Fate/Grand Order -Rewrite Conditions- ~月の先輩、箱庭の僕、そして盾の後輩~   作:りー037

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【3節】 月の勝者と箱庭の観測者、あるいはソファーでの作戦会議、月の勝者の記憶の内で

■ A.D.2004 / 炎上汚染都市 冬木・市街地(廃店舗前)

 

 極太の光の柱が冬木の夜空を貫き、やがて細かなマナの粒子となって大気へと溶け落ちていく。

 

 荒れ狂っていた暴風が嘘のように凪ぎ、周囲には再び、赤黒い炎が建物を舐めるパチパチという音だけが戻ってきた。

 

 自身の右手に残る膨大な魔力行使の余熱――霊核を触媒として強制的に大聖杯のシステムへアクセスしたことによる、回路の焼き切れるような感覚――を、冷徹な演算によってゆっくりと冷却させていた。左腕の刻印が、アイドリング状態へと移行し、静かな脈動を刻み始める。

 

 だが、彼の視線は、眼前に現れた「結果」から一ミリも動いていなかった。

 

 

 土煙と火の粉の向こう側。

 

 かつてスーパーマーケットだった廃墟のコンクリート壁を背にして、その英霊は立っていた。

 

 小柄な体躯。学生服のような、あるいは軍服を独自にアレンジしたような、黒とオレンジを基調とした特徴的な装束。頭には、少し大きめのキャスケット帽を被り、そこから零れる栗色の長い髪が、熱を帯びた風にふわりと揺れている。

 

 物理的な質量を伴ってそこに顕現しているにもかかわらず、彼女が放つ魔力の波長は、どこか酷く「人工的」だった。

 

 碧の《元素式解析》(エレメンタル・アナライズ)が、彼女の霊基構造を読み取ろうとして、僅かにバグを起こす。それは、大地に根差した神秘や、血みどろの歴史を歩んだ英雄のそれではない。例えるならば、極限まで最適化された電子のコード、超高度な演算装置が吐き出す極上のアルゴリズムそのもの。

 

 

「――――」

 

 

 彼女は、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。

 

 吸い込まれるような、それでいてすべてを見透かすような、深い琥珀色の瞳。

 

 

 その視線が、真っ直ぐに碧を捉える。

 

 周囲は地獄のような炎上都市である。無数の死の気配が蔓延し、ほんの数分前までここで死闘が繰り広げられていた。

 

 しかし、彼女の表情に緊張や恐怖は微塵もなかった。

 

 彼女は、小さく息を吸い込むと、桜色の唇を綻ばせた。

 

「――君が、私のマスター?」

 

 

 低くもなく、高くもない。凛としているが、どこか無愛想な響きを含んでいて、それでも決して冷たくはない。不思議な温度を持った声だった。

 

 まるで、長く厳しい旅の途中で、見知った後輩に偶然出くわしたかのような。そんな、親しみのこめられた優しい先輩のような雰囲気が、彼女の立ち姿から自然と滲み出ていた。

 

(彼女が、僕の英霊(サーヴァント)か)

 

 

 異常な状況を打破するための「戦力」との関係構築が最優先だ。相手がどのような背景を持つ英霊であろうと、夕月碧にとっては、事象をクリアするための条件式(ツール)の一つに過ぎない……はずだった。

 

「僕が君のマスターだ。……イレギュラーな手法での召喚になってしまったが、どうか許してほしい」

 

 

 いかなる相手であっても、まずは表面上の摩擦を減らし、円滑なコミュニケーションの土台を構築する。それが彼に組み込まれた処世術のアルゴリズムだ。

 

 

 だが、少女はその碧の「笑顔」を見て、ふっと面白そうに目を細めた。

 

「よろしくね、マスターくん」

 

 

 彼女はそう言うと、迷うことなく碧へと歩み寄り、スッと右手を差し出した。

 

「え……?」

 

 

 魔術師と英霊。それは使役する者と使役される者、あるいは互いの魂を縛り合う契約。召喚の直後に、まるで友人にでも出会ったかのように握手を求めてくるとは。

 

「……あぁ、よろしく頼むよ」

 

 

 数秒の遅延の後、碧は差し出されたその小さな手を、自身の右手でそっと握り返した。

 

