Fate/Grand Order -Rewrite Conditions- ~月の先輩、箱庭の僕、そして盾の後輩~   作:りー037

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【2節】 欺瞞の境界線と、無効化される暴風

■ A.D.2004 / 炎上汚染都市 冬木・市街地

 

 

空気を切り裂く甲高い風切り音が、夜の静寂を暴力的に引き裂いた。

 

碧の背中からわずか数センチの距離で、彼が展開した風属性中級固有術式、圧力場再構築《エアロ・フィールド》の断層に弾かれた漆黒のナイフ(ダーク)が、軌道を逸らしてアスファルトに深く突き刺さった。

 

ガガァンッ!という鋭い破砕音が響き、アスファルトの破片が散弾のように飛び散る。ナイフに込められたどす黒い呪力が、周囲の物質をチリチリと腐食させていく嫌な匂いが大気を焦がした。

 

 

炎上する街並み。空を覆う黒煙。

 

その赤黒い地獄の底で、碧はゆっくりと振り返り、ナイフが飛来した暗がりへと視線を向けた。

 

彼の瞳からは、カルデアのスタッフたちに見せていた「人畜無害な青年」の面影は完全に消え去っていた。そこにあるのは、世界を構成する無数の条件式を冷徹に読み解き、最適な解を導き出すためだけに稼働する、極寒の演算装置としての眼差しだ。

 

 

「……情報層の干渉による気配の隠蔽。なるほど、ただの光学迷彩や魔力遮断の類ではない」

 

 

碧は、自身の左腕に刻まれた外部演算補助型魔術刻印へと、思考のアクセス権を委譲した。

 

 

「――刻印機能、一番および二番。超加速思考《Cognitive Acceleration》、ならびに並列演算網《Parallel Cognition》、常時起動(オン)」

 

 

命令(コマンド)が下された瞬間、碧の体内を巡る38本の魔術回路が、青白い魔力の明滅を伴って爆発的に脈動を始めた。

 

碧の主観時間が極限まで引き延ばされる。燃え盛る炎の瞬きが、まるでスローモーションの映像のように固定化され、舞い散る火の粉の一つ一つが空中で静止したかのように錯覚するほどの泥沼の時間。

 

 

その拡張された知覚と演算領域をフル稼働させ、碧は周囲の空間をレーダーのように走査(スキャン)した。

 

熱源、マナの波長、音波の反射、大気の流動。

 

あらゆる情報を収集し、敵対存在の「座標」を割り出そうと試みる。

 

 

 

だが。

 

(……見えない。いや、存在そのものが『世界から隠蔽』されているのか)

 

碧の《元素式解析(エレメンタル・アナライズ)》をもってしても、暗がりに潜む「それ」の正確な位置を特定することはできなかった。

 

気配遮断。暗殺者(アサシン)のクラスを与えられた英霊が持つ、理不尽なまでの神秘。どれほど精密な魔術探知を行おうとも、攻撃の瞬間に殺気を放つまで、その存在は世界のシステムから完全に隔離されている。

 

 

 

しかし、夕月碧は天才ではないが、即応の極致に至る秀才だ。

 

「見えない」という事実すらも、彼にとっては一つの情報に過ぎない。

 

(本体の座標は情報層で秘匿されている。だが、ヤツがこの物理空間に質量を持った存在として立ち、移動している以上、その運動が周囲の環境に及ぼす『物理的な影響』までは完全に隠蔽できない)

 

 

碧の並列演算網が、探知のアルゴリズムを切り替える。

 

敵の本体ではなく、敵が移動することによって生じる「空間の微小な歪み」、空気の押し出し、足元の瓦礫が擦れる極小のノイズ。それらの間接的な条件式の乱れから、おぼろげな位置を特定する。

 

 

「そこか」

 

 

碧は右手を軽く振りかざし、火の基礎式《熱量増幅式》(サーモ・アセンション)を編み上げた。対象空間の熱量条件を強制的に書き換え、暗がりの中に局地的な小爆発を引き起こす。

 

 

ドォンッ!という音と共に赤蓮の炎が咲くが、手応えはない。

 

続くように、左手で風の基礎式《圧力差演算式》(エアロ・デルタ)を起動し、不可視の空気の刃を放つ。

 

建物の壁面が鋭く抉り取られるが、やはり血の匂いはしなかった。

 

 

(躱されている。しかも、一つの場所に一秒たりとも留まっていない)

 

 

空間の歪み(ノイズ)は、碧の周囲を円を描くように高速で移動し続けていた。

 

アサシンは、圧倒的な機動力で碧の死角を飛び回りながら、時折、牽制のように漆黒のナイフを投擲してくる。

 

 

 

ヒュンッ!

 

 

 

右斜め後方からの飛来。

 

碧は首を僅かに傾け、頬を掠めるナイフを回避する。

 

 

 

シュガッ!

