為ではない。
世界を構成する五大元素の「現象の条件式」を読み取り、たった一行のコードを書き換えることでバグ(致命的なエラー)を引き起こす作業だ。
「キシャアアアアッ!」
先陣を切った二体のワイバーンが、鋭い鉤爪を突き出して急降下してくる。風を切り裂く暴力的な質量。通常の魔術師であれば、防壁を張るか、迎撃の魔力弾を放つ場面だ。
だが、碧はただ静かに右手を空に向け、指先を指揮者のように振っただけだった。
「――風属性基礎式、《圧力差演算式》(エアロ・デルタ)。対象領域の気圧構造を再定義」
魔力の消費は極小。彼が行ったのは、ワイバーンたちの翼の周囲に存在する「気圧の差」を魔術的に均等化しただけだ。
飛行という現象は、翼の上下に生まれる圧力差(揚力)という条件式が成立して初めて可能となる。その条件式を、空間側から強制的に「ゼロ」に書き換えた。
「ギギャッ!?」
翼が空気を捉える感触を突如として失い、ワイバーンたちは無様にバランスを崩した。揚力を失った巨大な肉塊は、ただの重力に従う落下物へと成り下がり、碧の足元から数メートル離れた地面に激突してポリゴンの塵へと還っていった。
「さて、次は……」
碧が視線を地上へ戻すと、三体の巨大なゴーレムがすでに大木のような腕を振り上げているところだった。土塊の拳が、碧の頭蓋を粉砕すべく振り下ろされる。
碧はその場から一歩も動かず、今度は左足で軽く地面をタップした。
「――地属性基礎式、《質量定義式》(ジオ・マトリクス)。対象の硬度定義を上書き(リライト)」
対象は、ゴーレムたちの膝と肘の関節部を構成している結合土壌。
碧の魔力が回路を駆け巡り、ゴーレムの「物理特性の構造式」に干渉する。結合を保つための硬度という条件式が、自然界ではあり得ないレベルの「脆さ」へと改ざんされた。
振り下ろされた巨大な拳の負荷に、自らの関節の構造条件が耐えきれなくなる。
ドゴォォォンッ!!
という鈍い破壊音が連鎖した。碧に触れる直前で、三体のゴーレムは自らの運動エネルギーと自重によって自身の関節を粉砕し、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。土塊の残骸が碧の足元に転がり、やがてそれらも仮想の光となって消滅していく。
戦闘開始から、わずか15秒。
碧の息は一つも乱れておらず、服に土埃すら付いていない。
『――シミュレーション終了。お疲れ様でした』
再び機械音声が響き、緑の草原が元の白い空間へと位相を戻す。碧は小さく息を吐き、体内を巡る魔力を平時のアイドリング状態へと戻した。
無駄のない、ただひたすらに静かで合理的な暴力。これが、夕月碧という魔術師の戦い方だった。
■ カルデア内部・白亜の通路
開かれたゲートをくぐり、碧はカルデアの内部へと足を踏み入れた。
どこまでも続く、白い無機質な通路。彼が先ほどまでいた日本の日常とは完全に切り離された、人類の未来を繋ぎ止めるための箱庭。
その通路の角を曲がろうとした時だ。
「フォウ、フォーウ」
足元から、愛らしい鳴き声が聞こえた。視線を落とすと、白い毛玉のようなリスにも似た小動物が、碧を見上げて不思議そうに首を傾げている。
そして、その後ろから小走りで現れた人影。
「……あ。申し訳ありません。新しく到着された、マスター候補生の方ですか?」
薄紫色の短い髪。大きな丸眼鏡。感情の起伏が薄いようでいて、どこか芯の強さを感じさせる瞳。
碧の《元素式解析》(エレメンタル・アナライズ)は、再び彼女の生命構造の「いびつさ」を警告として弾き出していたが、彼はそれを完璧な笑顔の裏側に隠蔽した。
「ええ。今日からお世話になる、夕月碧です。君は?」
「私は、マシュ・キリエライト。カルデアのスタッフです。……よろしくお願いします、夕月先輩」