 彼女の手は、見た目の華奢さとは裏腹に、確かな熱と力強さを持っていた。それは、幾千、幾万もの死線を潜り抜け、それでもなお折れなかった鋼の意志の感触。

 

 接触した彼女の肌から伝わる波長を読み取る。

 

「それで? マスターくん。ここは随分と、派手に燃え盛っているけれど……一体どういう状況なのかな。私の記憶にある『聖杯戦争』の舞台としては、少しばかりバグが多いように見えるけれど」

 

 

 岸波白野は、繋いだ手を離し、燃え盛る冬木の街並みをぐるりと見渡しながら尋ねた。

 

 その瞳には、嘆きや絶望はない。ただ、目の前の事象を冷静に「観測」し、自らが解決すべき課題(タスク)として認識する、極めて理知的な観測者の眼差しがあった。

 

「……ここがどこなのか、正確なところは僕にもわかっていないんだ」

 

 

 自らの内に秘めた合理的な冷徹さを覆い隠し、あくまで「巻き込まれた不運な魔術師」としてのスタンスを崩さずに説明を始めた。

 

「僕が元いた場所は、人理継続保障機関カルデアという、人類史を観測する施設だった。だが、原因不明の内部爆発が起き、管制室が炎上した。僕はその混乱の最中、強制的なレイシフト――時空転送システムによって、この見知らぬ街へと放り出されてしまったんだ」

 

 

 碧は淡々と事実を述べていく。

 

 空から落下したこと。異常なマナと呪いの気配。住人が一人もいない街。そして、先ほどまで自分を殺そうとしていたアサシンの影のこと。

 

「なるほど。組織との通信は途絶し、帰還する手段も失われている。そしてこの街自体が、本来の歴史から外れた『特異点』のような状態になっている、ということだね」

 

 

 白野は、自身のあごに手を当てて、コクリと頷いた。彼女の理解力は異常なほど早い。複雑な魔術理論や時間旅行のパラドックスを説明する手間が省けたことに、密かに感心する。

 

「ああ。当面の目的は、この異常事態の原因を究明し、それを排除して元の時代へ帰還する手段を確立することだ。……それと」

 

 

 碧は、そこまで言って、ふと口ごもった。

 

 合理的な判断を下すのであれば、ここで言葉を切るべきだ。無駄な感傷は、戦局を曇らせるだけのノイズでしかない。

 

 だが、あの炎に包まれたカルデアの管制室で、自分を「先輩」と呼び、最後に見せたあの不器用な笑顔が、碧の脳裏から離れようとしなかった。

 

「……はぐれてしまった、後輩がいるんだ」

 

 

 気がつけば、碧はその事実を口にしていた。

 

 己の弱さを晒すような行為。魔術師である彼が、絶対にすべきではない選択。

 

「彼女は、僕を案内してくれていたカルデアのスタッフ。爆発の際、彼女は瓦礫の下敷きになり、下半身をひどく損傷していた。僕は彼女を助けようとしたが、システムが強制的に転送を開始してしまって……間に合わなかったんだ。もし彼女もこの時代に転送されているのなら、見つけ出したい」

 

 

 碧の瞳の奥に、微かな、しかし確かな痛みの色が宿った。

 

 それを強制的にシャットダウンする前に、白野は静かに一歩、碧へと歩み寄った。

 

「マスターくん」

 

 

 彼女は、琥珀色の瞳で碧の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。

 

 その視線は、碧が周囲に張り巡らせている「冷徹な合理主義者」という防壁を、いとも容易く透過して、彼の奥底に隠された柔らかい部分へと届いていた。

 

「うん! わかった!」

 

 

 白野は、力強く、そして太陽のように明るい笑顔を咲かせた。

 

「君のために、全力を尽くすよ。原因不明のバグの修正も、迷子の後輩くんの捜索も、全部任せて。一緒に頑張ろう!」

 

「……え?」

 

 

 そのあまりにも真っ直ぐで、一片の濁りもない善意の言葉に、碧は再び思考を停止させた。

 

 英霊とは、もっと己の誇りや目的に固執するものではないのか。見ず知らずの、それも偶然召喚されただけの魔術師の個人的な「後悔」に、これほどまでに無条件で寄り添えるものなのか。

 

(……なんという人だ。肝が据わっているというか、芯が強いというか……)

 

 

 碧は内心で舌を巻いた。

 