 

 

 

今度は左の足元。

 

地属性の魔術で左足の硬度を上げ、ナイフを弾き落とす。

 

 

(……僕の運動性能と、行動法則(アルゴリズム)を測っているのか)

 

 

碧は、アサシンの意図を正確に読み取っていた。

 

相手は一撃必殺の暗殺者だ。だが、先ほどの碧の防御を見て、正面から容易に首を刈り取れる相手ではないと判断したのだろう。

 

だからこそ、致命傷にはならないナイフの投擲で牽制し、碧の手足を切り刻み、回避行動を強要させることで体力を削り、神経を摩耗させる。

 

そして、碧の動きが鈍ったその一瞬の隙に、本命の凶刃を心臓に突き立てる。それが、あの暗闇に潜む英霊の目論見だ。

 

 

「……随分と、論理的で堅実な狩りをする」

 

 

碧の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。

 

相手が論理(理屈)で動くのであれば、それは夕月碧の最も得意とする土俵だ。

 

 

(まずは、機動力と耐久力の底上げだ)

 

 

碧は、自身の体内構造を対象として、元素式強化《エレメンタル・リインフォース》の属性別強化モード(Elemental Mode Shift)を起動した。

 

 

「火属性・瞬発力拡張。風属性・反射神経最適化。地属性・筋繊維硬度上昇」

 

 

三つの属性の条件式が、碧の肉体というハードウェアにインストールされる。

 

筋肉の収縮率が引き上げられ、神経の伝達速度が常人を遥かに凌駕する領域へと書き換わり、骨格は鋼鉄のような強度を得る。

 

強化のプロセスが完了するや否や、碧は飛来した三本のナイフを、最小限の体捌きと強化された手刀で「物理的に」弾き落とした。

 

 

キンッ、カキンッ!という金属音が鳴り響く。

 

 

だが、どれほど肉体を強化しようとも、アサシンの正確な位置が掴めない以上、ジリ貧になるのは目に見えている。

 

英霊という理不尽な神秘は、碧の魔力と集中力が尽きるのを、暗闇の中でただ待っていればいいのだから。

 

(こちらから攻め手を見出せないのなら……相手がこちらを『仕留めに来る』その瞬間を利用するしかない)

 

 

碧の脳内で、冷酷なまでのカウンター戦術が組み上げられた。

 

肉を切らせて骨を断つ。生存本能を無視した、機械的な最適解。

 

碧は立ち止まり、周囲の空間のサーチを継続しながら、ひっそりと「罠」を構築し始めた。

 

 

「――元素式結界《エレメンタル・バウンダリー》、条件式結界《コンディション・バウンダリー》。座標固定、半径4メートル」

 

 

碧を中心とした半径4メートルの空間に、透明な膜のような結界が展開される。

 

いかに気配遮断のスキルを持つ英霊であろうと、この魔術的な領域の内側に踏み込めば、空間の条件式への干渉として碧の《刻印》に強制的に検知される。

 

 

だが、碧が構築したのは単なる感知用の結界ではない。

 

結界の最深部に、ひとつの致命的な「条件(ルール)」を秘匿(暗号化)して仕込んだ。

 

 

(発動条件:対象の侵入、および術者の任意コマンド。

 

 

 

効果:領域内における侵入者の運動ベクトルの『速度低下』)

 

 

あとは、待つだけだ。

 

アサシンが、この半径4メートルという致死の領域に踏み込み、碧の首を刈り取るその瞬間まで。

 

炎の弾ける音。遠くで崩落する建物の音。

 

そして、暗闇を高速で移動する、微かな空間の歪み。

 

(……来る)

 

 

碧の《未来予測》が、急激な因果の収束を検知した。

 

空間の歪みが、碧の正面に回る。いや、違う。

 

 

 

ヒュンッ!ヒュンッ!

 

 

 

碧の右斜め前方、そして左斜め前方の暗がりから、ほぼ同時に漆黒のナイフが投擲された。

 

ナイフそのものには気配遮断の恩恵はない。投げ放たれた瞬間、碧のレーダーはその軌道を完璧に捕捉していた。

 

二本のナイフは、碧の右脇腹と左肩を正確に貫く軌道を描いている。

 

 

 

そして――。

 

(本命は、背後だ)

 

 

碧の背後、まさに死角となる位置。

 

そこに、濃厚な死の匂いを纏った巨大な「空間の歪み」が急速に接近してくるのを、碧の肌が感じ取った。

 

前方からの二本のナイフで意識を逸らし、回避行動をとったところを、背後から音もなく忍び寄り、その首を刎ねる。完璧な暗殺の布陣。

 

 

ナイフが迫る。

 

背後の殺意が迫る。

 

そして、ついに。

 

 

『――対象、半径4メートルの領域(結界)内へ侵入』

 

 

碧の《アークキャスト・プロセッサ》が、無機質なアラートを鳴らした。

 

条件式結界《コンディション・バウンダリー》の境界線を、アサシンの英霊が越えたのだ。

 

その瞬間、気配遮断のスキルは意味を失った。碧の脳裏に、髑髏の仮面を被り、異常に肥大化した右腕を持つ暗殺者の明確な輪郭(ポリゴン)が結像する。

 

 

碧は、動かなかった。

 

ズプッ!!