マシュ・キリエライト。彼女はなぜか、初対面の碧に対して自然と「先輩」という呼称を用いた。その響きに、碧はふと、日本の高校に置いてきた二つ下の後輩、角隈の姿を思い出した。
「先輩、か。カルデアのスタッフということは、君の方がこの施設の先輩だと思うのだけれど」
「いえ、私はただのスタッフですので。これからの人類の未来を担うマスター候補生の方々は、私にとって等しく敬意を払うべき対象です」
マシュは真面目くさった顔で、ぺこりと頭を下げた。その不器用で真っ直ぐな態度に、碧は思わず小さく吹き出しそうになる。
彼女の条件式には、悪意や打算といった不純物が一切見当たらない。魔術師の巣窟であるこの場所で、それはあまりにも特異な在り方だった。
「ああ、そこにいたのかマシュ。だめだぞ、断りもなしで勝手に移動するのはよくないと……ん?」
通路の奥から、朗らかな男の声が響いた。
コツ、コツと革靴の音を響かせて現れたのは、仕立てのいい緑色のコートを羽織り、特徴的なシルクハットを被った長身の男だった。目元は穏やかに笑っているが、足取りには確かな自信と権力が宿っている。
「おっと、先客がいたか。君は……そうか、今日から配属された新人さんだね」
「はじめまして。夕月碧と申します」
碧が丁寧に一礼すると、男は満足そうに頷き、大仰な手つきでシルクハットを軽く持ち上げた。
「私のことはレフ・ライノールと呼んでくれたまえ。ここの技術部門の責任者……技師長のようなものさ。夕月、君のことは聞いているよ」
レフは、碧を値踏みするように目を細めた。その瞳の奥に、同じ魔術師としての純粋な評価と、何か得体の知れない熱が渦巻いているのを碧は感知した。
「特異なアプローチによる元素操作を得意とする夕月家の最高傑作。とりわけ君は、時計塔では良くも悪くも有名だからね。凡百の魔術師たちの研究のデバッグから、暗殺まがいの荒事まで、極めて合理的にこなす『怪物』だと」
「買い被りですよ、レフ教授。僕はただ、計算式を解くのが少し得意なだけの、しがない学生です」
碧は愛想のいい、どこまでも人畜無害な笑顔で応えた。
だが、内側の演算器はレフ・ライノールの魔力波形を密かに記録している。この男は隙がない。底が見えない。
「ハハハ、謙遜も美徳だ。わからないことがあったら、私やマシュに遠慮なく声をかけてくれたまえ」
レフは機嫌よく笑い、ふとマシュの方へと視線を移した。「おや? そういえば、君たちはいま何を話していたんだい? もしかして、以前からの面識があったのかい?」
「いえ、初対面です」
マシュは首を横に振り、少しだけ言葉を探すように間を置いてから、レフに向かって告げた。
「ただ……夕月先輩は、私が今までお会いしたマスター候補生の中で、一番『人間らしい』方だと感じました。なんというか……脅威を、全く感じないんです」
その言葉を聞いた瞬間、碧の心臓が小さく跳ねた。
脅威を感じない。人間らしい。
数日前の夕暮れ、ただの苛立ちと合理的な計算のみで、ハリー・茜沢・アンダーソンという使者を鉄骨の下敷きにして排除した自分を指して、この少女はそう言ったのだ。これほどの皮肉(アイロニー)があるだろうか。
碧は内側に渦巻く自嘲の念を、完璧な愛想笑いでコーティングして押し隠した。
「なるほど、それは重要なことだ」
レフは真剣な顔で頷いた。
「ここに集められた人間は、一癖も二癖もある魔術師ばかりだからね。夕月くんのように、他者に威圧感を与えない穏やかさは、過酷なミッションにおいて潤滑油になるだろう」
レフもまた、マシュの意見に全面的に賛同している。
「彼となら、君もいい関係が築けそうだ」と微笑むレフに、碧はただ「恐縮です」とだけ頭を下げた。見事に騙せている。あるいは、自分の精神構造の欠落が、皮肉にもこの異常な施設では「安全な仮面」として機能しているということか。