 彼女の強さは、魔術的な出力や物理的な破壊力ではない。己の在り方を少しも疑わず、他者のために自己を捧げることに迷いがない、精神の強靭さだ。

 

「それで? まずはどうしようか、マスターくん」

 

 

 白野は、少しだけ小首を傾げ、碧の指示を仰ぐように上目遣いで彼を見つめた。

 

 その仕草は、百戦錬磨の英霊というよりも、休日の予定を尋ねる普通の少女のようで、碧の肩の力がふっと抜けるのを感じた。

 

「……まずは、拠点を確保したい」

 

 

 碧は、少し離れた場所に建つ、炎の延焼を免れている中層ビルを指差した。

 

「先ほどの戦闘で、少し魔力を消耗してね。休みたいけれど、この街はどこにあの暗殺者のような敵が潜んでいるかわからない。あのビルの地下なら、魔術的な結界(陣地)を構築して、安全に身体を休め、今後の作戦を練ることができるはずだ」

 

「了解。それじゃあ、私が先導するよ。しっかりついてきてね!」

 

 

 白野は元気よく頷くと、碧を庇うように一歩前へ出た。

 

 本当に、親切な人だ。碧は彼女の小さな背中を見つめながら、不思議な安堵感を覚えていた。

 

 二人は、炎と黒煙が渦巻く冬木の街を、足音を殺しながら進んでいく。

 

 

 もし、この地獄のような街のどこかに、あのマシュ・キリエライトが倒れているのだとしたら。下半身を潰された彼女が、一人でこの熱気と恐怖に耐えているのだとしたら。

 

 

(……僕は、また彼女を救えないのか)

 

 

 合理性を重んじる夕月碧の回路に、決して生じてはならない「不安」というノイズが、じわりと浸食していく。

 

 振り払ったはずの思考が、亡霊のように蘇る。

 

 

 その時だった。

 

「ん?」

 

 前を歩いていた白野が、不意に足を止めて振り返った。

 

 彼女は、俯き加減で考え込んでいる碧の顔を見ると、不思議そうに瞬きをした。

 

 そして、何を思ったのか。彼女はトテトテと碧の元まで戻ってくると、碧の右手を、自らの両手でキュッと握りしめたのだ。

 

「……っ!?」

 

「大丈夫だよ! 先輩がついてるからね」

 

 

 白野は、碧の手を優しく引っ張りながら、彼を安心させるように、とびきり温かい微笑みを向けた。

 

「絶対に見つけ出そう、君の大切な後輩を。私が、君の道を切り拓くから」

 

 

 自分は、そんなに不安を顔に出してしまっていただろうか。完璧に隠蔽していたはずの感情の揺らぎを、彼女は理屈ではなく、感覚で読み取ったというのか。

 

 なんにせよ、彼女は人の感情に驚くほど敏感で、そして誰よりも他者を思いやれる、素敵な人だ。

 

(あぁ……そうか)

 

 

 手を引かれながら、碧の胸の奥で、カチリと何かのピースがはまる音がした。

 

 召喚の直後に感じた、あの強烈な『既視感』の正体。

 

 それは、彼女の魔力の波長がどうこうという技術的な問題ではなかった。

 

 

 彼女の、無償の善性。

 

 見返りを求めず、ただ相手のために手を差し伸べることができる、その絶対的な温かさ。

 

 それは、地獄の箱庭で作られた欠陥品である自分に対し、初めて「外の世界の温度」と「人間の色」を教えてくれた、あの一人の少女に、どうしようもなく似ていたのだ。

 

(少しだけ……いや、本質的な部分が、彼女に似ているのかもしれない)

 

 

 碧は、自身の内側に生じたその答えに、静かに納得した。

 

 それにしても、「先輩」とはなんだろうか。

 

 ほんの数時間前、カルデアの通路で出会ったマシュから、いきなり「夕月先輩」と呼ばれたかと思えば、今度はこの見知らぬ炎の街で、「先輩として振る舞う女性」に手を引かれている。

 

 その奇妙な巡り合わせに、碧は思わず小さく吹き出しそうになった。

 

 張り詰めていた心が、少しだけ安らぐのを感じる。

 

 冷徹な演算装置としての自分が、彼女の掌の熱によって、ゆっくりと溶かされていくような感覚。

 

「……ありがとうございます」

 

 