 

グシャッ!!

 

 

左右から飛来した二本のナイフが、碧の右脇腹と左肩に深々と突き刺さった。

 

鮮血が噴き出し、焼けつくような激痛が碧の神経を蹂躙する。ナイフに込められた呪いが、傷口から体組織を腐食させようと侵入してくる。

 

常人ならば、その痛みと恐怖で一瞬にして意識を刈り取られていただろう。

 

だが、夕月碧は痛覚すらも「ただの情報」として脳内で処理し、即座に切り捨てていた。

 

 

(防御を捨てた分の全リソースを、攻撃の条件式へ)

 

 

痛みに顔を歪めることすらなく、碧は血の飛沫を散らしながら、凄まじい速度で背後へと振り返った。

 

「なっ……!?」

 

 

髑髏の仮面の奥で、アサシンが驚愕に目を見開く気配がした。

 

まさか、暗殺者のナイフを回避するでも防ぐでもなく、「あえて急所を外して受ける」ことでカウンターのタイミングを合わせる人間がいるなど、予想の範疇を超えていたのだ。

 

 

振り返りざま、碧の右拳にはすでに、多重の属性エンチャントが極限まで圧縮されていた。

 

火の熱量増幅による爆発的な推進力。地の質量定義による鋼鉄を超える硬度。風の圧力差による空気抵抗の排除。

 

「……終わりだ」

 

 

碧の拳が、アサシンの顔面――髑髏の仮面めがけて一直線に打ち出される。

 

だが、相手は歴戦の英霊だ。驚愕は一瞬。アサシンは即座にカウンターを察知し、極限の体捌きで碧の拳の軌道から身体を逸らし、後方へと跳躍しようとした。

 

 

その身のこなしは、まさに神業。

 

通常の魔術師であれば、渾身の一撃は空を切り、逆に無防備な隙を晒して殺されていただろう。

 

だが、碧はアサシンの回避行動すらも、すでに演算に組み込んでいた。

 

「――条件式結界、隠蔽コマンド実行(ラン)。『侵入者の速度低下』」

 

 

碧の冷たい声が響いた瞬間。

 

結界内の空間法則が、魔術的に改ざんされた。

 

「……!?」

 

 

アサシンの身体が、まるで不可視の泥沼に足を踏み入れたかのように、ガクンと不自然に重くなった。

 

運動ベクトルと空間の摩擦係数という条件式を書き換えられたことにより、英霊の神業であるはずの回避行動に、コンマ数秒の致命的な「遅延(ディレイ)」が生じたのだ。

 

そのコンマ数秒は、夕月碧の拳にとって、永遠にも等しい時間だった。

 

 

 

ドゴォォォォォォンッ!!

 

 

 

 

圧縮された多重属性の拳が、回避しきれなかったアサシンの髑髏の仮面に、完璧なクリーンヒットを放った。

 

爆発的な火の熱量と、地の質量が解放される。

 

衝撃波が円形に広がり、周囲の炎と煙を吹き飛ばした。

 

 

「グガァッ……!!」

 

 

苦悶の呻き声を上げ、アサシンの身体が弾き飛ばされる。

 

数十メートルの距離を砲弾のように吹き飛び、背後にあった半壊した廃店舗のコンクリート壁を突き破って、その内部へと激突した。

 

 

もうもうたる土煙が、崩壊した店舗から立ち昇る。

 

「……即死はしていない、か。やはり英霊の霊基構造は規格外だな」

 

 

碧は、刺さったままの二本のナイフを無造作に引き抜いた。

 

血が滝のように溢れ出すが、刻印機能の四番・生存補助《Vital Sustain》と、水属性の《流体運動式》が即座に起動し、細胞の再生と止血の条件式を強制的に成立させる。傷口から微かな蒸気が上がり、数秒後には痛みの残滓だけを残して肉体は塞がっていた。

 

碧は一切の油断を見せず、吹き飛ばした廃店舗へと歩みを進める。

 

 

(気配遮断を無効化し、正面からの近接戦闘に持ち込めば殺れる。相手の近接戦闘能力(パラメータ)の限界値は、先ほどの攻防で概ね算出できた)

 

 

 

追撃だ。

 

碧は両手に中距離用の魔力弾(火と風の複合による熱圧弾)を生成し、崩壊した店舗の入り口から内部の暗闇へ向けて連続で撃ち込んだ。

 

 

ドガンッ!ドガンッ!と、内部で爆発が連続する。

 

 

碧はその爆発を隠れ蓑にして、自らも店舗の内部へと突入した。

 

