藤崎詩織は、きらめき高校の中庭が好きだった。
春には桜が舞い、夏には木陰が涼しく、秋には落ち葉が足元で小さく鳴る。
冬になれば、吐く息が白くなって、校舎の窓に反射する夕陽が少しだけ寂しく見えた。
そこは、季節が静かに変わっていく場所だった。
誰かが笑っていても、誰かが急いでいても、中庭だけはいつも少し落ち着いている。
だから詩織は、放課後にそこを通る時間が嫌いではなかった。
その日も、そうだった。
授業が終わり、教室のざわめきが校舎の外へ流れていく。
部活へ向かう生徒。
友人と寄り道の相談をする生徒。
鞄を肩にかけ、足早に校門へ向かう生徒。
いつもの放課後だった。
詩織は、廊下を抜けて中庭に出た。
春の終わりの風が、制服の袖を少しだけ揺らした。
新緑の葉が光を受けて、足元に細かな影を落としている。
その中を歩いていた時だった。
「ねえ、今日一緒に帰れる?」
明るい声がした。
詩織は、反射的に足を止めた。
声の主は、詩織と同じクラスの少女だった。
いつもよく笑う子。
誰とでも自然に話せて、相手との距離を詰めるのが上手な子。
詩織とは少し違う種類の明るさを持っている子だった。
そして、その少女が声をかけた相手は――彼だった。
詩織の幼馴染。
小さい頃から近くにいるのが当たり前だった少年。
彼は二年生になってから、詩織とは別のクラスになっていた。
同じ学校にいるのに、朝のホームルームも、授業の合間も、教室の空気も共有しない。
一年生の頃より、ほんの少しだけ遠い場所にいる。
そんな彼が、今は詩織と同じクラスの少女に呼び止められていた。
昔は少し頼りなくて、テスト前になると詩織に勉強を聞きに来た。
体育の授業ではすぐ息を切らして、何かあるたびにこちらを見ていた。
その視線を、詩織は知っていた。
言葉にされなくても、何となくわかるものがある。
彼が自分を見る時の、少し照れたような目。
話しかける前に、こちらの反応をうかがう癖。
褒めるとすぐに嬉しそうにする表情。
それらは、ずっと昔から詩織の近くにあった。
近くにありすぎて、特別に意識することも少なくなっていた。
「うん。部活終わったら、校門で待ってる」
「じゃあ、またあとでね」
「うん」
そのやり取りは、友人同士の約束というには少しだけ近かった。
誰かに説明されたわけではない。
けれど、二人の間にある空気を見れば、詩織にもわかった。
彼と彼女は、もうそういう関係なのだ。
そう理解した瞬間、胸の奥がほんの少しだけ冷えた。
少女が笑って手を振る。
彼も笑って返す。
その笑顔を、詩織は見てしまった。
昔からよく知っているはずの笑顔。
でも、少し違って見えた。
彼が誰かに向ける笑顔。
自分の反応をうかがうのではなく、自然に返す笑顔。
その表情が、なぜか胸に引っかかった。
――そんな顔、私は最近見たことない。
そう思いかけて、詩織はすぐに目を伏せた。
何を考えているのだろう。
別に、おかしなことではない。
彼に友人がいるのは当然だ。
誰かと一緒に帰る約束をすることも、何も変ではない。
高校生なのだから。
幼馴染だからといって、彼がいつも自分の近くにいるわけではない。
そんなことは、わかっている。
わかっているはずだった。
彼は変わった。
入学したばかりの頃は、まだ昔の彼のままだった。
少し寝癖が残っていたり、話すときに目を逸らしたり、何かにつけて詩織の反応を気にしたり。
けれど高校生活の中で、彼は少しずつ変わっていった。
勉強を頑張るようになった。
運動にも真面目に取り組むようになった。
身だしなみにも気を遣うようになった。
人付き合いも増えた。
気がつけば、彼の周りには自然と人が集まるようになっていた。
それは良いことだった。
本当に、良いことのはずだった。
幼馴染が成長している。
昔より頼もしくなっている。
前よりも自分の足で立っている。
そう思えば、素直に喜べばいい。
詩織は、そう思った。
それなのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
言葉にできない、薄い棘のようなもの。
痛いというほどではない。
でも、消えない。
少女はもうその場を離れていた。
詩織と同じ教室へ戻るのだろう。
彼も、友人に呼ばれて別の校舎の方へ歩き出している。
二人はそれぞれ別の場所へ戻っていく。
けれど、放課後には校門で会う約束をしている。
そのことが、詩織にはなぜか妙にはっきり意識された。
詩織は、少し遅れて中庭を歩き始めた。
いつもの中庭だった。
風も、木漏れ日も、足元の影も、何も変わらない。
けれど、さっきまで好きだったその場所が、少しだけ落ち着かないものに変わっていた。
その日の放課後。
詩織は図書室にいた。
開いた参考書の文字を目で追う。
けれど、内容がうまく頭に入ってこなかった。
窓の外から、部活動の声が聞こえる。
グラウンドを走る生徒たちの掛け声。
吹奏楽部の音階練習。
校門へ向かう生徒の笑い声。
そのすべてが、いつもより少し遠く聞こえた。
彼は今、誰かと帰っているのだろう。
自分ではない誰かと。
そう考えて、詩織はペンを止めた。
別に、それは普通のことだ。
誰かと一緒に帰るくらい、誰にでもある。
自分だって友人と帰ることはある。
彼が彼女と帰っているからといって、何かが変わったわけではない。