 碧は、自分を引っ張ってくれる彼女の小さな手を、ほんの少しだけ、握り返した。

 

 

 

 

 

 

 

■ 某ビル・地下階

 

 数十分の慎重な移動の末、二人は目的のビルの地下へと到達した。

 

 かつては倉庫か設備室として使われていたのだろう、窓のない閉鎖的な空間は、外の炎の熱と喧騒を完全に遮断しており、奇妙なほど静かで、秘密基地のような独特の雰囲気を漂わせていた。

 

「よし、ここなら簡単には見つからないね」

 

 

 白野は周囲を見回し、満足そうに頷いた。

 

「少し待っててくださいね。すぐに結界を構築しますから」

 

 

 碧はそう白野に呼びかけると、部屋の中央にしゃがみ込み、冷たいコンクリートの床に右手を押し当てた。

 

 

(――演算開始。座標指定、この地下室全域)

 

 

 碧の左腕の刻印が青白く発光し、彼の体内から溢れ出した魔力が、床を伝って部屋の壁面へと毛細血管のように広がっていく。

 

「元素式結界《エレメンタル・バウンダリー》、多重展開。

 

第一層、空属性《インフォメーション・ヴェイル》。内部の魔力波形および音、熱源の隠蔽。

 

第二層、風属性《エアロ・フィールド》。空間内の気圧調整による有毒ガスの排除および清浄化。

 

第三層、地属性《マテリアル・リライト》。壁面および扉の物理的硬度の極大化」

 

 

 碧は、呼吸をするように自然に、しかし極めて高度な複雑さを持つ三層構造の結界を、わずか十数秒で編み上げていく。

 

 外の世界からの探知を完全に遮断し、内部の環境を最適化し、物理的な破壊から身を守る絶対の陣地。

 

「へぇ……すごい! 手のひらから光の線が伸びて、あっという間に部屋の色が変わっちゃった」

 

 

 ふと気づくと、白野が碧のすぐ真横にしゃがみ込み、彼の右手から広がる魔術の光を、目をキラキラさせて見つめていた。

 

 彼女の顔が、碧の肩口に触れそうなほど近い。

 

「……そんなに珍しいですか?」

 

 

 碧は、魔力の制御を続けながら、少し驚いて問いかけた。

 

 英霊であれば、生前の時代でより高度な神秘や魔術を目にしているはずだ。現代の魔術師の結界構築など、取るに足らない手品のように見えると思っていたのだが。

 

「うん、すごく珍しい! 私、こういう『生身の魔術師がその場で式を組み立てる』のを見るのは、実はあまり経験がなくて」

 

 

 白野は、碧の横顔を見つめながら楽しそうに微笑んだ。

 

「私の戦い方は、どちらかというと『あらかじめ用意されたプログラムを空間に上書きする』ようなものだから。君みたいに、その場の環境(条件)に合わせて一から編み上げていくのは、すごく新鮮で面白いよ」

 

「……買い被りですよ。僕の魔術も、本質的にはただの条件式の書き換えに過ぎませんから」

 

 

 至近距離で向けられる純粋な賞賛に、碧は少しだけ居心地の悪さを感じて視線を逸らした。

 

 だが、悪い気はしなかった。

 

(距離が近いな、この人は……)

 

 

 そう思いつつも、碧の口元には自然と、計算されていない小さな笑みがこぼれていた。

 

 出会ってまだ数十分。異常な事態の連続。

 

 それにもかかわらず、不思議なほど彼女との間には壁がない。

 

「よし、結界の定着完了です。これで、少なくとも数時間は安全に休めますよ」

 

 

 碧は床から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。

 

 部屋の奥には、かつての従業員用だろうか、少し古びた革張りのソファーが二つ、対面するように置かれていた。

 

「さて、少し休もう。今後の作戦を立てないといけない」

 

 

 碧がそう言うと、白野も「そうだね!」と元気よく立ち上がり、ソファーへと向かった。

 

 張り詰めていた死線の緊張が解け、地下室にほのかに温かい、安らぎの時間が訪れようとしていた。

 

 

 

 

 

■ 某ビル地下階

 

 世界から切り離されたような、完全な静寂がそこにはあった。

 