廃店舗の内部は、かつてのスーパーマーケットのようだった。倒れた陳列棚、散乱する商品、崩落した天井のパネル。そこに、外からの炎の光が赤黒く差し込んでいる。

 

 

「チィッ……!」

 

 

瓦礫の中から、アサシンが影のように飛び出してきた。

 

仮面の半分が砕け、そこから覗く素顔には明らかな焦燥と殺意が浮かんでいる。

 

アサシンは、気配を隠すことを諦め、その異常に長い右腕――呪腕を振るい、直接的な近接戦闘に打って出た。

 

「シィッ!」

 

 

鋭い呼気と共に、呪腕が碧の胴体を薙ぎ払う。

 

碧は地の魔術で足元の摩擦をゼロに書き換え、スケートのように滑りながらその一撃を躱す。

 

通り過ぎた呪腕が、鉄製の陳列棚をまるで紙屑のように引き裂いた。

 

 

(凄まじい破壊力だ。まともに受ければ強化した骨格ごと粉砕される)

 

 

碧は冷静に呪腕の軌道を解析し、相手の死角へと入り込む。

 

夕月家で叩き込まれた、魔術と連動させるための徹底的な体術。碧の動きに無駄はない。最短距離でアサシンの懐に潜り込み、風の魔術で加速させた手刀や蹴りを、相手の関節や重心を崩すように的確に叩き込んでいく。

 

「ヌゥッ……!」

 

 

アサシンが苛立たしげに呻く。

 

暗殺者である彼は、正面からの泥臭い殴り合いを得意としていない。しかも、相手の人間は自分のナイフによる攻撃軌道を完全に予測し、距離を取ろうとすれば的確な魔術射撃で牽制してくる。

 

徐々に、しかし確実に、アサシンは閉鎖空間の中で碧の合理的な暴力によって追い詰められていった。

 

 

(そろそろ、限界か)

 

 

碧の連撃を受け、アサシンの体勢が大きく崩れた。

 

アサシンは、このままではジリ貧になると悟ったのだろう。喉の奥から獣のような咆哮を上げ、巨大な呪腕を碧の頭上から渾身の力で叩き落としてきた。

 

 

「シャァァッ!!」

 

 

「……大振りすぎる」

 

 

碧は、その叩きつけを横へのステップで難なく躱す。

 

呪腕が床のコンクリートを粉砕し、激しい土埃が舞い上がった。

 

 

(これで、決める)

 

 

アサシンの姿勢は完全に伸びきり、最大の隙を晒している。

 

碧は自らの右腕に、極限まで圧縮した「風属性の術式」を収束させた。

 

基礎式である《圧力差演算式》を何重にも重ね掛けし、対象の内部圧力を急激に膨張させることで、内部から破裂(爆散)させるための必殺の条件式。

 

 

「消し飛べ」

 

 

碧の右手が、アサシンの無防備な胸郭――霊核が存在するであろう位置に触れた。

 

圧縮された風の魔力が、相手の体内に流し込まれる。

 

勝利の確信。これで、この異常な空間における最初の障害を排除できる。

 

 

 

――本来であれば、そうなるはずだった。

 

 

 

もし相手が、ただの魔術師や怪物であったならば。

 

 

「……!」

 

 

碧の表情が、初めて微かな驚愕に歪んだ。

 

アサシンの体内に流し込んだはずの「風の魔力」。内部から相手を破裂させるはずだったその圧倒的な圧力が。

 

まるで、堅牢な城壁にそよ風がぶつかったかのように、何の意味も持たずに『霧散』したのだ。

 

 

「中東に伝わる、台風除けの呪い……」

 

 

アサシンの砕けた仮面の奥の瞳が、碧を嘲笑うように細められた。

 

 

彼が持つスキル、『風除けの加護』。

 

呪文と共に神への祈りを捧げることで、風に関するあらゆる脅威に対して絶対的な耐性を持つという、概念的な防御。爆風のダメージすら無効化する彼に対して、「風属性の魔術」は最も悪手(ミステイク)だったのだ。

 

 

「……チッ」

 

 

碧が自らの致命的なエラーに気づき、瞬時に別の属性への位相転移(スイッチ)を試みた、その一瞬。

 

アサシンは、碧の動揺という「最高の隙」を見逃さなかった。

 

 

 

ガンッ!と。

 

アサシンは床にめり込んだ呪腕を支点にして、強烈な蹴りを碧の腹部に叩き込んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 

碧の身体が後方へ弾き飛ばされる。

 

着地と同時に体勢を立て直した碧の視界の先で。

 

アサシンは、崩壊した店舗の壁の穴から外の闇へと跳躍し――。

 

空中で、その姿が蜃気楼のようにブレたかと思うと、完全に世界から消失した。

 

 

 

『……対象の魔力反応(ロスト)、消失しました』

 

 

 

《アークキャスト・プロセッサ》の無機質な報告が、碧の脳内に響く。

 

店舗の中には、舞い散る埃と、炎の爆ぜる音だけが残された。

 