「さて、私は少し野暮用があってね。じきに所長による新任マスターへの説明会が始まる。遅れないようにしたまえよ」
レフはそう言い残し、ヒラヒラと手を振って通路の奥へと消えていった。
残された碧とマシュの間に、ほんの少しの静寂が降りる。
「……レフ教授が気に入るということは、所長が一番嫌うタイプの人間、ということですね」
不意に、マシュがポツリと呟いた。
その声のトーンがあまりにも平坦で、事実だけを述べるような響きだったため、碧は思わず目を丸くした。
「あの、夕月先輩」
「はい、なんでしょう」
「このままトイレに籠って、説明会をボイコットする、というのはどうでしょうか」
「…………え?」
碧は、自らの耳を疑った。
世界を条件式として捉え、あらゆる現象の最適解を弾き出してきた彼の《アークキャスト・プロセッサ》が、この瞬間だけは完全にフリーズした。
感情の起伏が薄く、誰よりも真面目そうに見えるこの少女の口から、まさか初手で「トイレでのサボり」を提案されるとは、予測しえないバグだった。
「ふ、ふふっ……あはははは!」
碧は耐えきれず、腹の底から笑い声を上げた。愛想笑いでも、計算された処世術でもない、純粋な笑い。
マシュは不思議そうに目をパチパチと瞬かせている。
「いや、ごめん。まさかそんな提案をされるとは思わなくて」
碧は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、大きく息を吐いた。
「とても魅力的な提案だけれど、初日からそれは印象が悪すぎるかな。案内してくれるかい? その、所長さんの説明会へ」
「……はい。わかりました、先輩」
マシュは少しだけ残念そうに、しかし表情はほとんど変えずに頷き、碧の先導を始めた。
彼女の背中を見つめながら、碧の心に微かな温もりが灯る。
箱庭で育った自分に人間の色を教えてくれた角隈に似た、不器用で純粋な善性。この冷え切ったカルデアというシステムの中で、彼女の存在は、碧にとって無視できないノイズ――心地よいエラーになりつつあった。
二人の足音が、白亜の通路に規則正しく響いていく。
人類の存亡を賭けた戦いの幕開けが、すぐそこまで迫っていることも知らずに。
■ 2015年 7月某日 / 人理継続保障機関カルデア・内部通路
どこまでも続く無機質な白亜の通路を、二つの足音が一定のリズムを刻んで進んでいた。
前を歩くのは、カルデアのスタッフであるマシュ・キリエライト。彼女のわずかに前傾した歩行姿勢、床を蹴る際の体重移動、そして周囲の空調がもたらす微弱な気圧変化。刻印は、主の意思とは無関係にそれらの膨大な環境情報をリアルタイムで収集し、極めて精緻な条件式として脳裏にキャッシュし続けていた。
碧は、マシュの薄紫色の後頭部を眺めながら、ふと口を開いた。
「そういえば、マシュ」
「はい。何でしょうか、夕月先輩」
歩みを止めることなく、マシュが声だけを後ろへ向ける。
「初対面の僕を『先輩』と呼ぶ理由だけど、 確かにマスター候補生という立場ではある。でも他にも何か理由があるんじゃないか?そう思ってさ」
論理的な疑問だった。しかし、碧の問いの根底にあったのは純粋な情報的興味だけではない。なんとなく、ただなんとなく、感情の起伏が薄い彼女が自分を「先輩」と呼ぶその響きは、後輩の姿がフラッシュバックしたのだ。
マシュは少しだけ歩調を緩め、伏し目がちに答えた。
「……明確な理由があるわけではありません。ただ、私はずっとこのカルデアの中で、限られた世界しか知らずに生きてきました。ですから、外の広い世界を知っていて、そこからいらっしゃった候補生の方々は、私にとって未知を教えてくださる『先達(先輩)』のように思えるのです」
「外の世界、か」