 碧が構築した三層構造の元素式結界《エレメンタル・バウンダリー》は、外界の熱気、有毒ガス、そしてあらゆる探知の魔力波形を完璧に遮断していた。かつて設備室か何かとして使われていたであろうこの薄暗い地下空間は、今や冬木の街で最も安全な絶対の陣地(セーフハウス)と化している。

 

 

 部屋の中央に置かれた、古びた革張りのソファー。その対面する二つの座席に、碧と岸波白野は腰を下ろしていた。

 

 地下室の備え付けの照明は当然ながら機能していないが、碧が空中に展開した微弱な火属性の光球が、ランタンのように柔らかな暖色の光を部屋に落としている。その光が、二人の横顔と、室内に漂う細かな埃を静かに照らし出していた。

 

「さて、現状の整理と、当面の方針についてすり合わせを行いたい」

 

 

 碧は、ソファーの背もたれに軽く身を預けながら、いつもの理路整然としたトーンで口を開いた。彼の左腕の刻印は、疲労した肉体の回復プロセスをバックグラウンドで走らせながら、今後の生存確率を最大化するための演算を開始している。

 

「現在の状況けど、組織(カルデア)との通信は完全に途絶。帰還のためのレイシフト・システムがどうなっているのかも不明。僕たちが生き残り、そして元の時代へ帰還するためには、この街の法則を歪めている原因……おそらくは、この街の中枢に存在するであろう巨大な魔力、それを掌握している強力なサーヴァントを排除する必要がある」

 

「うん。いわゆる『ボス』を倒して、バグの発生源を断つってことだね」

 

 

 対面に座る白野は、行儀良く両膝を揃え、真剣な面持ちでコクリと頷いた。彼女の理解の早さと、事象を「バグ」と表現するハッカー的な感性は、やはり碧の魔術理論と驚くほど親和性が高い。

 

「あぁ、その通り」

 

 

 碧は言葉を継ぐ。

 

「だが、その前に……最優先で達成すべき目標がある。はぐれてしまった僕の案内人、マシュ・キリエライトの捜索だ」

 

 

 その名前を口にした瞬間。

 

 碧の脳内で、完璧に制御されていたはずの演算回路に、ごく僅かな電圧の乱れ(ノイズ)が生じた。

 

『――どうか、手を握ってもらっていいですか?』

 

『――先輩の温かさ、ずっと、忘れません……』

 

 

 燃え盛る管制室。巨大な瓦礫の下敷きになり、修復不可能な致命傷を負っていた少女。

 

 彼女は、あの直後に発生したレイシフトの閃光に巻き込まれたのか、それともあの地獄の炎の中で命を散らしたのか。もしこの時代に転送されていたとしても、あの状態では数分と保たないはずだ。

 

 合理的に考えれば、生存確率は限りなくゼロに近い。すでに死んでいる可能性が極めて高い人間を探すために、この危険な特異点を探索することは、生存において明確な「悪手」である。

 

 それでも。夕月碧という合理性の怪物は、その「悪手」を前提とした上で、なんとか彼女を救い出すための最適解をひねり出そうと、脳内で無数のシミュレーションを空回りさせていた。

 

「この街の広域スキャンは、移動しながら断続的に行う。生存者、あるいは彼女の魔力波形に似た痕跡がないか……」

 

 

 碧は淡々と語り続けるが、その声の端に、彼自身も気づいていないほどの微かな『焦燥』と『不安』が滲んでいた。

 

 痛覚や恐怖といった自らの感情は完全に切り捨てられる碧だが、「彼女への後悔」という、日常生活で培われた人間らしい感情だけは、彼の中枢の深い部分に根を下ろし、冷徹な回路を時折ショートさせる。

 

「…………」

 

 

 対面に座る白野は、無言のまま、そんな碧の様子をじっと観察していた。

 

 彼女の瞳は、ただの視覚器官ではない。あらゆる事象を記録し、解析し、その本質を捉える『観測者の眼差し』。

 

 碧がどれほど完璧なポーカーフェイスを装い、理路整然とした言葉を並べ立てようとも、その奥底でギリギリと軋みを上げている彼の「心」の形を、正確に読み取っていた。

 

(この人は、とても賢くて、とても強い。けれど……自分の心に、嘘をつくのが下手だ)

 

 

 白野は、心の中でそっと呟いた。

 