仕留めそこなった。自身の選択ミスが招いた、完全な失態。

 

だが、夕月碧は床に膝をつき、腹部の痛みを魔術で散らしながらも、その表情に悔恨や怒りを浮かべることはなかった。

 

 

「……なるほど。風属性の概念そのものを無効化する加護(ルール)か」

 

 

彼はゆっくりと立ち上がり、冷徹な瞳で暗闇を見つめた。

 

反省はするが、引きずることはない。敵を滅ぼすための「新たな情報」が、一つキャッシュされただけのことだ。

 

「風が効かないのなら。別の条件式(ルール)で、お前を解体するまでだ」

 

 

 

箱庭の技術者の瞳に、絶対零度の殺意が再び灯る。

 

見えない暗殺者との、欺瞞と死の演算ゲームは、まだ終わっていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ A.D.2004 / 炎上汚染都市 冬木・市街地(廃店舗周辺)

 

 

風が、止んでいた。

 

いや、正確には風は吹いている。周囲の炎が酸素を求めて生み出す上昇気流と、崩壊したビル群の間を吹き抜ける熱風。しかし、夕月碧(ゆうづき あおい)の周囲数メートルの空間だけは、まるで真空のガラスケースに閉じ込められたかのように、一切の大気の揺らぎが存在していなかった。

 

半壊した廃スーパーマーケットの暗がりから、碧はゆっくりと外のアスファルトへと歩み出た。

 

腹部に受けたアサシンの蹴りのダメージは、すでに魔術刻印《アークキャスト・プロセッサ》の第四機能・生存補助《Vital Sustain》と、水属性の《流体運動式》による細胞の強制活性化によって修復が完了している。痛覚信号は遮断され、肉体は最適な戦闘状態(コンディション)を維持していた。

 

 

(――敵の属性耐性。風除けの加護。概念的防御。情報更新完了)

 

 

碧の瞳は、一切の感情を排したガラス玉のように冷たく澄んでいた。

 

彼の脳内では、先ほどの戦闘データが凄まじい速度で再計算(リコンパイル)されている。必殺であるはずの内部からの爆圧が霧散した瞬間、夕月碧は自身の演算に「未知の変数(英霊のスキル)」というエラーが介在したことを悟った。

 

普通の魔術師であれば、自らの最大火力が完全に無効化された事実に絶望するか、あるいは焦燥から無謀な追撃をかけていただろう。

 

 

だが、夕月家の魔術は「現象」に執着しない。

 

風が効かないのであれば、別の属性の条件式で相手を解体すればいい。世界を書き換え可能な式として捉える彼にとって、手段の変更は呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。

 

 

「――再構築(リビルド)。条件式結界《コンディション・バウンダリー》、座標固定、半径4メートル」

 

 

碧の足元を中心として、再び透明な半球状の膜が展開された。

 

先ほどアサシンを捉え、その機動力を削ぎ落とした「致死の領域」。気配遮断を無効化し、侵入者の速度を低下させる空間の罠。碧はあえて、全く同じ規模、全く同じ術式を、もう一度自身の周囲に展開した。

 

 

それは、見えない敵への明確な「挑発」であり、「提示」だった。

 

 

(僕の絶対領域はここから半径4メートル。この中に入れば、お前は再び速度を奪われ、僕の拳の射程に捉えられる)

 

 

そんなメッセージを、魔力波形として暗闇へ向けて発信しているのだ。

 

炎の爆ぜる音だけが響く中、碧は並列演算網《Parallel Cognition》を極限まで拡張させ、空間の歪み(ノイズ)を探り続けた。

 

一方、暗闇に潜むアサシン――呪腕のハサンは、半壊したビルの影から、碧の足元に展開された魔力領域を冷徹な瞳で観察していた。

 

(……厄介な小僧だ。あの結界、先ほどと同じ規模、同じ性質のもの。中に入れば、再び我の動きは泥に沈むように遅滞させられるだろう)

 

 

ハサンは、自らの砕けた髑髏の仮面に触れた。

 

先ほどの攻防で受けた一撃。もし回避行動の遅れがさらにコンマ数秒長引いていれば、頭蓋ごと霊核を粉砕されていたに違いない。あの人間の放つ多重属性の拳は、明らかに英霊の肉体すら破壊し得る威力を秘めている。

 

 

暗殺者であるハサンにとって、情報は命だ。

 

彼は一度目の交戦で、夕月碧という魔術師の行動法則(アルゴリズム)と、その『罠』の性質を学習した。

 

(気配遮断を無効化する範囲は、ヤツを中心とした半径4メートル。ならば、その領域に『入らなければ』よい。ヤツの結界の境界線、そのギリギリ外側から間合いを詰め、気づかれる前に我の呪腕で間合いの外からその首を刈る)

 

 

ハサンの巨大な右腕――悪魔シャイターンから移植された呪腕が、異様な熱を帯びて膨張する。

 

結界の外側、すなわち10メートルの距離からであれば、この長大な呪腕は十分に碧の首へと届く。気づかれた時には、すでに腕が伸びきっている。完璧な暗殺の方程式。

 

ハサンは気配を完全に世界から消失させ、影から影へと音もなく移動を開始した。

 

 

(来る)

 

碧の肌を、ピリピリとした静電気のような感覚が撫でた。

 

正確な位置はわからない。だが、空間の歪みがジリジリと、碧の展開した「半径4メートルの結界」の境界線に沿って、背後へと回り込んでいるのを感じ取る。

 

 

 

 

シュッ!