それなのに、なぜこんなことを考えているのだろう。
詩織は小さく息を吐いた。
小さい頃、彼は詩織の歩幅に合わせてくれた。
詩織が少し早く歩けば、慌てて追いかけてきた。
詩織が立ち止まれば、彼も立ち止まった。
雨の日に水たまりを避ける時も、細い道を歩く時も、彼はいつも少し後ろにいた。
それが当たり前だった。
でも今は、そうではない。
彼はもう、詩織の後ろばかりを歩いているわけではない。
誰かと並んで歩いている。
そのことを考えると、胸の奥が少しだけ重くなった。
「……私、何を考えてるんだろう」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
彼が楽しそうなら、それでいいはずだった。
幼馴染として、友人として、そう思えばいい。
彼女は明るくて、いい子だ。
彼に声をかける時も自然だった。
彼も嫌そうではなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
それなら、何も問題はない。
ないはずだった。
それでも、詩織は参考書の同じ行を何度も読んでいた。
文字は読める。
意味もわかる。
けれど、頭に残らない。
さっきの中庭の光景だけが、何度も浮かんでくる。
彼女が彼に声をかけた時の明るい声。
彼が自然に頷いた顔。
校門で待っていると言った声。
それらが、図書室の静けさの中で妙にはっきりしていた。
詩織は、ペンを置いた。
胸の奥にあるものが何なのか、まだわからなかった。
寂しいのか。
驚いているのか。
少しだけ置いていかれたように感じているのか。
どれも正しいようで、どれも違う気がした。
ただ、ひとつだけわかった。
自分は、彼が誰かと一緒に帰る姿を、思ったより平気に見られなかった。
それだけだった。
翌朝。
詩織は教室で、彼女が友人たちと話しているのを見かけた。
彼女はいつも通り明るかった。
昨夜のことを特別に話しているわけではない。
ただ、友人に何かを聞かれて、少し照れたように笑っていた。
「昨日、一緒に帰ったんでしょ?」
「うん。少しだけね」
そんな会話が、教室のざわめきに混じって聞こえた。
詩織は、自分の席で教科書を開きながら、聞こえなかったふりをした。
本当に、少しだけ。
ただそれだけの会話。
けれど胸の奥の違和感は、昨日より少しだけはっきりしていた。
その後、廊下で彼とすれ違った。
彼は別のクラスへ向かう途中だった。
「あ、おはよう、詩織」
昔と同じ呼び方。
昔と同じ声。
けれど、やはり少し違って聞こえた。
そこには、昔のように詩織の反応をうかがう弱さが薄くなっていた。
ただ、幼馴染に向ける穏やかな親しみがある。
その落ち着きが、少しだけ遠かった。
「おはよう」
詩織はいつも通りに笑った。
きっと、きちんと笑えていたはずだ。
本当は、聞きたいことがあったのかもしれない。
昨日、一緒に帰ったの?
楽しかった?
最近、よく一緒にいるんだね。
そんな何でもない言葉。
けれど、どれも口には出なかった。
出すほどの理由がない。
聞けば、かえって不自然になる気がした。
彼と彼女は、何も悪いことをしていない。
ただ一緒に帰っただけ。
それだけのことに、詩織が何かを言う理由はない。
彼は軽く手を振って、自分の教室へ向かっていった。
詩織は、少しだけ遅れて歩き出した。
背筋を伸ばして。
いつもの藤崎詩織として。
廊下は、いつもと同じだった。
生徒たちの声。
朝の光。
教室へ向かう足音。
それなのに、詩織の胸の奥には、昨日から続く小さな違和感が残っていた。
彼が遠くなった。
そう言ってしまうには、大げさだった。
彼は今も幼馴染だ。
今朝も、同じように「詩織」と呼んだ。
関係が切れたわけではない。
何かを失ったと決まったわけでもない。
それでも、ほんの少しだけ。
彼の視線の向かう先が、自分だけではなくなったように感じた。
そのことが、思ったより胸に残った。
チャイムが鳴る。
教室へ入ると、彼女が席に戻るところだった。
彼女は詩織に気づくと、いつものように明るく微笑んだ。
「おはよう、藤崎さん」
「おはよう」
詩織も微笑んだ。
何も変わらない挨拶。
同じクラスの、普通の朝。
けれど、その普通の中に、昨日まではなかったものが混じっている気がした。
彼女は彼と一緒に帰った。
彼は彼女と校門で待ち合わせた。
その事実を、詩織だけが少し重く受け取っている。
そんな気がした。
藤崎詩織は、誰もが知る優等生だった。
成績優秀で、品行方正で、いつも穏やかで、いつも正しい。
だから、この程度のことで乱れるわけにはいかなかった。
幼馴染が誰かと親しくしている。
ただ、それだけ。
ただ、それだけのこと。
詩織は、そう自分に言い聞かせた。
けれど胸の奥には、まだ名前のない痛みが残っていた。
嫉妬とは呼べない。
後悔とも呼べない。
恋だなんて、考えもしなかった。
ただ、中庭で足を止めたあの瞬間から、何かが少しだけ変わってしまった気がした。
何が変わったのかは、まだわからない。
何を失いかけているのかも、まだわからない。
ただ、彼が誰かと並んで歩く姿を想像した時。
詩織は初めて、自分の胸の奥に、知らない感情があることに気づいた。
それは春の終わりの中庭に落ちた、小さな影のように。
誰にも見えないまま、静かに残り続けた。