 マスターとして、技術者として、常に「最適解」を出し続けなければならないという強迫観念。それに縛られながらも、誰かを助けたいという純粋な願いを捨てきれずに、一人で膨大なプレッシャーを抱え込んでいる。

 

 その不器用な姿が、かつて自分が歩んできた過酷な戦いの中で出会った、多くの不器用な魂たちと重なって見えた。

 

「――マスターくん」

 

 

 不意に、白野が口を開いた。

 

 彼女は、対面のソファーから音もなく立ち上がると、そのままトテトテと歩み寄り、なんと碧が座っているソファーの、すぐ『隣』へと腰を下ろしたのだ。

 

「ん……?」

 

 

 ソファーは三人掛けで十分な広さがあるとはいえ、わざわざ対面から隣に移動してくる意味がわからない。

 

 碧が驚いて目を丸くしていると、白野は身体を碧の方へと向け、コテンと首を傾げた。そして。

 

 

 スッ、と。

 

 彼女の小さく柔らかな手が伸びてきて、碧の頭の上にポン、と置かれた。

 

「…………?」

 

 碧の思考が、完全に停止した。

 

 この全く予測不能な事象に対しては「解なし」というエラーメッセージを吐き出すことしかできない。

 

 白野は、まるでよく出来た弟か、あるいは不安に怯える迷子をあやすような手つきで、優しく、ゆっくりと、碧の髪を撫で始めたのだ。

 

「な、何を……」

 

「大丈夫だよ」

 

 

 碧の困惑の声を遮るように、白野は、どこまでも温かく、力強い声で言った。

 

「後輩くんのことは、絶対に見つけ出す。帰還する方法も、この街のバグの修正も、全部うまくいく。私が、貴方の力になるから。だから……一人で全部背負い込んで、そんなに不安そうな顔をしなくていいんだよ」

 

「不安そうな顔……僕が、ですか?」

 

 

 碧は、自身の表情筋の制御には絶対の自信を持っている。常に穏やかな微笑みを崩さず、いかなる極限状況でも動揺を表に出さない。それが彼に施された調整(教育)の賜物だ。

 

 

 だが、白野はフフッと小さく笑って、碧の髪を撫でる手を止めなかった。

 

「うん。顔には出てないよ。言葉もすごく理路整然としてる。でもね……君の纏っている空気というか、魔力の波長が、すごく『無理をしてる』って言ってたから」

 

 

 白野の言葉に、碧は息を呑んだ。

 

 魔術回路の波長。夕月家の魔術師にとって、それは感情の機微よりも雄弁に自らの状態を語るものだ。だが、それを読み取れるのは、同じように回路の構造を深く理解しているごく一部の人間だけのはず。

 

 彼女は、英霊でありながら、碧の魔術的な状態を完全に『同調(リンク)』して感じ取っているのだ。

 

「私も、貴方のために頑張るから。……だから、任せて!」

 

 

 白野は、碧の目を覗き込みながら、自信たっぷりに胸を張って見せた。

 

 その真っ直ぐで、少しおどけたような仕草。

 

 あまりにも距離が近く、そして行動力が凄まじい。普通の人間であれば、初対面の相手にここまで踏み込むことはできない。だが、彼女はためらいなく、他者の孤独な領域(パーソナルスペース)に温かい光を携えて入り込んでくる。

 

 

(……敵わないな、この人には)

 

 

 碧は、全身の力がゆっくりと抜けていくのを感じた。

 

 ソファーに深く背中を預け、彼はようやく、今日初めて「計算されていない」自然な息を長く吐き出した。

 

 頭を撫でられるという行為は、経験したことのない、未知の感覚だった。だが、それがこれほどまでに心地よく、心の奥の強張りを解いてくれるものだとは知らなかった。

 

「……ありがとうございます。少し、落ち着きました」

 

 

 碧が素直に礼を言うと、白野は「えへへ」と照れくさそうに笑い、ようやく手を引っ込めた。

 

 だが、ソファーの隣の定位置から離れようとはせず、そのまま碧の真横でリラックスしたように足を投げ出した。

 

 

 しばらくの静寂。

 

 光球が、二人の影をコンリートの壁に長く伸ばしている。

 

 碧は、先ほどからずっと気になっていた一つの疑問を、この穏やかな空気の中で口にしてみることにした。

 

「あの……白野さん」

 

「白野でいいよ。マスターとサーヴァントなんだし、堅苦しいのはなし!」

 