 

 

不意に、碧の正面の暗がりから三本のナイフが投擲された。

 

囮だ。先ほどと同じ、正面からの牽制で意識を逸らし、背後から本命の一撃を叩き込む戦術。

 

 

だが、碧は動かなかった。

 

彼自身に施された地属性の強化《マテリアル・リライト》によって硬質化された皮膚と服が、ナイフを軽い金属音と共に弾き返す。

 

 

その直後だった。

 

碧の背後、距離にしておよそ10メートル。

 

結界の範囲外の暗闇の中で、圧倒的な殺意と魔力が急激に膨れ上がった。

 

 

「――シィッ!!」

 

 

空間の歪みが弾け、ハサンが接近する。

 

 

ハサンの狙いは完璧だった。碧の展開した結界の境界線を外れた位置。そこから、異形に膨張した呪腕が、鞭のようにしなりながら碧の首めがけて振り下ろされる。

 

 

この距離ならば、結界による速度低下は受けない。

 

そして、人間の反応速度では絶対に回避できない。

 

ハサンの髑髏の仮面の奥で、勝利の確信が冷酷な光を放った、その瞬間。

 

 

(……学習能力が高いのは美徳だが。前提となる条件式(ルール)が間違っていれば、導き出される答えは常に致命的なエラー(死)だ)

 

 

彼はずっと、ハサンが「この罠を学習し、その裏を掻こうとする」こと自体を待っていたのだ。

 

 

「――条件式結界、領域拡張(エクスパンド)。半径20メートル」

 

 

碧の左腕の刻印が、眩い閃光を放った。

 

半径4メートルにとどまっていた透明な膜が、爆発的な速度で外側へと弾け飛んだ。

 

 

4メートル、10メートル、15メートル、20メートル。

 

 

「なっ……!?」

 

 

ハサンが驚愕に目を見開いた時には、すでに遅かった。

 

彼が安全圏だと信じ、踏みとどまっていた「距離10メートル」の座標は、一瞬にして夕月碧の絶対支配領域の『内側』へと強制的に組み込まれた。

 

 

碧の結界は、最初から4メートルが限界だったわけではない。

 

あえて狭く展開することで、「ここは、安全圏だ」という偽りの情報を敵に与え、最も警戒を解いた瞬間にその前提をひっくり返す。魔術師としての力の誇示ではなく、欺瞞とハッキングを用いた、あまりにも悪辣な情報戦。

 

そして、碧が今回結界に仕込んでいた条件(ルール)は、先ほどのような生易しいものではなかった。

 

 

「――任意コマンド実行。全知覚条件の強制剥奪」

 

 

碧の冷酷な宣告と共に、結界内の空間法則が書き換わる。

 

第一の条件。音の消失。

 

ハサンの耳から、炎の爆ぜる音、風の音、自身の足音に至るまで、すべての聴覚情報が完全にシャットダウンされた。絶対的な無音。

 

 

第二の条件。視界の歪み。

 

ハサンの網膜に映る景色が、万華鏡のようにねじ曲がった。距離感が狂い、上下左右の概念が消失し、碧の姿が何十にも分身して見える。

 

 

第三の条件。魔力流の乱れ。

 

空属性の基礎式《エーテル・コンダクタンス》の応用。ハサンの体内で循環していた魔力の位相が強制的に狂わされ、放とうとしていた呪腕の出力が泥のように霧散していく。

 

 

 

「グ……ォ、オォォォッ!?」

 

 

五感と魔力を同時に奪われ、ハサンの身体が空中で不様にバランスを崩した。

 

振り下ろされた呪腕は、碧の頭上を大きく逸れ、空を切る。

 

 

だが、碧の追撃はまだ終わらない。

 

彼は空中に体勢を崩したハサンの直下、その着地点となるアスファルトに視線を向けた。

 

「地属性・水属性複合固有術式《泥流構築》(マッド・アーキテクト)」

 

 

地の物質構造式と水の状態式を干渉させる。

 

ハサンが着地しようとした硬いアスファルトの道路が、瞬時にして底なしの「魔術的な泥沼」へと変質した。

 

バシャッ!という水音と共に、ハサンの両足が泥の海へと深く沈み込んだ。

 

 

「ヌゥゥッ!!」

 

 

ハサンは即座に泥から抜け出そうと呪腕を振り立てるが、碧はすでに次の条件式を走らせていた。

 