「はい。それに……先輩からは、とても穏やかなものを感じます。……うまく言えませんが、一緒に歩いていて、とても静かな気持ちになれるんです」
「……そう言ってもらえるのは光栄だよ。僕も、君のような案内人がいてくれて助かっている」
碧が微笑みかけると、マシュは少しだけ照れたように「恐縮です」と呟き、再び歩みを早めた。碧は彼女の背中を見つめながら、この閉鎖空間で出会った不思議な少女に、明確な好感を抱き始めている自分を自覚していた。
■ 中央管制室・オリエンテーション会場
重厚な金属の扉が左右にスライドし、巨大なドーム状の空間が二人の前に開けた。
カルデアの心臓部。そこは、魔術と科学が極限の次元で融合した、人類史の観測所だった。
空間の中央に鎮座する巨大な蒼き天体――擬似地球環境モデル《カルデアス》。その周囲を取り囲むように配置された事象記録電脳魔《ラプラス》の端末群。そして、それらすべての観測データを処理し、事象の予測とレイシフトを統括する超巨大な霊子演算装置《トリスメギストス》。
碧は指定された席に着座した。周囲には彼と同様に、世界中から召集された48名のマスター候補生たちが並んでいる。
だが、碧の意識はすでに、周囲の人間たちには向いていなかった。
(――元素式解析《エレメンタル・アナライズ》、《情報抽出、開始》)
碧の瞳孔が微かに収縮し、虹彩の奥に魔力光が走る。
彼の視界は急速に変質し、眼前に広がるカルデアの中枢システムが、ただの機械ではなく「無数の条件式(アークコード)が絡み合う巨大な演算回路」として可視化された。
トリスメギストスの霊子フローの流速。カルデアスの磁場安定係数。それらを維持するための空調による熱量奪取のサイクル。
夕月家の魔術は、世界を書き換え可能な式として視る。碧の思考は、その知的好奇心に突き動かされるまま、現実の肉体を置き去りにしてシステムの内側へとダイブしていった。
「――諸君、よく集まってくれたわ。私がこのカルデアの所長、オルガマリー・アニムスフィアよ」
凛とした、しかしどこか神経質で高圧的な声が管制室に響き渡った。
銀色の髪を揺らし、壇上に立つオルガマリー。彼女はアニムスフィアの当主としてのプライドと、人理を存続させなければならないという巨大な重圧を背負い、マスター候補生たちに向けて熱弁を振るい始めた。
人類の未来。特異点Fへのレイシフトの重要性。魔術師としての使命。
熱を帯びた彼女の言葉は、他の候補生たちを圧倒し、緊張感で空間を満たしていく。後方で待機しているマシュも、真剣な眼差しで所長の言葉に耳を傾けていた。
だが。
ただ一人、夕月碧だけは、その熱狂から完全に切り離されていた。
(……いや、非効率だ。カルデアスの冷却機構における熱量交換の条件式に、わずかなタイムラグがある。このままでは魔力流の位相がコンマ数秒ズレる。空属性の魔力流制御式《エーテル・コンダクタンス》を用いて、循環系の変数を再定義すれば、冷却効率を0.4%向上させることが可能だ……)
碧は、壇上のオルガマリーを「見つめて」はいたが、その焦点は彼女を完全に通り抜け、背後のトリスメギストスの基盤構造に合わさっていた。彼の指先は無意識に太ももの上で規則正しく動き、存在しないキーボードを叩くように条件式の再計算(リファクタリング)を行い続けている。
その異様なほどの「無関心さ」が、オルガマリーの神経を逆撫でしないわけがなかった。
「……ちょっと、そこの貴方! ええ、貴方よ!!」
怒気を含んだ鋭い声が、碧の加速した思考を強制的に現実へと引き戻した。
顔を上げると、壇上のオルガマリーが顔を真っ赤に紅潮させ、碧を指差してワナワナと震えている。周囲の候補生たちが一斉に碧へと視線を向け、後方のマシュが「あっ……」と小さく息を呑むのが見えた。