「……わかった。それなら、白野。さっきから君は、僕のことを『後輩くん』と呼んだり、自分のことを『先輩』と言ったりしているけれど。それは、どういう意味なんだい?」

 

 

 碧の問いに、白野は少しだけ遠くを見るような目をした。

 

 彼女の琥珀色の瞳の奥に、かつて彼女が駆け抜けた、果てしなく広大な電脳の海の記憶が過ぎ去る。

 

「そうだね。私の生前の話……いや、サーヴァントとしての起源の話になるのかな」

 

 

 白野は、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

「私はね、かつて『月のマスター』だったんだ」

 

「月の……マスター。月に、魔術師がいると?」

 

 

 碧は眉をひそめた。時計塔の天体科(アニムスフィア)の知識を総動員しても、月面に魔術的な社会が形成されているという記録はない。

 

「正確には、月面に存在する超巨大な演算装置……『ムーンセル・オートマトン』が構築した、仮想の霊子電脳世界(SE.RA.PH)。私はそこで行われた、聖杯戦争に参加したマスターの一人だったの」

 

 

 白野の言葉に、瞬時に反応した。

 

 超巨大な演算装置が構築した仮想世界。それは、カルデアのトリスメギストスやカルデアスを遥かに凌駕する、神の領域のシステム。彼女が英霊でありながら、極めて高度な『情報体』としての波長を持っている理由が、その一言で完全に腑に落ちた。

 

「その月の聖杯戦争はね、地球のそれとは規模が違ったんだ。……参加するマスターの数は、128人」

 

「128……!?」

 

 

 碧は、自らの耳を疑った。

 

 冬木で行われるという通常の聖杯戦争の参加者は7人だと記録されている。

 

「うん。世界中から集められた腕利きの魔術師やハッカーたちが、自身の魂を霊子化して電脳空間にダイブし、サーヴァントと共に戦う。ルールは単純。一対一の決闘を繰り返し、最後まで勝ち残った一人が、あらゆる願いを叶える『聖杯』を手にする。……そして」

 

 

 白野は、そこで言葉を区切り、伏し目がちに両手を組んだ。

 

「敗北したマスターは、システムによって魂ごと削除(デリート)される。……死ぬの。現実世界でも、二度と目を覚ますことはない」

 

 

 敗北イコール、絶対の死。それを128人という規模で、最後まで一人になるまで繰り返す狂気の儀式。

 

 目の前にいる、こんなにも優しく、他者の痛みに寄り添える小柄な少女が、その地獄のような殺し合いの螺旋を生き抜いてきたというのか。

 

「……君は、その戦争を」

 

「うん。私はね、本当に平凡な人間だったの」

 

 

 白野は、自嘲気味に、けれどどこか誇らしげに笑った。

 

「才能もない。特別な血筋もない。ただの凡人で、最初は自分が誰なのかという記憶すら失っていた。周りは天才や一流の魔術師ばかり。何度も死にかけて、何度も絶望して……それでも、一緒に戦ってくれたサーヴァントや、途中で出会ったたくさんの人たちに助けられて、前に進んだ」

 

 

 彼女の脳裏に、かつての相棒たちの姿が浮かぶ。

 

 赤い外套の弓兵。暴君と呼ばれた赤き皇帝。太陽のように明るい呪術師。誇り高き英雄たち。

 

 そして、共に笑い合い、戦い、散っていった多くのマスターたちの顔。

 

「私は、決して強いマスターじゃなかった。でも、だからこそ、誰よりも『生きる』ことに執着したし、誰よりも周囲の状況を『観察』して、生き残るための最適解を探し続けた。……私の強みは、それしかなかったから」

 

 

 碧の心臓が、大きく跳ねた。

 

 彼女の言う「観察」と「最適解の探求」。それは、彼という魔術師の在り方そのものだ。

 

 特別な才能を持たず、ただ世界を解析し、条件を書き換えることでのみ即応の極致に至った自分。

 

 彼女もまた、圧倒的な理不尽に満ちた世界で、持たざる者としてシステムを読み解き、泥臭くハッキングすることで勝利を掴み取った『技術者』だったのだ。

 

「……そうやって、私は128人の頂点に立った。多くの命を踏み台にして、月の勝者になった」

 

 