「固まれ」

 

 

地属性の《質量定義式》。液状化していた泥が、ハサンの両足を食い破らんばかりの圧力で、瞬時に鋼鉄の硬度を持った岩盤へと再構築(リコンストラクト)される。

 

ハサンの両足は、太もものあたりまで完全に大地の枷に固定された。

 

気配遮断も、風除けの加護も、敏捷性も。すべてが完全に無力化された、絶対的な死の構図。

 

「チェックメイトだ。次はない」

 

 

碧は、両足の自由を奪われ、視界と聴覚を失って藻掻くハサンの正面へと、静かに歩み寄った。

 

 

 

彼の右拳には、先ほど防がれた風属性ではない、別の多重属性が圧縮されている。

 

火の熱量増幅による極限の破壊力。

 

地の質量定義による絶対的な貫通力。

 

 

空の魔力流制御による、英霊の霊基そのものを破壊するための位相調整。

 

三重複合術式《マグマ・アーキテクト》の局所的運用。

 

 

碧の拳が、白熱する溶岩のような眩い光を放つ。

 

 

「終わりだ、暗殺者」

 

 

碧の右拳が、ハサンの胸郭の中心――英霊の心臓部である『霊核』が存在する座標へ向けて、寸分の狂いもなく叩き込まれた。

 

 

 

 

 

ドゴォォォォォォォォォンッ!!!

 

 

 

 

 

すさまじい爆発音が、冬木の夜空に轟いた。

 

碧の拳から放たれた極小の溶融現象が、ハサンの胸を貫通し、その内側にあった霊核に直接的な破壊の条件式を叩きつける。

 

「ガ、アァァァァァァァッ……!!!!」

 

 

音を奪われていたはずのハサンの口から、断末魔の絶叫が迸った。

 

物理的な肉体の破壊ではない。存在の根幹である霊核に、致命的なバグが書き込まれたのだ。

 

ハサンの巨大な呪腕が、力なくダラリと垂れ下がる。

 

髑髏の仮面が完全に砕け散り、その下から現れた呪われた暗殺者の素顔が、苦悶と、そしてどこか解放されたような安堵を浮かべて虚空を仰いだ。

 

 

 

ズズ……ズズズ……。

 

 

 

ハサンの足元から、黒い泥のような肉体が光の粒子(マナ)へと分解され始めた。

 

英霊の敗北。世界からの退去のプロセスが始まったのだ。

 

碧は貫いた右拳をゆっくりと引き抜き、その消えゆく残骸を冷徹に見下ろした。

 

(強敵だった。あの風除けの加護がなければ、もっと効率的に処理できたが……まあいい。これで一つの脅威は排除した)

 

 

碧は、自らの魔術回路の熱を逃がし、アイドリング状態へと戻そうとした。

 

 

だが。

 

その時、消えゆくハサンの胸の奥で、まだ微かに明滅を続けている『霊核の残滓』が、碧の目にとまった。

 

 

(……待てよ)

 

 

碧の脳内で、時計塔の降霊科(ユリフィス)で学んだ、ある魔術理論の断片がフラッシュバックした。

 

 

英霊召喚。

 

通常、サーヴァントを召喚するためには、聖遺物と呼ばれる強力な触媒と、膨大な魔力、そして複雑な召喚陣が必要不可欠だ。

 

 

しかし、夕月碧の魔術は「条件式のハッキング」である。

 

(英霊が世界に現界するための条件式。それは、大聖杯というシステムからの魔力供給と、現世に留まるための『器』だ。ならば……今まさに消滅しようとしているこの英霊の『霊核』を触媒とし、そこに残存している大聖杯とのパス(接続線)をジャックすれば……)

 

 

それは、正気の魔術師であれば絶対に思いつかない、いや、思いついたとしても実行しようとはしない狂気の沙汰だった。

 

通常の召喚術というよりは、呪術や死霊魔術に近い冒涜的な発想。

 

だが、碧にとって、それは「成功確率がゼロではない極めて魅力的な演算」に過ぎなかった。

 

 

「……やってみる価値はある」

 

 

碧は躊躇うことなく、再びハサンの消えゆく胸郭へと右手を突っ込んだ。

 

そして、崩壊しつつある霊核の残滓を直接鷲掴みにする。

 

「な、何を……」

 

 

ハサンの意識の残滓が、驚愕に震える。

 

「君の命題(コード)を、僕のシステムに上書き(オーバーライド)させてもらう。感謝するよ、名もなき暗殺者」

 

 

碧の左腕の刻印《アークキャスト・プロセッサ》が、これまでにない異常な駆動音を立てて発光し始めた。

 

五大元素の全属性――火、水、風、地、空の魔力が、碧の右腕を伝ってハサンの霊核へと注ぎ込まれる。

 

碧は、自身の周囲の空間に空属性の《魔力流制御式》を展開し、強引に「疑似的な召喚陣」の条件式を空中に描画し始めた。

 