「夕月……! 噂には聞いていたわ。時計塔の各学部から便利使いされている、汎用性だけが取り柄の鼻持ちならない秀才だってね! でも、私がこれほど重要な話をしている最中に、虚空を眺めてぼんやりしているなんて……私を、アニムスフィアを舐めているのかしら!?」
オルガマリーの怒りは、単なる不真面目な態度への叱責だけではない。名門の当主として、得体の知れない異端の魔術師に対する本能的な警戒感と、コンプレックスが入り混じっていた。
「舐めているなど、滅相もありません。ただ、所長のお話を伺うよりも、背後の霊子演算装置の冷却効率を最適化する演算を脳内で走らせる方が、結果的にこの施設の生存確率に寄与するのではないかと判断したまでです」
碧は立ち上がり、至極真面目に、そしていつもの穏やかな笑みを浮かべてそう答えた。
悪気など一切ない。夕月碧という合理主義の怪物にとっては、それが「最善の選択」だったという事実を述べたに過ぎないのだ。
しかし、それはオルガマリーの怒りに油を注ぐ最悪の回答だった。
「……っ、ふざけないで! 協調性も敬意もない歯車(パーツ)なんて、このカルデアには不要よ! 貴方、今すぐここから出て行きなさい! 特異点への初回ミッションから、貴方を外すわ!」
「……そうですか。承知いたしました」
反論する意味はない。碧は優雅に一礼すると、憤怒に肩を震わせる所長を後に、微かな足音だけを残して静かに管制室を退出した。
■ 居住区画へ続く通路〜第48個人居室前
「……少しばかり、合理性を優先しすぎたかな」
冷え切った通路を一人歩きながら、碧は小さく息を吐いた。
自分の精神構造が一般的な人間とズレていることは自覚している。だが、感情という不確定な変数を考慮に入れなければならない人間関係は、条件式の演算よりも遥かに難解だ。
「あ、夕月先輩……!」
背後から、パタパタと小走りで近づいてくる足音がした。振り返ると、マシュが息を切らせて駆け寄ってくる。
「マシュ? 君は説明会に残っていなくてよかったのかい?」
「所長から……先輩の自室を案内するようにと、命じられました。その、先輩はまだご自身の部屋の場所をご存知ないと思いましたので」
申し訳なさそうに眉を八の字にするマシュを見て、碧は内心で舌打ちをした。自分の立ち回りの拙さが、この善良な少女に余計な気遣いをさせてしまった。
「すまない。僕が空気を読まなかったせいで、君に手間をかけさせた」
「いえ、そんなことは。所長があんなに怒るのは、いつものことですから」
マシュは控えめに微笑み、碧の先導を始めた。
二人は居住区画へと歩を進める。先ほどまでの張り詰めた空気とは違う、穏やかな時間が流れていた。
やがて、目的の『第48個人居室』のプレートが掲げられた重厚な扉の前に到着する。
「ここが、先輩のお部屋になります」
「ありがとう、マシュ。本当に助かったよ」
碧が労いの言葉をかけると、マシュは姿勢を正し、深くお辞儀をした。
「では先輩、私は管制室に戻ります。説明会がまだ続いていますし、レイシフトの準備もありますから」
「ああ。また後で」
碧は片手を挙げて応える。
マシュが踵を返し、来た道を戻っていく。その背中が通路の角を曲がって見えなくなるまで見送った後、碧は自身の生体IDを認証させ、部屋の扉を開いた。
■ 第48個人居室・内部〜崩落
「さて、実験から外された以上、この後の時間はどう有効活用――」
独り言を呟きながら足を踏み入れた碧は、その光景にピタリと動きを止めた。
無機質なベッドの上。そこには、だらしなく白衣を羽織り、右手にフォーク、左手に皿を持った見知らぬ男が腰掛けていた。男の口の周りには、真っ白な生クリームが付着している。
「む、もぐもぐ……ふむ。やっぱりここのショートケーキは、もう少しイチゴの酸味が効いていた方が全体のバランスがいいなぁ」