 白野は、顔を上げ、再び碧の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

 その目には、後悔も、驕りもない。ただ、自分が背負ってきたすべての運命を肯定する、揺るぎない覚悟があった。

 

「だからね、マスターくん。あるいは、夕月碧くん。新人マスターである君にとって、私は同じマスターという立場を経験した『大先輩』にあたるわけだ。……わかる?」

 

 

 白野は、いたずらっぽくウインクをした。

 

「月の聖杯戦争を勝ち抜いた、大先輩。だから後輩くんは、先輩に遠慮なく頼って。一人で全部抱え込む必要なんて、どこにもないんだから」

 

 

 その言葉は、碧の心の最も強固な防壁を、いとも容易く透過して、最深部へと浸透していった。

 

 夕月碧の人生において、彼は常に「完成された最高傑作」であることを求められてきた。箱庭では、誰かに頼ることなど許されず、一人で完璧な演算を弾き出すことだけが存在意義だった。

 

 生活で人間の温かさを知った後も、彼は「普通の高校生」を演じるために、魔術師としての孤独な戦いはすべて一人で処理してきた。

 

 

『頼ってくれていい』。

 

 

 そう言ってくれる存在が、魔術師としての領域に現れるなど、碧の演算には存在しない奇跡に近い。

 

「…………敵いませんね。本当に」

 

 

 碧は、観念したように両手で顔を覆い、肩を震わせて笑った。

 

 それは、偽りの愛想笑いでも、相手を操作するための計算された笑顔でもない。

 

 彼が一人の人間が、心の底から安堵し、他者に己の弱さを委ねることを許容した、純粋な笑いだった。

 

「……わかりました。それなら、お言葉に甘えて、頼りにさせてもらいますね。白野先輩」

 

 

 碧が、顔を上げてそう呼ぶと。

 

 白野は、顔を輝かせて、満面の笑みで頷いた。

 

「うん! 任せて、後輩くん!」

 

 

 互いに見つめ合い、二人はソファーの上で同時に笑い声を上げた。

 

 外の地獄のような炎上都市の存在を、この瞬間だけは忘れさせるような、穏やかで温かい時間。

 

 マスターとサーヴァントという主従の契約を超えた、どこまでも対等で、深く結びついた「先輩と後輩」の絆が、この薄暗い地下室で確かに結ばれたのだ。

 

 

「……さて」

 

 

 ひとしきり笑い合った後、碧は姿勢を正し、表情を「魔術師」のそれへと切り替えた。しかし、先ほどまでの冷徹すぎる孤立感はなく、その瞳には柔らかな光が宿っていた。

 

「休息も十分にとれましたし、お互いの特性のすり合わせも完了した。これより、本格的な特異点の探索を開始しましょう。白野先輩、準備はいいですか?」

 

「もちろんだよ! 私のコードキャストと、後輩くんの魔術。二つのハッキング技術を合わせれば、どんなバグだって修正できる」

 

 

 白野もまた、ソファーから力強く立ち上がり、自らの装束の襟を正した。

 

 彼女の背後には、かつての聖杯戦争を共に駆け抜けた英霊たちの記憶が、不可視のデータとして彼女の霊基を支えている。

 

「まずは地上へ出て、この街の霊脈の乱れから大聖杯の座標を特定します。同時に、マシュ・キリエライトの魔力波形の広域スキャンを継続。接敵した場合は……」

 

「私があらかじめ用意した『最適な影』を簡易召喚して、攻撃を代行させる。後輩くんは、敵の弱点を解析して、環境を有利に書き換えることに集中してね」

 

「完璧な連携です。……行きましょう」

 

 

 碧が指を鳴らすと、地下室を覆っていた多重結界が、光の粒子となって音もなく霧散していった。

 

 再び、外から炎の爆ぜる音と、焦げたアスファルトの匂いが流れ込んでくる。

 

 

 しかし、もはや夕月碧の心に迷いや焦燥はなかった。

 

 隣には、月の聖杯戦争を勝ち抜いた、誰よりも頼りになる『先輩』がいる。

 

 世界を書き換え可能な条件式として捉える箱庭の技術者と、あらゆる事象を観測し最適解を導き出す月のハッカー。

 

 二人は、炎上汚染都市という巨大なエラー空間を修正するための戦いへと、今、足を踏み出した。

 

 

 

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