そして、夕月家独自の、世界を再定義するための詠唱(コード)が紡がれる。

 

 

「――告げる。

 

汝の残滓は我が手中にあり、我が因果は汝の軌跡を示す」

 

 

周囲の炎が、碧の魔力に呼応して青白く変色し、渦を巻き始めた。

 

 

「現象の彼方、構造の淵。五大の元素よ、条件の階梯を組み上げよ。

 

 

熱を奪い、流体を縛り、圧力を束ね、質量を固定し、魔力流の位相を逆転せよ」

 

 

碧の右手が掴んでいる霊核から、黒い泥の気配が浄化され、代わりに純粋な、星の瞬きのような魔力の奔流が迸り出た。

 

それは、大聖杯のシステムへの不正アクセス(バックドア)が成功した証。

 

 

「誓いはここに。生贄はここに。

 

世界を繋ぐ法則(ルール)の抜け道より、我が演算の空白を埋める変数を呼び覚ます!」

 

 

 

 

ゴゴゴゴゴゴォォォォォォッ!!

 

 

 

 

 

冬木の夜空を覆っていた黒煙が、円形に大きく弾け飛んだ。

 

そこから、一筋の極太の光の柱が、碧の目の前の空間――ハサンの霊核が存在していた座標めがけて撃ち下ろされた。

 

 

 

「――条件式、承認(コンパイル)。顕現せよ、天秤の守りてよ!」

 

 

 

 

轟音と眩い閃光が、碧の視界を完全に白く染め上げた。

 

圧倒的なマナの暴風が吹き荒れ、周囲の瓦礫やガラスの破片が嵐のように舞い散る。碧は自らの周囲に圧力の壁を展開し、その暴風に耐えながら、光の奔流の中心をじっと見据えた。

 

 

 

やがて。

 

光が収束し、世界に色が戻っていく。

 

そこには、ハサンの黒い残骸は跡形もなく消え去っていた。

 

代わりに立っていたのは、一人の『英霊』だった。

 

舞い散る火の粉と、濃密なマナの残滓が煙のように揺らぐ中。

 

その存在は、周囲の狂った物理法則すらも沈黙させるほどの、極めて高密度な質量を伴ってそこに「確立」していた。

 

炎の逆光と土煙に遮られ、その細かな容貌や装束を瞬時に判別することはできない。ただ、炎上する街の熱気を切り裂くような、静かで、しかし研ぎ澄まされた気配だけがそこにあった。

 

 

「――――」

 

 

シルエットとなったその英霊が、ゆっくりと顔を上げる。

 

 

 

その瞬間だった。

 

碧の脳の最深部で、何かを検知した。

 

 

(なんだ……? この感覚は)

 

 

目の前に立つ、未知の英霊。

 

顔は知らない。今までに邂逅した人物でもない。即座に合致するデータは浮かび上がってこない。当然だ、本来の召喚手順を無視し、大聖杯のパスを強引にハッキングして手繰り寄せた存在なのだから。

 

 

それなのに。

 

その立ち姿。静かな呼吸の波長。周囲の空間(条件)を油断なく、冷徹に観察しているであろうその『気配』。

 

 

それらすべてに、夕月碧はとてつもない『既視感(デジャヴ)』を覚えたのだ。

 

 

初めて会うはずなのに、初めてではないような錯覚。

 

顔も名前も知らないはずなのに、どこかで、誰かにひどく雰囲気が似ている。

 

 

この奇妙な適合感は何だ? なぜ、彼が放つ存在の波長(条件式)が、自分自身の奥底にある『何か』とこれほどまでに共鳴しているように感じるのか。

 

 

「……」

 

 

煙が晴れ、その英霊が静かに口を開こうとした。

 

 

 

その直前。

 

 

「……非効率だな」

 

碧は、脳内を渦巻く非論理的なノイズ(直感)を、強制的にキャッシュ領域の奥底へと放り投げた。

 

今は、自身の記憶の機微や、根拠のない感情の揺らぎなどという無意味な変数に演算リソースを割いている場合ではない。マシュの安否は依然として不明であり、カルデアの状況も絶望的だ。この異常な冬木の街で生き残り、事象の謎を解き明かすための「確実な戦力(カード)」が手に入った。

 

 

それが何者であろうと。誰に似ていようと。

 

夕月碧にとって、それは盤面を覆すための一つの条件式(ツール)に過ぎない。

 

 

「僕が君のマスターだ。……イレギュラーな手法での召喚になってしまったが、どうか許してほしい」

 

 

碧は、内なる動揺を完璧に隠蔽し、いつもの穏やかな、人畜無害な笑顔を浮かべて挨拶をした。

 

箱庭で作られた技術者と、既視感を纏う名もなき英霊。

 

炎上汚染都市という巨大なエラー空間において、最も論理的で、最も謎に満ちた主従の因果が、今ここに結ばれた。

 

 

 

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