男は碧と目が合うと、「おっと」と間抜けな声を上げてケーキを飲み込んだ。
「やあ。君が新しく来たマスター候補生だね? 噂の『時計塔』の夕月くんで間違いないかな」
「……ええ、そうですが。貴方は?」
碧は警戒レベルを引き上げることなく、穏やかに尋ねた。この男からは魔術的な殺気や敵意の条件式が一切検出されない。
「僕はここの医療部門の責任者さ。ドクター、あるいはロマンと呼んでおくれ」
ロマニ・アーキマンと名乗った男は、照れ隠しのように頭を掻きながらベッドから立ち上がった。
「所長から追い出されたって聞いてね、落ち込んでいるようなら慰めてあげようかと思ってたんだけど。……まあ、見たところその必要は全くもってなさそうだ。君、噂以上に『冷えている』ね」
ロマニの瞳が、一瞬だけ鋭く碧の芯を射抜いた。
その視線は、魔術師のものではない。壊れた機械の構造を診断する、卓越したエンジニアのそれだった。
「冷えている、とは心外ですね。僕は常に最適解を求めているだけです」
「そう、それだよ。君は世界を『式』として見すぎている。でもね、夕月くん。世界は計算式だけでできているわけじゃない。式を動かすための熱……つまり『感情』や『願い』が、時には計算を狂わせて、奇跡を起こすこともあるんだ」
奇跡。
その非論理的な単語に、碧は小さく鼻で笑いそうになった。
「奇跡とは、未定義の変数が引き起こす単なる演算エラーです。夕月家の魔術においては、排除すべき不純物に過ぎません」
「ははは。やっぱり君は面白いね。君はなんとなく――」
ロマニが笑いかけた、その瞬間だった。
バチンッ、という鋭い音と共に、部屋の照明が完全に消失した。
赤色灯が明滅し、壁面のサイレンがカルデア全土を揺るがすような腹の底に響く不気味なアラートを撒き散らす。
『――緊急事態発生。緊急事態発生』
感情のないシステム音声が、暗闇の中で無機質に反響する。
『中央発電所、および中央管制室にて火災が発生。人理継続保障システムに重大な障害を確認』
『中央区画の隔壁は90秒後に閉鎖されます。全職員は速やかに第二ゲートから退避してください』
「なんだって……!? 管制室が火災だと!?」
ロマニの顔から血の気が引いた。彼はケーキの皿を放り投げ、白衣のポケットから情報端末を乱暴に引き抜き、ホログラムモニターを空中に投影した。
そこに映し出された光景に、碧の呼吸が止まった。
モニター越しの『中央管制室』。
それは、数十分前まで碧が呆れるほど完璧な条件式で稼働していた、あの白亜の空間ではなかった。
紅蓮の炎が爆ぜ、コンソールが飴細工のように溶け落ちている。瓦礫の下敷きになり、血の海に倒れ伏す無数のスタッフとマスター候補生たち。カルデアスは不気味な赤色に染まり、暴走状態にあった。
「そんな……所長! みんな……!!」
ロマニが絶望に顔を歪める。
だが、碧の脳裏を支配したのは、ただ一つの決定的なエラーだった。
(マシュ……マシュ・キリエライト。彼女は先ほど、あの『管制室』へと戻っていった)
あの不器用で、真っ直ぐで、自分に人間の色を思い出させてくれた少女が、今、あの業火の地獄の中にいる。
碧は、すさまじい勢いで演算を回す。彼女の生存確率は? 救出するための最短ルートは? 炎を消し去るための条件式は?
だが、現実は碧の演算速度を凌駕して崩壊していく。
メキメキ、という断末魔のような軋み音が、部屋の頭上から響いた。管制室での爆発の余波がカルデアの物理構造を破壊し、第48居室の天井を支える『質量と硬度の条件式』が破綻したのだ。
「伏せて、ドクター!!」
碧が叫ぶと同時。
数トンものコンクリートの天井が、二人の頭上に向かって音を立てて崩落してきた。
碧の視界が、圧倒的な質量と暗闇に塗り潰されていく――。